第17話 聞かねえよ
王都が見えたのは、二日後の昼だった。
二日のあいだ、俺はほとんど荷台で揺られていた。
折れた肋骨は、思ったより早く繋がった。あの夜、斧を受けたとき、俺は《狂熱》を出せるだけ出していた。倒れて意識が切れるまでのわずかなあいだに、《完全回復》が少しだけ動いていたんだと思う。
それでも、息を深く吸うと、まだ胸の奥が軋んだ。
丘を越えた瞬間、それは急に現れた。
「……でけえ」
思わず声が出た。
城壁が、地平線を横に切っていた。
端が見えない。左右どちらも、視界の外まで続いている。その内側に建物がびっしり詰まっていて、いくつもの尖った屋根が突き出していた。
一番奥に、白い城があった。
あれだ。
俺が最初にこの世界で目を覚ました場所。
「……レン」
ルナが、隣で立ち止まっていた。
「……あそこ?」
「ああ」
「……大きい」
「そうだな」
※
街道は、そこから急に混み始めた。
荷馬車。徒歩の行商。赤ん坊を背負った女。荷を背負った家族。
北から下りてきた人間が、そのまま王都に溜まっているらしい。
道端に、天幕がいくつも張られていた。
「入りきってねえんだ」
ガランが言った。
「城壁の中は、もう満杯でな。入れねえ連中が外に住んでる」
「……そうか」
「戦争ってのは、こういうもんだ」
門の前には、行列ができていた。
槍を持った兵が、一人ずつ通行証を検めている。
「……俺、証書とか持ってねえぞ」
「持ってねえのか」
「ない」
ガランは、ため息をついた。
「じゃあ黙ってろ。俺が話す」
「隊商だ。ガラン商会。塩と鉄」
「証を」
ガランが板を差し出した。兵が受け取って、じっと見る。
「……人数は」
「十八」
「二人減ってるな」
「一人は道中で死んだ。一人は矢傷がひどくて、途中の村に預けてきた」
兵は、それ以上聞かなかった。
こういう話が、たぶん一日に何十回もあるんだろう。
「そっちの二人は」
「うちの護衛だ」
「証は」
「道中で焼けた。荷ごとな」
兵の目が、俺に向いた。
次に、ルナに向いた。
……ルナで、止まった。
やめろ、と俺は思った。
じろじろ見るな。
兵は、しばらく黙っていた。
それから、目を逸らした。
「……通れ」
「助かる」
「次!」
門をくぐって、しばらく歩いてから、俺は息を吐いた。
「……あぶねえ」
「あぶなくねえよ」
ガランが笑った。
「あの兵、嬢ちゃんの顔を見て、頭が真っ白になっただけだ」
「は?」
「あんな別嬪、あいつは一生拝めねえよ。証書どころじゃなくなったんだろ」
※
王都の中は、うるさかった。
石畳の道の両側に店が並んで、売り子が声を上げている。
人が多い。村の何百倍もいる。
匂いも混ざっていた。パン。獣脂。汗。馬糞。香辛料。
ルナが、俺の袖を握っていた。
強く。
「大丈夫か」
「……多い」
「多いな」
「……におい」
「慣れる」
※
商業区の広場で、隊商は解散になった。
馬車を停めて、荷を降ろして、それで終わりだ。
「兄ちゃん」
ガランが、俺に袋を投げてよこした。
受け取ると、重かった。
「……なんだこれ」
「給金だ」
「多すぎるだろ」
「二十人守った男に、少なすぎるくらいだ」
俺は袋を握ったまま、しばらく言葉が出なかった。
「……ガラン」
「なんだ」
「あんた、俺に聞きたいことがあるだろ」
ガランは、俺を見た。
それから、ルナを見た。
ほんの一瞬だった。
「聞かねえよ」
「……なんでだ」
「二十年商人をやってると分かるんだよ」
ガランは、馬の首を撫でながら言った。
「世の中には二種類の話がある。聞いて得する話と、聞いたら二度と寝られなくなる話だ」
「…………」
「後者はな、聞かねえのが商売の秘訣だ」
彼は馬車の御者台に上がった。
「来た道を戻る。ふた月もすりゃ、また来る」
「……ああ」
「兄ちゃん」
「なんだ」
「あんた、これから何をするのか知らんが」
ガランは、前を向いたまま言った。
「死ぬなよ。ダグの分もな」
馬車が、動き出した。
残った護衛の二人が、通りすがりに俺の肩を叩いていった。
