二章 碧海の都(12)金の腕輪と奇跡の力
だが、フィーネは目の前の箱に目を向けた。
金で作られた留め金がなく、幅広い輪になっている形状の腕輪には月来香の意匠が彫られてそれを守るように小さな五稜星がいくつも散在して煌めいている。
月来香はユリフェ家の紋章であり、名産品の酒に用いられる白く美しい花だ。彫刻では蓮にも似ているが、とても繊細な細工が施されており、美しい腕輪だ。
もしこの腕輪に本当に治癒という奇跡の力があるのならば、父の怪我だけでなく左目も治せるかもしれない。そうすれば父は諸国漫遊の旅をして地図を作成したいという夢を再び追うことが可能になる。
「わかりました。それならやってみようじゃありませんか」
「フィーネ様!?」
「大丈夫だよヒレナ。こんなことで傷が治せるなら苦労はしないよ」
フィーネは腕輪を受け取ると左手首に通した。
「手をかざしてこのように唱えなさい。『うつしみうつせみ穢れは我に宿り、この者の疵を晴らしたまえ』」
フィーネはレリファ=シシカをじっと見つめた。
「ええと、それは子供向けの痛み止めのおまじないではありませんか?」
「ええ。ですが、これは元をたどれば風の女神が用いていた呪文が由来だったそうです。それが民に広がり、まじないとなったのです」
昼間に救護所で看た蜜柑瘡を患った幼子もこのまじないを唱えていた。フィーネも幼かった頃に父や乳母に唱えて元気づけてもらった温かい思い出がある。
フィーネは父と向き合った。左手を前につきだして目を閉じた。それから教わったばかりの呪文を一字一句誤らぬように瞼の裏に書き起こす。ゆっくり息を吸い込み、呪文を声に乗せた。
「うつしみ、うつせみ、穢れは我に宿り、この者の疵を晴らしたまえ」
静かに唱え終えた瞬間、なぜか急に指先が温かくなった。ヒレナやセイファンが驚く声がしたので目を開けると、左手の人差し指の爪の先にまばゆい白い光が灯っていた。
「え!? これは一体!?」
何が起きているのだろうか。奇術師にでも騙されているのではないだろうか。夜明真珠もなしに自分の指が輝くという奇妙かつ不可解な現象にフィーネは物凄く驚いた。
「その光をどこでも構いませんからガイズ殿の身体に当ててみなさい」
レリファ=シシカの彫像のような整った顔は相変わらず無表情だ。無愛想ではあるが、不思議なことに彼のどこか揺るがないところに頼もしい印象を持った。
半信半疑ながらも頷くと、恐る恐る父の右手に触れた。
白い輝きは水面に墨を一滴垂らしたように一瞬でガイズの日焼けした肌に溶け込んだ。波紋が広がるように光は彼の手から全身に走り、身体の隅々まで包んだ。
全身が光り輝き始めたことに驚いた様子でガイズが声を漏らした。次の瞬間、黒い尺取り虫のような物が彼の目や顔や腕の皮膚の表面を素早く走って、フィーネが触れている部分に寄せ集まって渦を巻き、フィーネの指に移ってきた。それらは猛烈な勢いで腕を這いのぼり、袖の内に入り込んだ。
「――――――――――――っ!!」
その直後、フィーネは強い痛みを感じて椅子から崩れ落ちた。
「フィーネさまっ!」
ヒレナが頭を打たぬように身体を支えてくれたが、上下もわからぬほどにフィーネは苦しみもがいた。
痛い、熱い、腕が折れそうな感覚がする。左目を殴らたような衝撃も感じた。
激痛に意識が朦朧としながら、フィーネは不思議な感覚に包まれた。
* * * *
目の前に今まで自分がいた部屋ではない光景が見えた。
青い、海だろうか――いや、空だ。空の下に灰色の巨大な柱のような岩が何十本も屹立している。鋭く尖った岩には赤く柔らかそうな肉の塊がいくつもぶら下がって風にそよいでいた。
「――さまっ、どうしてですか! なにゆえあなたはこのような真似をなさったのです!」
海辺の岩場でフィーネは青年を抱きかかえていた。――否、これはフィーネではない。どういうわけか、誰かの身体にフィーネの意識が入り込んでいるような不可思議な状態だった。
その人物の腕の中でぐったりとしている血塗れで頭蓋骨が一部剥き出しになった青年の坊主頭にわずかに生えた髪は赤く、白い夜着が同じくらい真っ赤に染まっていた。口は裂け、鼻は曲がり、虚ろな黒い目は物が見えていないのか、左右で別の方向を向き、脳を傷めているのだと一目でわかった。右腕や左足首から先や腑が失われ、あまりに惨い姿に彼が何者であるのかはわからないが、フィーネの頬を熱い涙が伝い落ちた。
「……ガイズ、そこにいるのか? そなたの姿が見えぬ」
「――っ、お気を確かに!」
