しじみと僕の気持ち
今日は、会社の課長二人と、ささやかな飲み会だった。
三人とも、どちらかと言えば現状維持より変化を好む人間だった。
工場をもっと良くしたい。
もっと面白くしたい。
新しいことを始めたい。
そんな話ばかりを、時間も忘れて続けていた。今日は休みだった。
それでも朝から自宅でパソコンを開き、メールを返し、いつものように資料を作った。休みの日まで仕事をする必要などない。頭では分かっている。ただ、気になっていることをそのままにしておく方が、僕には難しかった。
結局、夕方までほとんど休まずに仕事をし、飲み会へ。いつもの休日だった。。。
店で飲んだスパークリングワインが、驚くほど美味しかった。
一杯だけのつもりが、二杯、三杯と進み、最後には何杯飲んだのか分からなくなった。
心地よく、酔ってしまい、帰り道、コンビニへ寄った。明日の朝はとんでもない頭痛に襲われることは容易に想像できた。
大嫌いなしじみ汁のインスタント味噌汁を買った。
二日酔いには効くらしい。美味しいと思ったことは、一度もない。
家に着き、湯を注いだ。
酔った身体に流し込んでも、やはり美味しくはなかった。そんなんではしじみは可哀想だ。。
飲み終え、歯を磨いている時だった。
ふと、前々日に見た夢を思い出した。
以前、真里と働いていた外資系企業のメンバーが出てきた。何を話していたのかは覚えていない。
どこにいたのかも、よく分からない。
ただ、懐かしい顔ばかりが並んでいた。
その中に、真里もいた。
酔っていたせいもあったのだと思う。
歯を磨き終え、以前一緒に働いていた中国人の女性へ、何気なくLINEを送った。熊本で地震があった為、安否通知みたいな仕組みが画面を覆い、その中国人の女性がたまたま目についたのだ。
「みんな元気かな。この前、夢に出てきたんだ。」
誰かに会いたかったわけではない。
あの頃へ戻りたかったわけでもない。
ただ、みんなが元気なら、それでよかった。
返事を待つこともなく、そのまま布団へ入った。
翌朝。
いつものように、四時過ぎに目が覚めた。酷い頭痛だ。可哀想なしじみを恨んだ。。
眠いはずなのに、もう一度眠ることはできない。
身体だけが勝手に朝を始めてしまう。
枕元にある2台のスマートフォンを手に取り、仕事のメール、プライベート携帯の通知類を見た。
そこにはすでに忘れていた中国人女性からの返信が届いていた。
「みんな元気ですよ。」
その一文を見て、少し安心した。
それだけで十分だった。その次の一文を見るまでは。
「そういえば、真里さんもまた会社に戻ってきましたよ。」
しばらく画面を見ていた。
戻った。
その二文字だけが、頭の中を何度も往復した。
僕の中で彼女は、もうあの会社とは関係のない場所で生きている人だった。体調を崩し、会社を離れ、そして僕の前からも静かにいなくなった。それが彼女の選んだ人生なのだと、勝手に理解したつもりでいた。
遠い場所で、僕の知らない時間を生きている。
もう交わることのない人生を歩いている。
そう思うことで、僕はようやく、彼女のいない時間を受け入れていた。だから、その一文は、僕の中で静かに閉じていた物語を書き換えてしまった。
真里は、あの会社に戻った。
僕が彼女と出会い、彼女を好きになり、失った場所へ。
それがどんな決断だったのか、僕には分からない。
次の会社が合わなかったのかもしれない。
以前から評価されていた場所へ戻ることが、仕事や生活を考えれば最も現実的だったのかもしれない。
年齢や収入、これからの人生を考えた末の選択だったのかもしれない。あるいは、僕が想像するほど大きな意味などなく、ごく自然に決めたことなのかもしれない。
彼女は、彼女の軸で生きている。
僕とは関係なく悩み、選び、そして戻ることを決めた。
それだけのことだよ。
その中国人にすぐに返信した。
「真里さん、戻ったんね。確か、体調を崩していたよね。」
送信した直後、指が止まった。
余計なことを聞かなければよかったと思った。
何せ中国人のその彼女はおしゃべりだから。
悪気なんてない。けれど、もしかしたら、真里に伝えるかもしれない。
「(僕)さんから連絡があったよ。」
「体調を心配していたよ。」
そんなふうに。
3年前、最後のメッセージを送った。
体調を心配していること。
離婚したこと。
小田原を離れ、新しい会社で働いていること。
あの時間に嘘をつきたくなかったこと。
味方であり続けたいと思っていたこと。
そして最後に、「これを最後にします。」
そう書いた。「さようなら。」
そう結んだ。
あれで終わったはずだった。いや、終わらせるしかなかった。彼女が選んだ静けさを、僕は守るべきだと思った。だから、僕の名前が再び彼女の耳へ届くことを、望んではいない。
そう思っている。
それなのに。本当に、そうなのだろうか。
どうしてこんなにも心が揺れるのだろう。
僕は一体、何を求めているのだろう。
ただ、元気でいてほしい。
それだけだと思っていた。
なのに、「戻ってきましたよ」
という、たった一行で、こんなにも胸が苦しくなる。
僕はまだ、あの日の続きを生きているのだろうか。
あの日に置いてきた自分が、今になって追いついてきただけなのだろうか。もし、このあと、
「結婚して、お子さんもいらっしゃるようですよ」
そんな一文が届いたら、僕はどうするのだろう。
きっと寂しい。少しではない。大きく寂しいのだと思う。
彼女が僕の知らない人と暮らし、僕の知らない時間を重ねている。その当たり前のことに、僕はひどく取り残されるのだろう。
それでも。いつか、その寂しさを越えて、
「よかったね」
と言える自分でありたい。強がりでも、諦めでもなく。真心として。
本当に、よかったね、と。




