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二章 碧海の都(11) 我が兄を救ってはいただけませんか?

 セイファンの話によると、ことの始まりは今から十九年前に遡る。


 現国王――ウェルフ・アウィルドリーシャ・ラウルガル・リドアがこの世に生を受けた際、彼の父であり当時の国王であったウェルフ・リルダム・ラウルガル・タイトは彼の対となる片翼の居場所を当時のレリファ=シシカに占わせた。


 この国における最高位の神官に与えられる称号である最高神官長(レリファ=シシカ)の名を冠したサーフォアルバ・エントリハルクは、十日間の祈祷の末に神託を得たが、それは多くの者を失望させた。


 天の主神(ナハートアム)の答えは、アウィルドリーシャにはその当時、対となる片翼がこの世に存在してないというものだった。リルダムは占いの結果を疑い、国内全土の子供を調べさせた。世の中において子供というのは毎日何百、何千と生まれている。片翼は翼王と同日に生まれる者であると言い伝えられているのだから、アウィルドリーシャと同じ生年の双子座の星祭りの日に生まれた者を調べれば良いと考えたのだ。

 だが、奇妙なことに、該当の日に生まれた子供はアウィルドリーシャと弟のリュシーリアスのみだった。産婆や医師もその日は珍しく出産の仕事が入らず不思議に思ったという。

 その直後、サーフォアルバは突如として遷化(せんげ)し、彼の後任のレリファ=シシカとしてリルダムの実兄であるルジアーラ・ファーグが選ばれた。


 リルダムは我が子の身を案じ、それから幾度も片翼の居所をルジアーラに占わせた。だが、何度占っても天の主神がリルダムの求める答えを返すことはなかった。

 それから十九年もの長い間、アウィルドリーシャは片翼を持たずに生きてきた。そのために、彼は『十番目の翼王(アウィルドリーシャ)』でありながら、翼王として最も重要とされる風の力を御することができずに苦悩の日々を送らなければならなかった。


 事態が動いたのは今から四ヶ月前のことだった。王都北西にある中央大神殿にいるはずの当代のレリファ=シシカこと、モールク・エントリハルクが唐突に王宮のセイファンを訪ねてきたのだ。

 二十八歳の青年は鉄面のような無機質な顔が特徴と言われる男で、仮面人形と揶揄されていた。

 彼は開口一番、セイファンに思いがけない話を口にした。


 それは、四年前に自害したルジアーラが神託を偽っていたという事実であった。


 ――アウィルドリーシャの対たる『十番目の片翼(ファーシャリーシャ)』はすでにこの世に存在し、力を取り戻そうとしている。


 モールクに告げられた言葉にセイファンは驚愕して、なぜ今までそのことを明らかにしなかったのかと追及した。

 一方、モールクは、怒りを顕わにするセイファンの問いに淡々と答えた。


 片翼が誰であるのかは四年前に天の主神から聞かされてすでに知っていたが、その者の命が狙われているために他者に明らかにすることが出来なかった。先代のルジアーラは少なくとも十五年前までには片翼の居所を知っていたはずだ、と眉一つ動かすことなく語った。

 さらにモールクは、片翼が無事に力を目覚めさせるまで、代わりとなる片翼を据えよ。今すぐ掟に従い、ユリフェの者を王宮に召し上げよ、とセイファンに命じた。

 この命令をセイファンはにわかには信じられなかったという。

 なぜ、先代のレリファ=シシカは片翼の存在を隠蔽したのか。甥に対して随分と冷たいではないか。

 そして、セイファンが何よりも一番解せなかったことは、なぜ天の主神は、片翼の存在という重大事項をモールク以外のほかの神官に知らせなかったのか、ということだ。神託を降ろすことは別に最高神官長(レリファ=シシカ)でなくとも行うことが可能だ。先代のルジアーラ=ファーグが神託を偽っているのならば、ほかに信頼のおける神官に神託を下してもよかったはずなのだ。にもかかわらず、主神はそうしなかった。


「――そのおかげで陛下は今まで十九年もの長い間にわたり、片翼を持たずに苦しまなければならなかったのです」


 フィーネに対して語るセイファンの声は悲痛な響きを持って震えていた。静かではあるが、心の奥底からわき上がる怒りが見え隠れするようで、フィーネは返す言葉が見つからなかった。


