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第13話 いらっしゃい

 翌朝、俺が目を覚ますと、ルナはもう起きていた。


 洞穴の入口に座って、外を見ている。


「……おはよ」


「……おはよう」


 振り返らずに、そう言った。


「なあ、昨日の話だけど」


「……行く」


 即答だった。


「え?」


「……一緒に行く」


 ルナは、ようやくこちらを向いた。


「……レンが行くなら、私も行く」


「……そうか」


 俺は頭を掻いた。


 なんでか知らないが、ほっとした。ものすごく、ほっとした。


「よし。じゃあ準備するか」


  ※

 準備といっても、大したものはない。


 残っていた干し肉と塩。それから、火打ち石と、あの騎士の折れた剣。


 鍋は置いていくことにした。さすがに持って歩くには邪魔だ。


 骨の剣も、洞穴の壁に立てかけた。


 この森ではずいぶん世話になったが、もう持っていく必要はない。


 折れた剣だけは布に巻いて、背中に隠すように括りつけた。


 紋章が入っている。王国の兵に見られたらまずい気がした。


「……レン」


「んー」


「……これ」


 ルナが差し出したのは、俺が編んだ蔓の縄だった。もう三本目の、一番出来のいいやつだ。


「持ってくの?」


「……うん」


「別に、そこらの蔓でまた作れるぞ」


「……これがいい」


 ……そうか。


 俺は黙って、それを荷物に括りつけた。


  ※


 出発する前に、ルナは一度だけ足を止めた。


 結界があった場所だ。


 今はもう何もない。ただの黒い地面と、黒い木があるだけ。


 彼女はそこをしばらく見ていた。


「……何か忘れ物か?」


「……ううん」


「じゃあ行こうぜ」


「……うん」


 ルナは歩き出した。


 一度も振り返らなかった。


  ※


「で、どっち行く?」


 三十分ほど歩いたところで、俺は聞いた。


 この森で五十日以上暮らしたが、どっちへ行けば外に出られるのかは分からない。方角の目印もない。


 ルナは、少し黙った。


 それから、木々の向こうを指した。


「……こっち」


「分かるのか?」


「…………」


 返事がなかった。


「おい」


「……前に、聞かれたとき」


 ルナは、指していた手をゆっくり下ろした。


「……森の外がどっちか、分からないって言った」


「言ったな」


「……嘘だった」


 俺は、足を止めた。


「……知ってた。最初から」


 ルナは俯いた。


「この森は、私が来るよりずっと前からある。道も、川も、外に出る場所も、全部覚えてる」


「…………」


「……ごめんなさい」


 俺はしばらく、何も言えなかった。


「……なんで言わなかったんだ」


 言ってから、聞くまでもなかったと気づいた。


 あのとき俺は、はっきり言ったのだ。


 ——歩けるようになったら、出てくわ。


 こいつは、それを聞いていた。


 ……俺が出ていくのが、嫌だったのか。


 ルナは、まだ俯いていた。


 怒られるのを待っている顔だった。あの吸血のときと、同じ顔だ。


 俺は、自分の中を確かめた。


 怒っているか?


