告白
新年会から1ヶ月が過ぎた。
結局、香枝とはあれからあまり話していない。
完全に無視されていたのはほんの数日で、しばらく経つとバイトで一緒になった時はなんとか挨拶を交わしてくれるようになった。
しかしそれでも、以前のように他愛のない話をすることはなく、真春は香枝とシフトが被るたびに今までの胸の高鳴りとは違う気持ちの悪い動悸を感じるようになっていた。
どうしてこんな風になってしまったのだろう。
そんなことしか考えられない日々が何日も続いた。
律は相変わらずのテンションでみんなの笑いを誘っていたが、日が経つにつれどことなく香枝が律の事を避けているような気がして、どういう経緯かは分からないがあの日の出来事が香枝の耳に入って自分たちを軽蔑しているのだろう、と真春は勝手に思っていた。
「真春さん、最近元気なくないですか?」
珍しくランチだけの出勤だった真春がサロンと帽子を外しながら事務所に戻ると、律と楽しそうに話していた休憩中の未央が心配そうな顔でこちらを見た。
「あ、彼氏と上手くいってないとかですか?」
「元気ないことないよ。連勤続いてたからちょっと疲れてるのかも」
真春はパイプ椅子に座って一点を見つめた後、テーブルに突っ伏した。
「疲れた…」
元気よく「お疲れ!」と帰って行った律を死んだ魚のような目で追い、真春はため息をついた。
「それとも、何かありました?香枝と」
「…」
「最近、あまり香枝と話してるの見ないような気がして。って言ってもそんなにシフト被ってないですけど…今日なんか全く口きいてないじゃないすか」
声のトーンで未央が本気で心配してくれているのが分かる。
しかし、たとえ未央でも律との間にあったことなど口が裂けても、火あぶりにされても言えない。
「そう?あんまり気にしてないから分かんない」
テーブルに突っ伏したまま心にもないことを口にしてその場をやり過ごそうと思ったが、未央は引き下がらなかった。
「またまた。あんなに香枝のこと好きって言ってた真春さんはどこ行っちゃったんですかー?」
「あんなにってどんなによ。もういいよ、忘れて」
「なんか急に投げやりになりましたね」
「もういいの」
真春は起き上がって更衣室に入ると、そそくさと着替えて扉を開けた。
すると、休憩に入ってきた香枝と鉢合わせてしまった。
久しぶりに香枝と目が合ったような気がした。
未央はどうなるんだ?といったような目で真春と香枝を交互に見た。
一瞬の沈黙の後、香枝は「まかない頼んで来よー」と言って逃げるように事務所から去って行った。
あからさまに真春を避ける香枝を見て、未央はどう思っただろうか。
苦笑いする未央に、真春は「お疲れ」と言って帰路についた。
翌日、真春は夕方に出勤してシフトを確認して愕然とした。
大幅なシフト変更があり、香枝と一緒にラストまでのシフトに変わっていたのだ。
しかしよく考えたら、逆に今まで被らなかったのが不思議だった。
その瞬間、真春は決心した。
今日、香枝と話そうと。
ずっとこのままでいるわけにはいかない。
そう決心してから、真春はずっとドキドキしていて仕事どころではなかった。
狂ったように心臓が暴れ回り、手汗が止まらないし喉がつかえる。
気持ちが焦れば焦るほど、時間が過ぎるのが遅く感じた。
忙しさも何も感じなかった。
22時以降は香枝とは業務的な会話だけで仕事をし、ほぼ無言のまま締め作業を終えた。
「おつかれさまでーす」
23時半、香枝はさっさと準備して先に帰ろうとバッグを持ってサロンを畳む真春の横を通り過ぎた。
「か、香枝。待って」
挨拶以外の言葉を交わしたのはいつぶりだろう。
なんでもない言葉なのに妙に緊張した。
真春は急いで帰る準備をして、何も言わない無表情の香枝と一緒に外に出た。
無言のまま、駐輪場まで歩く。
重苦しすぎる空気が漂っている。
その空気に押しつぶされそうになりながら、真春はどう切り出そうか考えた。
どうしよう。
避けてるよね?と聞いて「避けてない」と言われてしまったら、それはそれで終わりだ。
会話することすら拒まれそうで怖い。
駐輪場に着く直前、先に口を開いたのは香枝だった。
何の偶然か、律にキスされた場所と全く同じ場所で立ち止まった。
「ねぇ、真春さん。…律さんのこと好きなんですか?」
優しい、やわらかい声が、駐車場に響いた。
「えっ?」
予想もしていなかった問いに、好きじゃない、と瞬時に言えなかった。
なぜ突然、律の話題に…?