「さて、宰相殿の話を聴いてみてわかっただろう。フィーネ殿、白鴎宮に来てくれるな?」

 反論しようと口を開きかけたフィーネをねじ伏せてカルヴァは結論を催促した。

「そなたには是が非でも白鴎宮に来てもらわなければならぬ」

 カルヴァが皺に埋もれた細い目にぎらついた光を宿した。長いこと戦場に身を置いていた彼の鳶色の目には往年の名将軍としての強かさと狡猾さが入り交じったような強烈な輝きだ。まるで獲物を狩る直前の鷹のような瞳を見つめながら、フィーネは、今ここに伯父のギルガムがいなくて本当に良かった、と安堵した。

 親馬鹿ならぬ、姪馬鹿な伯父のことだ、もしも彼がこの場に居合わせていたのならば、彼らに反論してくれただろうがユリフェ家当主としてそれはじつにまずい行いだ。

 一方で、ガイズはフィーネにとっては優しい父親だったが、この国と王家のためならば、いや、ユリフェ家の『風護の誓い』の風習を守るためならば、たとえ自分の親兄弟でも愛する妻でも愛娘であっても平気で崖の上から毒蛇の巣穴に突き落とすことができるいささか薄情で狂気を身の内に隠し持った男だった。事実、彼はユリフェの一族から逃亡を試みた従兄を手に掛けた。幼かった頃のガイズが実の兄以上に兄と慕っていたはずの相手であったにもかかわらず、まだ成年の儀を迎えたばかりだった彼は、容赦なく従兄の首を()ねたという。心優しきギルガムでは追討の任務は荷が重すぎると当時の当主である実父に訴え、その役目を申し出たのだった。


 先王の乱心の折に、ガイズは廃太子となったアウィルドを守るために身代わりを志願し拷問を受け、己の左手と左目の機能を犠牲にしてしまった。それでもなお、他意なく一直線にアウィルドリーシャという人物に対して忠義を尽くし続けた姿勢も、彼がいかに模範的なユリフェ家の人間であるかということをよく示していた。

 フィーネは掟に縛られ時に身動きが取れなくなる実父のことを恐ろしいと思うよりも、そういう振る舞い方しかできぬ不器用な男として憐れんでいたし、その原因が幼い頃の自分との約束にあることも知っていた。


 いまのガイズはまるで居眠りをしているように、開いているのか閉じているのかわからないほど細い目でフィーネたちの様子を見守っていたが、カルヴァに娘を説得するよう会話を振られて明るい声で言った。

「おれは、娘のことはあくまでも娘本人が決めるべきであって他の誰かが口出しすべきではないと考えます」

「ガイズ、そなたは本当に薄情なやつだな……」

「なんと言われても結構」

 ガイズはまっすぐフィーネを見据えた。焦点のずれた左目は左右に常に揺れ続けているが、真剣な眼差しを向けられたフィーネは口を引き結んだ。

「フィーネ、陛下はいま、身体的にも精神的にかなり疲れている。命を狙われ続けているんだ」

「え!?」

「陛下には内緒にするよう釘を刺されていたんだけど大事なことだから伝えておくよ。王宮では一月ほど前から雨去りの除目(じもく)が行われているんだけどね、初っ端から『王印偽造事件』という珍妙な騒動が起こって大変だったんだ」

 その騒動とは、辞令の勅書に捺されるはずの王印を何者かが偽造し、偽の辞令が発せられてしまったのだという。任官については問題なかったのだが、本来罷免されるはずのない人物が官職を失いかけたため、大騒動に発展した。

 アウィルドは早々に諸侯や役人に通達し、大方の事態を収拾したそうだが、王印を偽造した犯人は未だに特定に至らず、さらに、被害を被った官吏のうちの一人――文部省長官のサルク・ツタークをはじめ、幾人かが腹痛を理由に出仕を拒否し続けているらしい。さらにアウィルドは奇妙なことに、図書寮長官のルーテン・フェノスの官職を理由もなくいきなり褫奪(ちだつ)したという。

「褫奪って……クビですか? どうしてそのようなとを……」

「なんでも、偽の王印が見つかったのが王宮内のフェノス殿の執務室だったからという理由らしいが、まだフェノスの部屋から見つかった、というだけで、彼が犯人とは決まっていなかったんだ」