 ……よく分からなかった。


 ただ、胸の奥が妙に落ち着かなかった。


 嫌じゃない。むしろ、その逆だった。


「……なあ、ルナ」


「……」


「そんだけか?」


 ルナの肩が、跳ねた。


「……え」


「他にもあるのか、隠してること」


 沈黙が、あった。


 風が鳴った。


 ルナは、顔を上げなかった。


「…………」


「……まあ、いいや」


 俺は言った。


「一個で済んだんなら、上等だろ」


「……レン」


「怒ってねえよ。……いや、ちょっと怒ったけど」


 俺は頭を掻いた。


「五十日も歩き回って、道が分かる奴が隣にいたって知ったらな。そりゃ、ちょっとはな」


「……ごめんなさい」


「もう言うな」


 俺は歩き出した。


「案内、頼む」


「……え」


「知ってんだろ、道」


「……うん」


「なら早いほうがいい。行こうぜ」


 しばらくして、ルナが俺の横に並んだ。


 ちらちらと、こっちを見ている。


「なんだよ」


「……怒ってない?」


「怒ってねえって」


「……本当?」


「本当」


「……」


 ルナは、少しだけ歩幅を大きくした。


 そして、俺の三歩前に出て——木々の向こうを指した。


「……こっち」


 その背中が、なんだか妙に得意げに見えた。


  ※


 三日、歩いた。


 森は思っていたよりずっと広かった。黒い木々が延々と続いて、途中で二度、牙猪の群れと遭った。


 合わせて三頭。


 どれも、一撃で終わった。


 牙と、状態のいい毛皮だけ剥いで持っていくことにした。外に出れば、何かに使えるかもしれない。


 そして四日目の昼過ぎ。


「……レン」


「ん」


「……木が」


 言われて、気づいた。


 木の色が、変わっていた。


 黒くない。ちゃんと茶色をしている。地面の草も、灰色じゃない。緑だ。


 顔を上げると——葉の隙間から、光が差していた。


 まっすぐな、白い光。


「……おい」


 俺は走った。


  ※


 森が、終わった。


 最後の木を抜けた瞬間、視界が開けた。


 空があった。


 青い。どこまでも青い。雲が三つ浮いていて、そのどれもが白い。


 目の前には草原が広がっていて、風が波を作っていた。


 その向こうに、低い山が見える。


「————」


 声が出なかった。


 久しぶりの、空だった。


 俺はその場に膝をついた。


 情けないとは思わなかった。


  ※


「……あつい」


 背後で声がした。


 振り返ると、ルナが最後の木の陰に立っていた。


 片手で目の上に庇を作って、眩しそうに顔をしかめている。


「大丈夫か? 日光、平気なのか」


「……平気」


「灰になったりしないよな」


「……ならない」


 ルナは眉を寄せた。


「……ただ、まぶしい」


 言いながら、彼女は一歩、日向に出た。


 髪が、光を弾いた。


 白い肌が、いつもより白く見えた。


 赤い目が、細められている。


 ……綺麗だな、と思った。


 思ってから、慌てて目を逸らした。


  ※


 草原を半日歩いて、街道を見つけた。


 轍がある。人が通っている。


 その脇に、木の看板が立っていた。文字は読めない。


「……なんて書いてある?」


「……」


 ルナは首を傾げた。


「……読めない」


「お前もか」


「……人間の字は、覚えなかった」


 ……そうか。


 ……まあ、必要なかったんだろうな。


  ※


 夕方近く、街道の先に煙が見えた。


 いくつも。


 家の煙だ。


「……村だ」


 俺は足を早めた。


 そして、その途中で立ち止まった。


「……あ」


「……なに」


「お前、その格好はまずい」


 ルナの服は、正確には服と呼べるものではなかった。


 もともとは上等な何かだったんだろう。今は色も分からない布の残骸で、あちこち裂けていて、肩と脚がかなり出ている。


 しかも裸足だ。


 こんなのが村に入ったら、大騒ぎになる。


「……だめ?」


「だめだな」


 俺は自分の身なりを見た。


 制服。泥と血で真っ黒。ところどころ裂けている。


