二章 碧海の都(5)かんざしと瑞花水晶
太陽が中天を過ぎ、西に傾きはじめた。夜明け前から働いていたフィーネが交代の医師に挨拶を済ませて帰宅しようと天幕を出ると、橋の向こうに背の高い女が立っていた。男と見間違えそうなほど背が高く、すらりとした美女はフィーネと目が合うと凛とした顔に笑みを宿した。
「お疲れ様です、フィーネ様」
「ヒレナ、ただいま!」
「本日もお疲れ様でございました」
フィーネを迎えに来てくれたヒレナはエレスからついてきてくれたフィーネの侍女だ。栗色に近い黒髪をうなじでまとめて素朴な木の簪で団子状に留めている。長い睫で彩られた黒い瞳を笑みに潤ませている。
粗末な男物の麻衣を着たフィーネと並んでも違和感がないように彼女も女物の麻衣姿で来てくれたため、並ぶとまるで姉と弟のようだ。
彼女――ヒレナ・ハルビムはフィーネよりも五つ年上の二十歳で、フィーネにとっては血のつながりはないが姉であり、親友でもある。そして、彼女は侍女ではあるが、元殺し屋という特殊な経歴から武術を心得ており、エレス領主の姪でありウルガ王国副大臣の娘というじつは仰々しい肩書きを持つフィーネの護衛役という別の顔も併せ持っていた。
二人はいつも救護所からの帰り道は街の見物をしたり、休憩がてら茶屋で菓子をいただくなど寄り道をしている。今日はどこに行こう、薬局には寄りたいな、などと考えていると急に欠伸が出てきた。
「お疲れですか?」
「ううん、疲れているというわけではないんだけど、王都って思っていたよりずっと暑いでしょう? そのせいか、ここのところいつもの変な夢を見てしまって……あまりよく寝られなかったんだ」
口元に手を当てて再び欠伸するとヒレナは切れ長の瞳を細めた。
「いつもの夢、というのは、以前仰っていた誰かに呼ばれるという悪夢ですか?」
「うん。小さい頃からたまに見ていたんだけど、王都に来てからは毎晩見るものだからどうしたものかなと思ってね……ってごめんなさい……ふぁぁ、また欠伸が……。さっきダルド様に相談してみたら、白檀のお香を勧められて少し分けていただいたんだ。これで今晩はよく眠れるかな、と期待しているんだけど。もちろん、ヒレナの分もあるよ」
「ありがとうございます。楽しみにしますね」
フィーネは目に溜まった涙を手巾で拭き取るとヒレナを見上げた。
「ヒレナ、帰り途中で悪いんだけど、飴の材料に薬草を買っていってもいいかな?」
「飴ですか?」
「うん。ダルド様やアンフィ様と相談していたんだけれど、あの界隈はとても土埃が多くて喉が痛くなるんだ。だから喉に効く薬草か抽出液を練って入れた飴なんかがあったらいいかなと思って試してみようか、と思ったんだけど……」
「ですが……」
「お願い!」
「……そうですね。まあ、一昨日みたいなことは起こるとも限りませんが、かしこまりました。では、さっそく参りましょう」
二人は顔を見合わせると微笑みあった。フィーネはそそくさと前髪を下ろして頭巾を深く被り直して目を隠した。
二人は水路を横目に歩いた。王都は海に面しているがひどく暑い場所だが、水の通り道は風が通りいくらか涼しく感じられた。
運河が網の目のように発達しており、庶民の大事な足となっている。橋を渡り、水路を行き交う何艘もの小舟を眺めながら通りを進んでいると、あちこちから笛や太鼓や弦楽器など様々な楽器が奏でる陽気な音色が聞こえてきた。
昔語りの劇に棒振り踊りに楽しげな歌声。
花飾りが陽光を受けて輝き、色とりどりの風車が風を受けてくるくると回る。箔を使った吹流しの飾りは風にそよぐたびに煌めいて眩しいくらいだ。
「毎日思ってるけど王都は本当に美しくて華やかだなぁ。……でも、まだたくさんの人が大変な暮らしをしていると思うとなんだかな……」
「ええ。ですが、先の混乱の終結からまだ四年しか経っていないのに、ここまで復旧したことは賞賛に値するでしょう」
「そうだよね、すごいよね! だって、いまの国王陛下はあのアウィルド様なんだから! あの方は素敵な方なんだよ? どれほど素敵かって言うとね、陛下はまず――」
突然人が変わったようにフィーネが早口かつ饒舌に語り始めようとすると、ヒレナはくすっと笑った。
