二章 碧海の都(10) 風神汚しの罪
寝耳に水の話に食いついたものの、セイファンは申し訳無さそうに首を横に振った。
「残念ですが、まだ申し上げることはできません」
「何故ですか?」
「幸いなことに、わが国の最高神官長が、片翼様の候補となられる御方を捜し出してくださりました。しかし、その人物は命を狙われているため、現在は中央大神殿で保護している状況とのこと。また、片翼様としてのお力に目覚めておられないうえにお身体が弱く、王宮勤めをこなすには不適格な状態にございます」
「そんな……」
「そこで、あなたに協力していただきたいのです。ヴェル・フィーネ・ユリフェ殿。片翼様がお力を目覚めさせるまでの間、あなたには片翼の身代わりとして王宮に上がり、敵の目を引きつけていただきたい」
予想だにしなかった最悪の答えをいきなり突きつけられて、フィーネは白い顔に戸惑いを顕わにした。
「……宰相閣下。今一度確認させていただきたいのですが、それは、私に…………片翼様を騙れとお命じになられるということですか」
声を低めたフィーネの言葉を聞いて、「そんな……っ」と背後からヒレナが狼狽えるような悲鳴が響いた。
「そうなりますね。片翼様は命を狙われており、お守りしなければならないのです」
そう返したセイファンにつかみかかりそうな勢いでヒレナは怒鳴った。
「なにが、そうなりますね、なのですか! あなたは主に死を賜れと命じるのですか!?」
フィーネは激昂して円卓に足をかけようとするヒレナの手を掴んで引いた。
「ヒレナ、落ち着いて」
「ですが、フィーネ様っ。この方はさらりと言いましたが片翼様を騙るだなんて……そんなこと、いけません! わたくしはぜったいに嫌です! あなたが『風神汚しの罪』に問われてしまうなんて、あんまりです……」
「わかってるよ。私も怖い。でも、だからこそ、『ユリフェ家』にこの話を持ってきたんだと思う」
「おお、フィーネ殿は話が早くて助かるのう。まこと古来より忠義報国の精神に厚きユリフェ家の者としてさっそく国の御為、命を投げ出す覚悟がおありか」
腹立たしさを覚えたものの、静かにフィーネはカルヴァを見返した。
「まあ、侍女どのが心配するのも無理はない。王祖の風の女神の対である片翼を騙り、国王や臣下や民を欺いた者に与えられる待遇は安寧なき死だからな。痛み止めなしで呪いの紋を全身の皮膚に刻まれ、生きたまま髪や舌を抜かれ、爪や指、四肢を少しずつ削ぐように切り落とされる。それまで耐えた後は鰐の這う湿地の上に吊され生きたまま徐々に全身を少しずつ噛み千切られる。その後は――」
「それ以上言うことはどうかおやめください!」
ヒレナの懇願に彼は熱に浮かされた者のような不気味な笑みを浮かべながら長い息をついた。
「……だが、これは目を背けることの許されぬ真実だ。風神汚しの罪は極刑よりも重く残虐な刑罰が科せられる。真偽は定かではないが記録によれば過去に何百もの人間がこの罪状で命を落としたのだ。それほど、翼王と片翼とはこの国では重要視されているということだ」
「存じております。ですから、わたくしは反対しているのです」
「……侍女どの気持ちは理解できるぞ。連座してそなたも殺されるからな」
「何ですって?」
カルヴァの言葉に怒りを覚えたヒレナは何か言いかけたが口をつぐみ、憎悪の面構えで睨みつけた。彼女の手は震えている。
カルヴァは感情を露わにしたヒレナを揶揄して楽しむような素振りをしていたが急に笑みが消え去った。
「勿論、わしもそのひとりだ。宰相閣下も副大臣も、まだここにおらぬレリファ=シシカも皆、共犯者であるのだ。拷問のうえ自白剤を飲まされて吊し上げられ殺される危険がある。しかも一族郎党皆巻き込むやもしれぬのだ。考えただけでも恐ろしくて身震いがしてしまいそうじゃ。だがのぅ、我がカルヴァの家は代々、ウルガ王国の武芸を司る一族として王家にお仕えしてきた。そして、我が一門はこれから先の世も末永くお仕えする心づもりでいる。その長たる某がここにいることの意味をよく考えてみられよ」
カルヴァの目のぎらつきを目の当たりにしてフィーネは気づいた。
