魔の手
年末に引き続き、年明けの三が日も真春はバイトに明け暮れた。
もう6日間毎日休まずこのファミレスに来ている。
連勤の最長記録かもしれない。
おまけにほとんどロングシフトのため毎晩帰宅すると母親に体調を心配されていたが、クリスマス辺りに引いていた風邪はすっかり良くなり、いつも通りの元気な身体に戻っていた。
しかし精神面は、叶うはずもない恋心のお陰でその相手に会うたびに胸が高鳴り、毎回神経がすり減るような思いに振り回されて疲弊するばかりだった。
「おっはようございまーす!」
連勤も残すところあと1日となった6連勤目の夕方、真春とさやかが夜の分のサラダバーやソースなどその他諸々の食材のストックを仕込み終えた時、裏口から大きな声が聞こえてきた。
「来た来た」
さやかは楽しそうに言うと、ホテルパンに入っているレタスを冷蔵庫にしまった。
誰の声かはすぐに分かる。
その声の主は10分も経たないうちに通路を歩いてキッチンに入ってくるなり「よろしくお願いしまーす!」と明るく言った。
「律のテンション高っ!」
さやかは律のキャラクターがお気に入りのようで、とても可愛がっていた。
シフトが被っている時は大体バイトリーダーのさやかが指導していたので、誰よりも早く距離が縮まったのだろう。
2人が話すのを横目に見ながら、真春は子供に渡すコインを取りにレジに向かった。
すると、レジには香枝がいて何やら難しい顔をして何かと戦っていた。
「どうしたの?」
「あ、真春さん。レシート無くなっちゃったんですけど、上手く替えられなくて」
「貸して」
真春は香枝から新しいレシートのロールを受け取ると、スムーズに取り付けた。
「あ、こうやるんですね!」
「やったことないの?」
「はい…実は1回もレシートの交換に当たったことなかったんですよ」
「うそっ?!でもそれ逆にすごいかも。あたしなんて当たりすぎってくらい当たるんだけど」
香枝と他愛のない会話をしていると、いきなり両肩をポンっと叩かれ「真春、おはよ!」と律が後ろから顔を覗かせてきた。
「わっ!びっくりした…てか顔近っ!」
「いいじゃん別に〜」
律はそう言いながら後ろから真春に抱きついた。
香枝の前でだけは本当にやめて欲しいと心の奥底から思った。
「今日も可愛い!」
「もー、いいってそれは!」
「なんだなんだ、照れてんの?」
「照れてない」
真春が律を身体から引き離そうとしていると、香枝が「ホント、律さんって真春さんのこと好きですよね!」と笑いながら言った。
ここ数日、律とシフトが被るといつもこの調子で絡んでくるので真春は参っていた。
自分のことがタイプだと言われてから、なんだか変な感じがして仕方ないのだ。
奈帆も過激な方だが律はまた違ったタイプに感じる。
気のせいだろうか。
「見てると癒されるんだよねー。なんかキャラクターっぽくない?」
「あははは!なんか分かるかもそれ!」
律の言葉に香枝が同調する。
その後も仕事中、2人は真春をキャラクターに例えては笑って楽しんでいた。
途中からなんだかバカにされているような気がしてきて、真春は適当にあしらっていた。
お正月の影響でお店は閑散としていて、バイトはラストまでのさやかを残し、22時で全員上がった。
「お先に失礼します」
デシャップを締めるさやかに声を掛ける。
「お疲れ〜!あ、真春、連勤マジでお疲れ。明日で最後だね」
「本当に疲れました。って言ってもさやかさんもお正月から連勤じゃないですか」
「お正月休みは時給アップだからねー」
小さなバットに丁寧にラップをしながらさやかが言った。
さやかは何でも丁寧かつ手際が良いので、真春は彼女の仕事ぶりを密かに尊敬していた。
優菜がさやかに憧れるのも、なんだか分かる気がする。
「あ、そうだ」
「はい」
「新年会やろうと思うんだけど、いつがいいかな?」
「いいですね、やりましょ!てか忘年会の時、今度はさやかさんが次の日オープンからじゃない日にしましょうって言ってましたよね」