真春は混乱した。
「この間、見ちゃったんです」
鼓動が速すぎて、音が小さく聞こえる。
「真春さんと律さんがここでキスしてるとこ」
「え…あ、それは…」
まさか見られていたとは。
しかも一番見られたくない人に。
信じ難い事実に、真春は言葉が出なかった。
「あの日、お店に忘れ物しちゃったから取りに来たんですけど、そんな状況だったから急いで帰ったんです」
「…」
「真春さんはキスしたいくらい律さんのことが好きなんですか?」
「す、好きじゃない!」
反射的に言葉が飛び出し、語尾が強まった。
好きじゃない、律のことなんて。
「じゃあ、なんで…?」
香枝はやっと目を合わせてくれた。
でも、嬉しくなかった。
涙をポロポロ流していたから。
「あたしは律のことなんとも思ってない。キスは無理矢理されたの」
「無理矢理?なんで?わけわかんない!やだ!バカ!」
香枝は真春を突き飛ばした。
触れられた両肩がズキンと疼く。
なぜバカと言われているのか、なぜ香枝が泣いているのか、状況が理解できなかった。
何か言いたいけど、何も言えなくて、しばらく駐車場には香枝の鼻をすする音が響いていた。
「香枝…。なんで泣いてるの?」
一定の距離を保ったまま、真春は重い口を開いた。
このまま、いつもの秘密主義の香枝のままなのだろうか。
何も言わず、帰ってしまうのだろうか。
どれくらいの時間が経ったのか分からない頃、香枝はついに話し始めた。
「あの日、すごいショックでした。次の日会った時、どうしようって思いました。普通にしなきゃって思ったけど…やっぱり無理でした」
香枝は涙声で続けた。
「バイトにも行きたくないし、真春さんと律さんが楽しそうにしてるの見ると辛かった。だから、見ないようにずっと避けてました」
そう言って真春を見つめた香枝の顔は涙でぐしょぐしょだった。
「真春さん…」
とめどなく溢れ出す涙を拭いながら香枝は声を絞り出した。
そして、ヒックヒックと嗚咽を漏らしながら真春にギュッと抱きついて「好きです」と蚊の鳴くような声で言った。
心臓がドゴンと鳴る。
抱きつかれた拍子に、駐車場の壁に背中がトンと当たった。
「へっ…?!」
いつの日かの夢がフラッシュバックする。
香枝の言う"好き"は、自分の思う"好き"と同じものでいいのだろうか。
この状況、それ以外考えられない。
これは現実か?
それともまた都合のいい夢なのか?
ずっとずっと報われないと思っていた気持ちが、ついに届いてしまった。
こんな形で、現実になるなんて。
速すぎる鼓動が、香枝に伝わっているかもしれないと思うと、いてもたってもいられない。
真春は無意識に震える腕で香枝を抱き締めていた。
「あたしも」
香枝の存在を確かめるかのように、抱き締めた腕に力を込める。
「あたしも…香枝のこと、好きだよ」
「え…」
香枝が涙で濡れた顔を上げて、驚いたような目を向けた。
ずっと思い描いていたひと時のはずなのに何故か何の感情も湧いてこなくて、脳はこの状況を単純作業のように処理した。
真春は香枝の涙を両手の親指で拭った。
するとまた、その目に涙が溢れてくる。
「ちょ…なんでまた泣くの」
「だって…もう二度と話せないと思ったから。こんな風に、してもらえると思わなかったからっ…」
「あたしだってもう香枝と話せないと思ってた。無視されてたし」
「それは…それは真春さんが悪い!」
「なんで?」
「律さんとずっと仲良くしてるし、キ…キスまでしてるから」
「だからそれは律が無理矢理っ……!」
その後、何を言おうとしたのか、一瞬で忘れてしまった。
香枝に唇を奪われた。
あの時と同じ場所で、同じように手を握られているのに、この違う胸の高鳴りはなんだろう。
「…これくらい?」
すぐに唇を離して香枝は言った。
「へ…?」
「律さんとキスしたの、これくらいの長さですか?」
香枝は泣き腫らした目で真春を見据えた。
その目にはまた涙が溢れている。
そんな顔で見ないでよ。
胸が苦しくて仕方ない。
好きで好きでたまらない。