そうだ。風神汚しの罪の重大性をよく知っているはずの彼らがフィーネにこの話を持ちかけてきたということが意味するのは何であるか。しかも、フォン・ムヴァン・カルヴァ――軍神に喩えられるほどの歴戦の勝ち将軍が、今回の『偽片翼を立てる』という荒唐無稽な話に積極的に協力するというのはよほどの事情があるはずなのだ。まずは彼らからもっと多くの情報を得なければならない。
「カルヴァ殿。その言い方ではお二人の不安を煽るばかりです」
セイファンはカルヴァを窘めつつ、フィーネたちに柔らかな笑みを向けた。
「お二人ともご安心ください。フィーネ殿が風神汚しの罪に問われることはございません。この罪は、片翼様ご本人の赦しがあれば撤回することができますし、今回は、最高神官長とわたくしが企てたことです。責任は必ずわたくしが負います。もちろん、御身の安全も保証することをお約束いたします。さらに、うまくいけば謝礼も弾ませていただきますよ。金銀財宝、流行りの服や広大な領地など、あなたがお望みのものをなんでも謝礼としてお支払い致しましょう。まあ、まずは少ないですが前払いとしてこちらを――」
そう言うと、セイファンは卓上に置いた漆塗りの蒔絵の箱の蓋を両手で持ち上げた。
大人でも抱え込まなければ持てないほどの大きさの黒い箱には、金貨や銀貨、珊瑚の首飾りや翡翠の耳飾りなどの財宝が詰まっていた。慎ましやかに過ごせば一生涯遊んで暮らしてもお釣りがくると思われるほどの宝物でさえ前金でしかないということは、役目を完遂した暁にはもっと豪華な謝礼をもらうことができるのだ。なんと素晴らしいことか。
だが、あまりに破格な謝礼を見せられるとフィーネにはこのあまりにも魅力的すぎる宰相の話がかなり胡散臭いものに思えた。同時に、この件については国王本人は全く関わってはいないのだと確信した。
あの国王は質素倹約なことで有名であり、再建途中の国の金庫を疲弊させるような真似をするとは考えにくい。そして、おそらくは宰相自身も、フィーネがこの褒賞を受け取らないことを知っているのだ。
「宰相様。せっかくのお気持ちは嬉しいのですが、私はそちらのお品をお受け取りするわけにはまいりません。その財は、私個人ではなくもっと多くの人々のために使われるべきものであるはず。すべてお返しいたします。それと、このことで確信致しましたが、此度の件は国王陛下のご意向ではございませんね」
「お見通しでしたか」
セイファンは悪びれた様子もなく笑みを崩さないどころか、目尻にしわを寄せるほど穏やかな眼差しを向けてきた。
「やはり、あなたは片翼を務めるに相応しい方のようですね。これだけの宝物を前にして、欲に惑わされずに冷静でいられるとはじつに驚くべきことです」
セイファンの残念そうにうなだれる様子を見てフィーネは馬鹿にされたようで軽く怒りを覚えた。
彼は巧言を弄してフィーネの機嫌をとろうとしたのだろうが、はなから彼はフィーネに前金など与えるつもりはない。なぜなら、片翼として王宮入りするには、今の身分や財産をすべて手放さなければならない。つまり、前金などもらったところでフィーネは着の身着のまま無一文となる。ユリフェ家やヒレナのために貰うこともできるが、おそらく不可能だろう。
それを知っているくせにわざと彼は破格の褒賞を見せつけたのだ。そのことについて何か嫌みたらしく突っ込んでも良いのだが、今のフィーネにはそんな気力は微塵も湧いてはこなかった。
どのみち彼らがフィーネを偽の片翼に仕立てることは覆すことができないのだ。だからこそ、今は彼らから少しでも多くの情報を聞き出しておく必要がある。
フィーネの生家のユリフェ家は、十三氏族と呼ばれる名家に名を連ね、建国神話にも登場するほど長い歴史を持つ。
代々、ユリフェの者は王家を影から支え、忠誠を誓い、身を挺して守ってきた。国王の命令があれば、指でも片目でも妻子や父母でも、果ては己の命すらも捧げる。それが、この家に生まれた者の定めだった。
詳しい理由は知らないが、二千年以上もその関係が壊れることはなく綿々と続いてきたというから驚きだ。
フィーネの父親のガイズも、過去にその掟に従って乱心した先王からアウィルドを護り、結果として片目の視力を失うことになった。
十五歳の誕生日に行う成年の儀において、霧の女神の御前で風護の誓いという王家への不変の忠誠を誓う。そして、誓いを破った者はたとえ肉親であっても容赦なく粛清する。