真春はそう言うと、ホワイトボードに貼り付けてあるシフト表をめくって確認した。
見ていくと、丁度1週間後がその日だった。
「来週なんかどうですか?」
「来週ならあたしも大丈夫!じゃあその日で」
「今日いる人にはあたしから言っておきますね」
「うん、よろしくー」
さやかは軽く返事をした後、焼き場を片付けている戸田さんに「ってことなんですけど、良いですか?」と声を投げかけた。
「雑だなぁ〜。いいよ」
戸田さんの緩い返しに真春とさやかは声を上げて笑った。
お店の予約もしなくていいし、制限なく好き勝手に出来るので、ここのお店の飲み会は本当に楽だし心から楽しめる。
ただ片付けは面倒臭いが、自由のためならそれくらいへっちゃらだ。
新年会の事をみんなに伝えようと事務所に戻ると、既に高校生たちは帰ってしまっていて、香枝と律しか残っていなかった。
「あれ、みんな帰っちゃった?」
「はい、ついさっき。どうしたんですか?」
「今、さやかさんと新年会の話しててさ。来週やろうってことになったんだけど」
真春が日付を伝えると、香枝は飛び跳ねて喜んだ。
「そんなに嬉しいの?」
「だって次の日学校休みなんですもん!」
そう言えば香枝はこのところ、事あるごとにテストやら授業やらでイベントを楽しめていなかった。
「真春さんは新年会参加できるんですか?」
「うん、次の実習までほとんど休みだからね」
「それじゃあ真春さんもいっぱいお酒飲めますね!」
「香枝もやっと何も気にせず飲めるね。あー、楽しみ」
真春と香枝が話していると、椅子に座りながら携帯を眺めていた律が2人を見上げて「2人ともお酒強いの?」と言ってきた。
「あたしは言うほど強くないかな。すぐ目が回っちゃう。って言いながら毎回飲み過ぎてるんだけどね」
真春が「学ばないよね」と苦笑いしながら言うと、香枝が横から口を挟んできた。
「真春さんは酔うと可愛くなるんですよー」
「ならない」
「なーる!だって前だって…」
香枝は未央と3人で飲みに行った時のことを話し始めた。
確かにあの時は酔っ払って香枝に甘えたが、よく考えたら自覚があるのはそれっきりだ。
それ以降は、特記することなど何一つないはずだ。
「もういいよ、その話は」
真春が不貞腐れると、律が「あ!」と思い出したように言った。
「可愛いと言えば、未央から送られて来たって言ってた真春のあの写真、めっちゃ可愛かったよねー。香枝、もう1回見せてよ」
律がニヤニヤしながら香枝を見た。
「あ、あれ?」
香枝はおずおずと携帯を操作すると、真春に画面を向けた。
そこには、トナカイのカチューシャをつけて可笑しなポーズをしている真春が映っていた。
クリスマス仕様で働いていた時期に未央に撮られたやつだ。
他にも、サンタの帽子バージョンもあると香枝が言った。
「なんで未央こんなの送ってんの…」
しかもよりによって香枝に。
どんな経緯でこの写真を送ることになったのか問いただしたい。
とにかく、恥ずかしくて仕方ない。
「消してよー」
「やですよ!」
「じゃああたしが消す!」
真春が香枝から携帯を奪おうとすると香枝は逃げ出した。
「ホント恥ずかしいから消して!」
「やだ、消さない!」
真春は必死になって香枝の後ろから手を伸ばしたり色々と格闘したが、携帯に指一本触れることは出来なかった。
2人の姿を見て、律が「微笑ましい」と言って手を叩いて笑った。
「真春と香枝って、仲良いよね。なんか姉妹みたい。いや、恋人っぽいかな?」
真春は律の最後の言葉に過剰に反応し、置いてあったパイプ椅子につまづいてしまった。
「わっ!」
その衝撃で香枝をロッカーに思い切り押し付けてしまった。
香枝の顔がものすごく近い。
ほんの数センチでもう肌が触れ合ってしまいそうだ。
両腕が辛うじてその数センチを触れるまいと保っていた。
一気に顔が熱くなり手汗がじわじわと滲んできた。
カシャンと物が落下したような音で真春は我に返った。
「あ…ご、ごめん!」
真春は平然を装って香枝に謝ると、床に落下した携帯を拾って香枝に渡した。
