二章 碧海の都(8)「たいへん申し訳ないが、医術学校への入学は諦めていただきたい」
――これが、片翼宰相か。
まみえるのは初めてだが、噂とアウィルドリーシャからの手紙で彼については幾分知識がある。
彼は国王の異母弟で、元は第二王子であったが弱冠十九歳という若さにして宰相として国王を補佐している。元、というただし書きがつくのは、彼が四年前に臣籍に降下したためだ。王子の頃の名は現在とは異なり、第二王子・リュシーリアス・ラウルガル・リヴェーラといった。
アウィルドとは同じ日の一時間違いでこの世に生を受け、わずかな差で第二王子となったものの、彼は兄同様にとても聡明で優秀という評判だった。
武芸に秀でたアウィルドと知性に優れたリュシーリアス。二人は一羽の鳥の左右の翼に例えられるほど仲が良いことでも知られていた。
人づてに聞いた話によると、幼い頃から二人の王子の将来を期待する人々は多く、アウィルドを国王に、リュシーリアスを百五十年ぶりの副王にと望む声が多かったらしい。だが、残念ながらリュシーリアスの母親は平民出身の下女で身分が低く、実際には彼は王位も副王の位も得られる資格がなかった。
ウルガの王位継承は母親の家柄が重要視される。その事実は本来『姓』を持たない王族の名の末尾に母親の姓がつくことにも顕著に現れている。
リュシーリアスもその事実を理解し、己の立場を受け入れていた。だからこそ、彼は自ら進んで王族の地位と名を捨てて一臣下として兄を支える道を選んだのだった。
セイファン・リヴェーラと名を改めた彼は星見の乱の後、兄王から求められて宰相となった。一度はその申し出を断ったのだが、国王が退かずどうしてもと切に望まれたため、セイファンは史上最年少の十五歳で宰相の任に就くこととなった。
多くの人々はセイファンがアウィルドリーシャの片翼であると考えていた。
伝承によると片翼は、翼王と同日、ほぼ同じ時にこの世に生まれると言われているのだ。彼もアウィルドと同じ九月十四日の『双子座の星祭り』の晩に生まれたからだ。
だが、彼は片翼ではなかった。
風玉輪――片翼を示す神の宝玉は彼に応えなかったのだ。
その事実は皆を落胆させたが、セイファンはまるで本物の片翼のように兄王をよく支え、よく仕えているという評判だ。だから彼は片翼ではないものの、片翼宰相と呼ばれている。
そのような有名人を前にしたフィーネは、緊張で裳の内の足が震えそうになりながら、続いてその隣に座る白髭を蓄えたの老年の男に目を向けた。
彼は見覚えがある。七十三という年齢の割に隆々とした筋肉を纏った男は白髪ながらも豊富な長い髪をきちんと結い上げ、黒い帽子のような冠を被っている。左目のわきには大きな刀傷の痕があり、かつて勇鷹将軍と呼ばれた彼がくぐり抜けてきた修羅場を想像せずにはいられない。この男が外の車止めに停められていた馬車の持ち主のカルヴァ領主――ムヴァン・カルヴァだ。フィーネは七年前の立太子の儀に参列するために王都に来た時に一度だけ会ったことがあった。フィーネが覚えていたのは、彼の鷹のように雄々しい雰囲気によるもので、武家の頭領として相応しい品格を備えた彼の印象が鮮烈だったため、幼かったフィーネの記憶の中に強く残っていたからだ。
「久しいな、フィーネ殿。以前に会ったときはほんの愛らしい幼子だったというのに、とてもお美しくなられたようだ。まこと、母君に瓜二つでいらっしゃる」
「……お久しぶりでございます、カルヴァ様。その節はたいへんお世話になり、ありがとうございました」
フィーネは深々とお辞儀をした。
「おや、わしのことを覚えていてくれたとは光栄だ」
カルヴァとの久方ぶりの挨拶を交わすと、彼はほっほっほ、と声を上げて笑った。
どうやら彼らは本当に、ガイズではなくフィーネを訪ねてきたらしい。しかし、分家筋であるフィーネをわざわざ訪ねてきたその理由はわからない。
眉根を寄せて考え込むような娘の様子を見ていたガイズはにこやかに微笑んだ。
「フィーネ、いつまでもそんなところで立って話をするのも疲れるだろう。こちらに来て座りなさい」
彼から促されては仕方ないと、フィーネは腹をくくった。自分は分家筋とはいっても一応はユリフェ家の人間だ。そして、この国の副大臣の娘だ。何があっても動じてはならない。毅然とした態度を崩さないように努めながら彼女は部屋の一番入り口から近い席に着いた。
下座の椅子からフィーネがセイファンとカルヴァを見据えると、ゆっくりとカルヴァが話し始めた。
