二章 碧海の都(1) 小さな医師と幸い願う花数珠を
ご覧いただきありがとうございます。
ここから本格的に本編が始まります。よろしくお願いいたします。
ウルガ王国――王都ウリューゼ。
茹だるような熱気に年中悩まされる港湾都市の南西の片隅には、掘建て小屋のような住居が密集している。廃材を組み合わせてつくられた、『家』と呼ぶにはいささか粗末な建物が並ぶ界隈の中央にぽっかりと空いた土地に、真新しい天幕が張られていた。染めも漂白も施されていない無垢な麻布で仕切られた天幕内には痩身の母親と幼い少女と、男物の白い麻衣に身を包んだ小柄な医師が向かい合わせで椅子に腰掛けていた。
小柄な医師は母親に抱かれた幼い少女の膝の具合を確かめていた。白い頭巾で髪をまとめ、白猫の仮面を被っており、どことなくちんまりとした子供のような見た目をしている。彼女は数ヶ月前に齢十五の成年の儀を越したはずだが、三つ四つと年が離れていないはずの患者の母親と比べるととにかく小さくて端から見れば子供が幼子を診察しているようかちぐはぐな印象であった。
「……お医者さま、サヴィの膝は治りますでしょうか」
そわそわと落ち着かない様子で訊ねる母親の問いに医師――フィーネは仮面越しに頷いた。まだ三歳のサヴィという少女の膝には今、碁石ほどの大きさの水泡が出来ている。色は鮮やかな緑で痛々しく、サヴィは違和感があるのか、搔きむしりたそうにしている。
彼女が患っているのは蜜柑瘡という皮膚病だ。これはスーヴェ大陸特有の病で、柑橘類の果肉を包む房――瓤嚢に似た見た目の水泡ができて腫れ上がり、治療しないと完治までに少なくとも半年はかかる病である。厄介なことに水泡を潰せば弾け飛んだ汁が触れた他の場所に病変がうつり、なかなか治らない。"とびひ"に似ているが、通常の虫さされの水泡と異なる点は、黄色や赤いはずの水泡がこの病の場合は『こぶ蜜柑』の瓤嚢のように鮮やかな緑色をしているところだ。
フィーネは仮面で相手に顔は見えないが、つとめて穏やかな笑みを向けた。
「大丈夫ですよ。蜜柑瘡は治療しない場合はなかなか治りにくい病ですが、薬をつければすぐに良くなります」
「お薬……ですか。申し訳ありませんが、それは、お高いのでしょうか……」
おずおずと不安げな様子の母親の顔は頬骨が浮いて眼窩が落ち窪んでぎょろりとしている。骨ばった手首や年齢の割に二の腕の皮膚が余って皺も寄り、飢餓状態の特有の甘酸っぱい体臭がする。娘は肋骨が少し浮いているが腹部や手足に浮腫はみられないし母親よりは栄養状態が良さそうだ。二人は先ほどこの救護所にやってきたばかりだが、娘の蜜柑瘡も辛そうだが、母親の健康状態の方が深刻だとフィーネは考えた。しかしまずは母親の不安を解消する方が先だ。
「安心してください。蜜柑瘡の薬は決して高くはありません。一日の食事代よりもずっと安く済みます。具体的に言うなら、米十粒ほどで済むのです。それに、この特別病院は王都復興の事業のひとつですから、お代は一切頂戴致しません。もし、どうしてもお支払いなさりたいと思われるのでしたら、先ほどお伝えした通りの額で構いません。ですからご心配なさらずとも大丈夫ですよ」
「……ありがとう、ございます」
フィーネの返答を聴くと彼女の強張った表情が和らいだ。
「それに、この病の治療は清潔にして水泡を潰さないようにすることと、毎日欠かさず薬を塗るだけで、あとはお嬢さん自身が頑張るんです。医師であっても私に出来ることはせいぜい微力なものでしかありません。お嬢さんの病を特定して、しかるべき薬を選び、薬の使い方をお嬢さんとお母さまにお伝えすることだけ」
――ただ、と説明しながらフィーネは心の中でため息をついた。
