クリスマスの罠
12月23日の夕方、真春は車で家を出発した。
こんな時に、真春は風邪を引いていた。
忘年会が終わった後から体調がおかしかったな、と今更思う。
熱はないが、喉が痛い。
声がガサガサなのでマスクをしているが、ニット帽にマスクなので不審者のようだ。
そんな不審者の装いで最初に訪れたのは眩しいほどのオレンジ色の外壁に、木造のドアといった物語に出てきそうな家。
簡易的な門の前に立っていた南がこちらを見てニコニコしながら両手を振っている。
ゆっくりと近づいて窓を開けると、南は既にハイテンションだった。
「きゃー!真春さん!助手席乗っていいですかー?」
「どうぞ」
ドアを開けて助手席に座った南がシートベルトを引っ張る。
「あれ?真春さん、風邪ですか?」
「うん、ちょっと喉が痛くて」
「えー、大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫。じゃあみんな迎えに行こっか!」
真春が車を走らせると、南は「やばーい!テンション上がるー!」と高い声で叫んだ。
優菜とはまた違ったハイテンションの南は、見た目も性格も誰が見ても可愛いというタイプだと思う。
小柄で華奢で、少しギャルっぽい見た目だが、とても優しくて真面目な子だ。
チャラ男の泰貴にはもったいない。
南に、目を覚ませと言いたい。
そんなことを考えながら車を走らせ、他のメンバーを迎えに行く。
全員が車に乗り込んだのは18時頃だった。
一番最後に迎えに行った香枝は、いつもと同じかそれよりも少し高いテンションで車に乗り込んだ。
「よろしくお願いしまーす!」
「はーい」
「真春さん、風邪?」
「あー、うん。これで聞かれたの4回目」
「誰だって心配しますよ、そんなマスクなんてして声枯れてたら」
香枝がみんなに「ね?」と同意を求める。
「そうそう。寒さで悪化させないようにね!」
奈帆が香枝に同調した。
「ありがと」
思っていたよりも普通に香枝のことを受け入れられている。
真春は気付かれないように深呼吸した。
暗い山道を走ること30分。
目的地の公園に着いた。
駐車場はもう既に満車だったので、少し離れた臨時駐車場に車を停めることになった。
こちらの駐車場も間もなく満車となりそうだ。
警備員に案内された場所に駐車し外に出ると、真春は軽く伸びをした。
外の空気は山奥ということもあってとても澄んでいる。
「寒いねー!やっぱ山は違うわ」
真春は思わず叫んでマフラーに顔を埋めた。
みんなで寒い寒いと言い小刻みに震えながら歩き出す。
臨時駐車場から公園までは徒歩だと結構な距離だが、みんなで並んでキャッキャ言いながら歩くと、とても短く感じた。
はしゃいでるうちに寒さも吹っ飛び、むしろ暑いくらいになった頃。
突然、香枝が「あーっ!」と指をさした。
その先にあったのは、キラキラとカラフルに光る橋。
「きれー」
5人はしばらくその橋に釘付けだった。
橋を通り過ぎてしばらく歩くと、イルミネーションがたくさん飾られている公園の入り口が見えてきた。
蔦でできたゲートをくぐると、中はまばゆい光に包まれたかわいい置物や建物がたくさん飾られていた。
「有名なだけありますねー!やっぱすごい」
未央が興奮しながら言う。
南と奈帆と香枝が大はしゃぎしているのを眺めながら、真春は未央を見上げた。
「めっちゃ綺麗!誘ってくれてありがとね」
お礼を言うと、未央は「こちらこそ、運転ありがとうございます」と微笑んだ。
イルミネーションに照らされた未央はとても色っぽかった。
そういえば、この間の気になる人とは上手くいったのだろうか。
真春がそれとなく聞こうとした時。
「ねー!真春さん見て!」
香枝がオレンジ色に光るクマの飾りを見て興奮気味に手招きした。
真春がゆっくりそちらに歩いて行くと、未央も隣に来た。
「香枝、ホント子供みたいっすね」
「今日は特にね」
はしゃぐ香枝を見て純粋に可愛いな、と思う。
普通ではない眼差しで香枝を見ていることなど、誰も気付いていないだろう。
こんな時も気持ちは後戻りすることはなく、どんどん加速していく一方だ。
「寒いからなんか食べようよ!」
たくさんの出店が並んでいる広場のようなところに着くと、奈帆が声を震わせながら言った。
一通り出店を見て、悩みながらみんなで当てもなく歩く。
「おでんにしよっかなぁ」
真春が呟くと、奈帆が賛同した。
「じゃああたしもおでんにする!真春さん行こっ!」
奈帆はそう言うなり、真春と腕を組みおでん屋さんへと歩き出した。
「勝手に行ってはぐれないかな?」
「大丈夫っしょー」
奈帆に半ば引きずられながらおでん屋さんまで歩く。
眩しいくらいにオレンジのライトが光るお店の前まで来て、メニューを覗き込む。
どれにしようかと悩んでいる間も奈帆は真春と腕を組みっぱなしだ。
奈帆もこういうの好きだよな、と思いながらみんなはどこに行ったのか探そうと真春が後ろを向くと、他の3人もすぐ後ろにいた。
奈帆にベタベタされている自分を見て、香枝は何か思ってくれるだろうか。
ヤキモチ妬いてくれてたらいいな、なんて調子のいい妄想を膨らませてしまう。
「真春さん!」
「えっ?!」
「どれにするんですか?」
「あ、ごめんごめん…」
各々注文したおでんを受け取って、焚き火の近くの6人席に座った。
焚き火の一番近くに座ったので火が近すぎてやや暑い。
「うまーい!やっぱおでん最高!」
隣に座る奈帆が叫ぶ。
真春も熱々の卵を口に運んだ。
寒さでおでんの美味しさが倍増しているように思える。
斜め向かいに座る香枝は、大根を頬張っていた。
真春の部屋に来た時も大根を食べていたのを思い出した。
