一章 ~七年前の王太子との約束~(11) 王太子の決意と雪の花に込められた願い
次回で一章終わりです。
しばらくすると、歯を食いしばって嗚咽を我慢していたアウィルドは、ぽつりと口を開いた。
「……先ほども言うたが、わたしはそなたに感謝している。母を目の前で亡くして以来、わたしはずっと気分がすぐれなかった。だが、そなたが母のために歌ってくれた弔いの歌を聴き、そなたと話し、共にいたことでもう一度前を向こうと思えるようになれたのだ。だから、そなたと会えるのがもう、今宵までだと思うと……寂しいのだ」
「アウィルドさま……」
繋いだままの手を強く握られた。彼がこんなに取り乱した姿を見たのは立太子の儀の晩以来だ。
「……っ、本当はずっと王都にいてほしい。エレスなんて遠い場所に行ってほしくはないっ。ずっとそばにいてほしい! ……だが……」
彼は手を離した。両目から流れる涙はとめどなく溢れ、鼻に流れた涙を啜っては咳き込んだ。フィーネは彼の涙を拭おうと腰帯に提げた巾着から花の刺繍の手巾を取り出そうとしたがそれより早く彼自身が両手の甲で強く擦って涙を拭った。
「……だがな、それは単なるわたしのわがままだ。そなたの気持ちも事情も考えないで引き留めることはしてはならないのだ。そなたには王都の厳しい暑さは辛かろう。ガイズからは夜明真珠の護符の効果が切れてしまえばそなたの身が危険にさらされてしまうのだと聞いた。それに、わたしはそなたら親子に対して負い目がある。わたしはそなたの父をそなたから奪ったも同然だ。あいつがわたしの教育係なんかになったがために、そなたら父娘には王都とエレスと、居所を異としなければならず寂しい思いをさせてしまった。だから――」
彼は口を引き結んで目をきつく瞑った。しゃくりあげる彼の声はいまだ止まらないが、それを鎮めようと呼吸を止めたり鳩尾に手を当てるがどれも徒労に終わった。
しばらく二人は向かい合ったまま波の音を聞き続けた。潮が満ちてきたのか、それとも『海の神』が彼の泣き声を隠そうとしているのか、先ほどよりも波の音が大きくなり、二人の足下を濡らした。
「だから、フィーネ殿。わたしは決めた。もう二度と、泣き言など言わない。王太子宣下を受けたからには、必ずや立派な国王になってみせる。そのためにこれから沢山の努力をする。学問はもちろん、武芸も今まで以上に励むつもりだ。今よりもずっと見聞を広め、他者を慈しむ心を忘れず、勇気を持って強くなってみせる。そして、いつの日か……いや、絶対に、皆を守れるような国王になってみせる。だからもし、そうなれたその時は…………」
彼の声が急に萎むように小さくなっていく。手がかすかに震えていた。
彼は怯えているのだ。だが、心の内で恐怖と戦い、目の前のフィーネに声を出して言うことによって示し、約束という形で残して自らを律しようとしている。それがわかっているからこそ、フィーネは静かに待った。彼の決断を応援したかった。
「……また、こうして一緒に星を観てくれないだろうか?」
彼の顔は不安に曇っていた。無理もない。彼は翼王であり、王太子であるが万能ではないし、自身の能力の限界をよく理解している。将来、彼に約束されているであろう翼王としての使命のことも不安に違いない。
翼王は国難に際し生まれると言い伝えられているため、彼がこの世に生まれたということは、少なからず将来的に国に何らかの危機的な事件が起きることを暗示していた。
今の彼は観客の上に渡された一本の頼りない綱の上で命懸けの綱渡りをする曲芸師のような身の上だ。大勢の人々の頭上で、か細い一本の綱だけを頼りに歩みを進めなくてはならず、一歩足を踏み外せば自身の命を落とし、落ち方を誤れば他者を道連れにしかねない危険な状態にある。彼が感じている不安の大きさや種類はフィーネには絶対に理解しきれないほど途方もなく巨大で暗澹たるもののはずだ。
それでもフィーネは知っていた。彼の心は弱いからこそ強い。弱さを克服するためにいかに努力を積み重ねているのか全貌を知ることはできないが、辺境のユリフェ家邸の地下牢にいても伝わってきた噂を知ればよくわかるのだ。
「ヴェル・フィーネ・ユリフェ殿」
彼が瞬きし、再びその凛々しい眼を見開いた時には、先ほどまで彼を支配していた恐れが一気に消えていた。
「アズウェル・アウィルドリーシャ・ラウルガル・リドアは今宵、そなたに誓う。わたしは必ずや立派な国王になる。この国に住む四千三百万の人々や、大切だと思う者を守れるような王になるために強くなってみせる。そして、このウルガを皆が笑い、健やかに暮らしていくことのできる楽土のような国にしてみせる――」
――だからどうか、見守っていてはもらえないか?