時間差で、好きという気持ちが込み上げてきて心の許容範囲をゆうに超えていった。
固まった心が徐々に溶かされていくような気がした。
じわじわと、温かい気持ちが滲み出てくる。
「ううん」
真春は「これくらい」と言って目を伏せると、香枝の唇に自分のそれを重ねた。
壁にもたれかかって香枝を抱き締めると、香枝もそれに応じて優しく抱き締め返してくれた。
長いキスをして唇が離れる。
「しょっぱい」
照れ隠しにそう言うと、香枝も恥ずかしそうに手の甲で顔を隠してへへっと笑った。
と、その時、裏口から大きな音が聞こえたかと思うと、足早に階段を駆け下りてくる戸田さんの足音が聞こえてきた。
やばいと思いながら香枝を引き離す。
香枝も同じように思ったのか、さっと手を後ろに回して組んだ。
「仲良いねー!まだいたの?」
戸田さんがこちらに向かって歩いてくる。
今日はお店の下の駐車場に車を停めていたみたいだ。
「あ、ハイ。ちょっと話し込んじゃって…。でも寒いんでそろそろ帰ります」
「雨降ってるから、早く帰りなね」
「はーい。お疲れ様です」
戸田さんは車に乗り込み、この間と同じように手を振りながら帰った。
しばらく意味もなく道路を見つめる。
「あー…びっくりした」
一気に現実に引き戻される。
雨が降っていることにも気付かなかった。
よく見ると、小雨が降っている。
鼻をすする音で、香枝が泣いていたことを思い出し、真春は俯く香枝を覗き込んだ。
「…大丈夫?」
「すみません…。もう大丈夫です」
「あのさ、香枝」
真春はこの際、律に言われたことを香枝に伝えようと思った。
これからもきっと律は何か仕掛けてくるに違いない。
「律のことなんだけど」
律の名前を口にしただけで、香枝の表情が強張った。
不安そうなその顔を見て、胸が疼く。
「香枝があたしと律をここで見た日、律に言われたの。『香枝よりあたしのことを好きになって。香枝と楽しそうにしてるの見たら、香枝に真春とあたしがキスしたこと言うから』って」
真春は冷え切った両手をマウンテンパーカーのポケットに入れて続けた。
口から白い息が上がる。
「あんなこと香枝に知られたくなかったから、なるべく香枝と話さないようにしようって思ったんだけど…結局見られてて、香枝に無視されてたからそんなことする必要なかったんだけどね。次の日香枝と会った時、どうしようかと思ったよ」
香枝は俯いたまま、何も言わなかった。
「新年会の時だって、本当はもっと香枝と話したかった。でも律がずっと側にいたから、無理だった。せっかく次の日学校休みでいっぱい飲めるねって言ってたのにね」
真春が笑いながら言うと、香枝はまた目に涙をいっぱい溜めて近付いて来たかと思うと「あたしだって、もっと真春さんと話したかった」と真春の背中をぎゅっと抱き締め、首元に顔をうずめた。
「新年会の時だけじゃなくて、普通に働いてる時も」
真春も香枝の背中に腕を回す。
「これからも律が色々言ってきたり、もしかしたら香枝にも迷惑かけることあるかもしれないけど、何かあったら言って」
「はい。…もう、バイトでは普通でいいんですよね?」
「うん、今まで通り働こ」
「真春さん…」
顔をうずめていた涙目の香枝が真春を見据えた。
サーサーという雨の音が強くなってきた気がする。
「ん?」
「もう1回だけ、いいですか?」
「何が?」
「分かってるくせに!…いじわる」
香枝は真春の答えも聞かずに、今度は首に腕を回して唇を重ねた。
目を閉じて、香枝の唇の柔らかさに酔いしれる。
こんなこと、絶対にいけない。
そんなの分かってる。
お互いに興奮していてこの刺激に冷静になれない。
寒くて白い息が上がるのに、抱き締め合っている身体は考えられないくらいに火照っている。
さも愛おしいというような求めるようなキスを繰り返し、普段の優しくて穏やかな香枝からは想像できないくらい積極的な行動に真春は戸惑った。
「ちょ…香枝…」
でも、律に同じようにされた時とは違い、全く嫌悪感はなく、むしろ心地よいくらいだ。
「真春さん…」
「んんっ…だ、ダメだって」