 ルーテン・フェノスは元々異民族を研究していた学者で、科挙に合格して王宮勤めをするようになったと言われている。史の記録者(レザーヤ)の民という少数民族の出で立ちを真似るのが趣味でかなりの高齢であると聞いてはいたが、先王の時代から図書寮のみならず、救貧院の事業も任されるほど信任の厚い男であったそうだが、そんな人物が唐突に王印偽造などというでたらめな真似をするとは考えにくかった。

 アウィルドもアウィルドだ。罪状が確定していないにもかかわらず、フェノスから長官の位を除くなどとわけのわからないことをした理由がフィーネには見当もつかなかった。普段の彼なら確たる証拠もなく処罰を下すという性急なことはしないはずだ。しかし、実際に彼はそうした。そして、フェノスは急に姿を眩ませてしまった。

「それってつまりは……フェノス様が陛下のお命を狙っておられるのですか?」

「いや、普通に考えればそれが筋というものだが、違うんだ。フェノス殿が陛下を害することはないんだよ。彼は表向きは怪しむべき人物として振る舞っているけれどもそれはおそらく陛下の指示によるもので、反乱分子に接触するための芝居なんだろうとおれは考えている」

「え?」

 何を言っているのか理解できず、フィーネは視線を左右に動かし目の前の高官達の顔を見た。

 ムヴァンは息をついた。

「フィーネ殿は知らぬようだが、フェノス殿は陛下直属の九花鳥(チーファニルド)のひとりなのじゃよ」

「九花鳥とはなんですか?」

 その問いにはガイズが答えた。

監察官(かんさつかん)の一種だよ。ウルガには官吏や領主の不正がないか調査する任務を行う監察院という機関があるだろう? そこでは多くの監察官が働いているのは知っているよね?」

「はい。エレスのユリフェ(てい)にも毎年、監査のためにいらっしゃりますから存じております」

(やしき)に来ていた彼らは国に属している国のための監察官なんだ。一方、九花鳥というのは国王直属の監察官なんだけど正体がよくわかってはいない。彼らは、王族や監察官を含めたウルガ王国の者すべての人間を監視したり助けたりしているといわれている特別な役職を任せられた存在なんだ。国王の護衛や国内外の不穏分子の調査をはじめとした様々な諜報活動をしているらしくてね、その権限は国王と片翼に次ぐものであるといわれている。誰が九花鳥かは陛下しか知らないけれども、彼らは陛下から貸し与えられた特別な印の入った神器を持っているらしい。互いには正体は知らないけれども、今日いまこの瞬間も密偵や暗殺や様々な身辺の警護などに従事しているはずなんだ」

「父上、ルーテン・フェノスさまが九花鳥であるという噂は本当なのですか?」

「噂、というよりも彼の場合は……ね。敢えて正体を明かしている九花鳥なんだよ。九花鳥のうちの『雨夜の烏』だ。それと、ルーテン・フェノスというのは特定の人物の個人名ではなく役職名と言った方がわかりやすいかな。レザーヤの民の民族衣装である暑苦しそうなもふもふの毛皮と仮面をいつも被っていて表向きにはレザーヤの民出身の老齢の官吏ということになってはいるけれど、そんな人物ははなから実在しないんだ。なにせ彼は五百年以上前の昔からルーテン・フェノスとして王宮に存在し続けているからね。つまり、彼を演じた人物は少なくとも十人はいることになる」

「それでは、王印を偽造した犯人というのは……」

「誰だと思う?」

「私に訊ねられても、わかりませんとしか答えられません。私は王宮の方々についてはほとんど知識を持っておりません」

「だよね。王宮のいろんな人をを知っているはずのおれにもさっぱりなんだ。けど、これは陛下自身の仕業なんだ。王印偽造事件は、『国王の気まぐれ』という規則に則って国王自身が故意に引き起こす事件なんだ」

 

 ガイズの説明によれば、王宮には『国王の気まぐれ』と呼ばれる家臣との暗黙の了解のもとに行われる慣習がいくつか存在しているらしい。王印偽造もその『きまぐれ』のひとつで、除目の人事に納得がいかない時に対して行うという。


