三章 白鴎の宮(1) レリファ=シシカのお願い事
「……ここは」
眠りが解けて目を開くと、見慣れぬ部屋にいた。白い壁、白い柱、白い天井。そこは白鴎宮の緑水舎という建物の一室だった。
昨日、王宮に入ったのだったな、と寝ぼけ眼を手の甲で擦り、目尻に溜まった涙を拭きながらフィーネは深々と息をついた。
寝台にひかれた清潔な綿織物の敷き布団はふわふわとしてとても心地がよく、掛け布団も、寝返りを打っても埃が全く立たない。それは、片翼のために新たに用意された最上級の品であるとよくわかる。
この心地よさを自分が享受することがいかに誤りであるかと考えると、いてもたってもいられぬ落ち着かない気分になる。
宰相がユリフェ家の屋敷を訪ねてきた晩から十二日目になるが、まだそれしか経っていないとは思えぬほどめまぐるしき日々を過ごす羽目になった。
あの日――王宮行きを受諾した直後、フィーネは心や身の回りの準備をする間もなくレリファ=シシカによってガイズの馬車に無理やり押し込められた。いくらなんでも急すぎる、とヒレナが猛抗議してくれたのだが、レリファ=シシカは無愛想な彫像のような表情を一片たりとも崩すことなく、全く相手にしなかった。
月のない深夜に屋敷から攫われるように馬車に乗せられ、夜が明けるまでいくつも馬車を乗り換えた末にたどり着いた先は、王都北部の洞窟を利用した中央神殿と呼ばれる地下神殿だった。そこですぐさまフィーネは巫女達によって身ぐるみを剥がされ、真白い絹の薄衣を着せられたかと思えば禊ぎをさせられた。
大半が生温い王都の地下水とは思えぬほどきんと冷えた清水を湛えた洞窟の泉に身を浸した時は、寒さに震え、足先や指先のしびれと心臓の動悸に苦しんだ。介助してくれた巫女たちは、慣れぬ禊に凍えて歯をがちがちと鳴らすフィーネに対して、我慢なさりませ、と厳しい言葉を口々に言って容赦なく頭から水を浴びせ続けた。
ひどい目にあったと思うのもつかの間、今度は焚き火の前で正座し、ひたすら炎を見つめ続けるという修行をさせられた。徳の高い神官や高僧や|巫覡《ふげき》の者は炎の中に不可思議なものを見たり、直感やら神託やらを得たりすると言うが、そういった稀なる力を欠片すら持たないフィーネが得たものと言えば、長時間の坐禅による足のしびれと、慣れない姿勢で生じた腰と肩の痛みだけであった。
建国以来絶やすことなく神官たちによって守られ受け継がれ続けてきたという神聖な灯から分けられた炎を前にして、疲労のために船を漕いだフィーネを起こさなければならなかった年下の幼い巫女には本当に申し訳ないことをしてしまった。
他にも経文の書写をしたり、礼儀作法を教わったり、さまざまなことをしたが疲労と忙しさであまりよく覚えていない。朧気な記憶をたどるに、とりあえずみみずのような怪文書を作成したことと両手両足を左右同時に出して歩くという失態を犯したことだけは確実だ。中でも一番困ったことは、食事だった。
これから王宮で開催される『馬鹿祭り』という行事に参加することになったフィーネは王宮入りの二日前から|最高神官長《レリファ=シシカ|》とともに潔斎をすることになり、椰子の実の水しか口にすることが出来なかった。修行による疲労と空腹でぐったりとしながらフィーネは宰相の依頼を受けたことを半ば後悔しそうになった。
そして昨日、フィーネは王宮に入った。同時に、レリファ=シシカとしばし別れることとなった。彼は儀式の準備があるらしく、明日の晩に行われる馬鹿祭りの開幕の宴までは会えないという。正直なところ、人形のようで感情の読めないの彼のことは苦手であり、離れられることに安堵感を覚えたが、同時に心の支えを失った気分にもなり、この先のことについて不安も抱いた。
