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三章 白鴎の宮(9) 朝食

 東の空が明るくなる。


 夜の闇は次第に西へと追いやられ、 群青の空は白さを帯びる。新しい一日の始まりの気配に目覚めた鳥は、きりきりきりり、と忙しなく朝の恋歌を口ずさむ。口々に鳴き響く声のうるささに、寝返りを打てば、換気用の小窓から入り込んだ海風が朝日の匂いを運んできた。


 やがて人間も目を覚まし、徐々に王宮の中も騒がしくなってきた。


 フィーネも重い身体を起こして寝台から抜け出すと、涙と寝不足で腫れた目を軽くこすった。


 昨夜は全く眠れなかった。


 それもそのはず。昨日のことを思い返すたびに後悔で胃の奥が重く沈んだ。


 第三王子の雑言に逆上し、あろうことか、彼の左頬を撲とうとしてしまった。

 ラキアは「気にしない」と言って笑い飛ばすだけで済ませてくれたが、もしも彼が機嫌を損ねて兵士たちに一言命じていたのならば、今頃こうして無事に夜明けを迎えてはいなかっただろう。曲がりなりにも相手は王族だ。下手をすれば自分はおろか、ヒレナやガイズの命も無かったかもしれない。それを考えると、自分のしでかした軽率な行動に嫌気がさした。

 しかし、フィーネにとって大切な人を侮辱されたことが許し難かったことも事実だ。


 寝台の縁に腰掛けたまま色々と考え込んでいると、部屋の扉を叩く音が聞こえた。


 どうぞ、と返すとヒレナが部屋に入ってきた。彼女は純白の衣に身を包んでいた。どことなく神殿で世話になった巫女の装束に似ていた。


「おはようございます。昨夜はたいへんでしたね。あれからお加減はいかがですか?」

「おはようヒレナ。もう大丈夫だよ」

 胸中の不安を悟られぬようにフィーネは無理やり頬を上げて微笑みを浮かべた。

 その嘘を見抜いたのかヒレナは片方の眉をつり上げると、ずんずんと近寄ってきてフィーネの顔をそっと両手で包み込んだ。

「少し目元が腫れておりますね。冷やしたほうが良さそうです。少し待っててください。水をお持ちしましょう」

 すぐに彼女は水の入った桶を手に戻ってきた。手早く手巾を濡らして絞ると、細長く折り畳んで差し出してきた。礼を言って受け取ると、さっそく瞼に当てた。

 腫れて熱を帯びた瞼に染み渡る冷たさが心地よい。やすらかな至福を噛みしめながらも、フィーネは昨日の出来事が脳裏を離れなかった。



 しばらくして清泉舎(せいせんしゃ)で朝の水浴びを済ませて緑水舎(りょくすいしゃ)に戻った。

 白鴎宮の建物はどれも白を基調としている。その中でここだけは珍しく木を生かした造りになっており、風通しが良くてかなり涼しく快適だ。外国からの客人の宿泊や王族の涼みとして用いられる建物だという。

 暑さが苦手なフィーネにとって、この部屋を片翼候補のために用意してもらえたことは幸いだった。


 朝の身支度を終えた頃、女官が朝食の迎えに来た。今朝は昨夜の宴が行われた大広間ではなく、国王の常住まいする場である鷦鷯宮(しょうりょうきゅう)にある(すずめ)の間と呼ばれる客間で顔見知りの十人程度と少ない人数で食事をすることになっていた。


 鷦鷯宮に入ると、緑水舎よりも心なしか風通しが悪く、少し蒸し暑さを覚えた。廊下には風変わりな風車が置いてあり、かたかたと音を鳴らしながら回っており、風を吹かせている。

「これは?」

「送風機でございます」

「すごいなぁ。どうやって動いているんだろう?」

 女官は嬉しそうに笑みを浮かべると送風機の羽が収められている金属の枠の後ろの膨らみを指差した。

「金属の板を折り曲げた『ぜんまいばね』というものを動力に使っております。金属は折り曲げても元の形に戻ろうとする性質がありますから、それを動力に歯車を回すことで動いているのです」

