間章 誰かの記憶
――わたしはそなたと一緒に生きていたかった。わたしが本当に望んだことは、ただの人並みの願いだった。それなのに、わたしの抱いた望みは叶わぬものだった。
艶やかな藍色の絹織物。夜明け前の空と海の間を吹き渡る涼やかな風。私が大好きだったもの。彼の優しい声はそれらにとてもよく似ていた。それなのに、今はどうして、泣いているように掠れて裏返った響きがどことなく寂しげで、私は胸が痛んだ。
私は暗闇でその声を聴いた。
私にはもう、彼の香りを嗅ぐことも、触れて温もりを感じることもその輪郭さえも見ることができなかった。
あの人は私を置いていってしまった。
こちらへ来てはならない。追い掛けて来てはいけない、と彼は私に言った。
彼に注意されることは一度や二度ではなかったし、その忠告を守らなかったせいで私は彼に大罪を背負わせてしまった。
あの人はたいそう気に病んでしまった。
あの人を傷つけてしまったのは私だったし、私が短慮だったから、途方もないほど沢山の命が消えてしまった。
でも、私は彼をひとりきりにすることなんて出来なかった。
私はあの人を助けたかったの。
守りたかった。
……いいえ。私はあの人を愛していた。
人の身に生まれた以上、いつか必ず離れ離れになる運命であることはわかっていた。それでも、私は一時でも、一瞬でも長く、最愛のあの人と一緒に生きていきたかった。笑っていたかった。あの人との子を育てて手を焼いて悩んでみたかった。二人で齢を重ねて節々の痛みを悩んだり白髪や禿げに悩んだりする毎日を過ごしてみたかった。
そして、あの人が笑って最期を迎える瞬間を見てみたかった。
それは誰もが一度は心の中で願うだろう、そんな人並みの願いだったけれども、たったそれだけの願いでも、叶うことはなかった。
あれはいつのことだったかしら。
私は忘れたくはなかった。
けれども私はいともたやすく忘れてしまった。あれほど忘れたくないと願い、手放さないように心にしっかり魂に結びつけていたというのに、ばらばらに解けてしまった。
だから私は私でなくなってしまった私に伝えなければならない。
あの人が最期に残した言葉を。
――わたしはそなたを愛していた。わたしが頼み、天の主神は認めてくださった。わたしはひとりでも大丈夫だ。そなたを縛るしがらみはない。もう、片翼などにならずともよいし、自由にどこへでも羽ばたいてよいのだ。だから――
ああ、あの人の声。
――もう二度とわたしに囚われることなくどうか幸せになりなさい、エ――
その言葉を遺して先に行ってしまったあの人はいま、暗い淵の底に沈みかけている。あの人を、助けてほしい、と私は私に伝えなければならない。私を止めるには私の依代を探し出して壊さなければならないのだと私は私に伝えたい。
いいえ、もはや私は私に私を止めてとお願いすることしかできない。
いいえ、私にはもうできないわ。私という在り方は歪んでしまっているもの。
いいえ、私は狂ってなどいないわ。魂の容器から解放されて私は自由よ。
いいえ、あの黒い術士――西の魔の王が私にかけた呪いは強力だから私は私を殺してしまう。
いいえ、私は私の意思であの女を殺すの。
いいえ、あれは山猿よ。
いいえ、彼女は人間よ。
いいえ、あれは山猿よ。しかもあれの母親は私が憎むべき一族の末裔よ。
いいえ、憎んではいけないわ。もう過ぎ去ったことを後悔しても仕方ないの。
ああ、早く会いたいわ。
ねえ、あなたは今、どこにいるの? お願いだから、私の声に応えて……。




