三章 白鴎の宮(6) 宴の身支度
あらゆる意味で第三王子との言い争いに負けたフィーネは宴の身支度のために一旦自室に戻った。
「先ほどはよく耐えられました。立派ですよ」
髪をすきながら慰めるヒレナの言葉にフィーネは首を左右に振った。
「ごめん。逆上してあの王子に手をあげてしまったもの」
「それでも、あなたはよく頑張りましたよ。まあ、確かに、王子を撲とうとなさった時はかなり肝を冷やしましたけれども。第三王子が機嫌を損ねなくて何よりでございましたね」
「うん。不敬罪に問われなくてよかった。ごめんなさい」
「ですが、正直申しますと、少し清々しました。あんな下種はぶたれて当然です。天罰が下ればいいのです。厄払いというかラキア除けに塩でも撒いておきましょうか」
無礼かつ辛辣なヒレナの言葉にフィーネは力なく笑みを浮かべると、気晴らしに両腕を前に伸ばして全身をほぐした。
だが、とフィーネは瞼を伏せて記憶を辿った。
ラキアの左手の傷――あれはアウィルドのものだ。間違いない。金砂の泉の詩だってあの星月夜を共にした二人しか知り得ぬ秘密だ。つまり、あれは間違いなくアウィルド本人なのだ。ならば何故、アウィルドは第三王子のふりをするのだろうか。
兎にも角にも事態は順調に悪い方へ向かっている。
アウィルドから片翼任命の署名をもらうこと。
それが勝利条件であるはずなのに、当の本人があの様子では勝ち目などないではないか。彼が署名を書かない限り、賭けの負けは決まったも同然だ。やるせなさにため息がこみ上げてきた。
フィーネが初めてアウィルドに会ったのは三歳の頃らしい。ガイズが教育係を務めている縁と先王の勧めで彼はユリフェ邸にしばしば出入りしていたらしい。幼すぎてその当時のことは全く覚えていないのだが、フィーネは彼にとてもよくなついていたとガイズが話してくれたことがある。
物心ついてからというのだろうか、フィーネの覚えている範囲で初めて彼に会ったのは七年前の立太子の儀の時だった。
遠くから新しい王太子を見たときの第一印象は、王太子というよりも、背の高い姫君そのものだった。例えるならば、絵巻物で見るような女神か、絶世の美女そのものだった。
真っ直ぐな深紅の長い髪を下ろし、毛先を金の髪留めでゆるやかに纏め、白と金を基調にゆったりとした衣を纏い、王太子の証たる星彩青玉の玉帯を腰に巻いた少年は、金の精霊と名高かった父親譲りの誰もが見惚れる美しさを誇っていた。華奢な肩にかかる幾筋もの髪は細く長い首筋を彩り、夜の水面のような色の瞳がなんとも印象的だった。
だが、その目に宿る光は限りなく暗かった。
ガイズとともに壇上の豪奢な椅子に腰掛ける少年の前に立ち、祝辞を述べた時、礼を欠いたことにフィーネは新たな王太子の顔を見たくなり、思わず頭を上げてしまった。そしてすぐさま後悔した。
穏やかで人当たりの良い笑顔。にもかかわらず、こちらを見下ろす目は、虚無そのものだった。
一寸先も見えない真夜中の深い闇のようで、恐ろしくてフィーネはその場に縫い止められたような心地がした。その目は、大切な人を亡くした人間に宿る虚ろさと、何かに絶望した闇に曇らされていた。
――なぜそのような目をしているのだろうか。
その疑問の答えがわからぬまま、フィーネは自席に戻った。
王太子のための宴は夜通し盛大に催された。
彼は諸侯の挨拶を受けながら、終始にこやかな表情で過ごしていた。その様子を離れた席から何度も目で追っていたが、フィーネはえもいわれぬ違和感を抱いていた。
王太子は何故、自身を祝う幸せなはずの宴で悲しみを押し隠して笑っているのか。そして何故、誰も彼の内の闇に気がつかないのか。本当は誰もが気づいていていながら見ないふりをしているのだろうか。
『黒い物ほどよく光る』という諺がウルガにはあるが、あの少年の持つ闇が相当に根深いのだろうか。
とにかく、彼の瞳は異様なほどよく輝いた。フィーネは麦餅を食べることも、スープを飲むことも忘れていつの間にか彼のことばかり気になっていた。
宴が佳境を過ぎた頃、主役であるはずの王太子が人目を避けるようにひとりで広間を出て行く姿が見えた時、フィーネは決意した。主役が中座するなど本来であればありえないことで、フィーネは迷うことなく彼を追い掛けた。
何故そうしたのかはわからなかった。ただ、追わなければならないという強い気持ちに身体が突き動かされたのだ。
暗い回廊を、おぼつかない心地で進んだ。死魔除けの御守りとして身につけていた夜明真珠の首飾りの連珠にかけていた布の覆いを外すと、その明かりだけを頼りに藪を抜けていった。だが、彼はどんどん灯りのない、王宮の建物から離れた方向に向かっていった。慣れない女物の晴れ着は足まわりが悪く、途中でつまずいて顔から地面に突っ伏した。泥に足を取られて池にも落ちた。
それでもなんとかフィーネは彼のいる場所にたどり着いた。
闇に浮かぶ白い円筒形の建物の中から聞こえたのは、誰かが啜り泣く声だった。フィーネは襟を照らす首飾りを覆いの内に仕舞い隠すと、息を潜めて様子をうかがった。
開け放たれた扉の陰から中をのぞき見ると、天窓から差し込む星明かりの下の闇の向こうで、彼は静かに泣いていた。
フィーネは、小さく震えながら丸まった背中に向かって声をかけた。
「……大丈夫ですか?」
「え?」
ヒレナの声で回想は途切れた。
