一章 ~七年前 王太子との約束~(2) 自分だけの宝箱
アウィルドはさざ波の音色を背景に、静かに話し始めた。
「……この世界にはその辺に物語が転がり落ちている。水路の底に沈んでいたり壁に貼り付いていたり、文字に遺された昔の人の考えや、誰かとの何気ない会話の中で得られる時もある。ちょうど今、わたしとそなたの頭の上で光っている星みたいに数えきれない欠片として存在しているんだ。その小さな欠片をひとつひとつ拾い集めて、自分の心の内の箱に貯めていく。この箱は見ることも触れることもできないが、いつでもどこにでも持ち運べる自分だけの魔法の箱だ」
「魔法の箱?」
「……箱というのはあくまでも例えで、入れ物であれば姿はどんなものでも構わない。水晶の小箱でも、螺鈿の文箱でも、貝殻でも筆入れでも厨子でもざるでも鯨のように巨大な船でも良くて全部そなたの自由だ。まずは目を閉じて思い浮かべてみるんだ」
「アウィルドさまはどんな箱を想像したのですか?」
「わたしが侍女からその話を聞いた時に頭の中で作った箱は難破船から引き揚げたフジツボや珊瑚まみれの朽ちた宝箱だった」
「どうしてそんなボロボロで物騒そうな箱になさったのですか!?」
「何が入っているかわからなくて面白そうだったからな」
「面白そうって……」
アウィルドは基本的には真面目が服を着て歩いているような性格なのに、時折、とんでもなく不真面目な部分がある。立太子の儀が終わったばかりで忙しい身の上のはずなのに毎日のようにフィーネに会いに来たり、海に釣りに出かけたり、聞いた噂によると王宮を抜け出して王都をうろつくことが趣味で侍従や護衛を困らせることが多いという。美少女のような中性的で華奢な容姿を利用して女装姿でフィーネが滞在するユリフェ邸に遊びに来た時はさすがに呆れたものだ。今も半ば呆れかけていることに気づいているのかいないのか、のんきに彼は笑っていた。
「さて、フィーネ殿ならどんな入れ物にする?」
その問いにフィーネはしばらく思案に耽った。脳裏には異国情緒あふれる恰幅の良い箱商人がにこやかに次々と面白い容器を見せてくれた。金銀真珠をあしらった豪奢な装飾の箱か、金粉の星を散りばめたような黒い漆塗りの箱か。憧れも素敵ではあるが、どうせなら実用的な箱にしたい。例えばフィーネが故郷で習っている医術のように、誰かを元気にするための大事なものをたくさん収められるような箱がいい。
そうと決まれば答えはひとつだ。
「……そうですね。薬箱でしょうか」
「薬箱? ……ああ、そなたは祖母君から医術を学んでいるのだったな」
「はい! 今はまだ出来ることも少ないですが、将来は医師として、病や怪我で苦しんでいる人を助けられるような大人になるのが目標です!」
「そうか。そなたならきっと大丈夫だ。とても良い選択だと思うよ」
褒められた嬉しさからフィーネはへへへ、と照れ笑いを浮かべて身体をくねらせた。
「入れ物が決まったらあとは欠片を集めるだけだ。色々な場所に出掛けたり新しいことに挑んだり、誰かと話をしたり書物を読んだり学んだり、眠る前に少しだけ空想してみたり、苦手なことも逃げずに戦ってみたり。とにかく毎日を宝探しの冒険に変えてみるんだ。そして、時折箱に貯まった中身を確かめて、洗ったり磨いたりしていく。そうすると、いつの間にか箱の中身は宝の山になっているはずだ」
「楽しそうですね。 ……でも、私は忘れっぽいから宝箱になる前に空箱になってしまいそう」
フィーネが口をとがらせるとアウィルドはくす、と形の良い唇に笑みを浮かべた。
「大丈夫だ、空になんてならないよ。ひとつ問うが、そなたは初めて誰の手も借りずに立ち上がったり歩き出した日のことを覚えているか?」
「そんな小さい頃のこと覚えているわけないじゃないですか。アウィルドさまは覚えていらっしゃるんですか?」
「まさか。だが、忘れていても今のそなたは一人で立ち上がれるし歩くこともできる。覚えてはいないが過去にそのきっかけとなった出来事があったことは確かな事実なんだ」
「確かに、そういう意味では空箱にはならないかもしれませんが……」
「ガイズや侍従長をはじめとして多くの大人たちが言っていたが、そもそも人とは毎日何かしらを忘れてしまう存在だ。そのくせ齢を重ねれば年々記憶力は落ちていく。子供のうちはいざ知らず、大人になれば日々増えゆく膨大な量の記憶をすべて頭の中に覚えておくことは不可能だ。だから記憶することよりも如何に多くの情報へ接触する手段を得られるかが大切になるらしい。知りたいときにどの書籍のどのあたりの部分に書いてあったかだけを大雑把に覚えておければそれでいい、とな」
フィーネは実父のガイズののんきな八の字の髭を思い出しながら首を横に振った。
「……そんなことを言っておりますが、あの人はたぶん全部覚えていると思いますよ」
「いいや。わたしが思うに、そなたの父は案外忘れっぽい男だと思うぞ。この前だって算術に用いる公式をど忘れしてあたふたしていたからな」