「今回の『きまぐれ』はルーテン・フェノスを雨夜の烏の任務に就かせることと、東南方面の『テクウェル同盟』の領主達への"忠告"と"脅し"のためだろう。王印偽造事件で被害を被ったのがことごとくテクウェル同盟の関係者だったからね」

 新たな用語が次々と出てくるためフィーネは混乱した。

「フィーネどのは北西部で育ったために疎くて当然じゃろうが、我が国は二十年ほど前から東南の海の向こうのネラワリエ王国と小競り合いを続けている。テクウェル同盟というのはネラワリエ王国に対抗するために東南の国境付近を治める十の領主が協力した集まりでな、国境防衛の大切な要となっているのだ」

「ですが、テクウェル同盟の領主は昨今、謀叛を企てているという疑惑があるのです」

 カルヴァの説明にセイファンが補足をするとカルヴァの白く太い眉の間に深い皺が刻まれた。

「宰相殿よ、疑惑ではなかったろう。現に、四年前のググスの乱で王都は再び焼け野原となったではないか。星見の乱でも焼かれることのなかった王都を炭の山にしたのが誰であったかお忘れか?」

「あれは先王の遺児を勝手に擁立した者による反乱でしたでしょう」

「その裏に連中が絡んでいたのだ」

「ええ。ですが、証拠がありませんでした」

「証拠がなくとも証拠をでっち上げて皆殺しにしてしまえば良かったろう。大体、あの小童は万事において甘過ぎる!」

「陛下は無闇な殺生を(いと)うたのです!」

「黙れ若造が。そなたがついておりながら、戦後処理の粛清ひとつまともに出来なかったからこそ、今のこの状況につながったのではないか。この弱腰宰相め」

「なんですと?」

 カルヴァは鷹のような眼でセイファンを睨んでいるが、セイファンも優男のような雰囲気とは裏腹に、虎のような鋭い眼光で睨み返していた。

「……あの、お二方。いまはその話は控えてください。いまは目の前の話を――」


「黙れ!」

「お黙りください!」


 二人に怒鳴られ、ガイズは苦笑を浮かべた。仕方ないなあ、と呟くと香茶を一口含み、指を組んで身を乗り出した。


「ええと、どこまで話したかわからなくなっちゃったんだけどね、この二人のことは無視して話を続けるとしよう。今のところ、テクウェル同盟のミンダロン領主のヌーグフ・ハリ殿や同じくミンダロン領内にあるフプトゥク大神殿の神殿長であるサヌクァプ・エントリハルク猊下(げいか)や他にも何人か危険だと思われる人物がいるんだけども、その中でも直近最も害を為しそう……というかすでに実害を起こしているのが、陛下の弟君のラキア様だ。機会をうかがってはたびたび陛下を殺そうとするものだからおれ達はほとほと手を焼いている」

「ラキア様、というのはどなたなのですか?」

 聞いたことのない名だ。先王には六人の王子と十人の王女の計十六人の正式な子おり、他にも乱心後の混乱期に生まれ、王族としての地位を持たぬ子供が大勢いるらしい。そのすべての名を知っているわけではないが、ラキアという人物は記憶にはない。

「ラキアというのは愛称(・・)で、第三王子のミムウェル・スヴァロン・ラウルガル・タイト殿下のことだよ。 彼は何度も陛下の殺害を企てているんだ」

「異母兄弟とはいえ血のつながりのあるご兄弟なのに命を狙うなんてどうして……」

「彼は陛下のことを、『人の姿を被った化け物』と呼んでいる。アウィルドリーシャは父親殺しの罪人のくせに国王を僭称(せんしょう)しただの、あいつはいつか必ず先王のような暴政をするだのと、もっともらしい理由をつけて陛下を襲うんだ」

 先王ウェルフ・リルダム・ラウルガル・タイトも政争の果てに親族を幾人も殺害している。確かに、言っていることは一理ある。しかし、だからといってアウィルドの命を奪っていい理由になるとは思えない。

「なぜ、皆様はそのような危険な方を野放しにしておられるのですか?」

 外野でのカルヴァとの言い争いに区切りをつけたセイファンは苦々しい表情で答えた。

「あまり事を大きくしたくないという陛下の御意向(ごいこう)のためです。母親は違えども血のつながった弟を罰したりしたくはない。できる限り内々に話を収拾させたいと仰り、彼はラキア様に好き勝手な振る舞いを許しておられるのです。陛下には持ち前の治癒能力がありますから、そうそうお命を奪われてしまうことはないのですが……」