その行為が精神的に掟に縛るのか、はたまた、ユリフェ家の者に多く見られる頑固な気質がそうさせるのか。それはわからないが、父も祖父も、曾祖父もそのまた曾祖父も皆従い、そこに個人の感情は顧みられず、塵紙のように使い捨てられる運命にあった。
つまり、セイファンはフィーネの命など捨て駒のように軽く見ているのだ。
フィーネは口を引き結ぶと瞼裏に最後に会った時のアウィルドリーシャの笑顔を思い描いた。
「宰相様、申し訳ございませんが、私はそのお話をお受けするわけにはいきません」
「そんな……」
「私が片翼様を騙れば、一族に迷惑がかかります。それに、私は陛下を騙すような事なんてしたくありません。……これからあなた方がする行いはあの方の心を傷つけるものでしょう!?」
強い調子で問うフィーネの声を受けてセイファンは力の無い笑みを浮かべながら息をついた。
「……先ほどはあなたを試すような真似をして申し訳ございませんでした。ただ、わたくしはあなたの人となり、考え方を知りたかったのです。万が一あなたが陛下の片翼に相応しくないと判断したなら、このお話はなかったことにしようかとも思っておりました。しかしながら、あなたは心から我が兄のことを考えてくださるのですね。実を申しますと、あなたのお考えどおり、陛下にはこの計画をお知らせしてはおりません。あくまでも我々の独断によるものです。ですが、あの方はすでに鳥を通じてご存じであらせられることでしょう。わたくし、レリファ=シシカ、ムヴァン殿、ガイズ殿。他にもおりますが、今現在あなたに明かすことができる協力者はこれだけです。しかし、我々が陛下をお救いしたいと考えていることに嘘偽りはないということだけは信じていただきたいのです」
「陛下を騙すことが陛下のためになるというのですか? そもそも、片翼の力を持たない私が片翼として王宮入りしてもご迷惑をお掛けするのみでございます。それならはじめから本物の片翼様の所在を陛下にお伝えするか御前にお連れください。もしくは、陛下に片翼様の身代わりを立てることを正直にお伝えください。そうしていただけるのでしたら私は本物の片翼様のために喜んでこの命を捧げます」
ガイズが低い声で一刀を放った。
「いい加減にしなさい、フィーネ。これはもう決定していることなんだ」
「ガイズ様、それが実の娘に対して掛けるべき言葉ですか!」
ヒレナはガイズを睨んだ。
「あなたはお嬢様のことをずっとエレスに置き去りにして、どれほど寂しい思いをさせたのか、おわかりになっておられますか? そして、自らすすんで命を投げ出すようにお命じになられるなんて、親としてどうかしています!」
「わかっているとも。……代わってやれるなら代わりたい。だけどね、残念なことにこの御役目はフィーネにしか務まらないんだ。おれをはじめとした他の者ではけっして務めることなんてできないものなんだ」
「どういうことでしょうか」
訝しむヒレナに目配せしてからガイズは卓上の箱を開けた。
白絹の包みの中から現れたのは金の腕輪だった。月来香の花の意匠の彫刻が施されてたいへん美しい。
「この腕輪は王家の宝物なんだけど、元々はユリフェ家の家宝だった品だ。大昔の国王がこの意匠をいたく気に入ったらしくて、当時のユリフェ家当主が王家に献上したんだ。巡り巡って神殿に収められることとなり、じつは最近になってわかったことなんだけれども、これはどうやらご先祖が霧の女神から賜った特別な品だったようで、怪我を癒やす力を持つらしい。元々は、風の女神の持ち物だったらしくてね……。フィーネ、ヒレナ。風の女神が他者の怪我を治す腕輪を持っていたという話は二人とも知っているだろう?」
フィーネとヒレナは頷いた。魔物から人々を救うために人の世に赴こうとする風の女神を案じた天の主神が愛娘に与えた不死の環。それは、主神の持つ不死性を具現化した物で永遠を象徴する金で創られていた。
万が一、女神が何者かに身を傷つけられてもすぐに治すことが出来るように、と願ってのことだったのだが、彼女は大いに喜んでその力を自らのためではなく、他者のために用いた。彼女は人の世に生まれ落ちると、奇跡の力で木や獣、鳥や人など多くの命を救った。だが、その行いは生者の運命や寿命をねじ曲げてしまう可能性があり、神々は禁忌に等しい認識を持っていた。特に、死の世界を司る冥界の女王たる死の女神は風の女神の行いを強く非難した。死の女神は風の女神に治癒行為をやめさせるべく、腕輪に戒めの呪いを掛けてしまった。以来、他者の傷を治せば己にその苦痛が跳ね返ることになってしまったのだが、なおも風の女神は腕輪がもたらす苦痛に苦しみながらも癒しの力を使い続けたという。