 ……こっちも大概だった。


 だが、まあ。


 俺はブレザーを脱いだ。


「着ろ」


「……え」


「上から羽織れ。そのほうがマシだ」


 ルナは、渡されたブレザーをしばらく見ていた。


 それから、恐る恐る袖を通した。


 彼女には大きすぎて、指先が完全に隠れた。


「……」


「……どうだ」


「……あったかい」


「そりゃ、着てたからな」


「……」


 ルナは、両手で襟のあたりを掴んだ。


 そして、顔を半分埋めた。


「おい、何やってんだ」


「……なんでもない」


  ※


 村の入口には、粗末な柵と、見張りが二人立っていた。


 どちらも兵ではない。村人だ。手には農具みたいな槍を持っている。


「止まれ! 何者だ!」


 俺は両手を上げた。


「旅の者だ。騒ぎを起こす気はない」


「その格好は……」


 見張りが、俺の制服を見た。


 それから、目を細めた。


「……お前さんら、まさか北の逃げ人か」


「北?」


「レスタの砦は、何度も落ちてる。あっちから逃げてくる連中が、時々な」


 俺は少し考えて、頷いた。


「……まあ、そんなとこだ」


「そうか」


 見張りの声から、警戒が抜けた。


「入っていいぞ。ただし宿代は自分で稼げ。うちも余裕がねえ」


「稼ぐ手はあるか」


「魔物の素材なら、東の店が買う」


「助かる」


  ※


 村は、小さかった。


 家が三十軒ほど。中央に井戸があって、その周りで子供が走り回っている。


 鍛冶場から金属を叩く音がする。どこかで洗濯物がはためいている。


 ……人が、いる。


 俺は少し、立ち尽くした。


 人を見るのも、ずいぶん久しぶりだった。


「……レン」


 ルナが、俺の袖を掴んでいた。


「どうした」


「……人が」


「多いよな」


「……多い」


 その声が、明らかに緊張していた。


 考えてみれば当然だ。


 こいつは、数えるのをやめるくらい長いあいだ、あの結界の中に一人でいた。人間の街に来たのなんて、たぶんもっと昔だ。


「大丈夫だ」


 俺は言った。


「何かあったら、俺が何とかする」


 ルナが、俺を見上げた。


 それから、小さく頷いた。


「……うん」


  ※


 東の店は、雑貨と素材を扱う小さな店だった。


 俺は牙猪の牙を六本と、毛皮を二枚出した。


 店の親父は、それを一つ一つ手に取って、眉を上げた。


「……あんた、これどこで獲った」


「北の方だ」


 親父は牙を光にかざした。


「この大きさは、普通の猪じゃねえぞ」


「……そうなのか」


「あんた、どんだけ運がよかったんだ。よく生きてるな」


 運。


 ……まあ、そういうことにしておこう。


「六本と毛皮二枚で、銀貨八枚だ」


「それ、多いのか少ないのか分からん」


 親父は吹き出した。


「宿と飯で三泊できる。服も買えるな」


「じゃあ十分だ」


  ※


 服屋——というより、婆さんが古着を並べているだけの店で、ルナの服を買った。


 生成りの簡素なワンピースと、その下に着る薄手の肌着。それから靴。


「……お嬢ちゃん、見ない顔だねえ」


 婆さんが言った。


 ルナの身体が、びくりと跳ねた。


「……」


「どこの出だい」


「……」


 ルナは答えられなかった。


 答えられないんじゃない。答え方を知らないんだ。


「……遠くだよ」


 俺が代わりに言った。


「へえ、遠く。旦那さんは苦労してるねえ」


「だ——」


 俺は咳き込んだ。


「違う。そういうんじゃない」


「あらそう」


 婆さんはにやにや笑った。


 それから、ルナが羽織っているブレザーに目を止めた。


「それも、ずいぶんひどいねえ」


「あ?」


「血と泥だらけじゃないか。裂けてるところもあるし」


 言われて、改めて見た。


 確かにひどい。


 五十日以上、着たまま森を歩き回った服だ。袖も裾も破れているし、乾いた血が何度も重なって、元の色が分からないところまである。


「直せるのか?」


「新品みたいには無理だけどね。泥を落として、裂けたところを繕うくらいならできるよ」


