三章 白鴎の宮(8) 馬鹿祭り開幕の宴(2)
食事が進むにつれ、フィーネの元に続々と宴の出席者たちが挨拶にやってきた。
あまり人付き合いというものに慣れていないためか、緊張して妙な汗が背中や腋の下ににじみ出る心地がしたが、ほとんどの応対はラキアがこなしてしまった。その際の彼は存外まともで、フィーネはそれに一言二言程度、言葉を足したり相槌を打つだけで済んだ。
驚くべきことに、彼はフィーネのことを客人に対して誠実で思慮深い人物としていかにも好人物であるかのように紹介した。なおかつ、緊張でたどたどしい話し方になりがちなフィーネを気遣ったり、言葉に詰まった時は客人に酒をすすめて間を持たせたり、敢えて話題を変えたり、フィーネの散逸した考えをまとめる助言をくれた。特に――これは宴が終わった後になって気づいたのだが――彼は会話の中で相手の名をわざとらしくならない程度に何度も呼んだり、その人物がどういう地位にあるのか語った。おかげでフィーネは初対面でありながら、彼らの顔と名前がそれとなくわかるようになっていた。
とりあえず、ラキアの気遣いとセイファンの手助けのおかげでフィーネは最初の挨拶では事なきを得た。
彼が諸侯の前でフィーネによく接してくれたのは応接間でラキアがフィーネのことを本物の片翼として遇すると宣言したとおりに約束を守ってくれただけなのだが、それにしては充分すぎるほど手厚い扱いだった。
その後は踊り子の優雅な舞いや色とりどりの鎧に身を包んだ武官の剣舞を見た。
ラキアは舞台に入れ替わり立ち替わり現れる人々やよくわからない演目についてもそれぞれ説明してくれた。よく何十、何百とこれほどの人間の顔と名前と詳細を覚えているものだ、と彼の記憶力の良さに驚かされ、反面、先ほど覚えた人名と新たに得た人名がごちゃごちゃになってゆく自分の頭の悪さを情けなく感じた。
宴はそのまま深夜近くまで続き、夜半を迎える少し前にフィーネはラキアにすすめられて先に席を辞した。清泉舎で湯浴みを済ませ、部屋に帰るとヒレナや女官の助けを借りながら就寝の準備を整えて、寝台に横たわった。
とても疲労を感じていたが、慣れない場所に来た緊張からか、その晩は、床に入っても思うように寝付くことができなかった。
それでも、だんだんと意識は遠のいてゆき、夜が底を打つ頃に、夢は突然に訪れた。
――お願い、私の声を聞いて。あの人を助けて。
高く澄んだ、翡翠を思わせる涼やかな女人の声。
その声は、いつも見る悪夢でフィーネに呼びかけてくる男とは違うものだった。
声の主を捜すが、目の前は真っ暗で何も見ることができず、フィーネは呼びかけた。
「あなたは誰!? 助けてほしいって、どういうこと!?」
力いっぱい声を振り絞って叫んだのだが、空しくも無明の闇に溶け去った。
「あなたは誰!? 私に誰を助けてほしいの!?」
無駄と知りつつも、大きく息を吸い込んでもう一度呼びかけた。やはり、返る声はない。そう思った瞬間、風の流れが変わった。
――……私の声が聞こえるの?
「聞こえるよ! あなたは一体誰なの!?」
――……よかった。やっと、あなたに私の声が届いたのね。よかった、これで……やっと……。
フィーネの問いには答えず、声はそこで途切れた。代わりに、どこからともなく鳥が絶叫する声がけたたましく響き、深い眠りの海から一気に陸に引き戻された。
「――っ!」
急に首筋に強い痛みを覚えてフィーネは飛び起きた。
ぜえぜえと息を荒げてフィーネは胸元を鷲掴みにした。足の指で敷妙を掴み、のたうち回る。出鱈目に振り回した腕でばらばらと袖机の物を落としてしまった。
「ファーシャ様!?」
喘鳴が止まらぬが、様子を見に部屋に入ってきたヒレナに心配をかけまいと余裕のある表情を心掛ける。
ヒレナが手にしていた夜明真珠の灯りで鏡越しに見ると、輪を描くような赤い痣がフィーネの首に巻き付いていた。
「……っ、花は散り、風に溶ける。我がうつしみの穢れを祓いたまえ」
歯を食いしばりながら呪文を唱えると、痣はすぐに薄くなって消えた。フィーネは脂汗を浮かべ、血の気のない顔で焦りを覚えた。
「どうして……最近は出ていなかったのに……」
幼少の頃から長らく患わされてきた病。何の前触れもなく真っ赤な痣が皮膚に浮かび、猛烈な痛みが襲ってくるこの病は原因もわからず、奇病と呼んでいた。
故郷の神殿にいた名も知らぬ神官から、赤い痣が出た時に唱えると良いという呪文を教えてもらって以降は苦しむ時間は減ったのだが、一時的にも辛いことには変わりないので、フィーネの人生の中で大きな悩みの種となっていた。
「お加減いかがですか?」
フィーネはヒレナの手を握った。彼女の温もりが先ほどの痛みを忘れさせてくれる。
「大丈夫だよ。ありがとう……」
「ですが、こんな……」
髪から滴る汗が布団や敷妙に染みてゆく。寝台に手を突いたままフィーネは青ざめた。
どうすればいいのだ。いつ発症するかわからぬ病を抱えて片翼の影武者など本当に勤まるのだろうか。
しばらくヒレナに身体を支えてもらっていたが、苦しみが落ち着いてきたので座り直した。すると、窓から入る夜風に乗って男たちの叫び声が聞こえてきた。
「……外が騒がしいね、何だろう」
「どうやら、鷦鷯宮の方みたいですね」
ヒレナに様子をうかがってもらったが、窓越しに外を覗くと、彼女は険しい目つきで階下を見た。
呼吸が落ち着いたのでフィーネもそろそろと窓に歩み寄り、試しに外を見てみようとしたが、振り返ったヒレナに止められた。
「いけません。悪い刺客に首をばっさりやられるかもしれませんよ」
容赦ない言葉にフィーネは動きを止めた。
「それは困るね」
「ひとまず窓や出入り口から離れてください」
ヒレナは硝子窓をぴしゃりと閉めて、女官を呼んだ。用件を伝えると、女官は部屋の扉の前に立つ衛兵に事情を伝えた。二人いるうちの一人のタグサという兵士が、様子を見に行ってくれた。
ほどなくして、暗い表情でタグサは帰ってきた。
「なにがあったの?」
「いえ。……鷦鷯宮の周辺に狼が現れたようでして、それを捕らえていたそうです」
「狼!? 陛下はご無事なのですか!?」
「はい。狼はすぐに王宮外へ逃げたそうで大事なしとのことです。それと、ファーシャ様には諸々ご心配は無用のため、ごゆっくりお休みください、と宰相様からご伝言を仰せつかって参りました」
ほっと安堵したフィーネは、衛兵と女官の二人に礼を言った。