香枝の顔を直視できない。
顔が熱いのが、自分でもものすごくよく分かる。
香枝と律から見たら、多分耳まで真っ赤だと思う。
色白なので、寒い日や運動した時などは顔がすぐに真っ赤になるので昔からよくからかわれていた。
最近になってから分かったことだが、お酒を飲んだ時や恥ずかしい時もすぐに耳まで赤くなってしまうので、真春は自分のそんなところが嫌だっだ。
そしてたった今、2人きりならまだしも律にバッチリ見られていたのだ。
物事の捉え方が独特で勘のいい律のことだ。
もしかすると、自分が本気でドキドキしてしまっているのがバレているかもしれない。
「なんか今の恋愛映画みたいだったんだけど!ウケる〜!」
律は楽しそうに笑っている。
何とも思っていないのだろうか。
香枝は「からかうのやめて下さいよー」と、こちらも笑っている。
真春は1人で変な気持ちになっていることに、また更に恥ずかしくなった。
「ごめんね、香枝」
「いいえ、全然大丈夫ですよ」
なんか、1人でバカみたい。
翌日の連勤最終日もその事を引きずっていて、香枝を見るたびにドキドキして仕方なかった。
ありがたいことに、年始のわりには忙しかったので気を紛らわすことができた。
きっと暇だったら無駄に妄想が膨らみ、心臓が持たなかったかもしれない。
22時になると、真春以外はみんな上がってしまった。
「真春さん、ラスト頑張ってくださいね」
香枝が最後の料理を運び終えて戻って来た。
「うん、ありがと。じゃ、また新年会でね」
香枝とは新年会まで会わない。
母親と長野に住んでいる祖父のところに行くらしい。
少し寂しさを滲ませながら真春は言った。
「おみやげよろしくね」
「任せろー!」
香枝は親指を立ててこの日一番の笑顔を見せた。
忙しい日にしては早く締め作業が終わり、戸田さんと世間話をしながら事務所に戻ると、律が1人でくつろいでいた。
「あれ?朝比奈さんまだいたの?」
戸田さんは優しく言うと、売り上げの報告書を打ち込むためにパソコンの前に座った。
「まだいましたよー!でも真春来たしそろそろ帰ろっかな」
律は「真春、一緒に帰ろ」と携帯をポケットに入れて、真春の隣にピッタリくっついた。
「だからいつも近いんだってば…着替えるからちょっと待って」
「朝比奈さん、フレンドリーだから誰とでもすぐに打ち解けてくれて良かったよ」
真春と律のやりとりを聞いていた戸田さんが温かい眼差しをこちらに向けた。
真春が更衣室に入ると、「そうなんすよー!みんな優しいし…あ、もちろん戸田さんもですよ?ここでバイトできてあたし幸せですよー」といつものテンションで話す律の声が聞こえて来た。
戸田さんにまでそのテンションで話すなんて、大したもんだ。
もう少し敬えと言いたいところだけど、そういうことに関しては緩いのが戸田さんだ。
バイトの子たちにクマだのなんだの言われても一緒に楽しんでいる。
こういう心の広さが、みんなが楽しくやっていけている理由のひとつなのだろう。
スウェットとパーカーに着替えた真春は更衣室を出て、ロッカーから出したマウンテンパーカーを羽織り、更にマフラーを巻いた。
「律、帰ろ」
完全防備な真春を見て、律が「雪国の子供みたい」と茶化した。
「うるさいな。戸田さん、お疲れ様です」
「お疲れ様でーす」
「はーい、お疲れ。気を付けてね」
戸田さんのやわらかい声に送り出されながら裏口のドアを開ける。
「さっきみんなと帰らなかったんだ」
真春ははタバコに火をつけながら階段を降りた。
そういえば、律の家は真春の帰り道とは全く違う方向だ。
「真春のこと待ってたの」
駐車場を半分まで歩いたところで、律は立ち止まった。
「何か話でもあった?あ、新年会の話?みんな酔うとすごいん…」
「そうじゃなくて!」
律の目は真剣で、口調も荒々しい。
「あたし」
「…」
「真春のことが好き」
左手に持ったタバコを口元に持っていこうとした形のまま、真春は固まってしまった。
何かの冗談だろうか。
いつものおふざけか?