「どれくらいかかる?」


「そうさね。一刻もあれば十分だよ」


「じゃあ、頼む」


 俺が言うと、ルナがブレザーの襟をぎゅっと掴んだ。


「……」


「別に捨てるわけじゃねえよ」


「……」


「直してもらうだけだ」


 ルナはしばらく襟を握っていた。


 それから、渋々といった様子で手を離した。


「奥で着替えておいで」


 婆さんが言った。


 ルナは買った服の包みを抱えて、店の奥へ消えた。


 しばらくして戻ってきたルナは、生成りのワンピースを着ていた。


 俺のブレザーだけを、両手で抱えている。


「……これ」


「はいはい。ちゃんと返すよ」


 婆さんは笑って、それを受け取った。


 それからしばらく、店先で待った。


 戻ってきたブレザーは、血染みこそ残っていたが、泥は落ち、裂けたところもきれいに繕われていた。


 ルナは受け取ると、すぐに袖を通した。


「ずいぶん気に入ったんだねえ」


「……」


 ルナは答えず、襟元を握った。


 婆さんは笑いながら、俺を見た。


「ちゃんと大事にしてやんなよ」


 俺はまた何か言い返しかけて、やめた。


  ※


 宿は、村で唯一の宿だった。


 一階が食堂で、二階に部屋が四つ。


 俺が扉を押すと、中年の女将がこちらを見た。


 泥と血で汚れた服の男と、生成りのワンピースの上から大きなブレザーを羽織った少女。


 どう見ても怪しい。


 どやされるか、追い返されるか——。


「あら」


 女将は言った。


「いらっしゃい」


 まず俺を見て、それから隣のルナに目を移す。


「お嬢ちゃんも、いらっしゃい」


 ルナが、一瞬だけ目を見開いた。


 どう返せばいいのか分からないらしい。


 少し遅れて、こくりと頭を下げた。


 女将はそれを気にした様子もなく、普通に続けた。


「二人でいいのかい? 部屋は二つあるよ」


「あ、ああ。二部屋で」


 言った瞬間、袖が引かれた。


 見ると、ルナが俺の袖を掴んでいた。


 顔は伏せている。何も言わない。ただ、指に力がこもっていた。


「……なんだよ」


「……」


「……いや、まずいだろ。二人で一部屋は」


「……」


「宿の人もいるし。そういうのは、なんつーか」


 我ながら要領を得ない説明だった。


 ルナは、しばらく袖を握っていた。


 やがて、ゆっくりと指を離した。


「……うん」


 その「うん」が、やけに小さかった。


「はいはい。夕飯は下でね。今日はシチューだよ」


「……どうも」


「お嬢ちゃんも、旅で疲れただろ。あとで湯を持ってくるから、足でも温めな」


 女将は奥へ引っ込んだ。


 それだけだった。


 本当に、それだけだった。


  ※


 二階へ上がって、俺はルナの部屋に荷物を運び込んだ。


 寝台が一つ。小さな窓。それだけの部屋だ。


 ルナは扉のところに立ったまま、中に入ろうとしなかった。


「おい、ルナ」


「……」


「大丈夫か?」


「……レン」


「なんだよ」


「……あの人、私に」


 ルナは、自分の胸のあたりを掴んだ。


「……いらっしゃい、って言った」


「言ったな」


「……なんで」


「なんでって、客だからだろ」


「…………客」


 ルナは、その単語を口の中で転がした。


 それから、何度も瞬きをした。


「どうした」


「……ううん」


「泣いてんのか」


「……泣いてない」


「そうか」


 俺は、それ以上聞かなかった。


 しばらくして、女将が何度か湯を運んできた。


 ルナはそれで身体と髪を洗って、森の汚れを落とした。


  ※


 その夜のシチューは、驚くほど美味かった。


 肉と、根菜と、豆。それだけの単純なものだ。


 だが、久しぶりに人の作った料理を食った俺には、それで十分だった。


 ルナは最初、スプーンの持ち方が分からなかった。


 俺が握らせてやると、真剣な顔で真似をした。


 一口食べて、動きが止まる。


 それから、二口目が少し早くなった。


「……美味しい」


「だろ」


「……レンが焼いた肉より」


「そりゃそうだろ」


 俺は笑った。


 笑ってから、ふと気になった。