優しく引き離そうとするが、香枝は首に回した腕の力を緩めてはくれなかった。
次第に激しくなるキスに真春は理性が飛びそうになる。
ダメだ、こんなのダメだ。
何もかも後戻りできなくなってしまう。
駐車場の壁に背中が当たった時、飛んでいきそうになった理性が吸い寄せられるように戻ってきて、真春は力を込めて香枝から逃れた。
「…香枝、お、落ち着いて」
真春は肩で息をしながら香枝の両腕を握って「ごめん…」と言った。
「ごめんなさい……あたし…どうかしてる」
香枝の黒目がちな可愛らしい瞳は濡れ、頬は上気し欲情しているようにも見えた。
「あたしは、香枝のことが好き。好きだけど…今はこうするだけでいい」
真春は子犬のような目をした香枝を抱き締めてまた「ごめん」と呟いた。
感情の方向が分からなくて、中途半端なことしかできない。
好きって何なの。
キスって何なの。
もう、何も分からない。
でも、もっとキスしたい。
でも、それ以上は許されない。
結局ここまできても答えは分からないままだ。
いつになったら、答えは見つかるのだろうか。
なんか自分って、最低かも。
あの日以来、香枝とは今まで通りに働くことができた。
律との話では香枝に無視されているということになっていたので、今まで通りと言っても必要以上に話さないようにはしていた。
もちろん、スキンシップなんてご法度だ。
今まで全然していなかった香枝とのメールも無事に再開し、他愛ない話を楽しんでいるが、あの日以来お互い「好き」という言葉は一度も使わないし、そういう話題も出てくることはなかった。
キスを中断したことで、不安にさせてしまったのだろうか。
お互いに好きだという気持ちには変わりはないはずだが、漠然とした今後の不安がのしかかる。
気持ちを伝えて、それで…?がついに現実となってしまったのだ。
「真春さん!」
2月も残すところあと1週間となった晴天の日曜日。
アイドルタイムで暇を持て余していた時、やけにテンションの高い未央がパントリーでコップを並べる真春の元にやってきた。
「どうしたの、未央。なんか今日元気だね」
「いやー、ちょっとしたお誘いがありまして」
「えー、なになに。なんか怖いんだけど」
「何も怖くないですって!いい話ですよ」
未央はイルミネーションの時と同じトーンで囁いた。
「来月遊び行きません?香枝と3人で!」
"香枝と"の部分を強調していたように聞こえたのは気のせいだろうか。
横目で見ると、未央はニヤッと笑った。
「うん、いいよ。どこ行こっか?」
真春は何も悟られないようにいつもと変わらぬトーンで答えた。
しかし心の中は少しドキドキしている。
未央は、今度はニヤニヤしながら「旅行行きたいんすよねー」と言った。
「旅行かー。いいね、行きたい!あたし暇だしちょっと調べとくよ」
「あざーす!あ、それと…」
真春がキョトンとした顔をすると未央は「香枝と旅行ですよ?よかったですね、真春さん!」と冷やかすように真春の肩を叩いた。
「そ、そんなんじゃないから!もう別になんとも思ってないよ。友達だもん」
自分で言って、自分を諭しているようだった。
本当はどうしようもないくらい香枝のことが好きだ。
あの日以来、今まで以上に意識してしまっていることに、真春は気付いていた。
でもこんなこと、未央には言えない。
「ま、そういうことなんで、よろしくお願いしますね!」
香枝と旅行か…。
期待と不安が入り混じって、バイト中はそれしか考えられなかった。
どこに行こう。
家に帰ってノートパソコンを開いて電源を入れ、インターネットを起動して、とりあえず旅行サイトをいくつか眺めてみた。
が、種類が多過ぎてどれにしたらいいのかよく分からない。
少し絞り込まないとな…と考えていた時、携帯がブルブルとメールの受信を告げた。
開いてみると、香枝からだった。
『未央から聞きました?旅行、楽しみですね!』
『うん、楽しみ!どこか行きたいとこある?』
大雑把な質問で申し訳ないと思ったが、それ以外に思いつかなかった。
