2-3
カツンカツンと靴の音が空間内に反響する。
石造りの壁と床、陽光届かぬ空間を照らすのは蝋燭の火だ。
換気の悪い密閉された空間故に、その空気に黴臭さを感じる地下牢。
そこはアリスターの蒐集部屋とは壁一枚を隔てた場所に位置している。
ホワイトベル・ファミリーが犯罪者を憲兵に引き渡すまでの間、一時的に勾留しておく場所であり、時に連合の利益を害する諜報員を拘束して尋問を行う場所でもある。当然、どちらも非合法だが、前者は善意の協力として処理され、後者は記録に残ることなく闇へと葬られる。
そう考えると、この場所がどこか陰鬱な空気に満ちているのは、単に薄暗さや空気の淀みだけが理由ではないのかもしれない。
その地下牢に斬雄とクローディアが現れた。
二人は蒐集部屋で雅鸞の確認をした後、とある人物と面会するためこの場を訪れていた。
看守はクローディアの命で席を外している。
現在、牢のほとんどは空になっており、唯一人が収監されている鉄格子の前で、斬雄たちは立ち止まる。
「三か月ぶりだな、ハリカ・ナジャール」
「ええ、元気そうで何よりだわ、黒鉄斬雄」
牢の真ん中で椅子に繋がれているハリカが強気に笑った。
「朱奈に敗れた後、失踪したと報告を受けていたが、まさかホワイトベルに囚われていたとはな」
「ふん」
足首は鎖に繋がれ、少し頬は痩せている様子だったが、その表情にはギラギラとした生気が満ちていた。
クローディアが斬雄の少し後ろに立った。
「あの日、不測の事態に備えて配置していた灰犬部隊が意識を失っていた彼女を発見し、以降はこの場にて拘束していました。教団の情報を聞き出そうと試みましたが、黒鉄の若頭に会わせろとの一点張りでして……」
斬雄が椅子を置いて座り、ハリカと格子越しに向かい合う。
当然ながら二人の間に友好的な雰囲気は微塵もない。
「それで俺を呼び出した要件は何だ?」
「不知斎の居場所を教えなさい」
その言葉に斬雄が眉を顰める。
「居場所を知ってどうする?」
「殺すわ」
執念に取り憑かれた人間特有の眼差しで、ハリカは斬雄を睨みつける。
「……いいだろう」
それに対し、斬雄はあっさりと了承を返した。
逆に意表を突かれたのはハリカだ。呆気に取られた顔を見せる。
「……本気?」
「ああ、教えたところでお前にはあの男は殺せない。お前がどこで無駄死にしようが俺の知ったことではない」
不知斎とハリカの人形師としての腕前は隔絶している。
仮にあの時、あの場にいたのが不知斎だったならば、最終的に敗北していたのは斬雄たちの方だっただろう。
故に、彼女に居場所を教えることに何の躊躇も必要ない。
その明瞭な意図を感じ取り、ハリカは歯噛みする。
「……大上毅、西島啓介、斎藤孝則という名はわかるか?」
「……急に何? そんな人たち知らないわ」
突然出てきた名前にハリカは困惑した。
「お前が殺した男たちの名前だ」
ハリカが操る雅姫の刃によって殺害された黒鉄の構成員たち。
「大上毅はこの地に赴任する直前に第二子が産まれたばかりだった。本土との手紙のやり取りを何より楽しみにし、成長する我が子の様子を見届けられないことをよく残念がっていた。
西島啓介は独立した息子の婚儀が控えていた。どうにか長期休暇を取って本国へ戻ろうと、叔父上と交渉していたらしい。
斎藤孝則はまだ二十にも満たない若い男だった。早くに父を亡くし、女手一つで自らを育ててくれた母に孝行するためにこの地に来た。黒鉄会の給与は本土と比較しても高い水準にあるからな。」
斬雄の口調はどこまでも冷ややかで、何の感情も籠っていないかのように淡々としている。
「……だから何? 死んだのは、アンタの命令で、でしょ? 黒鉄の若頭が聞いて呆れるわね。自分の命令責任を私に転嫁するつもり?」
「……」
その言葉に斬雄は深く目を閉じた。
「そうだ、あいつらを死地に追いやったのは俺だ。俺が命じた作戦で、あいつらは死んだ。そして、その死が故郷の家族に告げられるのは、遠い未来のことになるだろう」
