2-2
襲いかかる弾丸の雨、それを前にしたマジャドの手には一本の杖が握られていた。
「シェオルの錫杖」
マジャドが漆黒の闇に包まれる。
掃射された弾丸が、後から降りてきた辰砂影従者の雫の人型に命中し、その体が蜂の巣状態になって弾け飛ぶ。人型が崩れ、どろっとした液状に溶けて散った。その手に握っていた黒曜の剣がカランと落下する。
そして、マジャドに当たる弾丸は全て、彼を包む闇に弾かれていた。見えない壁がその衝撃を全て弾き返しているように跳弾音を響かせ、マジャドは闇と共に悠々と着地する。
ホワイトベルの男たちは構わず掃射を続けるが、その闇を貫くことは叶わない。
シェオルの錫杖、所有者の周囲に、外部からの干渉の一切を遮断する概念障壁を張る聖遺物。空気も、振動も、光すらもこの壁を通すことはできない。それは魔術や聖遺物のような素竜子現象による力ですら例外ではない。
それは外部のみならず、内部からの干渉もまた同様だった。
一筋の光すら通さない暗黒の中でマジャドは思考する。
元々彼の、雅鸞はここよりもさらに下の階、一階もしくは地下にあるという推測は、奇しくも推理の大元となった根拠がないという問題を同様に抱えている。合理的ではある。だが、それ以外の可能性を排除できているわけでもない。自信はあるが、同時に当てが外れてしまう可能性も十分にあった。とはいえ、本当の在り処がわからない以上、当てずっぽうか虱潰しをするより他にない。故に、推測が間違っていたとしても状況は変わらない。
しかし、二階に配置されていた人員から、マジャドは自身の推測が当たっている確度を上方修正する。
彼らは本物の雅鸞の在り処、偽の誘導先、どちらに向かうルート上でもない場所で、回転式機関砲と共に配置されていた。
マジャドの推測が間違っていれば、ほとんど意味を成さない配置だが、彼の推測が正しいとすれば二つの意味が生まれる。
一つは、今こうしているように、天井と床をぶち抜く直通ルートへの防衛配置。
もう一つは、本来の雅鸞の在り処を守るための即時投入可能な予備戦力。
「当たりだな」
マジャドはそう呟いて、笑みを浮かべる。
彼は上空に飛び上がると同時に、アロガンテの力を開放する。
効果範囲の外縁部の重力加速度を減少させる。
そして、シェオルの錫杖の発動を解いた。
視界が開く。眼前には急激な重力場の変動により、目測を誤って砲身を高く跳ね上げ過ぎてしまい、驚愕するホワイトベルの構成員たちの姿があった。
同時に、効果範囲の中心部の重力加速度は増している。不自然な速度でマジャドは地面に落下し、アニュパルクシアを拾い、重力場を解除して、一気に三丁の回転式機関砲に向かって走る。
回転式機関砲は厄介だが、その射手はマジャドにとって脅威になり得ない。
故に、彼が最も警戒すべきは、今、二階に飛び降りてきたクローディア=ホワイトベルだった。
重力場を発生させ、彼女のいる空間の重力を軽くする。
クローディアは落下速度の変化により、態勢を崩した。だが、その姿勢のまま、彼女は攻撃に転じる。
「光鞭刃」
クローディアの剣から光が放たれ、それは鞭のように長く、しなやかな形状となって、正確無比にマジャドに襲い掛かった。
マジャドはそれを身を捻って回避すると同時に、右手のアニュパルクシアで回転式機関砲三丁の砲身を瞬く間に切り伏せる。
そして、アニュパルクシアをルベルグラナトゥムに入れ替え、再び床を爆破する。そのまま二階から一階へ飛び降り、階下に待機する人員を確認する。
「なっ」