「……わたしは……ほんとうに愚かだった……。そなたは命を粗末にすべきでないと教えてくれたというのに……わたしは……どうして……」
そこまで聞いた直後、フィーネは何か鋭いものに肩を貫かれた。
その痛みがあまりにも苦しく、耐えきれなくなったフィーネは意識を手放した。
「フィーネ! しっかりしなさい!」
「フィーネ様っ!」
ガイズとヒレナの呼び声でフィーネは目を開けた。何故かはわからないが左目の視界が暗くて少し見えづらい。
父に強く抱きかかえられ、今までみたこともないほど焦った彼の髭面を見てフィーネは二、三度瞬きした。それから、視界に入った自分の手が真っ黒になっていてぎょっとした。
「その痣はガイズ殿の患っていた傷痍です。彼の傷を癒す代わりに、あなたの身体に傷の穢れと痛みが移り、あなたの手が黒く変色したのです。ですが安心なさい。実際に出血しているわけではなく、ほくろのように肌や肉に色が浮いているだけで、一日あれば消えてしまうのですから、それまでの辛抱ですよ」
「ヒレナ、痛み止めを!」
「は、はい!」
ガイズとヒレナが急いで動こうとしたが、レリファ=シシカは冷たく言った。
「その痣に痛み止めは効きません」
「なんですと? これはどういうことです!」
「ガイズ殿、これは死の女神による反傷の呪いなのです。理を乱す奇跡には代償を伴うのが常。致し方ないことなのです」
「なんと……。レリファ=シシカ様、これではあんまりではございませんか」
「何を今更取り乱されるのです? これはあなたが選んだことでしょう? ならば狼狽えることなく最後まで己の娘を信じなさい」
フィーネは意識が朦朧としながら最高神官長を見た。感情がまったく読めず、仮面のような顔のまま彼はフィーネの傍らで片膝をついた。フィーネの左手を両手でそっと掴んだ。触れられる寸前の空気の流れだけで、激痛が沸き起こり、フィーネの目に涙が浮かんだ。
それから彼は貴人に対して振る舞うようにフィーネに恭しく跪いた。
「フィーネ殿。あなたがそのお力を扱うことが出来たことをわたしはたいへん嬉しく思います。どうか、わたしと共に王宮に来てあなたのその力をお貸しいただきたい。よろしいですね?」
フィーネは苦痛で答えられず、歯を食いしばり目をきつく閉じた。
「さて、参りましょう」
肯定も否定もしていないというのに、結論を急ぐレリファ=シシカにヒレナは正面から突っかかった。
「レリファ=シシカ様、このような真似は卑怯ではありませんか!」
「これは異なことを。生憎だが、これはこの娘が乗り越えなければならないことの始まりに過ぎない」
「なんですって……」
冷酷に見下されたヒレナは怒りで唇をわななかせた。
「宰相殿。早速ではありますが、我らが十番目の片翼様を禊ぎのため神殿にお連れしなければなりません。お願いしていた馬車の準備は整っておりますか?」
「……ええ。ですが、これは……」
セイファンは言葉に詰まった。
「レリファ=シシカよ、この仕打ちはいささか度を超えておるのではないか?」
「いいえ。彼女には気の毒ではありますが、耐えていただかなければなりません。あの国王からこの国や、すべての生きとし生けるものを救うことができるのは――そして、あの哀れな国王を死の淵から救うことができるのはこの世界でただひとり、フィーネ様しかいないのですから」
彼の妙な言葉がフィーネから一時的に痛みを遠ざけた。目を開けると、フィーネは息も絶え絶えに口を開いて声を振り絞った。
「……っ、レリファさま……それはっ、どういう……ことですかっ?」
「フィーネ様!?」
「……大丈夫だよ、ヒレナ。これくらいならいつもの発作に比べたら……ね。……ほら、父上を見て……元気そうでしょ? 目も腕も治ったみたいだし良かった……。こんな素敵な力をもらえるのなら、このくらい、大したことないよ」
ヒレナには微笑みを向けたが、レリファ=シシカを見据えた時には銀の瞳に鋭い光が宿っていた。
「レリファ=シシカ様。いまの言葉……国王からこの国を救うというのはどういう意味か教えてもらえませんか」
レリファ=シシカは三日月のような眉をわずかも動かすことなくフィーネを見据えた。
「言葉通りの意味です。あなたが助けたいと欲する人物は今のあなたにとっては最大の敵にも等しい。彼をどうにかしなければ、多くの者が命を落とすことになるでしょう。ここにいる者のみならず、ウルガも、カナーヤも、ネラワリエも近隣諸国はおろかこの世のすべてかもしれません。ですから、あなたがその腕輪を介してうまく事を運んでくださることをわたしは強く望みます」
