二章 碧海の都(3) 不吉な予言
軽食を終えるとダルドは次なる休息を求める職員のために菓子を携えて飛んでいってしまった。
休憩時間がまだ少し残っていたため、少し息抜きしようとフィーネは他人から目を見られないように日笠の帽子を目深に被って散策することにした。
天幕を出ると陽光の眩しさに、思わず目を細めた。
正午も近い昼前の王都には肌を刺す日差しの白い光が降り注ぎ、空は青い輝きを放っている。水路はきらきらと輝き、水面の波に反射した光が石積みの壁にゆらゆらと編み目模様を描いている。
さらさらとくすぐる海風が心地よく、耳を澄ませた。茹だるような暑さで参る身にはたいへん有り難い恵みだ。
今日は六の月三日。
『|葉が芽吹く昼夜等分の日(春分)』から数えて約百七十日、いまは雨季の中でも最も洪水が頻発する恐ろしい期間だが、『|葉が落ちる昼夜等分の日(秋分)』も近づき、もうじき雨季の終わりが見えてくる時期である。
常夏のウルガの季節は暑季、雨季、乾季の三つに分かれている。
太陽が白羊宮(おひつじ座)に入った時期を新年とし、それぞれ十二の月から二の月が暑季、三の月から七の月が雨季、八の月から十一の月が乾季だ。王都の気温は一年中高く、乾季の朝晩以外は服を着ずとも薄着はおろか、ほとんど凍えることはない。
気温は暑季、雨季、乾季の順に高く、比較的暑さや雨が落ち着いてくる七の月が、新年度の始まりとされていた。
ウルガ王国はスーヴェ大陸の東南端に位置している。青さが溶け合う空と海に、太陽の神の恩寵降り注ぎ、年間を通じて花や食糧の絶えることのない楽土、などと謳われるほど国土は豊かで、単一の王朝で二千年もの歴史を有するそこそこの大国だ。
陸上は勿論、海上交通の要にもなっており、古くから多くの旅人や物資が集まってきて栄えてきた。
北には、カナーヤとの国境をなす大河スーヴェ川が流れている。西には山脈と高原地帯が広がり、東には数十を超える小島が浮かぶ。南には、湾や岬が点在して南西には大小二つの細長い半島が並ぶように海へ突き出している。
国土の西半分には、ウェルフジャアルド川が多数の支流を従えながら南へ流れて西側の大きな半島の付け根にある『金海の都』という貿易都市へと注ぎ、国内の交通を支える重要な水路となっている。
王都『碧海の都』はルドーゼの東側の小さな半島の付け根――南の海に臨む地に位置している。
東西南北それぞれ二里半(約十キロメートル)四方の正方形の都を城壁と水路で囲っており、その中に約六十万人が暮らしている。
市街の至るところにめぐらされた水路には幾艘も小船が浮かび、船頭たちの歌や商人の売り声などの熱気と活気に満ちている。
その活気を見守るように、王都の東側の高台に白鴎宮というウルガ王国の王宮がある。フィーネは王宮がある丘の森を遠くに見つめながら今は離れた世界に生きる親友のことを思い出してため息をついた。
物思いに耽っていると昼休憩に入る大工達が目の前を通り過ぎていった。
「今日はラキアは来ないのかい?」
「ああ、なんでも奉公先の用事が忙しいらしくてしばらく来られないらしいぞ」
「ちぇっ、そりゃ仕方ねえか。あいつ真面目だし力持ちだからかなり助かるんだけどな」
「おまけに人もいいしな。あーあ、しばらくはつまんねー日々か」
「あれ? おれさっきあいつを見た気がするんだけど気のせいかな?」
「それ本当か? ということはあいつさぼりってことか!?」
「いや、それがさ、なんかむちゃくちゃ綺麗な服着て救護所を覗き見てたんだよ」
「救護所? なんでそんなとこに」
「さあ? 誰かの付き添いとかじゃないかな?」
何やらぼやきながら大工達は昼食の配膳の列に並んだ。復興事業の一環で、最近は建築需要も増えており、地方から出稼ぎに来る労働者が増えているらしい。
彼らを横目にフィーネはそろそろ持ち場に戻ろうかと踵を返した。だが、土煙が鼻を刺激して小さなくしゃみが出た。
再び仕事に戻ったフィーネが次に診ることになったのは左足を負傷した青年だった。彼は近くの建築現場で大工仕事をしていたそうだが運悪く梯子から落ちて足を捻ってしまったのだという。誰が施したのか、すでに堅く絞った濡れ手巾を患部に当て上から包帯を巻いて圧迫固定するという応急処置がほどこされていた。手巾に染みた水が蒸発する時に気化熱で少し温度を低くすることが出来るので冷やすものが何も無いときの応急処置としては適切な対応だった。