極秘の作戦だ。家族すら軍を辞して遠い異郷の地で商いに転職したと思っている。命の危険から遠ざかったことに安堵すらしていたはずだ。だが、それらは全て踏みにじられた。
「全てが俺の責任だ」
あの時の判断が間違いだったとは思っていない。
ホワイトベルひいては連合との戦争を画策する教団を叩くのは合理的な選択だったし、始原武装という存在が事態を切迫させていたことも間違いなかった。一時の感情に左右されたわけではない。例えやり直せるとしても、斬雄は同じ選択を取るだろう。
それでも責任から逃げることは許されない。何よりも斬雄自身がそれを許さない。
そんな彼の様子にハリカは内心で嘲笑った。
その手で命を殺める、その言葉で死地へと送り込む。
どちらも個人が抱え込むには重すぎるものだ。
一人の命の重みはどうあっても贖えるものではない。
──だが同時に、それは所詮は人の定めた倫理の秤でしかない。生物界において同族殺しなど珍しいことでもなく、縄張り争いで勝利することもまた、間接的に相手を死に追いやる行為に他ならない。
畢竟、殺人も戦争も動物の営みの一つに過ぎないのだ。
それが悪とされているのは人間が社会的動物であり、社会に害を為す異分子と見做されることを怖れるからだ。
それに罪悪を抱くのは、異分子と見做されないための精神の活動に過ぎない。
人としてのそれら懊悩と責任を引き受ける振る舞いは、排除されないための自らの善性の表明であり、本能が抱える罪悪を慰めるための自傷行為に過ぎない。
そんな偽善に縛られている。思うままの復讐も、他者にその責任を擦り付けることすらできず、何もかもを抱え込んで潰れていく。ハリカの目にはその様の全てが滑稽にすら映っていた。
傷口に塩を塗るように、再び彼女が口を開こうとした時だった。
「だが、殺したのはお前だ」
濃密な殺意がハリカの全身を突き刺した。
「──っ!?」
それは剣気や覇気のような生温いものではなかった。
理性という網から滴り落ちて、底に沈殿した不純物、即ち合理の中で不要と廃棄された純然たる獣の殺意。
鬼だ。鬼がいる。
鬼人ではなく、かつてその祖とされた荒ぶる化身。そう錯覚するほどの圧迫感が死を連想させる。
思わず首が繋がっているかをハリカは確認した。斬雄の顔を直視できない。視れば殺される予感と恐怖が全身を硬くさせる。漂う空気に憤怒の鬼面を幻視する。それ以外の世界がなくなってしまったような存在感。
鬼人という種が在りながら、黒鉄斬雄という男が“剣鬼”という二つ名を戴いた意味を知る。
「──取引だ」
その手のサーベルが煌き、ハリカは袈裟切りにされる。
「……ぁ」
──彼女がそう思った刹那は、ただその実、斬雄が口を開いただけだった。
「三つ、俺の命令に従え。それが叶えば不知斎の居場所をお前に教えよう」
すぐに頷いてしまいそうな自らを叱咤し、ハリカは唇を震えさせる。体中から汗が吹き出し、息がうまくできない。
「その、み、三つの命令で、時間稼ぎを、する、つもりじゃ、ないでしょうね」
「三つの命令は全て一か月以内に出す。一か月以内に与える命令が三つなかった場合も不知斎の居場所を教えよう。俺が出す命令に不信を抱いたのであれば、途中でこの取引を破棄して構わない。その場合は無論、不知斎について教えることはない」
ハリカにとって損はない内容だ。思考が千々に乱れる。そのはずだ。そのはずだ間違いない。そのはずに違いない。
嗚呼、だがそれ以上に、何よりも──今すぐにこの男の視界から外れたい。
その一心でハリカは頷いた。
「わかった、わ」
その瞬間、斬雄から発せられていた鬼気が霧散する。
ハリカは止まっていた呼吸を再開する。激しく息を吸いながら、恐る恐る斬雄の顔を見て、安堵の息を吐いた。
「ではまず一つ目の命令だ。風魔教団“虚空の柩”について知っていることを嘘偽りなく全て話せ」