そして、香枝を見つめている自分にはっとなり、気付かれないように周りを確認した。
せっかくのイルミネーションなのに、イルミネーションとおでんを足しても香枝のことを考えている時間には満たないと思う。
あの夢を見てから一度は嫌な気持ちになったが、香枝への思いに拍車をかけるきっかけとなってしまった。
今まで以上に、意識してしまう。
おでんを食べ終えた後、みんな歩き疲れていたので少し休憩することにした。
バイト仲間が集まれば話題は大体バイトのことだ。
優菜と清水さんの話題が出てきた時には、真春は立ち去りたい衝動に駆られた。
おまけに奈帆が優菜の悪口を鬼の形相で語るものだから、どうしていいか分からず真春は一度、逃げるようにトイレに行った。
「あの…。みんなに言わなきゃいけないことがあるんです」
真春がトイレから戻った時、南が改まって言った。
「あたし、ヤスくんと別れました」
「えー!うそー!あんなにラブラブだったのに?!」
未央は大層驚いたといった様子で、元々大きな目を更にまん丸にして見開いた。
奈帆は南と仲が良いので、知っているようだった。
真春も初耳だったので驚いたが、それよりも香枝のことが気になって仕方なかった。
そもそも、南は泰貴が香枝のことを好きだと知っていながら片思いをしていたので、香枝のことをあまり良く思っていなかったはずだ。
バイトでは可もなく不可もない程度に話す仲ではあるが、お互い心の内は分からない。
別れまでの経緯を聞いていくと、やはり泰貴の女絡みの問題が発生して別れに至ったとのことだった。
「あいつマジ最低なんですけど」
「もう一緒に働きたくないわー」
南と奈帆を中心に、泰貴はこれでもかというくらいに罵られた。
真春は「ここまでヒドいやつだとは思わなかったよ」と呆れたように笑った。
おでんを食べ終えてから香枝は比較的黙っていることが多かった。
無理もないか。
優菜と清水さんの話をされ、その次は泰貴の話だ。
どれもこれも香枝にとっては考えたくない話題だっただろう。
「ちょっとトイレ行ってくる!」
奈帆と南が席を立つと、「あ、待って!あたしも行きたい!」と未央も行ってしまった。
去っていく3人の後ろ姿を見ながら、真春はただ「どうしよう」と考えた。
突然、2人きりになってしまった。
「どうしたの?香枝。なんか元気ないけど」
真春は感情を悟られないように平然を装い、斜め向かいに座る香枝に話しかけた。
「え?そうですか?そんなことないですよ」
香枝は笑って答えた。
「眠いだけです」
「そっか。テスト中だもんね、」
「そうなんですよ。今日も昼間勉強してました」
その言葉を聞いたら、なんだか急に香枝の顔に疲労の色が浮かんで見えるような気がした。
「だよね…じゃあイルミネーション今日じゃなくて違う日にすればよかったね」
「えー、そんな!真春さんと見れたからいいんです」
「あはは、嬉しい事言うね」
その言葉、どんな気持ちで言っているのだろうか。
やっぱりお世辞なのかな。
「なんかちょっと寒くなってきましたね」
そういえば、焚き火の火が弱くなってきた気がする。
「ちょっと待ってて」
真春は立ち上がって近くの自動販売機に向かい、ココアを2つ買った。
戻ってきて「はい」と香枝にココアを1つ渡す。
「え?なんで?」
キョトンとした顔で見上げる香枝。
「寒いから。あと、テスト頑張れココア」
「へへ、ありがとうございます」
香枝はやんわり笑ってココアの缶のフタを開けた。
香枝の向かいに腰を下ろして、同じく缶のフタを開けようとした時。
「…っくしゅ!」
何時間も寒い中で過ごして、風邪が悪化したかもしれないと真春は思った。
なんとなく喉の痛みが増している気がする。
「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。てか、あれ以来体弱ってる」
真春が困ったように笑うと「じゃあ、あったかくしないと!」と言って香枝は、自分がしていた手袋を真春に渡してきた。
「あったかいですよ」
「香枝寒いでしょ」
「いいの、もう寒くないから。風邪もっと悪くなったら困るから、手袋して」
香枝は真春の手に手袋をはめた。
淡い黄色の毛糸でできた、可愛いミトンタイプの手袋。
ほんわか温かい。
身体も心も。
「ありがと」
「いいえ。ココアのお礼です」
「いいのに」
香枝はまたやんわり笑った。
手袋はあたたかくて、やわらかくて、いい匂いがした。
3人が戻って来てまた少し話し、22時になる前に帰ることにした。
ちょっとの休憩のつもりが、結局こんな時間まで話し込んでしまった。
女同士の会話って何時間も続くよなぁ、と他人事のように思いながら真春は駐車場までの道のりを歩いた。
帰り道、イルミネーションからの帰宅ラッシュに巻き込まれるかと思ったが、意外とスムーズに帰れた。
未央、奈帆、南、香枝の順にそれぞれ家まで送り届ける。
「手袋ありがとね」
香枝の家の前に着いた時、真春は改めてお礼を言った。
「全然いいですよ。お大事にしてくださいね」
後ろから香枝の優しい声が聞こえた。
「うん。うがいしっかりする」
「あまり無理しないように」
「はいよ。なんか、お母さんみたい」
「だって心配なんですもん」
香枝は運転席の座席からひょっこり顔を覗かせて真春を見た。
あまりにも近くて、胸がドキリと鳴る。
「香枝」
「なんですか?」
「今日さ、南も来るって知ってたのになんで来たの?…あ、なんで来たのって聞き方おかしいか。あはは」
真春は「気まずくなかった?」と率直に聞いた。
香枝はしばらく考えてから口を開いた。
「ちょっと。でも、行って良かったです」
「そっか。ならよかった」
真春は弱々しく笑った。