「…あはは。知ってるよ、律があたしのこと好きなことくらい。いつもすごいベタベタしてくるじゃん」
何かが違うと本能的に感じ取ってはいたが、真春は笑いながら律の顔を見た。
しかし、律は全く笑っていないし、怖いくらいに真春を見つめ続けていた。
「じ、冗談でしょ?大丈夫?熱あんの?」
律の額に手を持っていこうとした時、その手をガッと掴まれたと思うと、突然、生温かいものが真春の唇に触れた。
左手から吸いかけのタバコがポロリと駐車場の地面に落ちた。
「…んんっ?!」
真春は、律に長い長いキスをされた。
あまりにも急すぎて、頭が混乱して何もかも整理できない。
これはアメリカンジョークか?と一瞬思ったがどうやらそうではなさそうだ。
どうしよう、どうしよう、と思いながら真春は数秒の間何も出来なかったが、やっとの思いで声を出すことができた。
たった数秒が、ものすごく長く感じた。
「んっ…ちょっ…と。律!やめ…」
律の唇から逃れようともがくが、その抵抗も虚しく真春は駐車場の壁に押し付けられ、強引にキスが繰り返された。
恐怖が身体を包み込む。
「い…や、やだっ!」
律の舌が入り込んでこようとした瞬間、脳が危険信号を発した。
真春は最大限の力を振り絞って律を突き飛ばした。
律は転びはしなかったものの、ふらっとよろめいた。
「な、なんでこんなことするの…」
「真春のことが好きだから」
息が整わないうちに、真春は「意味分かんない」と言ってその場から立ち去ろうとした。
「でも」
律は真春の腕を掴んで引き止めた。
「香枝だって真春のこと好きでしょ?」
なぜ今香枝の話をされなければならないのだ。
ますます意味が分からない。
「そんなことないと思うけど」
「香枝、自分で言ってたよ。真春といると楽しいって。優しいし可愛がってくれるし、キュンとすることもあるって」
「だから何。今は香枝のことは関係ないでしょ」
「あるよ。あたしも香枝も真春のことが好き」
好きって…香枝の好きはそうじゃない。
ただ自分を慕ってくれているだけだ。
そんなはずはない。
「あたしは真春を香枝に取られたくないの」
律は真春の左腕を掴んだ手に力を込めた。
「取るもなにもないでしょ…。何言ってんの」
自分の混乱した頭とは裏腹に、律の声は真っ直ぐで冷静だった。
「あたし、レズなの」
「へ?」
律の突然のカミングアウトに、真春は再び固まってしまった。
レズ…?
つい最近まで自分が悩んでいた状況がこんなタイムリーに、しかも身近で勃発することなどあるのだろうか。
そんな真春の心理状況など知らない律は、淡々と自分の事を話し始めた。
小さい頃からいつも好きになるのは女の子だったこと。
男の子と付き合ってみても好きになれなくてすぐ別れたこと。
昔、彼女がいたこと。
「引いた?」
「いや、引きはしないけど…驚いた。そうだったんだ」
と、言いつつも、真春は衝撃の展開ばかりで頭がついてきていなくて話の内容は半分も頭に入っていなかった。
「真春のこと、好きでいてもいい?」
「えっ…?」
「あたしのこと、嫌い?」
「嫌いじゃないけど…」
突然キスされて、強引に舌まで入れようとしてきた相手を好きになれるはずがない。
しかしこれからもバイト仲間としてもそうだし、普通の友達の関係でいたいのは確かな気持ちだ。
「けど…何?」
「あたし彼氏いるし、律とそういう関係にはなれない」
「分かってる。でも、真春のことが好き。一目惚れだったの」
何て返していいのか分からない。
好きなら好きでいいけど、それがなんなんだ。
それがどうしたんだ。
アメリカはそういう文化があるのだろうか。
ぐるぐると考えていると、真春はあることに気が付いた。
自分が香枝に抱く気持ちと同じであるということだ。
香枝のことが好き。
ただ、純粋に好きなのだ。
香枝にも自分の事を好きでいてほしい。
抱きついたりキスだってしてほしい。
でも付き合いたいとか、どうなりたいとかそういうのではない。
こうやって律みたいに香枝に好きだと伝えて…それで?