一人は、何も言わなかった。
俺が振り返ったときには、もう人混みに紛れていた。
宿を取った。
商業区の外れの、安い宿だ。
「二人か。部屋は」
「……一つでいい」
俺は言った。
前の村で、二部屋取って、結局こいつが夜中に扉を叩きに来た。
同じことを繰り返す気にはなれなかった。
……いや。
正直に言えば、この街では離したくなかった。人が多すぎるし、こいつは目立ちすぎる。
女将はいなかった。無愛想な親父が鍵を投げてよこしただけだった。
「いらっしゃい、は無しか」
俺が言うと、ルナが小さく頷いた。
「……うん」
少し、つまらなそうだった。
※
その日の夕方、俺は市を歩いた。
目的は服だ。
ルナは宿に残した。一人にするのは気が進まなかったが、あの顔で人混みを連れ歩くほうが、よほど目立つ。
自分の格好を、改めて見た。
制服。もう色が分からない。裂けて、縫って、また裂けて、血がしみて、洗っても落ちない。
それでも、形は残っている。
この世界に、こういう仕立ての服はない。襟の形も、ボタンの並びも。
……見る奴が見れば、分かる。
召喚された連中と、同じ服だと。
俺は古着屋で、この土地の服を買った。
麻の上着とズボン。それから、頭からかぶる外套。
着替えて、制服を包みに入れた。
「捨てんのか」
古着屋の親父が聞いた。
「……いや」
「そうかい」
捨てられなかった。
これは、あの教室から持ってきた唯一のものだった。
ルナのぶんも買った。フードのついた、俺のと同じ形の外套を一枚。それと、ブレザーの代わりに羽織れる、地味な麻の上着を一枚。
宿に戻ると、ルナが待っていた。
俺の格好を見て、目を丸くする。
「……レン?」
「俺だよ」
「……ちがう人みたい」
「そりゃそうだ。そのために着替えた」
「お前も着替えろ」
俺は、買ってきた上着と外套を差し出した。
ルナは、それを受け取って——それから、自分が羽織っているものを見た。
俺のブレザーだった。
村を出てから、ずっと着ている。
「……これは」
「それが一番まずいんだよ」
「……」
「俺の学校の服だ。見る奴が見たら一発で分かる」
ルナは、ブレザーの襟を掴んだ。
「……いや」
「いやじゃねえよ」
「……いや」
「危ないんだって」
「…………」
結局、こうなった。
外を歩くときは、上から外套を着る。宿の中では、好きにしていい。
「……分かった」
「分かってねえだろ」
「……分かった」
絶対に分かっていない顔だった。
麻の上着は、そのまま寝台の隅に畳んで置かれた。
※
その夜、俺は宿の一階で酒を飲む連中の話を聞いていた。
情報がほしかった。
王都に来たはいいが、俺には手立てがない。
城には入れない。名乗り出るのは論外だ。
王国は俺を捨てた。それも「死んでも構わない」という判断でだ。
生きていると知られたら、どうなるか分からない。
どうやって、あいつらに会う。
「——だから、明後日だっての」
その声で、俺は顔を上げた。
「聞いたか? 勇者様たちが戻ってきてるんだと」
「知ってるよ。おとといだろ」
「明後日、王城前で凱旋の式があるってさ」
「見に行くのか」
「そりゃ行くだろ。聖女様が拝めるんだぞ」
俺は、木のコップを握った。
明後日。
王城前。
あいつら全員が、人前に出る。
「なあ、おっさん」
俺は隣の男に声をかけた。
「その式、誰でも見れるのか」
「見れるさ。広場は開放される」
「近くで見れるか」
「無理だな。前のほうは貴族と兵で埋まる」
男は笑った。
「まあ、遠くからでも顔くらいは見えるさ」
顔くらいは。
……それでいい。
まずは、生きてるかどうか、この目で確かめる。
※
部屋に戻ると、ルナは窓辺に立っていた。
外を見ている。
「ルナ。話がある」
ルナは、窓枠に指をかけたまま振り向かなかった。
「明後日、王城の前で式があるらしい。凱旋式ってやつだ」
「……」
「あいつらが出てくる。俺のクラスの連中だ」
窓の外を見たまま、ルナの指先だけが、窓枠の上で小さく動いた。
「顔だけでも、見てくる」