嫌な気持ちになっていなければいいけど。
「変なこと聞いてごめんね」
「いえ。でも、真春さんヤスくんとのこと知ってたから、いてくれて心強かったです」
香枝はそう言って「じゃあそろそろ行きますね」とドアを開けた。
「あ、うん…」
運転席の窓を開けると、香枝は「運転、ありがとうございました」と笑顔で言った。
「いーえ。テスト頑張ってね」
微妙な感じのまま、香枝と別れを告げる。
真春は丸めたため息をついて、ゆっくりと車を走らせた。
雲ひとつない夜空には、綺麗すぎる三日月が輝いていた。
クリスマス当日、世の中は浮き足立っているというのに、真春は朝から店に缶詰め状態だった。
今日はオープンからラストまでバイトだ。
恭介とは27日に遊ぶ約束をしていて、『どこ行きたい?』と今朝メールが来ていたが、まだ返事を返していない。
ギリギリまで何をするかも決まっていない上に行き先すら決まらず、クリスマスらしさを微塵も感じさせないところが自分ららしいと思う。
ときめきは少ないものの、とても楽でこちらも気を遣わなくて済むので真春は恭介とのこの空気感は悪くないと思っている。
普通の女子なら絶対に許さないだろう。
真春はどこに行こうかと考えながらサラダバーの整理をしていた。
クリスマスのランチなんてお客さんはあまり来ず、家族連れか、競馬新聞を読むおじさんがポツポツと席を埋めるだけだった。
アイドルタイムとなれば、お客さんはほとんどいない。
未央は以前からいい感じだった彼とめでたく付き合うことになったようで、クリスマスはどこに行くかという話で盛り上がっていた。
「クリスマスにバイトだなんて、うちらはたから見たら終わってますよね」
未央がサラダバーの向かい側から笑いながら言った。
「ホント。来るお客さん全員にかわいそうな目で見られてるような気がしてならない」
「真春さん、彼氏とクリスマスどこ行くんですか?って言ってもあさってはもうクリスマスじゃないですけど」
「うーん。どこ行きたい?って聞かれてるんだけど、全然思いつかなくて…未央は?てか初クリスマスじゃん」
真春は「燃えるね〜」と未央を見てニヤニヤした。
未央の彼氏も学校が忙しいため、同じく27日にデートの予定らしい。
「真春さん目がやらしいですよ。行く場所は彼氏が考えてくれてるんで、当日までのお楽しみです」
「へー、なんかいいねぇ!あたしたちなんか付き合う前からいつもなんでもテキトーで、全然そういうドキドキとかないよ」
「それはそれでいいじゃないですか、仲良しカップルって感じで!真春さんたちみたいな飾らないカップル羨ましいですけどね」
「そう?」
2人で話していると、「白石さんと中条さん休憩入っちゃってー」と戸田さんの声が聞こえてきて、話が中断された。
「はーい」
真春は、きっと今日中には消費されないであろう野菜のストックをサラダバーの下の冷蔵庫に戻して、帽子とサロンを外して休憩に入った。
一足先に来た未央が頼んだパスタを戸田さんが作っている横で、真春は炊飯器のご飯をお皿に盛って、大鍋から大きすぎるおたまでカレーをよそった。
「真春さん、カレーでいいんですか?」
カレーの入ったお皿とスプーンを片手に事務所に戻ると、未央が「また?!」と言った表情をした。
「うん」
「ホント、カレー好きですよね」
未央は半ば呆れながら笑った。
「なんかここ来ると食べたくなっちゃうんだよねー」
テーブルにお皿を置いてロッカーから携帯を取り出す。
ダイレクトメールを大量に削除した後、真春はカレーを食べながら携帯の画面を見続けた。
画面は真っ白。
恭介になんと送ろうか考えているが、なにも思いつかない。
考えている間に、未央が頼んでいたパスタがやって来た。
2時間の休憩中、真春が悩みに悩んで出した答えは、水族館だった。
決め手は近くに前から行きたいと思っていたしらす丼屋さんがあるからだ。
正直にそう伝えたところ、恭介は『いいね!俺もしらす丼食べたい!』と乗り気だったので安心した。
洒落たレストランでディナーを食べるでもなく、イルミネーションを見に行くでもなく、真冬の海沿いのしらす丼屋さんに行き、水族館を楽しむだなんてカップルのクリスマスの理想像とはかけ離れている。
でも、そうしたいのだ。
未央に水族館としらす丼の話をして「2人らしい!」と爆笑された17時を境に、お店は瞬く間に満席となり、未央とは全然話せなくなってしまった。
「尋常じゃない忙しさだよね、これ」
「やばいです、もう。全然回りません」
久しぶりに未央と会話をしたのは20時を過ぎたところだった。
店内は家族やカップル、恋人いない組であろう人達の集団でごった返していた。
座敷は10人超えの大所帯のヤンキーファミリーが陣取っており、子供騒ぎまくり親はビール飲みまくりで悲惨な光景が広がっていた。
全体的に子供が多く、ドリンクバーは地獄と化しており、なくならないだろうと余裕をぶっこいていたサラダバーももうほとんどない。
「未央、悪いんだけどサラダバー補充してくれない?」
真春は料理を提供し終えて裏に行こうとした未央を呼び止めて言った。
「オッケーでーす!もう結構なさそうですもんね」
「うん…ちょっと待って」
メモ用紙に他の野菜のストックを正の字で書いて未央に渡す。
横棒1本ばかりだ。
「ひどい」
未央は苦笑いしながらキッチンの奥にある冷蔵庫へ向かって行った。
真春はデシャップ台に乗せられた料理と伝票を持って「戸田さん、ちょっとお客さん入れるの止めますね」と戸田さんに声を掛けた。
伝票がレールに挟みきれなくなり、ついにデシャップ台に並べられるという見たこともない状態になっていた。
キッチンは色んな料理をひたすら作り続けているので、暑くてサウナ状態だった。
