一章 ~七年前 王太子との約束~(10) 王太子の涙
「良いかフィーネ殿。少なくとも今、そなたの目の前にはそなたに救われた者のうちのひとりがいるのだ」
「そんなこと……」
「立太子の儀の晩にそなたは闇に囚われたわたしを救ってくれた。己を憎み、人を憎み、世界も神も何もかもを憎んで自暴自棄となっていたわたしがもう一度、王太子としてこの国や民のために歩んでいきたいと前を向けるようになれたのはひとえにフィーネ殿のおかげなのだ。わたしはそなたに感謝しているし、少しでも力になりたいとも思う。そなたにとって今はそう思えぬかもしれないが、少なくとも、この世界のすべてがそなたを悪く思っていることなどない。そのことだけはどうか、覚えていてほしい」
彼のまっすぐな瞳に見つめられながら、フィーネは目頭が熱くなった。ぐにゃりと視界が歪み、彼の表情がわからなくなりながら、フィーネは鼻をすすった。
「なっ……すまない、泣かせるつもりは無かったのだが」
「……っ、いいえ、違うんです。身近な人以外の人からこんなことを言ってもらえたことなんて初めてだったから嬉しくて……」
涙を手の甲で拭うとフィーネは微笑んでみせた。アウィルドは一瞬だけ苦笑を浮かべて頬を指で掻いた。
「本当はこんな偉そうなこと言えた義理でもないのだがな。わたしはそなたが抱えているものの一端しか知り得ない。だから、全くの見当違いをしてしまっているかもしれない。だが、少なくとも、わたしはそなたを好いている者のひとりだ」
「……ありがとうございます」
フィーネは泣きながら笑みを浮かべた。それから、星鏡の筒に浮かぶ螺鈿の白い鳥を指でゆっくりとなぞった。
「この星鏡、大切にしますね」
「そうしてもらえると、とても嬉しい」
彼は先ほどにも増して穏やかに微笑んだ。彼の笑顔は太陽の下で輝くように咲く真っ赤な扶桑の花のように見る者の心を明るくしてくれる不思議な力を持っている。今は暗くてわからないが日に焼けて少しだけ褐色の肌の彼の笑顔を見ると、不思議なことに頑張ろうという勇気が出てくる。
その顔も今夜で見納めだと思うととても寂しい。
明日の夜明け前には王都を離れて伯父とともにエレスへ出立する予定だ。エレスはウルガ王国の北部の山間にあり、王都からは舟や馬車を使ってもひと月の旅を要するほど遠い場所にある。道は険しく、泥濘地帯や崖の際など危険な箇所も多くあり、あまり外界と往来がない地域である。
そしてフィーネには必ず帰らなければならない事情があった。
王都に来る前にフィーネは在郷の神官から夜明真珠の連珠の首飾りを御守りとして持たされた。夜明真珠は王都ウリューゼ北西部にある神鳥宮という離宮の泉でのみ産出するたいへん貴重な宝石で、見た目は透明度の高い蛋白石に似た姿をしており、自発的に光を放つ。また、強い浄化の力を有するために呪い除けの効果を持っていた。
神官はフィーネに頭を深々と下げた。今まで誰かに傅かれたことなどなかったためにフィーネは慌てて神官に深く跪いて説明を聴いた。
『あなたは幼き頃より死魔に狙われておられます。神託によればあなたの前世に原因があるもので、故に本来であれば成年の儀を迎えるまでは霧の女神の加護に守られたこの『霧の都』の地を離れてはならないはずでした。しかし、此度はまことに特例です。この連珠の輝きが全て失われてしまう前に必ずご帰郷なさりますよう。さもなければ、あなたは死魔に命を奪われることとなりましょう』
不吉な予言とともに送り出されたフィーネは、実際に神官の言葉通りの事態が起きることに恐怖を抱いた。少なくとも百年は輝きを失わないはずの夜明真珠の光が一日ごとにひとつずつ消えていった。残りはもはや半分しかない。今も布で包んだ夜明真珠の連珠がフィーネの首を守っているが、当初は布越しにも漏れ出るほど眩しかった光が今では布で隠さなくても寿命を迎えた蛍のように弱々しくなっている。