 なるほど、とフィーネは女官の説明を聞いてもっとよくこの素晴らしき発明品について調べたいと思った。だが、そんな横道に逸れた心の内を察したヒレナに咳払いでそれとなく窘められたため、フィーネはごまかし笑いを返して先を急いだ。



「おはよう、お二方」

 雀の間に入るなり、フィーネは第三王子の妙に上機嫌な声で出迎えられた。昨日の諍いが嘘のようにとても和やかに朝の挨拶をしてくるので、フィーネは一瞬、まだ夢の中にいるような錯覚に陥った。


 葡萄酒のような赤色の絨毯の上に奥からラキア、セイファンとディムがすでに座っていた。

 扉の脇に控えていたノルンに促されフィーネは部屋の中に入った。フィーネはラキアとセイファンの間に案内された。ヒレナはディムに案内されてしずしずと従者のための席についた。


 フィーネは指定された席の前で立ち尽くした。


 ラキアの隣――だけは絶対に嫌だと思った。彼が苦手というよりは、単純に気まずいのだ。昨日のこともあり、どう接すればいいのかわからないからだ。ただ、動きを止めているのも不自然だから座らなければならないのはわかるのだが、座ることを躊躇っているとラキアが不機嫌そうに顔をしかめた。

「なんだ、びびって身構えてんのか? 別におれは昨日のことは全く気にしてねえからな。まあ、おれの隣が嫌ならセイファンと場所をかわるけど?」

「……いえ、それにはおよびません」

 馬鹿祭りの期間中、ファムは監督役とともに朝食と夕食をとる。王室典範にまでわざわざご丁寧に載っているというその規定に従い、観念してラキアの隣に座った。


 どうやらフィーネたちが最後だったらしい。部屋には、ラキア、宰相のセイファン、ノルンとディムという最小限の顔ぶれだった。

 そして、幸いなことにやや離れた位置ではあるが壁の側にヒレナがいてくれた。彼女はディムとノルンと並んで座った。


「昨夜はよくお休みになられましたか?」

 セイファンの問いにフィーネは頷いた。本当は違うのだが朝から話をややこしくはしたくなかったからだ。彼といくつかとりとめないことを話していると、女官たちが食事を運んできた。


 朝食は小麦粉の麦餅(パン)と、魚介に塩気と葉物と香辛料がほどよく効いた温かなスープ、それに牛の乳を加えた紅茶、という具合に軽めのものだ。

 エレスの屋敷で普段食べていた麦餅(パン)は蕎麦粉を捏ねて焼いただけの質素なものだったが、ここでは二種類の麦餅(パン)が食事に上った。一つは暍病(えつびょう)予防のために塩味が強いもの。そしてもう一つは、ほんのり上品な甘味をもつものだ。


 暍病(えつびょう)とは、炎天下や硝子(がらす)工場のように暑い環境での過労や体の水分不足などが主な原因となり、意識障害や精神錯乱を引き起こす病だ。手足のしびれに始まり、意識混濁を来したり最悪の場合は命を落としたりすることもある恐ろしい病で、予防するにはこまめな水の補給と少々の塩が肝心だ。


 セイファンに教わりながら甘めの麦餅を塩辛いスープにからめて頬張ると、鼻腔から香辛料の薫りが抜けてとても美味だった。


 昨日までは緊張して全然味を感じられなかった。しかし、今は味がわかるし、空腹を感じているせいか、いっそう美味しく感じることが出来た。それに、気のせいかもしれないが、昨日の夕食とは異なって辛味が抑え気味になっているように思えた。


「今朝の料理はどうだ?」

 ラキアが急に声をかけてきた。理由はわからないがあまりにも深刻そうな暗い表情にぎょっとしたフィーネをよそに彼はフィーネの皿に視線を落とすと形の良い唇を笑みに溶かした。