「またその話をなさるおつもりです? 毎度毎度、陛下がいかにお優しい御方であるかということや、これまでの復興政策のお話や、毎月の文のやりとりの話を飽きることなくお話しになるものですから、わたくしは耳にたこができてしまいました。フィーネ様は陛下のことが、よほどお好きなのですね」
揶揄い半分、いたずらめいたヒレナのにやけた表情を見やるとフィーネは急に恥ずかしくなって首を縮めた。
「ごめんなさい。また同じ話をしようとしてしまった。……恥ずかしい」
穴があれば身を隠したい、とさらに身を縮こまらせるとヒレナにくすくすと笑われてしまった。決まりが悪くなり、フィーネはごまかすように天を仰いだ。
「……分不相応なことだっていうのはわかっているよ。私は本家の人間じゃないし、カナーヤ人との混血だから、純粋なこの国の民ではないもの。目の色だってこんなだし、陛下とは本来なら顔を合わせることだって許されないはずだったのだし」
「なにを仰っておられるのです? 毎月どころか多いときは数日に一度はお便りのやり取りをなさっておられるじゃないですか。しかも、正規の方法ではなく……鳥を使ったお二人だけの特別な方法で」
「……陛下は鳥と話ができるからね。人に任せるよりも鳥の方が早くやり取りできるから便利なんだって。いつも文を届けてくれる鳩がいるでしょう? あの子たちはとても賢くてね、私がどこにいても陛下からの文を届けてくれるんだ。そして、私が文を書き終えるのを何日も待ってくれる。言葉は通じないけれど、いくつかの身振り手振りを理解してくれているみたいだし、感情が豊かだし、歌は上手だし、羽毛はつるふかもふもふしているし、とにかく可愛いんだ」
クークーと美しい声で鳴く長嘯鳩の縞模様や長い尻尾やほっそりとした淡麗な顔立ちを思い出しながらフィーネは、にまにまと不気味な笑みを浮かべた。
「まったくもって、翼王の力というのは便利で羨ましいですね。わたくしも一度でいいので鳥とお話ししてみたいものです。そういえばこの間の誕生日にいただいた銀細工の簪ですが、あれは身につけられないのですか? 種類は存じませんが、五弁の細かい花が枝に垂れ下がっていて、その先には小さな鎖でゆらゆらと月長石の珠が揺れていてとても美しい意匠でしたでしょう?」
「あ、あれは……。綺麗だけど、とても繊細な細工だから髪につけたら壊してしまいそうかな、と……勿体なくて……。それに、私にはあんな高価な飾りは似合わないよ。だから、陛下には申し訳ないとはわかっているけど、花瓶に挿して眺めているんだ」
「そうなのですか。ですが、そのわりに嬉しそうですね」
「うん。とても嬉しいよ。……だけどね、なにかおかしい気がするんだ。陛下はね、今までは記念日には筆や星座盤や茶器を、普段はインクや手拭いみたいな実用品を贈ってくださっていたのに、今年の誕生日は髪飾りなんだもの」
「僭越ながらわたくしの意見を申し上げさせていただくと、あの方の贈り物の感性はややずれているところがあるように思われます。……昨年の誕生日の際の遠眼鏡というのも女君に贈る品としていささかどうかと思いましたよ。他にも、お香ならいざ知らず、お灸や湿布というさらに斜め上を突き抜けた贈り物にはさすがに呆れておりましたので、ようやくまともな品を選べるようになったのだと個人的にいたく感慨深く思っていたのですが……あまりお気に召しませんでしたか?」
「え? 遠眼鏡なんてとても良い贈り物じゃない。おかげでハーノスやクートと一緒に野鳥観察を楽しむことができたし、戦ごっこや冒険ごっこもできたのだし、お灸や湿布も私だけじゃなくて皆の肩こりを和らげるのに重宝したし、陛下の贈り物選びは全然間違っていないよ。感謝しなきゃ」
故郷の従弟達や伯父夫妻のことを思い出しながらフィーネはほくそ笑んだ。
「……それはそれは。陛下はあなたの好みをよくご理解していらっしゃるということですね」
「へへへ。そうだと嬉しいな。でも、だからこそおかしいんだ。あの髪飾りは変なんだ。あんな素敵な……ちがう、"実用性のないもの"を陛下は私に下さったりしないもの。あの方はどちらかと言えば私のことは異性というよりは同性の遊び仲間くらいにしか考えていないし、国王という立場を考えても変に女の人が喜びそうなものは贈り物に選んだりはなさらないはずだよ。それと高価すぎる物も。あれはどうみても高価すぎる」