「まさか、父上はこの腕輪がそうだと本気で信じているのですか?」
「勿論だとも。……って何だい、その腐ったごみを見るような目は?」
「信心深いことは結構ですが、父上は一体何回この手の話で騙されていると思いますか。仮に、その話が真実だったとしてもどこの世界にそんな便利な品がありながら使わない人間がいるんです?」
「おいおい、おれは悲しいよ。以前のお前は素直で人を疑うなんてことはしなかったはずなのに」
「……この間も詐欺に遭ったばかりであることをお忘れですか?」
「お前、最近リリネに似てきたんじゃないか。医術と一緒に不信心までうつったんじゃ?」
「師匠に似てきたのなら願ったり叶ったりですね。ですが、師匠は元々は神殿の巫女です。不信心どころか敬虔な宗徒ですから私とは全然違います」
今もどこかで旅をしているであろう女医の男勝りな顔を思い浮かべながらため息をもらした。
ガイズは自身や使用人を旅に向かわせ、珍しい品を集めさせる趣味がある。そして、事ある毎にフィーネに送りつけてきたのだ。 運気が開ける壷やら、首長竜の頸椎だの、導きの石だの、その量は膨大で、おかげでフィーネの部屋はがらくたに占拠されてしまった。また、彼は金銭感覚に疎く、俸給の大半をその趣味に費やしてしまい、金欠となり、ギルガム宛てにしばしば無心の催促の手紙が届いた。
「人魚の干物の時なんて最悪だったんですからね! 黴と茸と蛆虫と衣魚みたいなよくわからない何かがもさもさわらわらと出てくるわ出てくるわで……おかげでいまだに毛虫を見たら思い出してしまうんですから」
「……ああ、その件については兄さんから話は聞いたよ。かなり大騒ぎだったんだってね。あ、干物じゃなくて木乃伊ね。でも、せっかくの珍しい品だったからお前にも見せてやりたかった父の気持ちも汲んでくれると嬉しいんだけどな」
「魚と小猿の亡骸で作ったまがい物に銀貨三枚も払ったなんて、父上は見る目がなさすぎます!」
「……それは……確かに、騙されたおれも悪かったけどさ……」
「それはともかく、それで、その腕輪が私とどういう関係にあると仰るのですか」
話の軌道を戻そうとフィーネは腕輪を指差した。
「ああ、その件なんだけど、これは女人にしか扱うことができないそうなんだ。しかも、ユリフェ家の娘という制約すらある。おそらくは、うちの一族の先祖返りの力なんだろうね。我が男だらけな一族の血筋で性別が一応女なのはお前しかいない。つまり、お前だ。今回、おれたちは代理の片翼を立てる。だけど、皆にはおまえが片翼であると信じ込ませなければならない。片翼であることの証明は治癒の力を持つこととされているが、その影武者を務められるのはお前だけなんだ」
先祖返りは現代のウルガにおいて魔術やそれに類する何かしらの特別な力を有する者を指す。かつて三百年前に起きた『粛清の風』という大災厄以前のスーヴェ大陸には魔術と呼ばれる不思議な力が当たり前のように存在していたらしい。だが、『粛清の風』によってそれらの使い手や技術の多くが失われてしまったと言い伝えられている。そのような世において、特定の家系に時折現れるのが『先祖返り』であり、その力によって国や民のために奉仕する者も少なくない。
例を挙げれば、昨年、図書寮で働き始めた少年は『史の記録者の民』という少数民族出身で、一度五感で経験したことは二度と忘れないというとてつもなく優れた記憶力を有している。
先王の母の生家であるタイト家は神仙の一族と呼ばれており、その血筋の人間は天寿を全うする直前まで見た目が老いることがなく魔術に似た不思議な力を持つ者が多い。
エレス領内には目を閉じたまま弓矢を扱うことができるスニャ一族という強者もいる。
極めつけは翼王であり、王家に数世代にひとり風の女神の力を発現する者が現れるという点で見れば彼もしくは彼女も先祖返りだ。
「――しかし父上。私は先祖返りではありません。そのことは父上もよくご存知でしたでしょう?」