「……おいしいです」

「なら良かった。それならしっかり食べろ。おまえ、見ているだけで倒れそうな細さだからなあ。ぶくぶくしてるくらいがちょうどいいだろ」

 そう言って、ラキアは麦餅を手で小さくちぎると口に放り込んだ。それから、今朝もスープの入った銀食器を持ち上げてずずずと音を立てて啜った。


 (さじ)を使わないどころか大きな音を立てて啜るなんて相変わらず行儀が悪いな、と険のある眼差しで眉をひそめていると、セイファンがラキアを窘めた。

「殿下、いまの言葉は女君に対して失礼ですよ」

「うるせえな。こいつの一体どこが『女君』なんだ? 小生意気なガキだろ」

「何ですって!? もういっぺん言ってみなさいよっ!」

 思わず怒鳴り返したところ、ラキアはぷっ、と小さく噴き出した。

「……どうして笑うのですか」

「いや、畏まってる時よりもそういう素直な喋り方のほうがいいな、と微笑ましく思っただけだ」

 彼の指摘を受けて仮面の下のフィーネの頬が真っ赤に染まっていく。

「……申し訳ございません」

 またやってしまった。あれほど気をつけようと自分を戒めたばかりなのにまたもや礼儀を欠いた態度をとってしまい、いたたまれない気分になる。

 だがラキアはさして気にする様子もなく、笑った。

「別に気にすることはねえよ。変に媚びたりしてこない分、いいじゃねえか」

「……敵に対して下心もないのに媚びる人間なんていないと思うのですが」

 彼は腕組みしてしばらく考えるそぶりをみせると頷いた。

「それも一理あるな。だが、あんたはまだ知らないのかもしれないが、敵だからこそ媚びる人間はごまんといるものだ」

「……確かにそうですね。ですが、少なくとも、私はあなたに媚びるつもりがないことはお伝えしておきます」

「それならあんたはその敵に対して別に畏まらなくていいぞ。おれが許す」

 破格ともいえる気前よい好待遇を提示され、フィーネは戸惑いを顕わにした。だが、すぐに真剣な顔つきに戻り、首を横に振った。

「お心遣いはありがたいのですが、殿下のご厚意に甘えるわけには参りません。わたくしはこの国の臣民にございますれば、たいへん不本意ではございますが、王家の方である殿下には最低限の礼儀はつくしたいと思いますので」

 ラキアの思い通りになるのは何だか癪だ。その一心からそう答えたが、彼はさして怒るわけでもなくため息をついた。

「そうか、残念だ。ま、今更すぎる気もするけどな」

「それは……。昨夜は申し訳ありませんでした」

「悪かったと思ってるのか」

 へえ、と彼はほくそ笑む。つり上がった目と白い歯をむき出しにした下卑た笑いが何か悪巧みをしていそうな表情に見え、嫌な予感がして、フィーネは頬をひきつらせた。

「片翼さまは存外謙虚な御方のようだ。けどさ、忘れてもらっちゃ困るんだけどさ、あんたは仮にも片翼候補様だ。おれよりあんたの方が立場は上なんだぜ。あとな、ノルンやディムを様付け呼ばわりしているが、これも下位の奴らの混乱を招く。相手に敬意を払うことは大切なことだが、呼び捨てまではいかないにしても、様である必要はねえんだ」

 言われてはじめて気づいた。幼い頃から染み付いた癖というものはなかなか抜けてくれないらしい。

 国王と対等と言われても、長年培った常識は簡単には崩せない。ましてや、自分は本物の片翼ではないのに、そんなことを要求されても、抵抗感がかなりあった。

「まあ、あんたが王宮入りして当然のようにいきなり威張り散らすような勘違い人間じゃないことはいいことだと思うけどな。……頭の低い片翼というのも可愛らしいんじゃないか?」

「どうせ私はちんちくりんですよ」

 フィーネの言葉にラキアは苦笑した。

「別に背のことじゃねえんだけどな。まあ、悔しけりゃよく食べてよく動いてよく寝ることだな。あんたは知らねえだろうけどさ、エレス出身者の中には王都に来ると見違えるように背が伸びるやつがいるんだ。十五歳の女君だとすこし遅いかもしれないが、まだ間に合わないというわけでもないかもしれない」

「そうですか……」

 先ほどは否定されたはずの女君という単語で妙な慰めを受けてフィーネは複雑な気持ちで頷いた。



暍病は、現在の熱中症や日射病にあたる病気のことです。

気温が高い日が続いておりますので、皆様もどうかご自愛ください。

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