別れ際にレリファ=シシカはフィーネに向き直ると奇妙なことを言った。
「よろしいですか、ファーシャさま。王宮に入られた後、あなたは間違いなく命を狙われることとなるでしょう。ですが、わたしはこの命を懸けて、あなたを必ずお守りするために力を尽くすことをお約束いたします。つきましては、あなた様には三点ほどお願いしたきことがございます。
まず、王宮内ではこちらの薄布を下げた冠で顔を隠してください。これは、片翼候補は正式に片翼となるまでは顔を他者に晒してはならないというしきたりのためです。決して世話係以外の他者に顔を見られてはなりません。
次に、陛下についてですが、仮にあの方とお会いすることがあっても馬鹿祭り会期中は決してあの方のお名前を呼んではなりません。馬鹿祭りの間の国王は、王宮内におけるすべての邪気を身に受けるという役目のため、常に死魔から命を狙われております。我々神官が死魔除けのまじない……具体的には陛下を死魔の目から隠すための術をかけておりますが、もし陛下の御前にて御名を唱えてしまえば陛下は死魔に見つかってしまい、危険が及ぶおそれがあるのです」
フィーネが頷くと、レリファ=シシカは口を引き結んだ。
「……最後に、これが一番大切であり、先の二つはともかくこれだけは絶対に守っていただきたいこととなります」
彼は唐突にフィーネの眼前に顔を突き出すように前のめりになった。妙な圧を覚えたフィーネはやや身じろぎしながら「はい」と答えた。
「ファーシャ様、絶対に無茶はなさらないでいただきたい。あなたはご自身の命を必ず守り抜かなければなりません。何があっても、どこにいようとも……たとえ誰かを犠牲にしてでも、あなただけは絶対に生き残らなければなりません」
「あの、それはどうし――」
「よろしいですね?」
淡々としながらも凄みのある声音に圧されてフィーネの問いは途中で潰された。無愛想ながらもよく光る黒い瞳からは、質問も反論も許さないという意思が強く感じられ、フィーネには彼の頼みという名目の事実上の命令を承諾する以外の選択肢がなく、諦めて何も問わずに頷いたのだった。
あれから半日が経った今、寝台の上で思い返してみてもレリファ=シシカの命令は奇妙なものだった。フィーネは身代わりの片翼のはずだ。本物を護衛するために時には命を投げ出す必要がある。それにもかかわらず彼はフィーネに、死ぬな、と命じたのだ。だが、彼の態度からはフィーネの身を心配してくれているような温かさは感じられず、むしろ淡々と道具に命じるような冷たさを感じた。
「神官長さまはなにを考えておられるんだろうな……」
ふいに胸元から涼やかな音色が零れた。そっと首飾りに触れると、自分の温もりに染まった円筒形の飾りが煌めくように歌った。神殿から出る直前にフィーネは『星鏡』だけは返してもらうことができた。半ば諦めていたが、これは本当に嬉しかった。
あれこれ考えている間に、フィーネは強烈な疲労で頭が朦朧として寝台に突っ伏すように倒れ込んだ。綿がふんだんに使われた柔らかくも弾力性のある枕に顔を埋めながら、額にひっかかりを感じて顔を起こした。外し忘れていた、と薄絹を垂らした細身の金の冠をはずすと、備え付けの袖机に置いた。
王宮入りした時にフィーネは軽く王宮の皆に挨拶をした。
見知らぬ場所で、見知らぬ人々に囲まれて、聞き慣れぬ言葉を滝のように浴びたような気分になり、人酔いしたのだろうか。
皆、言い伝えでしか知らない片翼という存在に対して並々ならぬ興味を抱いており、フィーネは幾千もの矢のような視線を全身に浴びながら、脚がふるえ出しそうになるのを必死で堪えて、深々とレリファ=シシカに向けて頭を下げた。
簡単な挨拶を済ませると、女官たちが盆を手に食事を運んできた。どの女官も彩り着飾って花が咲いたようだ。