「それは――」
と、言い淀むガイズの言葉の続きを待っていると、突如として背後から新たな男の声がしてフィーネは飛び上がった。
「フィーネ殿、お疑いでしたら試してみられてはいかがですか? あなたが力をお使いになればお父君の傷は全快し、王宮勤めに復帰することを可能にします。ですが、代わりにあなたは苦痛を味わうことになるでしょう」
「――おう、レリファ=シシカよ、遅かったではないか」
「遅れて申し訳ございません」
真白い長衣に身を包み、すらりと細身の青年はゆっくり一礼すると、一切の躊躇いもなく応接間に入ってきた。淡く青みがかった清らかな滝のように長く美しい黒髪が印象的で、神殿で用いられる『至尊に捧ぐ万花の風』という特別な線香の香りがかすかに漂い、部屋の雰囲気が一気に清められるような心地がした。
「フィーネ殿、紹介しよう。彼はレリファ=シシカことモールク・エントリハルク――この国の最高神官長だ」
何故、最高神官長までやってきたのだ、とフィーネはいよいよ目眩を覚えた。このさして広くもない客間に、国王以外の重鎮が集まっているという信じがたい事実に物凄く、なおかつ果てしなくいやな予感がした。
レリファ=シシカをセイファンの右――円卓の中央最奥という最上位の席に座らせると、カルヴァは言った。
「まあ、結論は決まっておるのだから焦ることもない。そなたがその気になれるようもう少しだけ事情を教えておこうではないか。フィーネ殿は王都に流れる不吉な噂を耳にしたことがあるか?」
「噂と言うと、ひと月後に王都に災いがもたらされるというあの謎の予言でございますか?」
「左様。出所は不明だがな」
フィーネは口を引き結んで俯いた。先ほども患者から聞いたばかりの話だ。
「陛下は先王陛下を打ち倒した善王との誉れ高いが、近頃の市井の者は風の女神の化身であるはずの翼王はどうして荒ぶる風を鎮めてくれないのか、伝承によれば、翼王は風を統べ、天候を意のままに操ることができるにもかかわらず、当代の翼王は何故その力を扱うことができないのか、と口にして不満や不安を顕にしている。あまつさえ、現王アウィルドリーシャは翼王ではなく神を騙った悪魔つきであるという飛躍した噂すらあるのだ」
「そんな……」
「それに追い打ちをかけるようにこの出所不明の予言だ。もはや、風説はとどまることなく広がり続けている。だが、いくら民衆が風を鎮めてほしいと望んだとしてもいまの陛下には彼奴らの願いを叶えることは不可能だ」
「しかし、その噂は悪意ある者が流した嘘で信憑性はないのではないですよね?」
「神官および気象官の見立てによれば、その予言の刻日には実際に月蝕が起こるらしい。しかも、不吉なことに部分的に欠けるのではなく、完全に隠れてしまうそうだ。そなたも一度くらいは皆既月蝕を見たことがあろう? 蝕が最大になれば月は赤く変化する。月が血に染まるというのは、あながち偽りではないのだ」
まさか、と言いかけたが、フィーネは口を閉じた。神官の予言はともかく、気象官は日蝕や月蝕が起こる日時を計算で導き出すことができる。神の言葉も人の出した予測も同じ答えを示しているのならば、これはほぼ間違いなく起こる事象なのだろう。そして、話の腰を折るようだから言わないでおくがフィーネは生まれてこの方一度も月蝕を見たことがなかったのであまりぴんと来なかった。
「やれやれ、何者の仕業かはわからぬが、厄介なことでな。民衆の不安が火種となっていらぬ混乱が起こるやもしれぬのだ。それがもし収拾がつかなくなってしまえば、またもや王都が焼け野原になってしまうかもしれぬ。昨今、内乱が続いておるが、ここ百年間でそれが四度も、となると、いよいよこの国も末期かもしれぬな」
「そんなことになったら困ります! 王都はまだ復興の最中とうかがっております。ようやく、先の混乱から安定を取り戻しつつあるのに、そのようなことになれば、また大勢の人が命を落としたり住まいを失ったりすることになってしまうのではありませんか!」
セイファンが、静かではあるが強い声音で言った。
「その通りです。そうさせないため、我々はなんとしても手を打たなければなりません」
彼の夕方の海のような色の瞳はまっすぐフィーネに向けられていた。