戸田さんと社員さんが汗をダラダラ流しながら駆け回っている。
「うん、お願ーい。表はとりあえず白石さんに任せるよ。何かあったら言って」
そんな中でも戸田さんは涼しい声のトーンとこの笑顔。
見習わなくては。
「はーい」
「あと、朝比奈さんのこともフォローお願いね」
「了解です」
クリスマスということもあり希望休を出している子が多く、普段の休日より少ない人数でお店を回していかなければならないので、一言で言うと本当に"苦痛"の極みである。
更に最近、新人のバイトを採用したらしく、その子もいたので尚更やりづらい。
頭数はいても戦力外なら意味がないと、真春は珍しく嫌な事を考えてしまった。
しかも今日会うのが初めてで、ピークを迎えた時に出勤してきたのでまだ何も話せていない。
バッシングをするか、お客さんにお冷やを出している姿しか見ていない。
そして今この瞬間、香枝と優菜が楽しそうに遊んでいることをふと思い出してしまい、イライラが止まらなくなった。
忙しさも相まって、イライラは倍増だ。
料理を提供した後、他の子達にご案内を一旦ストップさせると伝えようとした時、「5名様ご案内しま〜す!」という、汐里の甲高いハスキーボイスが聞こえてきた。
しかも、よりによって男子中学生5人組。
面倒臭いことになるのが目に見えている。
既にギャーギャーとうるさい。
その瞬間、戸田さんのようになろうという心は一気に砕け散った。
ご案内を済ませた汐里を呼び出す。
「なんで勝手にご案内したの?」
「え…」
汐里は、目を泳がせて硬直している。
「お店回ってないの分かる?サラダバーの補充で今未央が裏に行って表はマイナスだし、キッチンも2人だから料理出来るスピードは倍なのに人は全然いないから料理提供も遅れるし、洗い物だって全然進んでないし…」
「……」
「あ…」
真春はそこまで言った後、「ごめん」と言った。
汐里は見たことのないような目でこちらを見ていた。
「とりあえず、2番と5番だけそのままにして、あと全部バッシングしてきて。伝票が半分無くなったらご案内再開するから」
「すみません…」
しょぼんとする汐里がホールに向かおうとした時、お座敷席側にある暖簾からお客さんが顔を出して「すみませーん。オレンジジュース出ないんですけどー」と言ってきた。
汐里がパッとこっちを見て、目で訴えてきた。
「お客さんの対応からお願いします。食器全然ないから、あたしとりあえずできるところまで洗い物してるからね。他の子に、料理出るの気にしながら回ってって伝えといてね」
「はい…」
汐里はそろそろとお客さんの方に向かって行き、暖簾をくぐってホールに出た。
「珍しいね、白石さん」
「え、何がですか」
「怒ってる」
戸田さんはまた涼しい声で言い、ふふっと笑った。
「…すみません」
「そんな日もあるよね」
そんな日もある、か。
確かに、今までバイトでこんなにイライラしたことなんてなかった。
やはり忙しさは人を怖くするのだ。
今日はさやかも香枝も優菜もいない。
予想外の大混雑かつ仕切る人が誰もいないからこんなにてんやわんやしているのだ。
誰のせいでもないのに。
真春はため息を飲み込みながら洗い物に没頭した。
しばらくすると、噂の新人、朝比奈律がトレンチに乗せた洗い物とまだステーキが乗っている鉄板を運んできた。
馬鹿丁寧に色々と片すので、真春は「そこ置いといて」と冷たい口調で言ってしまった。
またやってしまった。
やばいと思い律を見ると、案の定困惑したような顔をしていた。
「あ…ごめん。あたし洗いながら片付けるからいいよ。朝比奈さん…だっけ?」
律は鉄板を持ったままそこに立ち尽くしていた。
「どしたの?」
「お客さんが、焼き加減が違うって言って怒ってて」
「えっ?!」
真春は洗い物をする手を止めて律の側に立った。
「焼き加減は何て言ってたの?」
「すみません…聞いてません」
真春は何か言おうとしたが、戸田さんに確認することにした。
自分が怒っても仕方ない。
キッチンのミスなのかオーダーの取り間違えなのか、それかただのクレーマーなのかもしれない。
戸田さんに指示を仰ぎ伝票を再発行すると、焼き加減はウェルダンだったが提供されたのがレアだったことが判明した。
「ごめんごめん。謝りに行ってくるわ」
戸田さんは料理の手を止め、ゆったりとした足取りでお客さんの元へと向かって行った。
「今度からはちゃんと聞いてきてね」
「はい」
「あ、そういえば自己紹介まだだったね。白石真春です。よろしく」
「朝比奈律です。よろしくお願いします」
律は爽やかな笑顔を見せ、ペコリとお辞儀した。
真春よりも背が高く、未央には届かないがおそらく160cm台後半はあるだろう。
色黒で、目鼻立ちのハッキリした子だ。
「今まで何度か入ってると思うけど、いきなりこんな忙しい時にぶち込まれて正直どうしていいか分からないよね」
真春は「あはは」と苦笑いして律の心を少しでも和らげようとした。
「今は忙しすぎて教えられそうな事ないから…とりあえず空いてるお皿下げてきてもらえる?」
「はい」
律は元気な声を出してホールに出て行った。
その後ろ姿を目で追った後、真春は終わりの見えない洗い物と無言で戦い始めた。
締め作業が終わったのは0時過ぎ。
真春は事務所の椅子にドサリと座り込み、テーブルに突っ伏した。
未央が「つかれた…」と小さく呟く。
あの後、22時に汐里が帰り際「すみませんでした」と謝ってきて、真春は心が痛くなった。
「ごめんね、言い方キツかったよね。忙しかったからちょっとイライラしてた」
「いえ、あたしが悪いんです。真春さんに相談するべきでした…」