そもそも未央もかなり大雑把に企画してくれたものだ。
とはいえ調べると立候補したのは自分なのだから、責任は持ってやらなければ。
『うーん。山!』
香枝からの返事は早かった。
揃いも揃って大雑把だ。
その回答に真春は鼻で笑ってしまった。
1週間後。
『旅行の行き先決めましょ!明日の22時うちんち集合で!』
部屋で4月から始まる国家試験対策の講義で使う資料に目を通し終えて寝ようとしていた時、未央からメールが届いた。
『了解!』
それだけ返して真春は資料を机の端に寄せると、ベッドに寝転がった。
香枝と旅行…。
ここ最近、それだけが真春の脳を支配していた。
バイト中は今まで通り働いてはいるが、香枝とシフトが被っている日は気が気でない。
あの日の事を思い出すと、発作のように心臓が暴れ狂う。
全くのシラフの状態であそこまでしたことを今考えると、本当にお互いどうかしていたと思う。
この先はあんなこと、あるのだろうか。
香枝はどう思っているのだろうか。
そんな事を考えているうちに真春は夢の中にいて、知らぬ間に翌日になっていた。
ランチまでのバイトでは可もなく不可もない律の絡みにいつもと変わらないテンションで真春は対処した。
香枝と何かあったのかどうかも、最近では聞かれなくなった。
そして、好きともなんとも言わなくなっていたので逆に変な感じだ。
興味がなくなってしまったのだろうか。
しかし相変わらず「今日も可愛いね、真春!」という台詞は健在だった。
バイトを終えて家でゆっくりした後、22時に缶ビールの6本入りのケースを持って未央の家に向かった。
今日は夜通しで調べる予定なので、服装はパーカーにスウェットと寝る準備は万端だ。
3階建のスタイリッシュな四角い白い家の前に着いて呼び鈴を鳴らすと、玄関から未央が出てきた。
「お疲れ様でーす!寒いから入って入ってー」
広い玄関で靴を脱いで廊下に上がると、遠くから階段をバタバタと降りてくる音がした。
「真春さーん!」
えへへーとすっぴんの香枝が笑った。
「あは、香枝すっぴんじゃん!あんま変わんないね」
「早く来て!」
自分の家のように振舞う香枝に未央が「うちなんですけどー」と突っ込む。
あの日を境に、いつもと変わらない香枝を見ると、何を思っているのだろうと考えてしまう。
好きだと言ってくれたし、自分も香枝に好きだと伝えた。
香枝も自分と同じような気持ちなのだろうか。
はしゃぐ香枝を見て、色んな意味で真春の胸はギュッと締め付けられた。
何故か香枝に案内され、2階の一番奥にある未央の部屋に入る。
広さは真春の部屋と同じくらいだが、綺麗に整頓された机とクッションが4つも置かれたベッドはなんだか女子らしさを感じた。
つまらない自分の部屋とは大違いだ。
真ん中に置いてある丸いテーブルには、ノートパソコンが置いてあり、準備は万端のようだ。
着ていたモッズコートを畳んでリュックと一緒に部屋の隅に置く。
「あ、これ。飲むかなーって思って買ってきたんだけど」
真春は未央にビールの入った袋を渡した。
「さすがです!飲みましょ飲みましょ」
それぞれ缶を持って乾杯し、未央を真ん中にしてインターネットで旅行先を検索し始めた。
「どこがいいですかね」
「香枝、山がいいんでしょ?」
「はい。でもみんな行きたいとこあるなら、山じゃなくてもいいですよ!」
「山ってか自然があるとこがいいっすかね」
未央はそう言いながらパソコンをベチベチといじってはビールを飲むを繰り返した。
真春はパソコンの画面を真剣に見つめる香枝をチラチラと見ながらビールを飲んだ。
久しぶりにバイト以外で会ったので、なんだか緊張してしまう。
同じようにスウェットにパーカーといった部屋着を身に付けているのも、何度も見ているはずなのに新鮮で、無性に可愛く見える。
未央の家に来てからこの部屋に入るまでの間、無邪気にはしゃぐ子供のような香枝を、無意識にずっと目で追っている。
追わずにはいられないのだ。
「あ!ここなんてどうですか?」