誘導先の真下、その一階に位置しているアリスターの書斎で待機していた、眼鏡を掛けたエルフの男が目を見開く。クローディアの護衛騎士、エルヴィス=トリアテレイアリーフは即座に腰からレイピアを抜き放つ。
「風精霊の羽衣」
女性の姿を象った風の精霊が顕現し、エルヴィスの全身と刃を纏い、激しい風が室内に吹き荒れる。
それと同時に、同じく書斎で待機していた獣人の男、カイ・グローマンが短剣を手に、落下してきたマジャドへ襲い掛かる。
その瞬間、重力場が発生する。中心部は重く、外縁部は軽く。マジャドの落下速度が上がり、飛び上がったエルヴィスとカイの目測が外れる。さらに、上階から斬雄とクローディアが飛び降りてくるが、こちらも落下速度の減退に阻まれる。
マジャドはアリスターの書斎を一瞥して、雅鸞がないことを確認すると、すぐさまルベルグラナトゥムの光を床に向けて放ち、爆風と共に誰よりも先に地下へ到達する。
──盗む側と守る側は、圧倒的に盗む側が有利だ。
なぜなら、この両者は勝利条件が異なっている。
盗む側は、目的の物を確保して、離脱できればいい。防衛戦力は必ずしも倒す必要はなく、どんな手段を使ってでも、宝の在り処に辿り着きさえして、退路を確保できればいい。
翻って守る側は逆だ。盗む側を打倒して追い返さなければならない。その上、守る対象があることで、行動の選択肢は狭まり、一方的に攻め手の行動に主導権を握られる。
無論、数の優位があって、日時を指定して正面から乗り込んでくるマジャドのような人間相手であれば、防衛側は人員を予め配備して、守りやすいように陣地を形成することができる。そういう前提であれば、逆に防衛側が優位とさえ言える。
だが、それは個の戦力が拮抗している場合の話だ。
突出した個の力があれば、防衛側はそういった優位の大部分を失う。
故に、マジャドは絶対の自信があった。自らの力と、強力な聖遺物さえあれば、如何なる場所でも目的の宝を奪取して見せる自信が。
現に五公領の一角、アウレロア公城の警備でさえマジャドを退けることはできなかった。“円卓”はいなかったが、仮にいたとしても、自分なら盗み遂せると、マジャドは確信していた。
そして、今宵もまた、彼はその自信を深める。
地下室に置かれていた鎧を見て、マジャドが笑みを浮かべる。
鎧というよりは、人型の装甲とでも言うべき形状。
「情報通りだ。見つけたぞ、雅鸞」
背後から仮面の男がこの部屋に降りて来るが、もう遅い。雅鸞に左手で触れようとした、瞬間、突如としてマジャドの腹部に衝撃走った。
「な、に!?」
天井へ跳ね上げられながら、マジャドは驚愕する。
眼下で直立していたはずの雅鸞が右腕を振り上げている。
ひとりでに動き出したのかと考え、即座に否定する。
「馬鹿な、雅鸞を操る人形師だと!? なぜそのような者が連合にいる!」
魔導人形は、旭花帝国の特有の魔導技術、その中でも秘術に分類されるものだ。人形が動かせる操り手がいることは、マジャドにとって完全に想定外の事態だった。
マジャドは壁を蹴って、一階書斎に着地する。
少し遅れて斬雄も一階へ、その手には一本の刀が握られていた。アリスターの蒐集部屋にあった刀の一振りだ。
「少し借りるぞ」
斬雄はそう言って、カチャと鍔を押し、鞘との隙間から刃の波紋が覗く。
そして、彼に続くように雅鸞が浮かび上がってくる。驚くことに、背面から熱を噴射しており、その推進力で宙を浮いている。
「雅鸞が動いているのは貴様の仕込みか、面妖な仮面の男よ!」
「ベストは誘導先でお前を捕えることだったんだが、まさか用意していた奥の手を使うことになるとはな。大したものだよ、簒奪者」
「貴様、何者だ……」
「ジョン・スミス」