金髪でハスキーボイスの見た目には似つかわしくない真面目なトーン。
人は見かけによらないという言葉はこういう時のためにあるのかもしれない。
「あたしも声掛ければよかったね。…次はお互い出来るようにしよ。じゃ、お疲れ様」
汐里のあの硬直した顔を見た時、やってしまった…と罪悪感が心を支配した。
怒り慣れていないので、人に注意すること自体が苦手で引け目を感じてしまう。
しかし、珍しいことに怒り任せにあんなに口からスラスラと言葉が出てきてしまった事に真春は自分で少し驚いていた。
「はぁ…疲れた」
「ですね」
「お酒が飲みたい」
「ですね。行きますか?」
「行っちゃいます?」
真春と未央は顔を見合わせて、ニヤニヤした。
すぐに着替えて、最近この近くに新しく出来たと噂されている居酒屋に行くことにした。
深夜の冷たい空気の中、自転車で5分ほど走っていくと【Bingo】と書かれたネオン看板が見えてきた。
ドアを引くと、カランカランと乾いたベルの音が入店を知らせる。
「いらっしゃいませ」
店内は白を基調としたシンプルな空間。
オレンジの間接照明があたたかい。
居酒屋というより、バーに近い雰囲気だ。
お客さんは誰もいない。
2人は案内された奥の席に座ってメニューを開いた。
「うわ!ビールだけでこんなに種類がある!」
未央が声を上げた。
とりあえずビール…にするにも選ばなければならないところが、なんだかオシャレに感じる。
お互い違うビールを注文し、運ばれてきたところで乾杯する。
「おつかれー」
まずは自分が頼んだビールを一口、そして交換して一口飲む。
「あっ!おいしい、このビール!」
「でしょでしょー!高いだけありますよね!」
未央は黒ビールを注文していた。
見た目はコーラのように黒いが味はしっかりビールで、なんだか不思議な味だがとにかくおいしかった。
半分飲んだところで真春はタバコに火をつけた。
未央に「いる?」と言うと「いいんすか?」と言って1本受け取った。
「真春さん、汐里にちょっと怒ってましたね」
「え、聞こえてたの…」
「そりゃ聞こえますよ。狭いんですから」
「そっか」
真春は「怒るつもりじゃなかったんだよ」とため息をついた。
「平和主義の真春さんがあんな風にトゲトゲしてるの初めて見たからビックリしちゃいました。汐里も相当ビビってたと思いますよ」
「やっぱそうだよね…傷付けちゃったかな…」
「いやいや、そこまでメンタル弱かったら困りますよ。真春さん、ちゃんとアフターフォローしてたんで絶対大丈夫ですって!」
未央は火のついていないタバコを振りながら言った。
「そうかな…」
「それに、真春さんに何か言われても嫌な気しませんよ。頼み方だってちゃんと気遣ってくれてて気持ちいいし、どっかの誰かさんみたいに横柄じゃないですから」
「どっかの誰かさんって誰よ」
「他に誰がいるんですか?」
未央は鼻で笑うと、黒ビールを一気に飲み干して「いただきます」と言ってタバコに火をつけた。
優菜しかいないでしょ、と思った瞬間、今まで忘れていた香枝の事を思い出した。
あの2人はもうさすがに家に帰っただろう。
どこで何をして遊んだのだろうか。
香枝は、楽しかったのだろうか。
これで優菜とも今まで通りの仲に完全復活を遂げるのだろうか。
2人のことを考えるだけで、無性に胸がむず痒くなった。
むず痒くて堪らないのと非常に疲れていたのとで、無性に喉が渇いて仕方ない。
未央と色々な話をしながら、真春は考えていた。
未央になら、自分の気持ちを言ってもいいかな。
でも気持ちの整理がついていないから何から話せばいいのか分からない。
引かれないだろうかと怯えていながらも「ねぇ、未央」と口が勝手に喋り出したので、もう後戻りはできなくなっていた。
「なんですか?」
「香枝ってさ」
「え?香枝ですか?どうしたんですか?」
「可愛いよね」
未央は飲んでいた5杯目のビールを軽く吹き出しそうになった。
「あはは、どうしたんですかいきなり。まぁ、そうですね、可愛いですよね」
「もう香枝が可愛くて仕方なくて…あたし香枝のこと、すごく好きなんだと思う」
「香枝も真春さんのこと大好きですよね」
「じゃなくて。あたし…あたし…レズなんじゃないかって思うの!だってすごくキュンキュンするんだもん!メール来るとすごく嬉しいし、一緒にいるとすごく幸せな気持ちになるの。本当に、片思いしてるみたいに」
言ってしまった。
言いながら泣きそうになってしまう。
もう、未央に変な目で見られる…と思いきや、未央は笑っていた。
「レズ?!真春さん、香枝の裸見たら興奮します?」
ついこの間みた夢を思い出した。
そしてその先のことを想像する。
それは絶対にない。
考えたくもない。
「それはない!」
「じゃあ違うんじゃないすか?」
「でも…でも、あたしは香枝のことが好きなんだよ?」
「んー…」
「でも恭介のこともちゃんと好きだし…。もう、どうしたらいいか分からなくて」
真春は頭を抱えて溜め息をついた。
口に出して改めて自分は最低だと思った。
「それって、レズじゃなくてバイじゃないっすか?」
「バイ?」
「バイセクシャルですよ。男も女もどっちもいけちゃうってやつ!」
ピンとこなかったが、きっと自分はバイなんだと真春は簡単に受け入れてしまった。
言われたらそんなような気がする。
複雑な気分になった。
真春はタバコの先端から出る煙を無心で眺めて「あぁ…」と魂の抜けたような声を漏らした。
「あはは、どっちにしろ真春さんは香枝に恋心を抱いちゃったってことですね!」
「そうなのかな?!どうしよう…あたし、どうしよ!」
「まあまあ。…あたしは応援しますよ」
未央は楽しそうに言うと、つまみで頼んでいたナッツを口に入れた。