「もしかしますと、あなたの成年のお祝いかもしれませんよ?」
「そうなのかな? それならとても嬉しいけど。……いただいておいてたいへん失礼極まりないことだとはわかっているけど……なんだろう、いまひとつ陛下らしくないというか……なにかあったんじゃないかと不安になってきて……」
ヒレナはふっと小さく噴き出した。
「そんな些細なことであなたから心配していただけるなんて、陛下は果報者ですね。ですが高価ならあなた様だって――」
ふふふ、と揶揄うように笑われてフィーネはばつの悪い顔を浮かべた。
フィーネとアウィルドとは、七年前に、とあるきっかけで身分を越えた友人となった。誕生日が互いに『双子座の星祭り』が行われる九の月十四日だったため、四年前から毎年、誕生日と新年や思い立った時に贈り物のやり取りをしている。
ヒレナが笑っているのは今年のフィーネが贈った品がは瑞花水晶という高価な置物だったからだ。
瑞花水晶とは、隣国カナーヤで産出する特別な水晶で、『瑞花』という雪の異称の名の通り、雪降る世界を内包する石として珍重されている。
旅の薬問屋から聞いた話でその存在を知り、ミムロンという商人に頼んで手に入れてきてもらったのだ。
ミムロンは父の知り合いだった。
黒髪と清流の水底のような色の瞳を持つ美しい顔立ちの二つ年上の青年は、少し言葉遣いや素行が悪いが、快活で誠実かつ努力家であり、信頼できる男だった。
『――フィーネさ、残念だがそりゃ無理な話だ』
瑞花水晶の話をした時、彼は開口一番にそのように言った。
『あんたが欲しいと言った瑞花水晶の置物は、カナーヤの中でもとりわけ位の高え奴らが好むお高いお高い娯楽品なんだぜ。帝国の中でも都という箱庭の中でぬくぬくと暮らしながら風雅を楽しむことを生き甲斐とする知識人や貴族みてえな連中向けの品だからな、おれたちのような異国人にはまず簡単には売ってくれねえよ』
そうは言ったものの、ミムロンは断ることなくフィーネにいくつか条件を提示した。とある物を集めることができれば必ず手に入れてやる、と彼は約束してくれた。
ヅーヤという雀蜂に似た凶暴な虫の巣。ヅーヤの幼虫を生きたまま薬草と練り合わせて調製するリリセルという傷薬。エレスの山奥に自生するヒツノという茸や、カルコという木の樹液。ミツツミという一夜草の蜜に、アガンという樹木から採取された寒天に似た凝固剤など、彼が示した条件はエレス領のみで採れる植物や薬の原料が多かった。エレスは交通の便が非常に、という言葉では足りないほど極度に悪く、カナーヤ帝国では未知の都と呼ばれ憧れられているから、領内でしか入手できない物は貴重で高値で取引してもらえるだろうと彼は言った。
また、フィーネが西方の旅人から教わった天気管と熱帯気候でも使えるように工夫した改良品の製法を教えることも条件に挙げられた。
フィーネは色々と苦労しながら指示された品々をひと月ですべて用意すると、ミムロンはそれらを持って旅に出た。
それから二年が経った今年、彼はカナーヤから無事に帰還し、雪宿る宝玉をフィーネの前に差し出したのだった。
実物を見るのは初めてだったが、水晶内に閉じ込められた水の中に白く透き通る粉状の鉱物を含んでおり、振るときらきらと輝きながら水の中を移動する。それをカナーヤの人々は空に舞う雪に見立てて瑞花と呼んだ。しかも、彼が仕入れてきてくれた水晶はとても質が良く、拳で握りしめられるぎりぎりほどの大きさの球体のほとんどに水が詰まっており、底に沈んだ銀の輝きが息をのむほど美しかった。
雪を実際に間近では見たことはないが、以前旅先で雪を見たことがあるという奉公人は瑞花水晶を見るととても懐かしんでいた。
それを再び綺麗な飾り布で包み、干した香草を緩衝材として詰めた漆塗りの木箱に収めると、フィーネはミムロンに頼んで王都のガイズを通じてアウィルドに届けてもらった。
二年かかってしまったが、ようやくアウィルドに贈ることが出来たのだ。すぐに返ってきたお礼の手紙には彼が物凄く喜んでくれたことがわかる文章がびっしりと綴られていた。その事実にフィーネはとても満足していた。