「そんな……」

 フィーネは困惑して瞬きをしながらガイズの目を見つめた。何と言えば良いのか言葉が思い浮かばず、向かい合って座る彼ら一人一人の顔色を伺うように視線を泳がせた。

 アウィルドが少し世間ずれしたぼやぼやとした男であることは昔から良く知っているが、自分を殺そうとする者を放置する心理が良く理解できなかった。それは優しさを通り越して愚かというのだ。

 セイファンの黒い瞳は悲しげな色で曇っており、寄せた眉根に刻まれた深い溝は彼の苦悩を物語っていた。

「陛下がお命を狙われているのは事実です。半年前には全身に油を浴びせかけられた上で火を放たれ、翼王の力で回復したものの、御髪がすべて焼け落ちてしまうほどの重症を負われました。最近ではすっかり生え揃いましたが、じつに痛ましい有り様でした」

「腰に届くほど長く美しい髪であったのじゃがのう……気の毒なことに、今では結い上げることもできなくなってしまわれた」

 フィーネは言葉を失った。

 幼い日の長く美しいアウィルドの髪が脳裏に浮かぶ。そんな深刻な事態になっていたことなどつゆ知らず、フィーネはのんきに彼と手紙のやり取りをしていたというのか。フィーネは眩暈(めまい)を覚えながら彼らの話を聞いた。


「ヴェル・フィーネ・ユリフェ殿。いまはすでに王族の籍を外れた身でお願いすることは不遜(ふそん)とは思いながらも、陛下の弟としてお願い致します。どうか、『十番目の片翼(ファーシャ・リーシャ)』として我が兄を救ってはいただけませんか」

 頭を深々と下げるセイファンの茶色の髪を見つめてフィーネはいたたまれなくなり、椅子から腰を浮かした。

「おやめください。宰相様に頭を下げられてしまっては、私はどうすればいいのかわからなくなってしまいます。お願いですから頭をお上げください」

「我々は陛下をお助けしたいのだ。陛下を救うには、そなたの力が不可欠だ」

「フィーネ、おれからもお願いするよ。今の彼は、夜の真っ暗な底なし沼で溺れている雛鳥(ひなどり)そのものだ。今すぐにでも力尽きて泥の底に沈み込みかねない」

「父上……」

 ガイズの目は、微動だにすることなくまっすぐにフィーネを射ていた。一重瞼の奥の、石炭のような瞳は静かにこちらに問いかけた。お前はユリフェ家の人間だ。ならば、どのように振る舞うべきかも心得ているはずであろう、と。

「長年お仕えしてきたからこそわかる。あの方はもう限界なんだ」

「ですが父上、私には片翼様の身代わりなんて務まりません。治癒の力も鳥と会話する力も持ち合わせていないのですぐに皆さんに偽者であることがばれてしまいます。そうなれば陛下のお立場がますます悪くなってしまいます」

「……ヴェル・フィーネ・ユリフェ殿」

 フィーネとガイズで膠着状態に入りかけたその時だった。

 ずっと沈黙を保っていたレリファ=シシカがゆっくりと呼びかけてきた。

「フィーネ殿、これまでのあなたの様子を拝見し、あなたがアウィルドリーシャ陛下のことをとても大切に想っておられることはよく理解いたしました。しかしことは急がなくてはなりません。さもなければ陛下はお命を奪われ、戦火により王都はおろか国中に広がり、多くの民が命を落としかねないのでございます。現在、この国は内乱によって疲弊しておりますが、さらに間の悪いことに東南のネラワリエ王国が領土拡大を目論み、虎視眈々と侵略の機会をうかがっております。強大な力を持つ翼王が国王として治めているうちは気安く手出しすることはできませんが、彼が(たお)れてしまえばすぐにあの国は兵をウルガに向かわせることでしょう」

「片翼様のお命を狙っている者というのはネラワリエ王国の刺客なのですか?」

「残念なことに数え切れないほどおります。人のみならず、人ならざる者もあの方のお命を奪おうとしているため、神殿の結界からお出になることはとても難しい状態であり、顔や名を明かせば"悪しきもの"との縁を結びかねないため、外の者と接することも極力減らしている現状でございます。ですからフィーネ殿には申し訳ございませんが、ご理解いただけますようお願い致します。また、詮索もお控えいただけますと幸いでございます。いずれ本物の片翼様にお会いする機会がございますので、それまではどうかご辛抱ください」