大きな双眸は真っ直ぐにこちらを射ていた。偽りも曇りも無い、光に満ちた眼差しからも、彼の決意の固さが見て取れる。先ほどまでの涙はどこかに吹き飛んでしまったように、夜の水面のような瞳はどこまでも凛と透き通っていた。
それを目の前にしたフィーネがするべきことは決まっていた。
その瞳に心からの笑顔で応え、フィーネは緊張のために冷え切った彼の手をそっと両手で包み込んだ。
「もちろんです。私はあなたがその誓いを果たすことができるように、いつ、いかなる時においても、たとえどんなに遠く隔たれた場所にいても祈っています。今宵、この澄み渡る良き日に天の星々と、地の花々と、海の神と精霊と、万物を生み育んで下さった天の主神、そして私の故郷の霧の女神が、あなたの決意を聞き届け、導き、祝福し、守りゆくことでしょう」
祈りの言葉を言い終えるとフィーネは右手の中指に填めていたぶかぶかの銀の指輪を外してアウィルドの手に握らせた。彼が手を開くと、銀と金剛石で六花――雪を象った指輪があらわれた。
「……っ!? これはそなたの母君の形見ではないか。なぜ……」
先ほどの凛々しさがどこへやら、慌てた様子で問うアウィルドの間の抜けた顔がおかしくて、フィーネはわざといかめしく咳払いした。古来より現代に至るまで、偉い人という者は話をするときに威厳あるように装うために咳をするのだ、という奇妙な思い込みのもと、フィーネは胸を張って朗々と述べた。
「いいですか、王太子殿下。これはお守りですから何も言わずに受け取ってください」
「……っ、まさか、先ほどの星鏡のせいで気を遣わせてしまったのか?」
「いいえ。これは元々アウィルドさまに差し上げるつもりでここに持ってきたんです。前に北方の国には『雪』という花が降るというお話をしてくださったでしょう? あなたは雪を見たことがなくて憧れているって」
「ああ。確かに言った。しかし……」
「大事なものだからこそあなたに持っていてほしいんです。私はあなたのそばにはいられない。悔しいですが、私一人ではエレスから出られませんし、あなたが辛いと思った時だって、駆けつけることは出来ないんです」
かつて、この指輪をくれた時、亡き母はフィーネに教えてくれた。雪というのは時として生命に死をもたらす不吉なものとされたりもするが、生命の源である水となって山を潤し、谷を流れ、やがて海に行き着いて多くの命を育む神の贈り物ともされる。その心は誰にでも等しく降り注ぎ、どんな罪や穢れも祓い清めてくれる。そして、険しい山を削り、困難という岩に穴をあけて、川となって道を示す。
「――この雪の結晶の意匠にはどんなことがあっても、迷わずに道を歩んでいけますように、という願いが込められているものなんだそうです。だから、これはあなたに持っていてほしいんです」
この先、彼が辿る道が険しく、茨の道であったとしても、それを必ず乗り越えていけるように、とフィーネは強く願った。
「……フィーネ殿」
アウィルドは潤んだ瞳でこちらを見つめていたが、目をきつく閉じて鼻を強く啜って涙を堪えた。涙が零れ落ちないことを確かめると目を開いてしばらく雪の結晶の指輪を愛おしげに見つめた。それから右手の内に握り込めるとそのまま自身の胸に押し当て、深々と頭を下げた。
「ありがとう、フィーネ殿」
星明かりに笑む彼の顔はとても澄み切っており、未来への希望に満ちていた。
心なしかフィーネの胸の内も、とても温かくなるのを感じ、一筋の涙が零れた。
「どうか達者でな」
「殿下もどうかお元気で」
瑠璃砂の舞う夜に彼と最後に交わした言葉は今もフィーネの思い出としてしっかり心の薬箱に仕舞われている。