「……わかった、わ」
滲む視界を指先で拭い、一度深呼吸をして心を落ち着け、ハリカは話し始める。
「教団はアンタたちも知っての通り風魔竜を信仰する宗教団体よ」
「風魔竜信仰は特に土着色が強いと聞いているが」
「ええ、地母竜信仰にも、光輝竜信仰にも地域差はあるでしょうけど、時代を経て統合されていった結果、一本の体系化された哲学的な軸はあるでしょ? けどこっちは、教義はてんでバラバラで、それぞれが言っていることが対立してるなんて日常茶飯事って感じね」
「つまり、一つの宗教ではなく、あくまで風魔竜という同じ本尊に帰依しているという一点でひっくるめにされているだけの土着信仰と言うことだな」
「まあそんなところね」
列強諸国の学者の間では、この差異は東方の黄帝国や西方のアルバーノ帝国のような、広大な版図を有する統一国家があったか否かで生まれたのではないかと考えられている。
「虚空の柩の起源はかなり古く、クライシュ帝国建国より前、天の女王期に遡るとされているわ」
天の女王とはクライシュの首都の語源であり、かつてこの地を治めた暴君の異称だ。
「かの女王に仕え、この地の安寧を守るために、外敵を退けて、内部の腐敗を粛正する暗殺組織。以降はその理念に従って、クライシュ建国にも関わった──」
「……歴史はいい。現状については?」
「基本的には変わっていないわ。その教義に従って、クライシュに仇なす者を殺す。その中でも最高位の暗殺者には、その意志を体現する“執行者”としての洗礼名と数字が与えられる。その一人はアンタたちも知っているでしょう?」
「オルランド・スパーダか」
「ええ。とは言っても彼は外様だけどね」
「外様?」
「そ、教団内部で育てられた暗殺者とは違って、盟主や執行者など教団関係者によって勧誘された外様の人間。私もスパーダ様に拾われた外様側ね。私たちは必ずしも教団の教義に従っているわけじゃないわ。私やスパーダ様のように自分の目的を達成するため、あくまで利害の一致で教団に所属しているだけって人も多いわね」
「盟主とは何者だ?」
「盟主の詳細は私も知らないわ。そもそも私は三人の盟主とは誰とも会ったことがないから。知っているのは、そうね、彼らが三賢人と呼ばれていて、それぞれパラケルスス、アリストテレス、徐福、そう名乗っているってことぐらいね」
ハリカが視線を宙に彷徨わせ、再び斬雄に向けた。
「後はそうね。これは眉唾だけど、三賢人は不老不死で、古代二帝時代よりも前から生きていると聞いたことがあるわね」
「本当に眉唾だな」
古くから不老不死を追い求めた権力者は数多くいたが、そのどれもが失敗の寓話を生み出すに終わっている。
余談だが、二帝時代とは黄帝国とアルバーノ帝国の二つの大国があった時代のことを差す。今の旭花帝国と西方諸国連合の関係に似ているが、両国を結ぶ陸地が山脈と深い原生林に隔てられていたこと、今ほど海運が発達していなかった時代であったこともあり、互いに交流がありつつも、両帝国の滅亡まで表立った対立が起こることはなかった。
「私もそう思うわ。ただ、そういう噂があるってだけ」
ハリカも特にそれに拘ることはなく、すぐに同意を示した。
「……それで、奴らの本拠はどこにある」
そして、斬雄はもっとも核心的な問いを投げかけた。
秘密教団の陰謀を前に後手に回らざるを得ない現状を打開するには、先手を打って本拠を叩く以外にはない。そのためにはまずその所在を知る必要がある。
「アヴェスタ連山のどこかね」
斬雄がスッと目を細めた。
「勘違いしないでちょうだい。本当に知らないのよ。言ったでしょう? 私たち外様の人間は教団とは利害関係で結びついているだけ。執行者、それこそスパーダ様なら知っていたでしょうけど、私みたいな下っ端は与えられた任務をこなして、報酬を貰う、それだけの関係なのよ」
慌てているハリカの様子を観察して、斬雄は彼女の言が嘘ではないとひとまず判断する。