「戯けたことを!」
マジャドは先程よりも斬雄から発せられる剣気が、研ぎ澄まされ、強まっているのをピリピリと肌に感じる。ただ武器を持ち替えただけではないと本能が告げている。
「戦術の初歩を教えてやる、簒奪者」
斬雄の言葉に何か察したマジャドが目を見開く。
「それは、相手が一番嫌がることをすることだ」
「クソッ」
雅鸞が書斎のドアを突き破って部屋の外へ向かって行く。マジャドが即座に悪態と共にそれを追いかける。邸宅内の長い廊下を舞台に、激しい銃撃音を鳴らしながら逃走劇が繰り広げられる。結果、彼らが通った後の邸内はあちこち穴だらけの散々な有り様になっていた。
無惨に破壊された邸内を見て、後ろから追うクローディアがぼやく。
「全く、他人の家だと思って遠慮なく……」
「雅鸞を簒奪者に渡すわけにはいかないだろ?」
並走する斬雄が軽口を叩く。
「修繕費をそちらに請求しても?」
「……」
斬雄が無言で速度を上げる。クローディアは内心で溜息を吐いた。
二人が玄関ホールに辿り着いたとき、すでに雅鸞とマジャドが激しく対峙していた。
雅鸞の指先から銃弾が嵐のように放たれ、装甲の一部が変形することで露わになった銃身から熱光線が乱れ打つ。それをマジャドは上下左右を自在に動くことで華麗に回避する。だが、その表情は深く皺が刻まれ、苦み走っていた。
重力加速度を増やす。だが、雅鸞の速度は変わらない。
加速度を反転する。同様に、雅鸞の速度は変わらない。
推進装置による高速軌道のみならず、マジャドを狙う腕の動きにも重力場の影響は感じられない。雅鸞を動かしているのは、人形師の筋力ではなく、操糸と連結した雅鸞内部の特殊な金属繊維の働きによるものだ。故に、元々の出力が人間のそれとは圧倒的に違っているのだ。重力場の影響を無視できる程に。
マジャドは雅鸞を破壊せずに、中の術師を制圧する方法を検討するが、有効な手段が思いつかないでいた。破影手裏剣では装甲に傷一つ付けることができない。アニュパルクシア、ルベルグラナトゥムでは雅鸞自体を破壊してしまう。聖遺物の強力な効果が徒になっていた。
そして、続々と玄関ホールに戦力が集まってくる。斬雄、クローディア、エルヴィス、カイ、烏合ではない精鋭戦力による完全包囲。この状況を突破するのはマジャドとて容易ではない。
だが、最大の問題はそこではない。
先程まで盗む側は敵を倒す必要がないことが戦術の幅を広げていた。だが、雅鸞が動くことで、盗むためには操り手、雅鸞の中にいる人形遣いと正面から戦い、打ち倒さなくてはならなくなってしまった。
即ち、──盗む側と守る側の勝利条件が反転する。
マジャドは雅鸞の繰り手を制圧しなくてはならず、逆に防衛側は雅鸞という難敵を前にしたマジャドの行動を裏を取り続けるだけでいい。
風精霊の羽衣を纏ったエルヴィスが、風を操って、マジャドの進路を妨害する。
「白光」
「ぐうっ」
心臓を狙うクローディアの刺突、それを身を捩って回避するが左肩を穿たれる。その損傷は大きく、アロガンテを握る指の力が抜けていく。
その上空から雅鸞が頭と胸部を狙って熱光線を放つ。
「シェオルの錫杖!」
マジャドが闇に包まれ、熱光線を防ぐ。闇がクローディアの刃を押し返し、ずるりと左肩から抜ける。
黒一色で染め上げられた無音の中でマジャドは床に着地する。
その足を何かが絡め取った。
「!?」
闇の外、仮面の下で斬雄が口の端をわずかに上げた。
「谺手繚乱」
二階での回転式機関砲を防ぐ際、錫杖の能力を発動したまま、アロガンテの重力場を発生させていた。
それは即ち──。
「魔術干渉は弾くが、心意干渉は弾けない、だろ?」