「それではよくわかりません!」
「……説明せずともいずれわかることです。ですが、今はまだその時ではないのです。そして、あなたはいずれ決断を迫られることでしょう。その時はじめて、あなたが長年患ってきた病の正体もきっとわかるはずです」
本当に感情の読めない瞳だ。瞳孔が開くことも瞬きの回数が変化することもない。彼の黒い瞳は『無』そのものだった。
「……わかりました。私はこのお話をお受けします。ですが、命じられたからじゃない。私は自分の意思でそうすることに決めました」
レリファ=シシカは口角を動かすことも目線をわずかでも動かすことなく淡々と答えた。
「それでこそ、片翼として相応しい。我々があなたを『十番目の片翼』としてお迎えすることが間違いではなかったと思えるよう、どうか、お力を示していただきたい」
カルヴァに医術学校入学を諦めるよう言われた瞬間――いや、客間に入ったその時からフィーネにはわかっていた。
自分には拒否する権利などはじめからない。いま、目の前にいるこの者たちは、フィーネがどんなに抵抗したとしても、無理矢理王宮に連れて行くつもりだ。この状況から逃れることが出来るのは、フィーネがこの場で抗議の自害でもした時だけだ。だが、フィーネにはそのつもりはなかった。負けてなるものか、と息も絶え絶えになりながらも、フィーネはレリファ=シシカに不敵笑いを向けた。
痛みがもたらす幻だろうか、一瞬ではあるがフィーネには幼い頃の約束を思い出した。七年前の星降る夜。アウィルドリーシャが誓った決意を。
不安に押しつぶされそうになりながらも懸命に誓う姿はどの英雄よりも高潔で清らかだった。
あの日フィーネも彼に約束した。彼が辛い時も自分には助けることなど出来ないと思っていた。だが、今はほんの少し手を伸ばせば届く距離にいるしこんな好機は二度とない。
もし彼がいま、この瞬間にも闇の向こうで苦しんでいるのだとすれば、自分は何をするべきなのか。
答えはひとつだ。
ユリフェ家の人間として王家に風護の誓いを立てたからではない。幼い日に自分を救ってくれた、あの心優しき少年を助けたい。ただそれだけを強く願った。
だが、そうは言ってもいくつかフィーネには不安材料があった。そのことを確認しないことには決めかねる。
「……恐れながら宰相様にお尋ねしたいことが三点ほどございます。私は王宮の事情も作法も全く存じません。また、私は雷が苦手で、王宮勤めを果たすことが困難となるかもしれません。さらに申し上げるならば、私は生まれつき、奇妙な病を患っております」
「それらの件につきましては、ご心配なさらずとも大丈夫です。我々が全力であなたをお支えいたします。片翼は王室に属することになるため、お召し物も装飾品もお食事も、ご希望があれば何不自由ないようにこちらで用意致します。作法について一朝一夕で全て完璧に身につけるというのは難しいことであると皆、理解しております。ましてや成年になるまで市井で過ごしてこられたのですからできなくて当然でございます。落ち着いたら専属の教師をつけましょう。雷嫌いのほうは……場数を踏んで慣れていただくしかありません。また、病のことも承知しておりますので、どうかご安心ください」
「付け加えてお訊きしたいのですが、私の目の色のせいで陛下や皆様にご迷惑をかけてしまうことはございませんか?」
「目の色のことですか? 確かに、あなたの銀色の目は我が国では非常に珍しい上に、北のカナーヤ帝国の皇帝一族やカナーヤの魔女などを連想させられますね。ですが、珍しい色ではありますが、全く存在しないというわけではございません。なにより、王祖たる風の女神が銀の瞳の持ち主であったことは周知のことでありますから、何ら問題はございません」
もちろん、と彼は続けた。
「陛下があなたの瞳を厭うことはございませんよ。むしろ、あなたのことを悪し様に言うような者がいれば、許さないことでしょう」
彼の強かな声を聞いてフィーネは胸をなで下ろした。すべてではないものの、懸念は払拭された。迷惑がかからないのならば大丈夫だ。
「かしこまりました。神官長様、宰相様、カルヴァ様。わたくし、ヴェル・フィーネ・ユリフェは謹んでそのお役目をお引き受けいたします」
「ありがとうございます!」
宰相は深々と頭を下げた。その色白の顔がさきほどよりとても明るくなった。
ここまでだらだらと続いてしまい申し訳ございません。
次回から王宮に入ります。
よろしくお願いいたします。
※月来香は月下美人のことです。