恭しく陶器や銀でつくられた食器を掲げる彼女たちは長い裳を身にまとわせてはいるものの、動きづらさなど微塵も感じさせることなく手際よくかつ優雅に給仕をこなしていった。色とりどりの花々のようで美しかったのだ。それに引き換え自分の野暮ったさが恥ずかしくなった。顔が隠れていることがまだ幸いで、衣裳を纏うには程遠く、布切れにくるまれた丸太のごとく惨めに感じた。そのせいか、豪華な料理も美味しく感じられなかった。
「入ってもよろしいですか?」
あれやこれやと今日のことを反省していると、戸口の外からヒレナの声がした。
ええ、と返事すると戸口を仕切る布を上げて見慣れた顔の侍女が入ってきた。彼女は小さな籠を抱えていた。薄紅色の布の包みを開くと中には小さな麦餅が四つ、鳥の巣の卵のように肩を並べていた。香ばしくも甘い香りにフィーネは腹が急にすくような心地がした。
「女官長のデーデ・ファルマさまから差し入れです」
「え?」
「片翼様は緊張で喉も通らないのではないかとお気遣いくださったのです」
「……ありがとう」
ちょうど空腹を感じ始めていたフィーネは心から感謝した。
王宮に入り、緑水舎という建物に用意された片翼用の部屋に案内されたフィーネは、片翼のための世話係として女官長から紹介された人物を見て驚愕した。それは、慣れ親しんだ侍女のヒレナだったからだ。
彼女はかつて先王の侍女として王宮勤めをしていたらしい。その経験を買われて呼んでもらえたのだという。――というのは表向きの理由で、アウィルドが女官長を通じてヒレナを王宮入りさせてくれたのが真相らしい。
とても美味しそうな麦餅を目の当たりにしてとても嬉しいのだが、急に胃がしくしくと痛み出した。鳩尾に手を当てたフィーネを見てヒレナは眉をひそめた。
「ファーシャ様?」
「ごめんなさいヒレナ。なんていうか……胃が痛い」
「え?」
「王宮の水が合わないのでしょうか」
「わからないけれど……急に痛みが……」
白鴎宮は王都から見れば小高い丘の上にあるが、内陸に広がる台地に続いているため湧水がある。
ウルガ王国では一般的に貯めた雨水か、蒸留した水か、濾過して煮沸した水を飲み水として利用する。
一方で、川や井戸から汲んだ水を直接飲んではならないと、物心つく前から大人たちに教えられる。
生水は寄生虫や病の元であることはもちろんであるが、一番の理由は『魔の神』に取り憑かれないようにするためである。
遥か昔に人間を滅ぼそうとした『魔の神』がいた。初代翼王によって『西の山』に封印されたため、現代では『西の魔の王』と呼ばれているが、この魔の神は精神のみを自在に飛ばすことができた。身体は西の山の洞窟に封じられており、精神のみでは蟻を踏むことさえ出来ない。そこで彼は人間を自身の精神の器にすることを思いついた。水を介して口から入り込み、肉体を乗っ取ってしまうのだ。故に、ウルガ王国に暮らす者は皆、西の魔の王を恐れて生水を摂取しないように心がけているのだった。
中には例外もあり、先日まで世話になった中央神殿のようにそのまま飲むことが可能な水もあるが、飲み水は必ず一度は魔除けの紋様が描かれた素焼きの壷で保存する決まりとなっている。悪しき存在を水から追い出す効果と、素焼きの器は目に見えない小さな孔が開いているためわずかに染み出した水分による気化熱で中身を冷やしてくれる効果があるのだ。
「でもせっかく美味しそうな麦餅だからいただくよ」
「大丈夫でしょうか?」
「うん。今はさっきみたいな痛みがなくなったし、ヒレナの顔を見てたら安心したのかお腹が空いてきちゃった。一緒に食べよう?」
「ありがとうございます」
彼女は切れ長の瞳を細めて微笑んだ。
夕食を終えると、フィーネは床に就いた。