きっと香枝も今この瞬間の「だから何?」という答えのない現実に頭を悩ますかもしれない。
真春が何も言えずにいると、律は真春を優しく抱き締めた。
「いきなりキスなんかしてごめん。でも、あたし本気だから」
「…」
ーーーバタンッ
裏口のドアが閉まり、戸田さんが階段を降りてくる音が聞こえる。
律は真春を引き離すと「あたし、諦めないから」と濡れ光った大きな目を向けた。
獲物を狙う獣のような目だ。
真春は律と目を合わせることが出来なかった。
「香枝よりあたしのこと好きになって」
「あたし香枝が好きだなんて一言も言ってな…」
「おーい!まだいたのかー?気をつけて帰ってねー」
戸田さんの声で真春の言葉は遮られた。
遠くで車のエンジンの音がする。
戸田さんは2人の横を車で通り過ぎる時、手を振りながら笑顔を向けた。
ペコリと会釈する。
右にウィンカーを出して右折して行った黒いワゴン車を見送った後、律が口を開いた。
「真春、香枝のこと好きでしょ?」
「え…あ、好きって…。後輩としてだよね?みんなと同じくらい好きだよ」
「うそ」
律は微かに笑いながら続ける。
「真春、香枝といる時と他の人といる時と全然違うの自分で分かってないの?悪いけど、バレバレだよ?昨日だってあんなに照れちゃってさ。素直になりな…」
「や、やめてよ!」
一瞬にして顔が火照る。
そして何故か涙が出そうになってきたので必死に堪えた。
香枝のことが好きで好きでしょうがなくて、この思いをどこにぶつけたらいいのか分からない。
膨れ上がりすぎて破裂しそうなこの気持ちは、どうしたらいいのだろう。
その時、何かがプツリと切れたような気がした。
もう、色々と限界が近づいているのかもしれない。
「…そうだよ。あたしは香枝のことが好き。こんなのいけないって分かってるけど、大好きなの。律があたしのこと好きな気持ちよりも、もっともっとそれ以上にあたしは香枝のことが好き。だから律のことはそんな風に好きにはなれないし、これからも今まで以上も以下もないから」
真春は息もつかずに興奮しながら言った後に後悔した。
自分は何を言っているんだ…。
「ほらやっぱり、香枝のこと好きなんじゃん。やっと認めた」
「でも香枝はあたしのこと普通のバイトの先輩としか思ってないから。てか、あたしの気持ちなんかどうでもいいでしょ…もうほっといて!」
そろそろ涙腺が崩壊しそうだ。
「じゃあ」
律は静かに口を開いた。
「香枝に真春とキスしたこと話していい?」
「なんで?そんなこと言う必要ないでしょ」
「ただの先輩と後輩の関係なら、言ってもいいでしょ?あたしがレズって話をして、真春とキスしたって言ったら香枝なんて言うかな?」
律の突拍子もない発言に、真春は耳を疑った。
そんなこと言われてしまったら自分もレズなのではと思われかねないし、何より律との関係を疑われてしまう。
他のみんなに変な目で見られるのは嫌だが、香枝にそう思われるのはもっと嫌だ。
「それが嫌なら香枝よりあたしのこと好きになって」
「だからそれは…」
「あたし、本当は昨日すごく嫉妬したんだからね。香枝にあんなにデレデレしちゃって」
「…」
「もう香枝にあんな顔しないで。したらこのこと言うからね」
「はっ?!」
「交換条件だよ」
「意味分かんないんだけど」
真春は沸騰しそうな頭を自分で思い切り殴りたい衝動に駆られた。
香枝がこの事を知って、自分から離れていくことを想像するだけで何かに押し潰されそうな気持ちになる。
嫌だけど、この条件を飲むしかなさそうだ。
色々な気持ちが入り混じって頭の中がぐちゃぐちゃになり、自分の感情も怒りなのか悲しみなのかそれとも他の何かなのか分からなくて、自分の意思とは無関係に涙が頬を伝った。
「もう…この話おしまいでいい?」
真春は止まらない涙を手の甲で拭いながら鼻をすすり、律の答えを聞かずに「お疲れ」と言って足早に駐輪場に向かった。
律は何も言わなかった。
自転車を漕ぐと、涙が伝った部分が余計にひんやりとした。
律の頭の中が見てみたい。
どういう思考回路をしているのだろうか。