「そういえば陛下の同い年の弟君も同じ誕生日なんだよ。あの――片翼宰相と呼ばれている御方なんだけど。陛下は贈り物が苦手だから毎年何を贈ったらいいかって相談されていたんだ。それでね、今年は――」
「確か、読書灯を贈られたとか」
「そうだよ。なんと、エレス随一の天才発明家、ミミク器械店のマードさんが開発した読書灯でね、夜明真珠と透鏡と貝殻を組み合わせて明るさを変えられるようになっているんだ。普通の読書灯よりもまろやかかつ穏やかな光でね、明るいんだけど眩しくなくてちらつきもなくて目が疲れない、とても良い品に仕上がったんだ」
「あれはたいへん素敵なものでしたね」
「うん。つい私も欲しくなってしまったよ。でもその前に、まずはミムロンにお礼をしたいな、王都にいたら会えないかな」
彼の不敵笑いを思い出しながらフィーネが微笑んでいるとヒレナは冷たい声音で言った。
「あの方はただのろくでなしです。特に礼など不要です」
「前から思っていたんだけど、ヒレナってミムロンにちょっとあたりがきついよね」
「そうでしょうか。わたくしにはフィーネ様がどうしてあの方のことを悪く思わないのか、そちらの方が理解できませんが。何を食べたらあんな野蛮で粗暴で破廉恥な方になられるのか本当に謎です」
「ええ? ミムロンはあんなだけどいい人だと思うんだけどな」
フィーネはヒレナを見上げた。細く吊り上がった眉の間は苦々しそうに深い皺が寄っていた。
「ところで、フィーネ様。ミムロンはともかく問題は陛下です。せっかくフィーネ様が王都に滞在しておられるというのに文どころか一度も訪ねに来られないとはあんまりではございませんか」
「陛下はお忙しい方だからね。今の時期は雨去りの除目という来月からの人事関係のお仕事でたぶんだけど参ってらっしゃるんじゃないかな――」
「あ、フィーネ様! そちらはいけません」
曲がり角にさしかかって左に行こうとするとヒレナに注意された。
「この先の菓子店の前で先日、変な仮面男攫われかけたでしょう? 犯人には逃げられましたし、用心して避けるに越したことはございません」
「そうだったね。でも右だと回り道になっちゃうからな」
「だめですよ。なるべく人通りの多い方から参りましょう」
「わかった」
頷いて彼女について橋を渡った。
三日前、フィーネな奇妙な仮面男に攫われそうになった。角を曲がった直後、背後から手が伸びてきて路地の隙間に引きずり込まれたのだ。すぐに異変に気づいたヒレナがやってきて男に拳を放つと、彼は易々と受け流し、フィーネを解放して路地の奥に逃亡した。
男はこの暑い王都で紺色の外套を纏っており、奇妙な全面黒塗りの仮面と獅子のような白毛のかつらをかぶっていた。後ろから抱え込まれた時、男からかすかに王宮や神殿で用いられる『至尊に捧ぐ万花の風』という特別な線香のにおいがしたのがとても印象的だった。沈香や伽羅や乳香という高級な香と、複数の植物から抽出した精油の配合が絶妙なのか、とても良い香りのするものだ。子供の頃、ガイズが王宮から帰宅すると服にかすかに残っていることがあり、とても好きな香りだった。
なぜその男が高貴な香りを纏っていたのか、フィーネはかなり疑問を抱いたが皆目見当がつかなかった。だが、ヒレナによると、誘拐未遂の日より十日前あたりからその男は毎日通り沿いの茶屋にいたらしい。さらに、救護所を覗いていることもあったという。だが、フィーネは仮面の男などいた記憶がないし、あのような目立つ格好で誰も不審に思ったり気がつかなかったりすることがあるだろうか。
「あれは誰だったんだろう。私を狙ったということは目でも見られたのかな」
「……そうかもしれませんが目的は不明ですね。しかしあの日以来、見掛けることがなくなったのは幸いでございますね。もしも次、同じようなことがあれば捕まえて手の指の骨を一本ずつ折ってでも動機を吐かせましょう」
「いやいやいやいや、それは大丈夫だから。捕まえるだけにしておいてくれると嬉しいな」
急に瞳孔から光が失せ冷酷な表情に変化したヒレナの顔が怖くてフィーネは慌てて身振り手振りを交えて止めた。