「アウィルドさま、だまされてはいけません。あの人は無駄に記憶力だけは良いんですから。演劇が好きで『星の姫とわだつみの王』、『宵花伝』、みたいな朝から夜明けまで一日中上演されるような劇の全登場人物の台詞や動きまで無駄に完璧に暗記している変態ですよ」
「変態って……。愛娘にそう思われていると知ったらあいつが泣いてしまうぞ」
「いいえ。たかだか変態と言われたくらいであの人が泣くことは絶対にありえません。それと、変態であることは自他共に認めている共通認識ですから悪口にもなりません」
「そうなのか? どうにも腑に落ちないが……というよりも、前々から思っていたのだが、そなたは実の父に対していささか冷たくないか?」
アウィルドの問いにフィーネは鼻を鳴らして天を仰いだ。
「いいえ。冷たくしているつもりはございません! むしろ、私はウルガ王国王太子殿下教育係のヴェル・ガイズ・ユリフェの一人娘として我が父を影ながら応援しているのです。小さかった頃に私と父はとある密約を交わしました。私は私の父を心の底から信じておりますし、この信頼は誰にも断ち切ることは出来ないと考えております!」
「そ、そうなのか。それならよいが……」
結構傷ついていたぞ、とアウィルドは口にしかけてやめた。
「まあ、あいつが演劇の台詞を覚えているのは熱狂的な演劇好きだからだろう。それ以外のことに関しては本当にごく普通の人間だよ。十二歳という歴代最年少科挙合格者かつ国一番の教師を勤め上げた男だってそんな感じなんだ。忘れてしまうことは仕方ない。けれども、縁というのは不思議なもので、たとえ忘れてしまっても一度出会った宝物とのつながりは簡単には消えないものだ。普段は思い出すことができなくとも、心のどこかに砂粒のように残っていて、ある日突然、嵐が来たように思い出すことがある。だから、何から何まで全部を覚えていようと気張る必要はないんだ。けれども、記憶の海は深くて広い。その片隅から呼び戻すための『きっかけ』という釣り糸の端は、一度でも縁を結んでいなければ掴むことは難しい。だから、どんなささいなものでもこつこつと諦めずに毎日集め続けていこうと頑張る姿勢が大切なんだ」
「そういうものでしょうか」
ああ、と彼はにこりと頷いた。
「そなたは勘違いしているようだがわたしだって忘れっぽいところは多々あるのだ」
「アウィルドさまの嘘つき」
「嘘なんかついていないとも。昨日だって沐浴の後にうっかり帯の上に王太子の証の星彩青玉の玉帯を巻き忘れて侍従長に叱られてしまった」
「さすがに話を盛っておられませんか? 王宮で働いている方々の名前と顔を一人残らず覚えていると噂の王太子殿下のうっかりとは思えませんが」
「私をなんだと思っている」
むすっとむくれた顔で彼は問うが、おそらく彼がわざと玉帯を締め忘れたのだとフィーネは考えていた。
それが、『現人神』と人々から畏怖される存在である彼にとってのひとつの処世術であることをフィーネは知っていたからだ。
現人神でありながら、どこか間の抜けた部分を見せることで彼は他者からの親しみやすさを演じているのだ。
彼はまだ少年の齢でありながら、ついひと月ほど前に成年の儀と立太子の儀を終えたばかりの成人であった。この国の王族や民は通常は男女ともに十五歳で成年となるのだが、国王と王太子だけは例外的に十二歳で成人する決まりであるという。
現在、この国を治めている国王リルダム・ラウルガル・タイトには十六人の子がいる。そのうち成年になったのは長子かつ王太子のアウィルドだけだ。アウィルドには同い年、同じ日に生まれたリュシーリアスという弟がいるが、彼は成年ではない。
ウルガ王国では王位継承順は王室典範によって明確に定められており、基本的には現王の長男である第一王子が年齢にかかわらず王位を継ぐことになっている。第一王子が成年に満たない齢の場合は前王に指名された者か正妃が摂政を務めることになるが、必ずしも政に明るいとは言い難いため、可能な限り早い段階で第一王子をいつでも国王の座に就けられるようにしてしまおう、というのがこの国の決まりだという。だからこそ、長男として生まれた者は否応なしに十二歳と他よりも早い齢で強制的に成年になることを求められるのだ。
フィーネからしてみれば、適正さえあれば王弟や第一王女が即位や摂政をしても良いのではないかと子供心に思ってしまうのだが、王弟では将来的に現王の長男が成年した際に王弟の子らとの後継者争いの種となりかねず、第一王女が即位した場合では将来的に王家の血筋以外から王配を迎える可能性もある。そうなれば古来から王家の者に受け継がれ、初代国王オルレガから男系で続いてきた子孫であることを証明してきた諱というとても長ったらしい魂を縛る秘密の名前の末尾が変わってしまうため許されなかった。
なんとも面倒で厄介な話だとフィーネはため息をつきたかったがそれをしていいのは当事者だけだと自分を戒めた。
フィーネはアウィルドの横顔をそっと見つめた。