信号待ちの間にタバコに火をつける。
肺まで思い切り吸い込むと、安定剤のごとく体が楽になった気がした。
しかし目の前の信号が青になってもその場から動く気力はなくて、やがて点滅する青信号を見ながら真春はぼーっとした。
さっきの出来事が嘘のようで、思い出そうとしても少ししか思い出せない。
興奮し過ぎていて半分意識が飛んでいたように思える。
あんな事言うつもりではなかった。
ついに律にも言ってしまった。
しかもよりによってレズで自分のことが好きだなんて。
香枝が知ったら全てに対して引いてしまうに違いない。
なるべく今まで通り、普通に接しなければ。
しかしよく考えたら香枝は明日から新年会までシフトには入っていない。
来週までに何か対策を考えなければ…。
「おはようございます」
2日後、18時から出勤の真春はパソコンでシフトインしようとした時に聞こえてきた声に過剰に反応した。
「え?香枝?どうしたの?」
驚いた、まさかこんなタイミングで会うとは。
最悪すぎる。
「おじいちゃんのとこは…?」
「お母さんが急な仕事が入っちゃって、おじいちゃんのとこはまた今度行くことになったんです」
「そっか…残念だったね。今日バイト入るの?」
「入りますよ!戸田さんから、今日人少ないから入れるなら入って欲しいって連絡来たんです」
なんでこんな時に限って香枝を選んだのだろうか。
戸田さんを恨みたくなる。
「おみやげ買ってこれなかったー。すみません」
香枝は真春の顔を見て、力なく笑った。
「いいよ全然。じゃ、今日よろしくね」
「はい」
この会話を律に聞かれていないかと真春はキョロキョロと周りを見渡した。
今日は律も17時から働いており、ますます気分が悪くなる。
どんな顔をして律に会えばいいのだろう。
香枝とはどう接しよう。
考えてもいい答えなど出るはずもなく、18時になる前に真春は戦場に行く気分で出勤した。
「おはよう、真春」
「おはよ」
何事もなかったかのように挨拶をしてくる律。
「今日、急遽香枝も入ることになったね」
律の声色はこの状況を楽しんでいるように聞こえ、顔は悪意に満ちているようにも見える。
「だから何。いつも通りでいいでしょ」
そう言い放ったものの、真春は心の準備が出来ていなさすぎて焦っていた。
2人とどう接するべきかを、ガラガラのホールを必要以上にゆっくりと歩きながら真春は考えた。
正月休みも終盤に差し掛かり、ますますお客さんは少なくなっていた。
こんなことなら、わざわざ香枝を呼ぶ必要なんてなかったのに。
ホールを一周歩いて戻ってきても結局何もいい案が思いつかず、真春はなるべく香枝と律と話さないようにすることにした。
忙しければ話すこともあまりないのだが、今日は残念ながらここ最近の中で首位を争うほどの暇さだった。
真春は2人を避けながら掃除に没頭した。
無駄に汚れていないドリンクバーの機械を拭いたり、並び替えなくていいコップを潔癖症のように綺麗に並べたり、普段なら絶対にやらないような所まで丁寧に掃除した。
時折、香枝と律が話しているのを見掛けると不安になって吐きそうになるのに、こんな日に限って真春はラストまでで、香枝と律は22時上がりだった。
最悪のシチュエーションだ。
律が香枝にあの事を言ってしまうかもしれない。
「お疲れ様でーす」
律と香枝の声が聞こえた。
一緒に裏口から出て行く後ろ姿を目で追う。
そういえばいつもなら香枝は先に上がる時、「ラスト、頑張ってくださいね」と言ってくれるのに、今日はそれがなかった。
まさか、律はどこかのタイミングで香枝にキスのことを言ったのだろうか。
考えたらまた吐き気がしてきた。
あの2人の間に何もない事を祈るしかない。
翌日も2人とシフトが被っていた。
今日はロングだが遅めの12時出勤。
「おようございまーす」
行きたがらない身体で無理矢理出勤すると、香枝と律はすでに働いていた。
「おはよー」
律とはいつも通り挨拶したが、香枝はデシャップにいたにも関わらず、真春の方は一切見ずにどこかへ行ってしまった。