応援ってなんだよ。
こんなの応援もくそもないでしょ。
「応援って意味わかんないよ!だって香枝とどうにかなりたいってわけじゃないし…」
「でも、好きなら好きでいいんじゃないですか?」
未央は綺麗な顔を崩して笑った。
「はぁ…」
「ため息なんかつかないで下さいよ~」
「このことは誰にも言わないでね!未央にしか言ってないから。もちろん香枝にも」
「言わないですよ!てか言えないじゃないっすか!」
未央はいつもと同じようにケラケラ笑った。
「いつか、過去の話になるかな…」
「それは真春さん次第じゃないっすか?でも、いつか懐かしいって話せたらいいですね」
時が過ぎ去ってもこんなこと、香枝には言えない。
言いたくない。
でも、言ってしまいそうで怖い。
なんだか未央に悪いことをしてしまった気分になった。
こんなこと言われたって、どうしようもないし困るよね。
何言ってんだろ、自分。
香枝はこんなこと絶対考えていないだろう。
ずっと前にメールで言ってくれていたように、自分に憧れていて、慕ってくれているだけなんだろうな。
こんな風にモヤモヤしたどうしようもない気持ちになんて、なっていないんだろうな。
大好きって言ってくれるけど、そんなの女の子同士でも日常茶飯事だし、抱きついたり、頬にキスだって普通にするよね。
香枝もきっと、そんな感覚なんだろうな。
「あまり考え過ぎないで下さいよ!香枝は真春さんのこと嫌いじゃないし、むしろ好きなんだから」
真春の心を見透かしたように未央が言った。
未央はいつも、うんうん、と話を聞いてくれて、たまにはっとさせられるようなアドバイスにも似た言葉を言うことがある。
年下なのに、心が救われることが多い。
今日だってそうだ。
なんか自分、かっこ悪いかも。
「うん…」
言ったら少しは楽になるかと思ったけど、そんなことはなかった。
結局また考え続ける日々なのだ。
強引に香枝に何かをするなんてことはしたくない。
せめて、今の関係のままで…。
そう思う自分と、発展を期待する自分がいる。
自分はなんて愚かなのだろう。
それから真春と未央は飲みまくり、いい具合に酔っ払って3時頃に店を出た。
「未央、今日はありがとね」
酔っ払っているのかそうでないのかよく分からない意識の中で、真春は言った。
「いえ。また何かあったら言ってくださいね!香枝の事でもなんでも」
未央はニヤついて言った。
「もー、その話はおしまい!なんか恥ずかしくなってきたわ」
「あはは、真春さん、頑張ってくださいね」
何を頑張るんだ…と思ったが真春は「ありがと」と答えておいた。
バイバイと言って別れた帰り道、真春はモヤモヤした気持ちを抱きながら自転車を漕いだ。
遅めのクリスマスデートは14時から開催された。
恭介は1時間遅刻したのに連絡もよこさなかったので、何かあったのではと本気で心配して何十回も電話してしまった。
結局ただの寝坊と携帯の電池切れで、何もなくて結果オーライだったが、悪びれる様子もなく「早くしらす丼食いてー」と呑気な事を言う恭介に真春はイラっとして「もういい」と言って1人で待ち合わせの駅から歩き出した。
「なんでそんな怒ってんだよ。せっかくのクリスマスなのに」
真春は小走りで隣に来た恭介を無視して早足で歩いた。
「そんなにクリスマス当日に会いたかったの?」
怒ってるのはそこじゃない!と心の中で突っ込む。
恭介はおバカに加えて天然なところもあるので、こういうことがしばしばある。
いつもなら笑っていられるのだが、今日は無理だ。
何故かイライラしてしまう。
柄にもなく、まだクリスマスのイライラを引きずっているのだ。
「真春」
「なに」
「なんでそんなにカリカリしてるんだよ」
「してない」
「しーてーる!」
真春はムッとした顔で恭介を見た。
今になって初めてまともに恭介の顔を見た。
怒っていて、見るのも忘れていた。
何をやっているのだろうか、自分は。
「遅れたのは悪かったよ…。でもそんなに怒らないでよ。こんな嫌な気分でなんかいたくない。せっかく予定合わせてここに来たのに」
「ごめん」
ごめんってお前から一番聞きたいわ!と言う文句を飲み込んで、続いて出そうになったため息も飲み込んだ。
今日の自分はどうかしている。
真春は無理矢理笑顔を作り、しらす丼屋さんへと向かった。
ずっと気になっていたしらす丼は絶品で、今まで食べた食べ物の中で首位争いをするほどの美味しさだった。
好きなものでお腹を満たされると、さっきのイライラなどどこかへ行ってしまったようだった。
お店を出る頃にはすっかりいつもの2人になっていた。
「よし、じゃあ水族館行くか」
しらす丼屋さんから歩いて10分のところにある水族館に着いたのは16時半近く。
受付でチケットを買おうとしたところ、あと30分で閉館すると告げられた。
「え、うそ」
「どうする…?」
結局、水族館は諦めることにした。
恭介が遅刻しなければと責めたいところだったが、水族館ごときで大人気ないと思い、やめた。
途方に暮れた2人はあてもなく歩き回り、無駄に冬の潮風に吹かれた。
しばらく歩いていると、ファーストフード店の隣にラブホテルが建っているのが目に入った。
そういえば最近、ご無沙汰すぎるということに気付いた。
実習でそれどころではなかったのだ。
そもそも恭介と会うのも久しぶりだ。
恭介もまた同じものが視界に入ったのか、「真春、明日バイト?」と聞いてきた。
「明日は休み」
「じゃあ、今日帰らなくてもいい?」
恭介が真春の答えを聞く前に「決まりね」といたずらっぽく笑ったので、真春もつられて笑ってしまった。
ホテルの近くにある酒屋さんでお酒やおつまみを購入した後、ホテルにチェックインした。