「かしこまりました」

 恭しく頭を下げながらフィーネはモールクの表情を探った。相変わらず彼の顔は微動だにせず、本心が全く見えてこない。息が上がることも目が泳いだりすることも瞳孔が動いたりすることも瞬きの回数が増えることもないので嘘をついているか否かも判断が付かなかった。

「フィーネ殿、先ほども申しましたが、治癒能力の件でしたらあなたがその腕輪を使えば解決いたします。お疑いでしたら実際に試してみられてはいかがでしょうか? ちょうど怪我人が目の前にいますからね」

 確かに、ガイズはいまだに半年前の傷が完治していない。それに、昔の拷問の後遺症で左目と左腕も不自由だ。残念ながらいまのウルガに彼の傷を完治させる方法は存在していない。もし彼らの話が本当であれば縋ってみるのも良いのかもしれない、とフィーネは薄々思い始めていたのも事実だ。

「あなたが力をお使いになればお父君の傷は全快し、王宮勤めに復帰することを可能にします。ですが、代わりにあなたは苦痛を味わうことになるでしょう」

「苦痛ですか?」

「ええ。風の女神(ファル・レジナ)が受けた死の女神(ベルダエレス・レジナ)による呪いによるものでございます。あなたは誰も成し得ない奇跡を起こす力を使うことが可能ですが、代償もそれなりにあるということをどうか覚えておいてください」

「どうしてその腕輪がユリフェ家にあったのですか? 伝承では風の女神様がお使いになられていた風玉輪という腕輪は人王オルレガが冥界から風の女神を連れ帰った際にオルレガの肉体と魂に宿り、それ以降は片翼様の持ち物となっているはずです。翼王が現れない時代には宝玉の姿で王宮内の神殿に安置されるともうかがったことがございます。この腕輪は一体何なのですか?」

「疑問に思われることも無理はないでしょうね。確かに、初代国王であらせられたオルレガ様がその一生を終えられた際に、風玉輪の力の大半はオルレガ様の魂とともにあの世に持って行かれました。この腕輪はその残りの部分です」

「残り?」

「我が国で信仰されているレーア教では『生命という存在は肉体を動かすため貸し与えられた『(はく)』と、精神や意識を司る『(こん)』という二つを肉体に宿すことで『生きている』という状態になると言われております。これがいわゆる魂魄(たましい)』です。死後、『魂』は天に還り、意識や人格を保ったまた楽土か地獄に行くとされております。一方、『魄』は地に還り、新たな命の身体を動かすために再利用されます。冥界は天でも地でもない場所にあるとされており、地獄や神界やその周辺に広がる楽土を繋ぐ中継点となっているそうです。この風玉輪という腕輪も同様に、精神に宿った部分と人の世に残った部分に分かれたのだそうです。つまり、いまここにある腕輪は風玉輪の半身であり、ごくわずかですが治癒の力が残っているのです」

「それはおかしな話ではありませんか? どうしてそのようなたいそうな品が、農民上がりの辺境領主のユリフェ家にあったのです?」

「オルレガ様が遺された腕輪をエレス領の霧の女神(ムーア・レジナ)様にお預かりいただいたのがきっかけだったそうです。詳細は存じませんが、女神がユリフェ家の誰かに贈ったようです」

 最高神官長の説明を聴いてもフィーネはもやもやした違和感を拭えずにいた。

 モールクは詐欺師や胡散臭い商いをする人物とは違って神官なので信用して全く問題ないはずだ。そのはずなのだが、記録すら残っていないような大昔のことをまるで見聞きしてきたかのように詳しくつらつらと淀みなく語られると、えもいわれぬ不信感のような黒い感情が胸の奥から湧いてきてしまう。フィーネなら数日前になにをしたかという簡単なことすらまともに覚えていないというのが理由であるが、神の言葉を聴き、あらゆる過去や未来を見通すはずの神官の話を素直に聞き入れられないとは、我ながらなかなかの不信心者だなと呆れたのだった。

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