触診してみた結果としては幸いにも軽い捻挫で済んでいるようだが、これから腫れてくる可能性が否定できない。症状の悪化を防ぐためにひとまず冷やそうと本部に走って水瓶から桶に水を汲んだ。そこに薄荷水を数滴垂らした。それから、青年の足に手巾を巻いて水に浸した。
「うわぁ、お医者様これとても冷え冷えでいいですね」
「薄荷水を使ってます。冷たく感じると思いますが、実際は冷えてないそうなんですよ」
「え!? そうなんですか!? とてもそうは思えませんが……不思議なものですね」
「その代わり、肌の冷たいと感じる部分を刺激して感覚を誤魔化して痛みを抑える効果があるそうです。十五分くらいこのまま冷やしますね」
と、フィーネは砂時計を返した。
師匠曰わく、薄荷水は冷たい感覚を引き起こすだけで実際に冷えているわけではないそうだ。だが、薄荷水を加えた水に浸かれば全身に寒気が走るし、腫れた部分の痛みを和らげる効果はある。
本当は硝石があればもっと水を冷やすことができるのだが、火薬の原料となる以上、管理が厳しくて入手することは難しい。尿素もそう易々と手に入るものでもない。ウリューゼの市街地の井戸水はエレスと異なり基本的には温い。さらに新アトヌ十八区のような干拓地の場合は水に塩分が含まれるため扱いが厄介なのだ。
王都の暑い気候を鬱陶しく思いながら、後で患部に貼るための湿布を準備していると、彼は小さな声で話し始めた。
「お医者さまはご存じでしょうか? 最近、王都で囁かれている噂なんですが、どうやら来月の満月の晩に王都は滅んでしまうそうなんです」
フィーネは口を引き結んで俯いた。その噂については知っている。ここ半年ほど、王都では滅びを予言する奇妙な噂が流行しているらしい、とユリフェ邸の侍女から話を聞いた。
――来たる七の月八日。
その晩の満月は血に染まり、災厄によって王都に破滅が訪れる。
強風吹き荒び、木々はおろか家屋を薙ぎ倒し、水面をえぐり船を転覆させ、果ては刃となりて生きとし生けるものすべてを切り刻む。
この惨事を前にしても、片翼を持たぬ翼王は風に背かれ人々を救うことは叶わない。
故に汝、速やかに行動せよ。
汝や汝の愛する者を守りたくば、早々にこの地を離れよ。
この予言を耳にしたならば親しき者に伝えよ。
すべては月が満ちる前に終わらせよ。
さもなくば、汝らは凶風にすべてを奪われることであろう。
フィーネがこの予言めいた噂を知ったのは七日前のことだった。最初は王家を快く思わない人物が流した流言であろうと考えたのだが、この噂を信じる者は案外多かった。
確かに、この半年間の記録を遡ると王都やその周辺では本当につむじ風による風害が頻発しているので、予言を信じてしまうことは当然とも言えるのだが、フィーネは予言が本当に起きることという意見には否定的だった。
風害は国内では元々ごくふつうに発生している災害だ。風害をもたらすものとしてすぐに思い浮かぶだけでも、野分、つむじ風、『女神の絶叫』と呼ばれる驟雨を伴った強風などがある。野分が来ることは稀だが、強風などどれも熱帯の気候ではありふれた日常であり、たまたまそうなっただけでこじつけも甚だしいという感想しか浮かんでこなかった。
だが、実際に建物の屋根が吹き飛ばされたり、森の木々がなぎ倒されるなどの風害は起きているため予言に真実味があり、人々の不安や疑心暗鬼を広めるにはそれだけで充分だった。
「……おれは怖いんです。また王都が火事で焼け野原になってしまうんじゃないかって思うと、不安で怖くて夜も寝られません。死んでしまった両親や妹のことを思い出してしまって、いてもたってもいられなくなってしまうんです。いまの国王陛下は翼王様であらせられますが、片翼様がおられないから風を操ることができないそうですし、もしかしたら、本当に起きてしまうのではないかとと最悪なことばかり考えてしまうんです」
その言葉を聞いたフィーネは胸が痛んだ。
いまの国王はかつてフィーネと一緒に星を眺めたアウィルドリーシャだ。彼は翼王であるにもかかわらず、対となる片翼を持たずに十九年間を生きてきたのだ。
作中世界には『グレゴリオ暦』そのものは存在しないのですが似たような暦が西方諸国で使用されているという設定です。ウルガ王国はその暦でいうところの四月を一月としており、ずれが生じています。そのため、『六の月』は九月で、そろそろ秋分を迎えようとしています。ちなみに、緯度が低い国々では一年通して昼夜の長さの変化が少ないため、春分と秋分をそこまで重視していないようです。