文献や王都で暮らす者から見聞きした話ではあるが、元来の蜜柑瘡はあまり頻度の高い病ではなかったはずだ。しかし、近年の王都ではこの病にかかる者がかなり増えたという。学者の見立てでは栄養不良で体力が落ちていることと、衛生状態のあまり良くない劣悪な場所にいることで何らかの毒素が傷口から入って発症するのではないかと推測されており、それは正しいとフィーネも考えていた。
なぜなら患者は主に、王都の南西部に住む人々に偏っていたからだ。
彼らの暮らす王都南西部には、生活困窮者が多く住んでいる。干潟を干拓して造られた水はけの悪い土地は雨が降るとぬかるみ、人々は泥に浸かりながら歩かなければならず、川の上流から流れてきた汚泥混じりの泥で顔まで汚れてしまうこともある。かと思えば晴天が続くと、乾いた泥が風に乗って舞い上がり、人々の呼吸器を痛めつける。しかし、彼らはこの不便な地を離れることができないという。
南西部――新アトヌ十八区と呼ばれる区域で現在生活する人々の多くは元をたどれば王都の中心でそれなりに豊かな暮らしをしていた者が多かったときく。しかし、七年ほど前の大火で家も財産も家族も失い、さらにはその大火の後に起きた政治的な混乱もあり、命からがら逃げて、人がまばらだったこの土地に落ち着いた。
――そこそこ利便性の良い立地の割に、人が住まない場所というのはそれなりの理由がある。
誰が言った言葉かわからぬが、実際その通りであった。
四年前に起きた『星見の乱』という政変によって事態は収拾がつき、平和が訪れたため、彼らはもはやこの場所に留まる意味はなくなったはずなのだが、彼らの故郷はすでに見知らぬ他人のものとなってしまっており、財産も生きるための術も持たない彼らにはどうすることも出来なかった。
国王はこの事態を憂慮して、新たな居住地の斡旋や食事の配給など人々の暮らしを立て直すための様々な支援を行ってはいるものの、地方からも暮らしに困った人々が次々と王都に流れ着いており、彼らを取り巻く状況は悪くなる一方だった。
それでも救いの手が止むことは決してないのも事実であった。今日の始業前に聞いた話であるが、王都の西ほど近くにあるトジム領の領主ロスター家や、ほかのいくつかの領主の計らいで近いうちに今よりは住み良い土地への移住が叶うこととなるかもしれないらしい、という計画が動いている情報を得てフィーネは期待と安堵感を抱いた。
先の国内の乱れから四年を経た今でも、未だに完全には傷跡が癒えていないが、少しずつ復興に向かっている。昨日より今日、今日よりも明日が良い日になるように、とフィーネは願いながら、机上の木箱から前もって小分けにしていた蛤の容器に入った塗り薬を取り出して、母娘に見せた。屈んでサヴィと目線を合わせ、穏やかに笑いかけた。
「サヴィちゃん、今から渡すこのお薬はサヴィちゃんの足のできものを良くしてくれる魔法の薬だよ」
「ほんとうに? よくなるの?」
「もちろんだよ。お母さんに手伝ってもらいながら、朝と昼と夜に毎日忘れずに塗ってね」
「うん!」
サヴィは丸い目をきらきら輝かせて小気味良い返事をした。フィーネは「頑張ってね!」と彼女を見守るように笑いかけてから目線を上げて、母親にもう一度説明した。
「――お薬は朝昼晩の一日三回。七日です。難しいかもしれませんが、一日三回七日間、必ずこれを守ってください。リムの薬は途中でやめたり間を空けると効き目が悪くなってしまいます。薬は患部に浸透するので洗い流す必要はありませんが、入浴などで患部を洗う際は必ずこの救護所で配布される水を使ってください。他の水は絶対にいけません。もし、水が汚い場合は絶対に患部につけてはいけません。その場合は別途お渡しする防水の当て布で覆って濡らさないようにしてください。また、この薬は汗で流れず患部に留まるようにするために少し硬めに作られていますので、この後一緒にお渡しするへらで塗る直前に軽く練っておくと楽に塗れますよ」