聞こえていなかったのだろうか。
そう思っていたが、やはりなんだか様子がおかしいと思ったのはランチがピークを迎えた時だった。
普段なら料理やお冷やを出しに行くと必ずお礼を言ってくれる香枝だが、今日は全くそれがない。
他のスタッフには笑顔で言っているのに。
完全に無視されている、と肌でひしひしと感じた。
「香枝に何か言ったでしょ」
レジでお会計を済ませたお客さんを見送った律に、真春は半ば怒り気味で言った。
「何も言ってないよ。なんで?」
「一言も口聞いてくれないんだけど。律が何か言ったとしか思えないんだけど」
「本当に何も言ってないって。考えすぎじゃないの?」
律は真春の言葉を軽くあしらうと、ホールに向かった。
その後も結局、香枝とは一言も話さなかった。
一緒に働くのがどんどん憂鬱になっていく。
この日以降、出勤前にシフト表を確認して香枝がいると、気分が落ち込むのが自分でもよく分かった。
胸の奥がえぐられるような感覚に襲われ、深いため息が出る。
前なら、一緒に働けるだけで嬉しかったのに。
どうして、こんなことになってしまったのだろうか。
そんな状態で迎えた新年会当日。
「あけおめー!ことよろー!」
早くお酒が飲みたくてウズウズしているさやかの簡単な掛け声で始まった新年会を真春は心から楽しめなかった。
なぜなら隣には律が座っているから。
また何か企んでいるのだろうか。
香枝は向かい側のかなり端の方に座っている。
「真春、勝負しない?」
「なんの?」
「どんだけお酒飲めるか」
なんだそれ、と思ったが断ると「香枝に言っちゃうよ?」とかまた訳の分からない脅しを仕掛けてきそうなので、真春は渋々のることにした。
絶っっっっっ対に負けない、と思いながら水のようにお酒を飲む。
「真春さん、今日はよく飲みますね。あ、いつもか」
未央がフライドポテトを食べながら真春を見た。
「体が欲してるからね!」
嘘だ。
こんな気分で飲むお酒なんて、美味しくもなんともない。
ビールを5本は飲んだであろう頃、みんなは既に出来上がっていた。
隣に座るさやかがデザイナーの仕事について熱く語るのをみんなで聞いていると、律が「お酒弱いって言ってたの嘘?」と小声で耳打ちしてきた。
嫌な気分である意味興奮しているせいか、真春はあまり酔えなかった。
少し頬が熱いくらいだ。
「嘘じゃないけど。今日はそういう気分じゃない。でも少し酔ってるみたいだけど」
「なんだー、つまんないの。酔ったらキスしようと思ったのに」
律は真春を見つめながら目を細め、悪魔のような口調で囁いた。
真春がイライラしながら缶に残っているビールを飲み干した時「なに2人でコソコソ話してるんだよ〜。ラブラブなの?」とさやかが急にこちらを向いて真春の腕を引っ張った。
「え?いやいや、そんなんじゃないですから」
「真春もタメの子が入って来たからやりやすいっしょ?よかったよー。しかも律、めっちゃ面白いからホント好きー!」
「さやかさん、律のことめっちゃ好きですよね」
このまま律をさやかの方に押しやりたいところだ。
「当たり前よー。ホント、いいキャラしてんだもん!」
その言葉に律は「あは、ありがとうございます」とさやかの手元にあった梅酒の缶に乾杯する仕草をした。
さやかもそれに応じ、2人は缶に口をつけてグビグビとお酒を流し込んだ。
「でも」
律は空になった缶を端に避けて「あたしが好きなのは真春なんで」と、とんでもない事を口走った。
真春は目を見開いて律を見た。
香枝に聞こえていませんようにと瞬時に神に祈る。
「マジかー、フラれたわ」
笑ったさやかがふざけているのは当然のように分かったが、律の目の本気具合は恐ろしかった。
なんだか変な空気になっている。
「あ!お菓子食べたーい!たくさん買ってきてくれてるじゃん!最高!」
「あたしも食べたーい!」
未央と奈帆がお菓子が入ったビニール袋を見つけてくれたおかげで、状況が緩和された。
真春がホッとしたのも束の間。
奈帆はポッキーの袋を取り出すなり「ポッキーゲームしようよ!」と恐ろしい提案をしてきた。