心配そうに覗き込んでくるヒレナの顔がフィーネの意識を現在に戻してくれた。いまさら遠い日のことが脳裏によみがえるなんて、とフィーネは苦笑した。今はそんなことを考えている場合ではない。すぐに馬鹿祭り開幕の宴に参加しなければならないのだ。
ふいに左手の腕輪が目に留まった。月来香と五稜星の彫られた幅の広い金の腕輪は相変わらず美しい輝きを放っている。
レリファ=シシカは、結局フィーネに本物の片翼が誰であるのか教えてはくれなかった。
男か女か、年の頃はいくつくらいなのか。
どこで生まれ育ち、どのような考えを持つ者なのか。
全く知らない他人のためにフィーネは命を懸ける。そう思うと胸が何故かざわつく。
「……違う」
フィーネはアウィルドリーシャのためにここへ来たのだ。
心に浮かんだとりとめないことを馬鹿だな、と一笑に付し、フィーネは唇をふっと緩めた。ヒレナが不思議そうに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「……ヒレナ、私わかったよ。やっぱりあの人は陛下だ」
「あの人、というと?」
「ラキア様」
「ぇえ!?」
ヒレナが驚いてフィーネは後ろ髪を強く引かれた。
「痛い、いたたたっ、ヒレナ離して!」
「申し訳ございません!」
彼女はすぐに離して頭皮をさすってくれたが、じんじんと鈍い痛みが残った。
「……ううん、私こそ、いきなり変なことを言って驚かせてごめんなさい。でも、ラキア様から冠を返された時に見えたんだけど、左手の傷が陛下と全く同じだった」
指から三日月型にのびた傷跡。それを見た瞬間、フィーネは悟った。彼はわざと見せたのだ。
「傷跡だなんて、あり得ません。翼王とは不死の加護を受けているためにいかなる負傷をしても傷跡は残らないはずです。わたくしが王宮で働いていた頃も、度々お怪我をなさっておられましたが、一昼夜もしくは長くても七日ほどで跡形もなく治ってしまっていたようですし……」
「陛下は元から今みたいな不死身の体じゃなかったらしいよ。転べば傷ができるし普通の人と同じような傷の治り方だったんだって。でも、ある日突然……確か、四歳の誕生日を迎えた頃から少しずつ特異体質になったと本人から聞いたことがある。だからそれ以前の怪我の跡は残っているんだって。左側の首の付け根と、左手の親指と人差し指の間に大きな傷があったんだ。あとは、膝に転んだ時の擦り傷の痕とかも」
「陛下がお生まれになった日というのは確か、双子座の星祭りの夜でしたか。あの方の四歳の誕生日というと、ちょうどあなたがこの世にお生まれになった日でもありますよね」
「そうなんだよね。偶然だけど嬉しいよね」
「そうですか?」
「うん。……あれ? ヒレナは嬉しくなさそう」
「当たり前です! あんな人と同じ誕生日なんてわたくしなら生まれてきたことを後悔するほどです!」
「そこまで言い切ってしまうの?」
「もちろんでございます。あんな…………いえ、失礼いたしました」
彼女は何かを言い掛けたがすぐに口を閉じてしまった。
「確か以前聞いたけど、そんなに陛下ってヒレナの大事な方に似ておられるの?」
「中身は全然違いますし目が全然似ておられません! そんなことより話を戻しますが、何故あなたは殿下が陛下であるとお考えになったのです?」
「傷跡って成長とともに皮膚が伸びて移動することがあるし、剣の稽古なんかでついたものかもしれないからそれだけじゃ確実性はないんだけれどもね。だけどあの人はさっき、カナーヤの〈星霜抄〉という古い書に掲載されている詠み人知らずの、金砂の泉という詩を耳元で言ったんだ。……あれは私と陛下しか知り得ないことだった」
「まさか。仮にあなたの推測通りに殿下が陛下であるとしたら、どうして自ら正体を明かすような真似をなさったのでしょうか」
「わからない。でも、あの人は敢えて私に見せたし、自分から正体がばれそうなことを言って私が怒り任せに正体を言い当てるよう仕向けたような気がするんだ」
「……それはおかしな話ではありませんか。あの方は陛下殺害を企てておられるそうですが、自分で自分を害するなんて妙なことをなぜ仰るのです?」
「そう、それがわからないんだ」
フィーネは頭を抱えた。考えるだけで胸が締め付けられて涙が出てきそうになる。だが、ひとつだけわかったこともある。
「あの方の言動も振る舞いも、明らかに私を白鴎宮から追い出そうとしている意志から来ていることは確かなんだ。だけど、理由がわからない。それに、あんなにも性格がお変わりになられるなんて、よほどお辛い目に遭われたんじゃないかって……」
「あんなことを言われて心配なさるなんてあなたはお人好しがすぎます」
「そうかな?」
「あれは最低最悪の屑だと思いますよ」
髪を結い上げ終えると、白粉と口紅と頬紅を施され、宴用の服に着替えるために帯を解いた。
「あら?」
「え? どうしたの、何かついてるの?」
背中を確かめようと首をめぐらせるもよく見えず、ヒレナがなにか紙のようなものを手の中に握り隠す様子だけが見えた。
「申し訳ありません。虫がついていたようです。外に逃がしてきますので少々お待ちください」
にこやかに笑むと彼女は窓の外に何かを放った。それが何であるのか気になったが、ヒレナは前を向いてください、とフィーネに指示した。