「おのれェッ!」
マジャドに斬雄の声は聞こえなかった。だが、起こっている現象から状況を理解する。
シェオルの錫杖は物理現象のみならず、魔術による干渉すら弾くが、例外が一つだけ存在する。
この概念障壁は、素竜子が心意に感応する現象だけは防ぐことができない。
魔術によって発生した現象は通さないが、その発動自体は通るということだ。この原理は、素竜子に連なる現象である魔道具、その一種である聖遺物でも同様に適応される。
マジャドは状況を整理して、打開策を検討する。
左肩の損傷により左腕は千切れかけている。
アロガンテの重力場で突破しようにも雅鸞はその影響をほとんど受けていない。
クローディアと仮面の男は剣技の技量という点においてはマジャドよりも上にある。
二人程ではないが、一筋縄ではいかない強者がさらに二人。
そして、シェオルの錫杖を解除すれば、間違いなく彼らはその瞬間を狙って一斉に襲い掛かってくるだろう。
時間的猶予もない。マジャドの足を縛りつける何かは段々と伸びて、すでに下半身に絡みついてくる。
シェオルの錫杖を発動している限り、彼は外部の情報を全く得ることができない。つまり、隙を突こうにもそれを確認する手段がない。
この場を打開できる聖遺物はない。
絶対絶命の窮地。
マジャドは苦渋の表情を浮かべ、絞り出すように口を開いた。
「……翠玉簒奪」
シェオルの錫杖の解除を待っていた斬雄たちの目の前で、マジャドを纏っていた闇が変形していく。その背中に六本の翼が生えたかのように膨れ上がる。
その不気味な様子を前にエルヴィスが呻くように口を開いた。
「何が、起こってる?」
膨れ上がった闇が再び人の形に収束し、その闇が晴れた。
暗い緑の全身甲冑、その形はどこか歪で、蟲の外殻のように見えた。
斬雄とクローディアが眉を顰める。二人はその鎧に強い既視感を抱く。
「……外装骨格」
「ならば簒奪者、あなたは……」
斬雄とクローディアの言葉を遮るように、雅鸞の熱光線がマジャドを襲う。
だが、鎧は熱光線を弾き、マジャドは悠然とその右手に幅広の穂先の大槍を取り出した。その槍は身の丈を遥かに超え、その穂先の刃は剣より分厚く大きい。
「答え合わせの機会はまたとしよう。今宵は全力で撤退させてもらう!」
長大な槍を構えて、投擲する。
「白虎波浪矛」
そして、マジャドはその槍の上に飛び乗った。
「なっ!」
流星の如き速度で放たれた大槍が、マジャドを乗せたまま邸宅の壁を突き抜けた。
邸宅の外に出たマジャドはそのまま上空へと上昇し、都市の光を見下ろしながら、大気という波を乗りこなして、中空を滑る。
「しつこい奴らめ」
マジャドが後ろを振り返り、舌打ちした。
後方から雅鸞とその両肩に乗った斬雄とクローディアが追いかけてきている。
マジャドは右手からルベルグラナトゥムを取り出し、赤い光点が夜空に散った。
その光点の間を縫って雅鸞はさらに加速し、白虎波浪矛に並走する。
雅鸞が銃弾を連射し、それを回避しながらマジャドは縦の方向、即ちさらなる上空へ突き進む。
「もっと速度と高度を上げろ!」
斬雄の言葉を受けて、雅鸞の前方を向いていた銃口が背後へ回る。内部魔術式の切り替えにより、銃口から熱光線ではなく、推進用の高温・高圧のガスが噴射される。箒星を尾に引きながら、雅鸞はさらに高く空へ舞う。
「ぬっ」
「取ったぞ、上を!」
白虎波浪矛よりも高く、上を取る。
クローディアが飛び降り、その刃に光が収束する。
「はっ、馬鹿め! 上空では身動きが取れまい!」