返事がなかった。
俺は隣に立って、同じ方向を見た。
建物の屋根の向こうに、白い城が見えていた。
夜でも白い。灯りが焚かれているらしい。
「……あれ、気になるか」
「……ううん」
「じゃあ何見てんだ」
ルナは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「……なんか、ある」
「なんかって」
「……分からない」
彼女は、胸のあたりに手を当てた。
「……この街に入ってから、ずっと」
「気持ち悪いのか」
「……ううん」
ルナは首を振った。
「……こわい」
俺は、少し驚いた。
牙猪のときも、こいつは「こわい」と言っていた。
だが、今のは声が違った。もっと小さくて、自分でもどう扱っていいか分からないものを、そのまま口に出したような声だった。
「何がこわいんだよ」
「……分からない」
「城か」
「……ちがう」
「じゃあ何だ」
ルナは、白い城のほうを見たまま言った。
「……光」
「光?」
「……街の、どこかに」
彼女は、胸を押さえたまま続けた。
「……とても、きれいな光がある」
俺は、彼女の顔を見た。
赤い目が、いつもより暗かった。
「きれいなんだろ? なんでこわいんだ」
ルナは、答えなかった。
しばらくして、俺の袖を握った。
「……レン」
「なんだよ」
「……さっきの、式」
「ああ」
「……人が、たくさん集まるの?」
「そりゃ集まるだろうな。王都中が来るんじゃねえか」
「…………」
「なんだよ」
「……私も、行く」
「そりゃ、行くだろ」
「……ぜったい、行く」
その言い方が、妙に強かった。
※
——ルナ Side——
この街には、あれがいる。
門をくぐった瞬間に分かった。
街の空気の中に、糸みたいに細い光が混ざっている。
人間には見えない。魔族にも、たぶん分からない。
私たちにだけ、分かる。
二百年ぶりだ。
忘れるはずがない。
あの光の端に、私は一度だけ触れた。
あの日、街が三つ燃えた。
燃やしたのは、私たちだ。
先に何をされたかは、もう関係ない。私たちが燃やした。
三日目の朝に、あれが来た。
白い服の、小さな女だった。
私より背が低かった。剣も持っていなかった。
あの女が手を上げたとき、空から光が降りてきて、広がった。
私の娘が二人、その中で消えた。
名前を呼ぶ暇もなかった。
声を出す暇も。
燃えたのでも、斬られたのでもない。
あってはならないものが、正しい場所に戻された——そういう消え方だった。
私は、その光の端にいた。
娘たちのすぐ後ろに立っていたから。
肩から先が、光に触れた。
消えはしなかった。指先が少しだけ崩れて、すぐに元に戻った。
……でも、痛かった。
それまで、何をされても痛いと思ったことがなかった私が、あのとき初めて痛いと思った。
だから、分かってしまった。
あれは、私にも届くかもしれない。
私は、あの女を殺せた。
一瞬で。
殺さなかった。
娘を二人失ったばかりの私が、なぜそうしたのか、今でもうまく説明できない。
あのとき私が思ったのは、たった一つだ。
——ああ、これで終われる。
あの光なら、私も消せるかもしれない。
だから私は、あの女の前に立った。
こわくなかった。
あの女は、私を見た。
それから、手を下ろした。
……下ろしたのだ。
殺せたかもしれないのに。
殺すべきだったのに。
私はその日、残っていた娘たち全員に命令した。
人前に出るな。血が必要なら、目立たぬように得ろ。目撃者を残すな。
二度と、あれに会うな。
……それから二百年、私たちは人の前から消えた。
その光が、この街にある。
同じ女ではない。あれは人間だ。とっくに死んでいる。
でも、光は同じだ。
二百年前の私なら、きっとまた、あの光の前に立った。
今は、立ちたくない。
私は、こわい。
消されるのが、こわい。
だって、今の私には。
終わりたくない理由が、隣で寝ている。
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