未央が、少々山奥だが電車で行ける、自然の多いドンピシャな場所を探し当てたところで、どこかへ行ってしまっていた真春の心が「ただいま!」と戻ってきた。
「いいじゃん!そこにしようよ!さすが未央」
香枝が嬉しそうに未央の肩を叩いた。
「じゃ、もう泊まるところも決めちゃうか!」
温泉でも有名な場所だったので宿泊施設は溢れるほどにあり、決まるまでにそう時間はかからなかった。
予約まで済ませて全て完了したのは午前1時。
パソコンの画面を見続けていたせいで、頭がクラクラする。
「終わったー!」
真春は後ろにあるベッドにもたれかかって伸びをした。
「未央がほとんどやってくれてたのになんか疲れちゃった。ありがとね」
「いえいえ。決まって良かったっすね!」
未央が軽く欠伸しながら言った。
「眠い…」
香枝も小さな欠伸をして目をこすった。
「そろそろ寝ますか」
未央が隣の部屋から布団を持ってくると、香枝は待ってました!と言わんばかりに布団に潜り込んだ。
「もう寝る!」
すぐ隣でこちらを向いて布団を抱き枕のようにして寝始めた香枝を見て、真春は自分の部屋で一緒に寝た時のことを思い出した。
懐かしくて、むず痒くなる。
「まだビール残ってますけど」
「あ、そうだよね。香枝寝ちゃったけど…いっか、飲もっか」
「ですねー。せっかく持ってきてくれたのに、勿体ないですし」
真春と未央は他愛のない話をしながらビールを飲んだ。
彼氏とは、クリスマスにイルミネーションを見に行った後レストランでディナーを楽しんだらしい。
「うちらなんて、しらす丼だよ」
「いいじゃないっすか!あたし達もゆくゆくはそういう風になりたいですよ」
「トキメキないよー?」
「トキメキなんてずっとある方が珍しいですって」
未央が語るように言った時「真春さーん」という眠そうな香枝の声が聞こえた。
「あれ?寝たんじゃなかったの?」
笑いながらビールをひと口飲んだ時、香枝にパーカーの袖を握られて「一緒に寝よ」と言われたのでビールが口から飛び出しそうになった。
栗色のセミロングの髪で顔が覆われているので、どんな表情をしているのかは分からない。
目は、閉じているのだろうか。
前からこういうことは何度かあったはずなのに、ドギマギして仕方なくて、未央に悟られないようにするので精一杯だ。
「真春さん、香枝と一緒に布団で寝ます?」
未央は何を思ったか、ニヤニヤしながらこちらを見て聞いてきた。
「あたし、ベッドで寝る!」
咄嗟に出た言葉に香枝はどう思っただろう。
本当は一緒に寝たいけど、今はそんな勇気、ない。
「だめです、ベッドはあたしのです」
未央がニヤニヤしながらパソコンを片付けている間に、真春はベッドに入り端の方で丸くなって寝たフリをした。
「あ、こらー」
そんな未央の声も無視して目を閉じていたら、いつの間にか朝が来ていた。
香枝と寝たかったのは事実だが、あのまま一緒に寝ていたら、積極的な香枝がどさくさに紛れてスキンシップを図ってきそうな気がして怖かった。
未央がいるのにそんな空気は嫌だったし、そもそも自分も耐えられていたかどうかも疑問だ。
キスでもしてしまいそうだ。
お昼頃に真春と香枝は未央の家を後にして、分かれ道まで自転車を押しながら並んで歩いた。
一緒に寝るのを断って、香枝は何か思っただろうか。
「決まって良かったね、行き先」
真春は考えたくなくて、当たり障りのない話題を口にした。
「はい。こんな早く決まると思いませんでした。未央に感謝ですね」
「だね」
「それに」
香枝はゆっくり歩きながら「すごく楽しかった」と笑った。
その一言で、真春の心は火が灯ったように明るく、温かくなった。
その一方で、心の奥底にはまだ冷たい塊が残っているようだった。
お互いが今どのように思っているかは分からない。
何故か口に出すのが怖い。
勘違いだったらどうしよう、あの日が夢だったらどうしようと、まだ信じられなくて何もかもに自信が持てない。
あやふやなまま時間が過ぎ去り、何もはっきりしないまま過去の話となってしまうのだろうか。
いつになったら、本物の香枝と向き合えるのだろうか。