アロガンテにより重力場の発生。クローディアの落下速度が減少する。そして、それを狙い澄ますように、マジャドが右手にアニュパルクシアを構える。
回避不能の絶死が眼前に迫る。しかし、クローディアの目には一切の揺らぎが存在しなかった。
「漩嵐」
斬雄が魔術を発動する。威力を落とした風の渦がクローディアの背中に叩き込まれる。
「何ィッ!?」
風に押されてクローディアが急加速する。
咄嗟に振り抜かれたアニュパルクシアを紙一重で躱し、彼女の刃がマジャドの体を捉えた。
「白光ッ!」
白光を纏う刺突が、マジャドの腹を穿つ。
「ぐっ、おおおおおおおおッ!」
マジャドの腹部に刃が突き刺さり、白虎波浪矛から落下する。
空に投げ出されたクローディアを雅鸞が回収して、腹部を抑えながら地面に落ちていくマジャドを追走する。
アロガンテの重力場により、マジャドは自らの落下速度を上げる。そして、白虎波浪矛もまた乗り手を失ってなお、その持ち主のもとへひとりでに加速する。
空中で身動きを取れないマジャドに向かい、雅鸞が弾丸を掃射する。
「ぐうっ」
装甲を貫くことはできていない。だが、その衝撃は内部に伝わっていた。
カシーヤの南端付近、近くに見える線路にニンアンナからの直通列車が走っていた。
その近くの建物の屋根へマジャドが着地する。屋根が罅割れるが、回転することで衝撃を殺し、そのまま別の屋根へ飛び移る。
その背後には斬雄とクローディアが迫っている。
深手を負ったマジャドでは逃げ切れない。
「くっ」
クローディアの剣撃をアロガンテで防ぐ。
──黒鉄逸刀流 弐之型 薊
その足が止まった隙を狙って、斬雄が強く踏み込む。上半身の起こりはなく、ただ踏み込みと共に刺突が放たれる。その剣先は真っ直ぐに点となってマジャドへ向かい、それ故に視認が非常に困難なものだった。
同時に重力場が発生する。踏み込んだ前に進む力が阻害される。
しかし──。
「悪いが、もう慣れた」
斬雄は獰猛な笑みを浮かべながら、心意による身体強化の出力を引き上げ、強引に重力場を突破する。出力に耐えられなかった筋繊維が切れるが、問題はない。すでにその刃は左肩を貫いている。
そこは外装骨格によって繋いだ弱部だった。アロガンテを持つ指の力が抜ける。その直前にマジャドは右手で剣に触れる。アロガンテの姿が消え、次の瞬間にはアニュパルクシアを握っていた。
だが、片腕が使い物にならなくなったマジャドでは、迫り来るクローディアの追撃を凌ぎ切れない。
クローディアがトドメとなる一撃を見舞おうとした瞬間だった。
遥か彼方から三つの物体が高速で飛来する。それは放たれた漆黒の矢だった。
「クローディア!!」
斬雄はそれが自身とクローディア、雅鸞の方へ向かっていることに気がつき叫ぶ。
音はなかった。それよりも速く、クローディアの目前にそれは迫っていた。
彼女がそれを頭を下げることで回避しようとしたとき、一つの影がクローディアと矢の間に割り込んだ。その影が漆黒の矢を弾き返す。
「ご無事ですか?」
クローディアを庇ったのは、金髪碧眼の青年だった。柔和な雰囲気でありながら、凛然とした貴公子を絵に描いたような立ち姿。その手には白銀の巨大な大盾が握られており、漆黒の矢を防いだのはまさにその大盾だった。彼は大盾を片手にクローディアへ微笑む
「あなたは……!」
クローディアは青年の顔を見て、驚きに目を見開いた。
その間にマジャドが屋根の上から飛び降りる。
斬雄がそれを追跡しようとするが、再び遠方から矢が飛来する。