「……ただそうね。このカシーヤから本拠へ通じる隠し通路のようなものがあるのだと思うわ」
「何か根拠があるのか?」
「ええ、スパーダ様は教団の本拠への所用で一人で外出されることがあったわ。でも山越えをしている様子はなかった」
アヴェスタ連山の探索は黒鉄会、ホワイトベル・ファミリーの組織力を以てしても芳しくはない。人体に有害なレベルの高素竜子濃度と険しい山道。ただ道を知っているだけのことで、身一つで行き来できるものではないというのは妥当な推測だった。
「そもそもアヴェスタではない可能性は? あくまでアヴェスタにあるというのは伝承の一つだろう? クライシュ内の別の場所あるいはカシーヤがそうであるということはないのか」
「教団の本拠があるのはこの近辺なのは間違いないわ。スパーダ様と黄金天駆の任務の一つが本拠に対する守りだったから。そして、本拠の機能には暗殺者の育成と訓練ができる場であることが求められる」
教団の教義を教え、暗殺者の技術を叩き込む。教団の本拠は、そのための共同体を丸ごと隠すことができる場所でなくてはならない。
「……カシーヤでは狭すぎると?」
「ええ、機能をうまく分散させて忍ばせることは不可能じゃないけど、教団の戦力規模からすると、ここまで長きに渡って存在を秘することは不可能よ。かといって本当に人里に降りられないようじゃ本末転倒。任務の伝達すら難しくなるでしょう? それらを両立するとすれば、本拠そのものは人跡未踏と思われている場所にあり──」
「なおかつその本拠と都市を移動可能にする経路がある、と」
「そういうことよ」
「……一応言っておくが、お前の発言に虚偽が含まれていると判明した場合、その時点でこの取引は破棄される」
「疑り深いわね。まあ私にも勘違いがあるかもしれないけど、嘘を言っているつもりはないわ。偉大なる風魔竜クラルクロクラムにでも誓いましょうか?」
「いや、結構だ。お前がそれほど信心深い人間には思えないんでな」
斬雄は深い思案の中に沈む。
確かにハリカの言っている推測には妥当性がある。妄信するつもりはないが、彼女にとってもここで嘘を吐くメリットはないだろう。
それから斬雄はいくつか別角度の質問を行い、ハリカはそれに対して大人しく答えていた。
「……これで一つ目の命令は終わり?」
「ひとまずはな。命令は嘘偽りなく全て話すことだ。何か追加の質問事項があれば、改めて答えてもらう」
「それも最大で一か月が過ぎれば履行完了ってことよね?」
「ああ」
「なら、それでいいわ」
取引している間は危害を加えられることはないだろうと踏んだのか、質問が終わった頃には、ハリカは元の調子をすっかり取り戻していた。
「では二つ目の命令だ」
「もう? まあいいけど。今度は何をさせるつもり?」
「ああ、お前にはとある人形を動かしてもらう」
その言葉にハリカは訝しげにし、詳細を聞いて今度は呆れたと言いたげな表情を見せた。
「本当に人使いの荒い男ね」
「報酬に相応しい働きを期待するのは当然だろう?」
「ま、いいわ。死なない程度には協力してあげる」
それで全ての話が終わった斬雄とクローディアは牢を後にする。
「大丈夫ですか?」
道中、先行する彼の後ろに立っていたクローディアが問いを投げる。
「……問題ない。ああした方が話がスムーズに進むと思っただけだ」
ハリカとの取引を有利に進めるためのプレッシャー、それは決して嘘ではないだろう。
だが、クローディアはそれだけではないものを感じていた。
あるいはそれは彼女自身の心を鏡として見ているだけだったのかもしれない。
薄暗い階段を登り、一階の廊下から差し込む光が見える。
──あいつらの死は無駄にはしないさ、必ずな
その言葉は果たして口にされたのか。
それを知る者は斬雄とクローディアの二人のみだった。
光が斬雄の横顔を照らす。
彼はいつもと変わらぬ表情で口を開いた。
「後は警備をどうするかだな」