「……さて、そなたの話はガイズからよく聞いておる。この度は、ウーゼ王立医術学校に入学が決まったそうだな、おめでとう」
カルヴァは、卓上の赤い果実酒が入ったグラスを手に取ると一口含んで香りを楽しんだ。
「あそこはかなりの難関だが、入学試験を首席で合格されたとは、さすがは国王陛下の教育係を長年務め上げたガイズ殿の娘御なだけはあるな。ましてや今年は数年に一度の不遇の年と呼ばれる当たり年だったそうではないか。それをくぐりぬけられるほどの聡明な娘君を持って、お父君もさぞ鼻が高いことだろう」
「とんでもないことでございます」
フィーネはゆっくりと頭を下げた。
彼が褒めてくれた通り、確かに筆記試験、実技試験とすべての科目を首席で合格した。だが、及第点ではあるが例年の平均点より大幅に低い点数しかとることができなかったため、全く自慢にはならなかった。
今年の試験は数年に一度あるかないかの不遇の年と呼ばれる年だったらしく、かなりの難題ならぬ奇問が出題された。医術学校のとある変わり者教師が作成した問題だったそうで、フィーネも試験の時にその問題を目にした瞬間、愕然として答案の筆が止まったことをよく覚えている。試験の内容は、人体の仕組みや病理学、創傷治癒の経過や、疫学、統計学、薬学などの基礎的な知識を問う問題のほか、実技では傷病者への手当てや、魚を使った縫合の技術などが出題された。
そこまではまあ、良かったのだが、入試問題としてやや不適切と思われる問題が散見された。
例えば、薬学の試験で、『お喋り悪魔の木』という毒の木が登場し、その生態と毒液の詳細やその他部位の効能、特徴について、図を交えて解説せよという内容を見た時には呆れて文句すら浮かばなくなった。
フィーネは幼い頃より本の虫であり、このお喋り悪魔の木について、毒の効能はよく知っていたが生態については文献でしか知らなかった。何故ならば、それは絶滅寸前の生物で、現代のウルガ人のほとんどがお目にかかったことがないはずの稀少植物だったからだ。この木と同様に、見聞きしたことの全くないような稀少生物についての問題が他にもいくつかあった。ただでさえ難易度の高い問題に加えて、受験生はおろか下手をすれば国じゅうの医師の誰も知らないような稀少生物、稀少薬草についての問題が、それなりの数、配点で出題されたため、稀少生物愛好家か、好奇心旺盛な物好きか、知の変態以外で及第点に達した者がほとんどおらず、毎年五十人ほどいるはずの合格者が、今回はわずか四人しかいなかった。
あまりにも合格者が少なかったため、後日補欠試験が行われ、合格者を五十人に調整したらしいのだが、今年の受験生は悪夢のように散々な回に遭遇してしまったと嘆いたのだった。
嫌なことを思い出してしまった、とフィーネは首を横に振って嫌な記憶を振り払った。
「確か、授業は来月から始まるのだったな」
「はい。今はその準備期間で、必要なものを揃えたり王都見物をしたり、救護所のお手伝いをさせていただいたりして過ごしております」
フィーネの返答に対して「なるほど……」と彼はわざと含みを持たせるように長い息をついた。冗長とも言えるやりとりをしながら、フィーネは早く本題に入らないものかと若干の苛立ちにも似た焦りを感じ始めていた。
彼らはおそらくフィーネにとって何らかの望まぬことを提示してくるはずだった。それが何なのか知りたくはないが、正体不明のまま不安な時を長く過ごすのも良い気分ではない。嫌なことはできる限り早く過ぎてほしい。
「そなた、年はいくつになった?」
「十五になりました」
「そうか。光陰矢のごとし、時の過ぎるのはじつに早いものだのう。ならばすでに成年の儀も済ませておるということだな」
カルヴァの問いに頷くと、ならばよい、と彼は皺に埋もれた眼窩の奥から鋭い光を覗かせた。
何が『よい』のかわからないが、無骨なカルヴァの顔には不釣り合いな妙に優しげな笑顔を見ているとものすごく嫌な予感がした。しかも、宰相と副大臣と有力領主という、国の中枢を担う面子がわざわざ一介の娘を訪ねてきたということは、ただ事ではないことは容易に予想できた。
「ヴェル・フィーネ・ユリフェ殿。そなたにはたいへん申し訳ないが、医術学校への入学は諦めていただきたい」
やはり、と言うべきか、予想が当たってフィーネは思わず息をついた。すぐさま彼女は次の言葉に備えるためにカルヴァの顔を凝視した。