飛んできた矢は三つ。それぞれ時間差で宵闇を切り裂き、音を置き去りにして斬雄のもとへ到達する。寸分狂わず右足を狙う矢を刀の振り下ろしで弾き、返す刀で左肩を狙う矢を弾く。対角への振り幅の大きい攻撃を受けたことで、体が開き態勢が崩れる。故に、三本目の矢は回避能わず、心臓を穿たれる。
──そういう矢の放ち方だった。
斬雄はわずかに左足を後ろにして、一本目を切り上げで弾き、二本目を半身になって躱し、返す刀で三本目を弾くと同時に、その衝撃を利用して後方へ跳ぶ。これで仕切り直しだ。
その前を横切るように雅鸞がマジャドの追跡に向かおうとする。
「追うな!」
斬雄の制止に、雅鸞はその場で動きを止めた。
すでに雅鸞の防衛は成功している。お互いの種は割れ、このまま雅鸞を移送してしまえば、マジャドがそれを追跡できないことは確定している。取り逃がしたのは惜しいが、新手が出てきた以上、深追いのリスクを背負う程のメリットはない、と斬雄は判断した。
斬雄は矢が飛んできた彼方を見る。飛んできた方向から、おそらくは商工会本部会館の屋上から射撃と予測するが、暗闇と距離の遠さから対象の視認は困難だった。追跡しないのであれば、攻撃してくる気もないようで、以降矢が放たれる様子はなく、静寂の宵闇だけが辺りを包んでいた。
最初に警戒を緩めたのは大盾を持った青年だった。彼は盾を背負い、クローディアの方に向き直る。
「お久しぶりですね、クローディア様」
彼が一歩距離を縮め、クローディアがほんのわずかに足を後ろに下げる。
さらに一歩クローディアに近づこうとして、青年はピタと足を止めた。
「君は誰かな?」
二人の間に割って入るように立つ、仮面の不審人物に青年は怪訝そうな表情を見せる。
「こちらこそお聞きしたいですね、どちら様ですか?」
斬雄の立ち振る舞いは如何にも護衛然としていて、青年もそう解釈したのか表情を緩める。
「……ふ、そうだね」
青年がその柔和な表情をさらに和らげる。
「私は彼女の婚約者だよ」
「“元”、ですよ」
クローディアの訂正に、斬雄はかつて彼女から聞いた婚約者の話を思い出す。成程、年ごろもそうだが、その貴族らしい洗練された立ち姿は、如何にも彼女が言っていた通りの男のようだった。
「姫様、私は今でも貴女の婚約者のつもりなのですが……」
青年は困惑した表情を見せる。対するクローディアは静かなもので、それ以上何かを口にするつもりはないようだった。
斬雄は一つカマを掛けてみるかと口を開く。
「成程、失礼いたしました。それで、あなた程のお方が一体なぜこのような場所へ?」
無論、斬雄は彼のことなど知らない。
「ああ、驚くのも無理はない。何しろ──」
「卿」
クローディアが青年の言葉を遮った。
「このような場で長話も何ですから、一旦ホワイトベルの屋敷へ向かいましょう」
「え、ええ?」
そして、彼女は薄目で斬雄を一瞬睨みつける。
「ジョン・スミス、後は任せていいですね?」
二人が立ち去った後、斬雄の傍らに雅鸞が近づいてくる。
「残念だったわね、情報を引き出せなくて」
中から聞こえたのはくぐもった女の声だった。
「口が軽そうな雰囲気だったからいけるかと思ったが、さすがにガードが固いな」
「なんだか楽しそうね?」
女の声音には呆れが混じっている。
斬雄は肩を竦めて、肯定も否定もせず、それ以上は何も言わなかった。
「それで、これが二回目ってことでいいのよね?」
「ああ、よくやってくれた、ハリカ・ナジャール」
雅鸞の兜の前側だけが露わになる。そこにあったのは、初めて見たときのおどおどしたものとは似ても似つかぬ険のある雰囲気の、小麦肌の女の顔だった。
かつて風魔教団の暗殺者として斬雄たちと対峙した、ハリカ・ナジャールこそが雅鸞の操り手の正体だった。