フィーネは母親に薬の塗り方と布の当て方を教え、練習がてらサヴィの足に塗らせた。それから、薬入れと清潔な当て布を油紙の袋に入れて手渡した。
この母娘のようなこの区域に住む者にとっては傷口を洗うためのきれいな水や清潔な布を手に入れることが一番難しいが、国からの支援の一環として必要なものを手配してもらえることはなんともありがたいことか。王宮か何らかの神に拝みたくなるような気持ちを抑えていると、サヴィが急に明るく微笑んだ。
「おいしゃさま、サヴィね、すごいおまじないをしってるんだよ。『うつしみうつせみ、かぜよ、びょうきをふきとばせ!』っていえば、びょうきがなおるんだって。めがみさまは、サヴィのびょうきをなおしてくれるかな?」
「もちろん。サヴィちゃんにはいつでも風の女神様がついていてくださるよ。だからきっと大丈夫だよ!」
そっと頭を撫でてあげると彼女はうん、と照れ笑いを浮かべた。
それからフィーネは母親の健康状態についても確認した。彼女の栄養状態が心配であるので一旦二人を待たせて本部へ走り、救護所の入院施設の空きを確認して病床を押さえた。紹介状を本人用と施設宛てに二部書いて診察室に戻り、本人用の紹介状と食糧の配給所での配給を消化不良や飢餓状態にある者向けに変更してもらえるように依頼する木札を母親に手渡すと、彼女は大粒の涙を流した。
「……おかあさん、どこかいたいの? サヴィがめがみさまにおねがいするからだいじょうぶだよ。うつしみうつせみ、かぜよ、びょうきをふきとばせ!」
そう言って心配する幼い我が子に手を撫でられ、彼女は娘に心配を掛けまいと微笑んで耐えていたが、やがて堪えきれなくなって今までの苦しみを言葉で吐き出した。聴いているだけでも胸が締め付けられそうになりながらフィーネは赤子をあやすように彼女をそっと抱き締めるとそのすべてを受け止めた。
嗚咽が止まり、落ち着きを取り戻した母親は頭を下げて深く詫びた。フィーネは彼女の左手を取ると、筋と骨が浮かんで黒ずんだ手首に三色の五弁の花が連なった組み紐を蝶結びで軽く結わえた。同じようにサヴィの左手にも結ぶと「きれい……」と目をぱちくりとさせて喜んだ。
「これは私の親友から教わった御守りです。赤は健康を。黄色は幸福を。紫は深い愛情を願っております。緑の蔦がつないで花数珠を模した円環を成すことで幸福を輪の中に掴み取ってくれるというとても縁起が良いものだそうです。どうかサヴァサさんとサヴィちゃんのこれからの人生にたくさんの幸せが舞い込みますように」
「どうして……こんな美しい品を……」
「私は医師ですが、心の傷までは治すことができません。薬やお酒で一時的に辛い過去を忘れたり紛らわせることが出来てもそれは治せたとは言えないのです。サヴァサさんの心を癒やすことができるのはサヴァサさん自身やサヴィちゃんやこれから出会う人と過ごしていくこれからの時間なのです。御守りというのは神様にお願いしたり守っていただく以外にも、身につけるだけで不安を軽くしたり心の支えとなる効果があります。私は神殿の巫女様ではないので本当に効果が出てくれるかは微妙かもしれませんが、お二人の幸せを願っています」
診察を終えて母娘が何度も礼を言って天幕を後にすると、フィーネは一息ついた。
仮面と口元を覆う布はそのままに、次の患者のために手を洗い、酒で清めた。夜明け前からここで三十人近く連続で診察をしてきたが日が高くなってきたのだろう、日除けつきの天幕の中にいても茹だるように気温が高くなってきた。前掛けはすぐ交換できるが汗ばんだ服はなかなか難しい。まだ昼の交代要員が出勤する時間ではないので持ち場を離れるわけにはいかず、ひとまず薄荷水を霧吹きで服の内に吹きかけて暑さをごまかした。