父からも早く帰るように命じられ、名残惜しいがフィーネは王都を離れることになったのだ。
だからもう、彼とはしばらくの間は――いや、おそらく一生会うことはかなわないかもしれない。
不安で胸に痛みを覚えながらも、今し方もらったばかりの贈り物をさっそく身につけてみようとフィーネは鎖に手をかけた。だが、小さな指は非力で鎖の留め具をうまく外すことができなかった。
苦戦する彼女の様子を見てアウィルドはくすりと笑みをこぼした。
「無理をしないほうがいい。わたしがつけよう」
貸しなさい、と言われてフィーネは星鏡を手渡した。
彼の手が首の後ろに回される。日頃の剣の稽古でまめができてすこしかさついた手がうなじに触れてくすぐったい。首にひやりと金属の鎖の冷たさを感じた。同時に、フィーネは視線のやり場に困った。今この瞬間、互いの顔が触れそうなほど近くにあるのだ。どきどきするフィーネの気持ちなど知らぬと言わんばかりにアウィルドは手早く作業をこなした。
「よし、できた」
彼が離れるとフィーネは自分の胸元を見下ろした。そこには闇の中で星明りを映して青白く星鏡が輝いた。
「ありがとう……ございます」
家族以外の誰かからこんなに素敵な贈り物をしてもらったのは生まれて初めてだ。フィーネは胸いっぱいの温かさを抱きしめるようにそっと星鏡に触れた。
「……フィーネ殿、これは工芸品でもあるがお守りでもあって、持ち主の身を危機から救う力を秘めているといわれている。そなたが幼少の頃から患っている病の平癒や幾多の困難に出くわしてもそなたが無事に暮らしていくことが出来るよう、わたしはこの星鏡を通じて心から祈っている」
その瞬間、星鏡が急に軽くなった気がした。まるでフィーネの首に馴染むようにすっと重さが消えたのだ。驚いて銀の目を見開いたフィーネはさらに目の前の光景を疑った。
彼の二つの黒曜石のような瞳に宿る普段は強い光がゆらゆらと頼りなく揺らめいたのだ。
「……もしかして、泣いておられるのですか?」
「いや、泣いてなどいないからな! ただ……昨夜からあまり寝ていないから欠伸が出ただけだ」
右頬に涙を一筋流しながら言い返す姿は全く説得力がない。それを誤魔化すように目を手で強くこすって視線をそらした。
それから、しばらく彼は黙り込んで啜り泣いた。
フィーネは背伸びをすると、手を伸ばしてアウィルドの手を握った。彼の大きな手は驚いたように一瞬だけ震えたが、躊躇いがちに手を握り返してきた。
彼は本来の齢より大人びて見える。それは、彼が誰かの前に立つと反射的に常によき王太子であろうと無理やり自身の感情を律してしまうからだ。そして、実際に彼はこれ以上ないほどよき王太子であると評判だった。
否、彼はただの王太子ではなく『翼王』だからこそ、誰よりも完璧な王太子であることを求められている。ましてや翼王は建国神話に登場する風の女神の生まれ変わりもしくは現人神と言われているのだから、泣き言など許されない。
背中の肩甲骨の内側に沿って翼の痕のような二本の痣を持っていることと、神鳥の出現によって彼は幼少の頃から生まれながらに周囲からの期待や重責を一身に背負うことを強いられてきた。しかし本当は、年相応――いや、もっと強がりで弱くて感情的で子供っぽいところがあるのに、それを表に出すことが許されないのだ。そのことがフィーネは気がかりだった。
――それに、アウィルドさまには対になるはずの片翼様がおられない……。
フィーネの脳裏にアウィルドが置かれている現状がよぎった。フィーネがそれを言っても仕方ないのに彼がどれだけ辛い思いをしているのか想像に難くなかった。