「なあ、それ」


「……なに」


「腹の足しになんのか」


 ルナは、スプーンを止めた。


「……ならない」


「ならないのか」


「……人間の食べ物は、私の身体には何も残らない。前に言った」


 言われてみれば、そうだった。


 森で初めて肉を焼いたとき、こいつは「意味がない」と言った。


「じゃあ、なんで食うんだ」


 ルナは、少し考えた。


 それから、スプーンの中の豆をじっと見て、言った。


「……美味しいから」


「……そうか」


「……だめ?」


「いや」


 俺は首を振った。


「別に、いいんじゃねえの」


 考えてみれば、俺だって腹が減っていなくても菓子を食う。


 こいつにとっての飯は、たぶんそういうものなんだろう。


 ……いや。


 だとすると。


 こいつの腹を満たすものは、この世に一つしかない。


 俺は、自分の首筋に触れた。


 それきり、何も言わなかった。


  ※


 食堂の隅で、村人たちが話していた。


「レスタが持ち直したって話だぞ」


「本当か」


「王都から来た連中が入ったらしい。例の召喚された勇者様たちだ」


 俺は、スプーンを止めた。


「四百近い魔族が攻めてきたのを、追い返したってよ」


「四百?」


「ああ。砦も落ちなかった。死んだ兵も、今までじゃ考えられねえほど少なかったらしい」


「そりゃ大したもんだ」


 俺は、シチューを見つめた。


 あいつらは、本当に戦っている。


 俺がこの森で覚えたのは、火の起こし方と、獲物の捌き方と、それから、自分の中の獣を止める方法だ。


 ……追いつけるのか、俺は。


「……レン」


「ん」


「……食べないの」


「食う」


 俺はスプーンを動かした。


  ※


 風呂——といっても、女将が部屋に大きな木桶を運び込んで、何度か湯を足してくれたものだ。


 湯に手を入れた瞬間、俺は声を出した。


「……うおお」


 あったかい。


 ただ、あったかい。


 それだけのことが、こんなに。


 脱いだ制服は、女将が洗ってくれた。


 泥は落ちたが、染みついた血までは消えなかった。裂けたところも、そのままだ。


 それでも、森を出たときよりはずっとましだった。


  ※


——ルナ Side——


 「いらっしゃい」


 あの言葉を、私はずっと考えている。


 部屋に一人でいる今も、まだ考えている。


 女将さんは、私が誰なのか知らない。


 私が何百年生きているのかも、私が何をしてきたのかも、私が何人殺したのかも、何も知らない。


 だから、あの人は私を「お客さん」だと思った。


 大きなブレザーを羽織った、旅の途中の女の子。


 それだけの存在として、扱われた。


 私は、ずっと「真祖」だった。


 誰かが私を見るとき、そこには必ず何かがついてきた。


 畏れ。敬い。あるいは、憎しみ。


 娘たちは、私を見ると頭を下げた。人間は、私を見ると逃げた。


 私という存在に、「ただの誰か」として接した相手は、一人もいなかった。


 ……レンを除いて。


 でも、レンは特別だと思っていた。この人が変わっているのだと思っていた。


 違った。


 外の世界には、私を知らない人が、たくさんいる。


 私を知らないというだけで、私に「いらっしゃい」と言ってくれる人が。


 見ない顔だと言われた。


 どこの出かと聞かれた。


 答えられなかった。


 私に「出身」を聞いた人は、生まれてから一人もいない。


 レンが代わりに「遠くだよ」と言ってくれた。


 ……遠く。


 そう。遠くだ。


 私は、とても遠いところから来た。


 旅で疲れただろう、と言われた。


 足でも温めな、と、湯を持ってきてくれた。


 私は、足が冷たくても困らない。


 ずっとそうだった。それは私の身体がそういうものだからで、私自身も気にしたことがなかった。


 冷たいから、何だというのだろう。私は凍えない。


 ……でも、あの人はそんなことを知らない。


 知らないまま、私が冷えないように湯を持ってきた。


 私は、ずるい。


 この村の人たちは、私を人間だと思っている。