5階の部屋からは海が見渡せる、かなり雰囲気のあるラグジュアリーな空間だった。
"いかにも"といった部屋づくりの空気感に最初は圧倒されたがすぐに慣れた。
「飲もっか」
「だね」
お酒を並べておつまみを広げ、まずはシャンパンで乾杯をしてクリスマスを祝った。
2人は赤いソファーに並んで座り、最近の出来事を事細かに話した。
いつもメールはしていたが直接話すのは久しぶりなので、話が弾む。
真春はついこの間、バイトで怒ってしまったことを話した。
すると恭介にも「珍しい」と言われてしまった。
「バイトといい、今日といい、最近なんか嫌なことでもあったの?」
「んー…ないけど。疲れてるのかな、はは」
香枝のことなど言えるわけがない。
「実習も大変そうだったしね。ま、もう終わったし休みなんだから楽しも!」
「そうだね」
それから3時間飲んだところで次第に甘い空気になり、ベッドに行かずそのままソファーで抱き合うことになってしまった。
久しぶりの感覚に脳が蕩けそうになった。
セックスの最中だけは目の前のことに必死すぎて、香枝のことはすっかり忘れていた。
恭介に愛を囁かれる度に、自分は恭介のことが好きだと何度も何度も思ったし、声に出した。
この、とてつもない安心感と温もりは、自分が今生きる上で欠かせないエネルギー源であると、心からそう思った。
そう思っていた。
22時半、酔い潰れた恭介と一緒にベッドで眠っていた真春は携帯のバイブ音で目が覚めた。
画面の眩しさに目を細めながら確認すると、珍しく優菜からメールが届いていた。
『この前の香枝ちゃんだよー!駅ビルで遊んでましたー!』
文章と共に送られてきた添付ファイルを確認すると、香枝が道化師のような、魔女のような変な帽子を被ってピースしている写真が画面に広がった。
可愛い。
純粋にそう思った。
しかし何故自分にこんなもの送ってくるのだろうか。
2人が仲良さげに楽しんでいる姿を見せつけられているみたいで、怒りが湧いてきた。
それとも、優菜からの"もう香枝に近づくな"という意味合いの嫌がらせメールなのだろうか。
『可愛いね!』
真春はそれだけ返して、優菜からまた来たメールには返事を返さなかった。
なんなんだろう、本当に。
胸糞悪いにもほどがある。
真春は居ても立っても居られなくなって、ベッドから抜け出した。
ガウンを羽織ってソファーに座り、残っていた缶の梅酒やジンを1人で飲み始めた。
先程送られてきた香枝の写真を見る。
本当に楽しんでたのかな。
これは、本心の笑顔なのか、それとも営業スマイルなのか。
写真では感情が押し殺されていて、区別できなかった。
優菜と香枝に対する行き場のない怒りは、全てお酒にぶつけられた。
再び酔いが回ってきた頃には怒りは虚しさへと変わり、そして大胆な気持ちになっていた。
真春は考えるよりも先に、恭介に気付かれないように部屋を出ていた。
静かに閉めたドアにもたれかかりながら電話帳を開く。
迷うことなく、香枝に電話した。
もう0時近い。
迷惑だと分かっていても、香枝の声が聞きたかった。
呼び出し音が鳴る。
『わー!真春さん!』
いつもの香枝だ。
嗅いだことのない場所の匂いに包まれて、いつもの調子ではいられない。
気持ちが昂ぶっているのが自分でも分かる。
「酔っ払った」
『飲み会ですかー?いいなー!』
「いきなり電話してごめんね」
恭介とホテルにいるなど、口が裂けても言えない。
『全然平気ですよ!あともう寝るだけだし。でもどうしたんですか?』
「特になんもないんだけど…」
『あははー。なんもないんですか!』
「クリスマス、楽しかった?」
『まぁまぁ楽しかったですよ!でも19時頃帰りました!寒いし疲れちゃったし』
香枝の声のトーンはいつもと変わらない穏やかなものだった。
「そうなんだ。ついさっき優菜から香枝の写メ届いたよ。変な帽子被ってるやつ」
『あー。あれですか?なんか撮られちゃった』
こんなこと言われても困るよな、と言ったそばから真春は後悔した。
沈黙が訪れる。
「ねー、香枝」
『なんですか?』
香枝は声すらもやんわりしていて心地よい。
「…やっぱ何でもない」
電話越しに、えー?という声が聞こえた。
『なんですか?気になって寝れない!』
香枝の温かい笑い声に胸がトクンと鳴り、好きという気持ちが喉まで込み上げて来る。
「特に何もないっていうのは違くて」
『ん?』
「本当は…本当は香枝の声が聞きたくて電話した」
『あははは!なにそれっ!真春さん酔っ払ってるー!大丈夫ですか?』
香枝のことがすごく好き。
声が聞きたいと思ってしまうほど。
「だから言ったじゃん、酔っ払ってるって」
『お酒はほどほどにして下さいね!帰り、気を付けてくださいよ?』
「うん」
『あたしも…』
「ん?」
『真春さんの声聞けて良かったです』
そう言った香枝の声が照れ臭そうに聞こえたのは気のせいだろうか。
そうであってほしいという過度な妄想が、耳まで麻痺させたのだろうか。
どちらにせよ、真春は口元が綻んでしまうほど嬉しかった。
「遅くにごめんね。じゃ、おやすみ」
『おやすみなさい。またバイトで』
わずか3分足らずの電話でこんなに気分が高揚するなんて。
突然、涙が溢れてきた。
嗚咽が漏れそうになる。
電話を切った今この瞬間も、ドキドキしすぎて息が苦しい。
きっと恋とは、こういうことを言うのだろう。
アルコールに酔った頭は香枝の事しか考えられなくなっていた。
恭介との間にないこの胸の高鳴りと、声すらも求めてしまうこの気持ちは、紛れもなく恋だ。
香枝の声を思い出す度に気持ち悪くなるほど心臓が鼓動を刻む。
そして恭介への罪悪感がのしかかる。
真春はドアにもたれかかったまま、ガウンの袖で止まらない涙を押さえ続けた。