ポッキーゲームとは、2人で1本のポッキーの端と端をくわえて食べ進めていくゲームだ。
キスするか恥ずかしくて途中で脱落するかのどちらかだが、真春も友達とやったことがあるがキスまで至ることの方が多かった。
「未央さん、ポッキーゲームしよー!」
「いーねいーね!」
2人は1本のポッキーの端と端を口にくわえた。
「いっちゃえいっちゃえー!」
律は楽しそうだ。
間もなくして、未央と奈帆の唇がぶつかる。
2人とも酔っているせいか、恥じらいもないらしい。
キャッキャと楽しそうに笑っている。
「はい、じゃ次は2人の番!」
そう言って奈帆は真春と律にポッキーを1本差し出した。
「やったねー。やろ、真春」
律の目がギラギラしている。
みんな、酔っ払っているのだ。
いつもみたいに、何も考えずに、ただ、楽しめばいいのだ。
「いいよー!」
真春はテンションが上がったフリをして奈帆からポッキーを受け取り、チョコがついていない方をくわえた。
「ん」
そう言って真春は律の方を向いた。
律ももう一方をくわえる。
ポキポキと細い棒が軽い音を立てて少しずつなくなっていく。
それと同時に律の顔がどんどん近付いてくる。
その向こうに、少しだけ、香枝の姿が見えた。
こっちを見ている。
お願い、見ないで。
その時、唇同士が触れた。
「ゴールイン!やばいねー!もっかいやろ!」
奈帆は手を叩いて大声で笑った。
完全に酔っ払いだ。
真春は立ち上がってマウンテンパーカーを羽織り、靴を履いた。
すかさず、律があとからついてくる。
「どこ行くの?」
「外」
「タバコ?」
「うん」
「あたしも行く」
ついてくるな!と思ったが放っておくことにした。
真春は律の言葉を無視して外に出た。
外は寒かった。
しかし真春の気分の方がもっと冷ややかだ。
喫煙所の赤いベンチに座り、タバコに火をつけてぼーっと火を見つめる。
律は向かいのベンチに座って、持ってきた缶ビールを飲んでいる。
飲みたいなら、ついて来なければいいのに。
「最近、香枝と喋ってる?」
「喋ってないよ。シカトされるから」
真春は煙と共に吐き捨てるように言った。
誰のせいだよ、と思いながら。
「まだ疑ってる?香枝には本当に何も言ってないよ」
少し茶色がかったロングヘアを掻き上げて、律は言った。
帰国子女という言葉がとても似合う、どことなくグラマーな彼女は、タイプで言えばオラオラ系男子にモテそうな見た目だし、偏見かもしれないが、毎晩お酒を浴びるように飲みワンナイトラブなんてお手の物といったイメージを持つ。
それがレズだなんて。
人は見かけによらない。
「じゃあなんで?律が言ったとしか思えないでしょ?」
「そんな疑わないでよ。あたしも気になってるんだから」
「昨日はどうだったの?あたし喋ってないから全然分かんないけど」
「まぁ別に普通って感じだったかな。いつもの香枝だったよ」
律はビールをひと口飲んで「いる?」と缶を差し出してきた。
「間接キス」
「いらない」
真春はタバコを灰皿に投げ入れて立ち上がった。
みんなのところに戻る気分になれない。
裏口から中に入り「トイレ行ってくるから先戻ってて」と律に告げると、律は何も疑うことなくお座敷へと向かって行った。
真春は再び裏口から外へ出ると、階段は降りずに手すりにもたれかかりながらタバコに火をつけた。
忘年会の日、ここで香枝にキスをしたことを思い出す。
それを優しく受け止めてくれた。
しかし今はもうそれも過去の出来事だ。
一生、あの時のようにふざけてでも香枝に触れることなど出来ないのだろう。
理由も分からずに好きでしょうがない人に無視されるなんて、辛い以外の言葉が見つからない。
それと同時に、自分はこんなにも香枝のことが好きだったのだと、その思いが本物だったのだと、改めて痛感した。
この先、どうなってしまうのだろうか。
タバコが燃焼し切る頃、真春はまた涙を流していた。
このところ、涙もろすぎて自分でも驚く。
もう、香枝の顔を見るのが辛い。
こんな気持ちになったのは初めてだ。
真春はその場で静かに泣き崩れた。