 私は嘘をついていない。何も言っていないだけだ。


 ……でも、それは嘘と同じだ。レンにしていることと、同じだ。


 もし彼らが私の正体を知ったら。


 優しい女将さんも、服を直してくれた婆さんも、あの見張りの人たちも。


 全員、逃げるか、私を殺そうとする。


 二百年前に、私はそれを見た。


 街が三つ、三日で消えた。


 ……私も、その中にいた。


 あの街の名前を、私はまだ覚えている。


 やめよう。


 今日は、やめよう。


 今日だけは、「いらっしゃい」の中にいたい。


 森を出る前、私は嘘を一つ返した。


 道を知らない、という嘘。


 言った瞬間、心臓が変な音を立てた。この人が私を見る目が変わるかもしれないと思った。


 彼は、少し怒って、それから「もう言うな」と言った。


 それだけだった。


 ……一つ、軽くなった。


 でも彼は、こうも聞いた。


 ——他にもあるのか、隠してること。


 私は、答えなかった。


 答えなかったのは、嘘をつかなかったからじゃない。


 嘘をつく勇気すら、なかったからだ。


 彼は「一個で済んだんなら、上等だろ」と笑った。


 ……済んでいない。


 弱いふりも、力を隠していることも、私が何者かも、全部まだ持っている。


 一つ返して、三つ残った。


 軽くなったぶんだけ、残りが重い。


 直してもらったブレザーを、私はまた羽織っている。


 新しい服を買ってもらったのに、その上からこれを着ていた。


 脱ぐ気になれなかった。


 森で、ずっとレンが着ていたもの。


 私に貸してくれたもの。


 私は襟元を握って、寝台に丸くなった。


 ……寝台。


 初めて寝る。


 柔らかい。


 こんなものの上で人間は眠るのか。


 ……ずるい。


 人間は、こんなに柔らかいところで、毎日眠っているのか。


 壁の向こうで、彼の声がした。


「……うおお」


 湯に入ったらしい。


 私は、ふふ、と息を漏らした。


 明日から、また歩く。


 人の国へ。彼の仲間のところへ。


 近づくほど、危なくなる。


 聖女がいる。あれは私を見抜く。


 一族もいる。六姫の誰かに見つかれば、その瞬間に終わる。


 分かっている。


 全部、分かっている。


 それでも今日、私は「いらっしゃい」と言われた。


 誰かに、そう言われる日が来るなんて。


 五百年、一度も、考えたことがなかった。


 ……眠れない。


 柔らかい。あたたかい。誰にも追われない。


 条件は全部そろっているのに、眠れない。


 理由は、たぶん一つしかない。


 私は寝台を降りて、扉を開けた。


 廊下は暗かった。三歩先に、彼の部屋の扉がある。


 三歩。


 いつも私が歩いていた距離だ。


 ……何をしているんだろう。


 私は森で一人だった夜のほうが、ずっと長い。何十年も一人で座っていた。一晩くらい、どうということはない。


 どうということは、ないはずだった。


 私は、扉を叩いた。


 少しして、寝ぼけた声がした。


「……なんだよ」


 扉が開く。


 髪の濡れた彼が、目を半分閉じて立っていた。


「ルナ? どうした。何かあったか」


「……ない」


「……は?」


「……眠れない」


 彼は、しばらく黙った。


 それから、ものすごく大きなため息をついた。


「……分かったよ」


 彼は床に毛布を敷いて、そこに寝転がった。


「寝台使え」


「……レンは」


「俺はこっちでいい。床のほうが慣れてる」


「……でも」


「いいから寝ろ」


 私は寝台に上がって、彼の方を向いて丸くなった。


「……レン」


「……なんだ」


「……ありがとう」


「……おう」


 彼の呼吸が、規則的になった。


 私はそれを聞いていた。


 森の洞穴でも、毎晩そうしていた。この音があると、なぜか落ち着く。


 ……ああ。


 そうか。


 柔らかい寝台でも、あたたかい湯でも、美味しいシチューでもなかった。


 眠れなかった理由は、これだ。


 私は、目を閉じた。


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