一章 ~七年前 王太子との約束~(1) 其は美しや金砂の泉
さっそく本編を、と思うのですが一章はフィーネの回想です。
宵闇に穏やかな風が吹く。
目を閉じれば波の音。
開けばささやく星月夜。
漆黒の海は穏やかに、寄せては返す波が水面に映る星影を洗い清める。弓なりに続く白砂の浜は淡い蒼に染まり、月もないのに椰子の木の影がくっきりと伸びていた。波打ち際の珊瑚の欠片でできた細かい砂浜はまだ昼間の灼熱の名残を留めているのか、裸足の指は温かな感触に包まれた。
フィーネは南から渡る海風に長い黒髪をなびかせながら、静かに空を見上げていた。
吸い込まれそうな奥行きを感じさせる天の海には無数の金砂が揺蕩い、ぼんやりと天球の端から端にまたがる途方もなく大きな白い天の川が静かに流れている。
銀色の瞳を通して見る世界は空も海も、水平線の向こうでさえも、無数の星々に満たされ、わずか八歳の幼い少女の小さな手では到底掴みきれないほどたくさんの輝きを目の当たりにしながらフィーネは自分の胸の奥の心がときめいているのがわかった。その高鳴りが聞こえたからなのか、 傍らに立つ少年が小さく笑った。
「フィーネ殿は本当に星が好きなのだな」
「アウィルドさま……」
透き通るように美しい声に呼ばれ、フィーネは少年に向き直った。けれども、目が合うとすぐに俯いた。理由はよくわからないが、急に気恥ずかしくなったのだ。
研ぎ澄まされた美しい宝剣を思わせる端正な顔。そこに浮かぶ柔らかな微笑み。暗がりでもはっきりとわかる温かな眼差し。それが自分に向けられていることがとても嬉しくて、同時にひどい間違いであるような気がして胸に鈍い痛みが刺さった。その感情のさざめく様を彼に悟られたくなくて、フィーネは精一杯のにこやかな微笑みを返した。
「はい、大好きです! ですが、たくさんありすぎてどこを見て良いのかわからなくなりそうです。前にもお話ししたことがあったかと思いますが、私の故郷のエレス領は霧の女神が北の山にお住まいになっておられるので毎晩のように霧が山から降りてきて滅多に星を見ることができません。ですから、私は今、この瞬間、この煌めく宝物のような輝きをしかとこの目と記憶に焼き付けたいのです!」
そうか、と彼ははにかむように微笑んだ。
アウィルドは物知りだ。先ほどまで彼が話してくれていた星にまつわる物語を思い出しながらフィーネは右手を掲げて星座を指でなぞった。
二人が眺めている正面――南には巨大な星の列から成る星座が見える。龍にも大河にも喩えられる星座の右下には鳳凰が優雅に翼を広げている。
天高くには天馬が駆け抜けて、空を横切るように淡く白い天の川が流れている。
東には、大きな砂時計が昇ってきていた。左上の赤い星の女神と右下の青い星の男神の時を司る夫婦が砂時計のくびれに三つ星の杭を打って砂が落ちる速度を一定に保っているという。
乾季の夜空の星々のひとつひとつを確かめながら、そのどれもが幼い頃に本で知って想像していた光景よりもずっと美しくて見惚れてしまう。
「風立つ波は空揺らし、其は美しや金砂の泉――」
空を見上げながらアウィルドは古くから伝わる異国の詩の一節を呟くと、照れ笑いを浮かべた。なるほど、空を埋め尽くす星々がゆらゆらと瞬くさまは確かに泉に散らばる砂のようで、本当に池の底を覗き込んでいるような、気を抜けば吸い込まれてしまいそうな不思議な気分になる。
「アウィルドさまはたくさんの文学や物語をご存じなのですね。まるで語り部か吟遊詩人みたいです。先ほどうかがった星々の神話もとても面白かったですし、私もアウィルドさまみたいにいろんな物語を話せたら良いのにと、うらやましく思ってしまいました。……なにかひけつはありますか?」
「……秘訣と問われても今すぐには思いつかないが……わたしが幼かった頃に教育係だった侍女から教えてもらった話をしようか」
「お願いします!」
フィーネがわくわくして頷くと彼は笑みを深めて明るい声音で話し始めた。
「その侍女はわたしなど到底及ばぬほど物知りだった。化学数学歴史に地理、気象現象に遠き国の歌や神話などありとあらゆることを知っていた。だからわたしもフィーネ殿と同じ問いをしたんだ」
「アウィルドさまが?」
「ああ。そうしたらその侍女も子供の頃に神官に同じ問いをしたそうで、その神官も幼かった頃に親から教わったという話をしてくれたそうだ。今から話すのはそんな話だ。少し長くなるから座って話そうか」
彼は足元の敷布を一度持ち上げて砂を払い落とした。そこに二人で腰掛けると、目の前の空が広くなったような気分になった。