「香枝ってさ」
「ん?」
「彼氏いるの?」
大晦日のアイドルタイム。
律が休憩中の香枝に突然そう言った。
香枝と一緒に休憩に入った真春は、珍しくまかないの明太子パスタを食べながら2人の会話を聞いて無駄に多くパスタを咀嚼した。
真春はクリスマスの一件から、香枝と上手く話せなくなってしまった。
恭介ともメールはするものの、以前よりも回数がかなり減った。
こんな感情になったことがないので、真春は自分が自分でないみたいでここ2、3日は常に上の空だった。
「夏前に別れてからいないです」
「そうなの?!可愛いのにもったいない」
「真春さんの彼氏はイケメンで優しいですよ。ね?」
思わぬ飛び火に真春は香枝を見て「やめてよ」と軽くあしらった。
「えー!うそ!」
律が「見せて見せて」と懇願してきたので、真春は律に携帯の画面を見せた。
「本当だ、やばイケメン」
「顔はね」
「お似合いすぎるよ真春。羨ましい!」
律はそう言うと、頬ずりしそうなくらい顔を近づけて抱きついてきた。
律が入って来てから約2週間。
こんな短期間でこれほどまでに積極的になったのには驚いたが、どうやら元から誰にでもとてもフレンドリーな子らしい。
律は小学1年生の頃から中学卒業まで奈帆と同じダンススクールに通っており、2人はかなり仲が良かったらしい。
しかし高校進学と同時に親の都合でアメリカへ行くことになりダンススクールを辞めてしまい、奈帆とは疎遠になっていたと。
しかし10月に入って突然律から「奈帆のところでバイト出来ないか」と連絡があり、戸田さんに話したらちょうど新しいバイトを募集しようと思っていたとのことで面接に来るように言われ、帰国後に面接したら即オーケー。
本当はアメリカに永住の予定だったらしいが、親の会社の都合でまた日本に戻って来たとのこと。
兎にも角にも、律という人間は、元々かなり変わった性格だったがアメリカに行って更に磨きがかかったと奈帆は可笑しそうに話していた。
確かに奈帆とは変わり者同士で気が合いそうな気がする、と真春は頷いた。
「とんでもない子だけど、めっちゃいい子だから!」と奈帆が言っていたのでなんとかなっているが、その情報がなかったら律のあのキャラクターを受け入れるのには時間がかかっただろう。
しかし奈帆の言う通り、悪い子ではないし、むしろ気の利く面白い子で良かったと真春は思っている。
それから、真春と同い年ということもあり、バイトの中では年上か年下しかいなかった真春にとっては新鮮だった。
「でさでさ、香枝は気になる人はいるの?」
淡々とグラタンを食べる香枝は少し考えた後「いないですよ。いい人いないですし」と鼻でため息をついた。
「学校女子しかいないし、出会いもくそもないですよ。合コンとかはたまに行きますけど」
合コンかーと真春は思った。
こんなに可愛くて気が利いて、よく笑う香枝だから、すぐ連絡先聞かれたりするんだろうな。
「高校とか中学の人は?」
「高校も中学も遊ぶくらいで、みんな友達って感じ」
「それに」と香枝は続ける。
「今は彼氏いらないです。なんかめんどくさいし、今は学校忙しいし」
その言葉を聞いて、真春は少し傷付いたような気持ちになった。
恋愛が面倒臭いとまで言ってしまった香枝。
人を好きになることに興味ないのかな。
ということは、自分のこともなんとも思っていないということか。
「そっかー」
「律はどうなの?彼氏いないの?」
香枝にズケズケと質問をする律に、真春は「もうそれくらいにしなよ」と言わんばかりの口調で言った。
しかしどちらかというと、自分がこれ以上香枝の恋愛に対する気持ちを聞きたくなかったというのが本音だ。
「あたし?」
「うん」
「今はいないよ」
「そうなんだ。どんな人がタイプなの?」
真春が最後のパスタをクルクル巻いていると、律は「うーん」と考えた後、口を開いた。
「体型は細マッチョがいいなー。顔は、男だったら濃いめなワイルドなのがタイプ!身長はできれば180cm以上は欲しいかな!」
「あはは!具体的!」
真春が笑うと、香枝も笑った。
「てか男だったらってどういうこと?」
素朴な疑問を投げかけて、真春は最後のパスタを口に含んだ。
「女だったら、真春が超タイプ」
「へ?」
しれっと言った律に、真春はパスタを口に入れたまままん丸な目を向けて固まった。
「だってさー、超可愛いじゃん?単純に。顔がどストライク。バイトでも優しいしさ」
律のとんでもない発言に、真春はなんと言っていいのか分からなくてなってしまった。
そんな中「ね?」と律は香枝に同意を求めるものだから、頭がおかしくなりそうだった。
墓穴を掘ってしまった。
「そうですね…。みんな好きですよ、真春さんのこと」
「だってー!ヒューヒュー!」
律は真春の脇腹をツンツンと肘で突いてニヤニヤした。
真春は耐えられなくなり、「ごちそうさま」と言ってキッチンに食器を持って行った後、事務所に戻らずそのまま喫煙所に向かった。
赤いベンチに座って空を見上げる。
今日はあいにくの曇り空。
雲間からたまに日差しが差し込むが、明日の初日の出は期待できなさそうだ。
真春はタバコの煙を肺まで吸い込んで、ゆっくりと吐いた。
「女だったら真春がタイプってなんだよ」
独り言を言いながら灰皿に灰を落とした。
香枝の前であんなこと言ってほしくなかった。
考え始めたらイライラしてきた。
律は別に悪気があって言ったわけではない。
分かっているけど、それが気になってしまうほど、香枝に対する真春の気持ちは恐ろしくナーバスなのだ。
そんな単純なことではない。
曇り空に映えるタバコの煙は、確かに濁っていて、真春の目に濃く焼き付いた。




