7-4
男は暗闇にいた。見えず、聞こえず、声を発することもできない深淵。飢餓。資源を奪って殺し合う。奪われる敗者と捨てられる弱者。生存のためのカニバリズム。全身を苛む呪詛。かつて呪いを生み出した数多の悲劇。
――男はイリディア公国出身の傭兵だった。彼が生まれた時代は、各地で大小様々な戦火が広がる争いの世だった。貧しい農家の生まれだった彼は自らの身を立てるために剣の道を選んだ。最初から華々しく戦えたわけではない。
いや、英雄のように戦った機会など、その生涯においては数える程しかなかった。傭兵の扱いなど、味方を生かすために使い潰す道具に過ぎない。経験の浅い指揮官の馬鹿げた命令で、死地に赴いたことなど数知れず。周囲はその日生きる糧のことしか考えられない境遇の破落戸ばかり。泥の中で生きるために足掻く。勝利もあったし、敗北もあった。みっともなく逃げることもあったし、柄にもなく命を掛けるような選択をしたこともあった。
特に秀でた才能はなかった。彼よりも優れた才能の剣士などいくらでもいた。あのように戦えたらいいと憧れた朋友は、ぼろい仕事だと思った勝ち戦で怪物に遭遇し、事故のようにあっけなく死んだ。そういう時代だった。
彼に他と違ったことがあるとすれば、数多くの友が死にゆく時代の中で、最後まで生き延びたこと。きっとそれだけだった。
生き延びる度に振るう武器は大きくなっていき、あの日、憧れた友よりもうまく剣が振るえるようになり、かつてよりも幾分か世を広く見渡せるようになった。
そうして気が付いた時には、彼は誰もが知る傭兵たちの英雄となった。だが、その無数の屍の上のそれを、栄誉と喜ぶことはできなかった。男は死がこびりつくような戦いの日々に倦んでいた。
男は傭兵家業の引退を決意した。
現役時代の伝手を辿って、隠居先にクライシュ帝国を選んだ。西方諸国連合で拠を構えるには、男の名は良くも悪くも大きくなりすぎた。
男は皇室の剣術指南役として雇われた。初め、彼の武名届かぬ異国の地での生活はうまくいかなかった。突然現れた異人に名誉ある指南役の座を奪われたやっかみ。宮廷での作法を知らぬ彼を粗野と嘲笑う声。だが、宮廷雀の嫉妬の一つや二つ、戦場での命のやり取りと比べれば可愛いものでしかなく、男にとっては何ということはなかった。
しかし、そんな様子を見かねて、第一皇妃付の侍女であった、一人の女が彼に声を掛けた。背筋のスッと伸びた、怜悧な印象の女だった
「知らないのは仕方ありません。ですが、覚えようという気がないのはあなたの怠慢です」
つっけんどんで、少し上から目線の物言い。男は最初、それが彼女の親切心だとは気づかなかった。また変な奴に絡まれたなと思うだけだった。だが、彼女がそんな調子で、男を慮ってくれていることに気づいてからは、男も色々なことを学ぼうと努めるようになった。
男は女から多くのことを教わった。礼儀作法、宮中の政治模様、クライシュの風土、歴史と伝統。そして、彼女自身のこと。逆に男も傭兵時代に行ったことのある様々な場所について彼女に話した。帝都から出たことがなかった女は、男の話を興味深げに聞いた。
時たま、女が澄ました顔を緩める姿を見ると、男は言葉に出来ない心地良さを感じた。
仲が深まるにつれ、男は誰に話したこともなかった、心中を吐露することもあった。
「……たまに、俺は死に損なったんじゃないかと思う時がある」
戦うことしか知らない人生だった。友と呼んだ者は皆戦場で帰らぬ人になった。自分もいつか同じように死ぬ。そう思っていた。だから自分だけが生き残っていることが不思議で仕方なかった。死ぬべき時はもう過ぎていて、それを乗り過ごしてしまったような虚無感。
「死ぬべき時なんてありませんよ。あるのは今、生きている事実。そして、いつか死ぬ事実だけです」
女の手が、男の手に触れた。
「あなたに必要なのは生きる理由です。今はただ、育む未来を思い描けていないだけ。それを忘れてしまっただけ」
女は今まで見せたことのない表情で柔らかく笑った。
「私にあなたと同じ思いは体験できません。それでもきっと伝えられることがあると信じています。だって……」
――今、こうしてあなたの隣にいるのですから。
それから少しして、男は女と結ばれた。
女は職を辞して家庭に入った。
程なくして、二人の間に男の子が生まれた。
男はまさか自分が家庭を持つことになるとは思っていなかった。と涙をこぼした。
「おれ、パパみたいに強くなりたい!」
「ああ、お前ならなれるさ。何しろパパとママの子だ。きっと誰よりも強くなれる」
男は年を取って初めて生まれた子をことの外可愛がった。そうして少しずつ生きる意味を取り戻していった。
旭花帝国と西方諸国連合からの圧力が強まり、クライシュ帝国内の政情が不安定になったタイミングで、男は第一皇妃の住まう離宮、その護衛責任者の任が与えられた。その頃には宮殿に彼の名を知らぬ者はおらず、かつてのようなやっかみはほとんど見られなくなった。同僚や部下にも恵まれ、このままこの地に骨を埋めることになるんだと思っていた。
そして、あの事件が起こった。皇太子の暗殺。国内視察の帰路についていた時のことだった。護衛を含めて全員が殺害され、下手人は捕まらなかった。
宮中の貴族たちは、犯人探しなどそっちのけで、対立派閥の非を責め立て、政争に勤しんだ。暗殺、毒殺、血生臭い暗闘が繰り広げられ、そうして最大の悲劇の日が訪れる。
男は余燼の中で、自らの妻子だった燃え滓を見た。
さらには男が不在の隙を狙って、第一皇妃が住まう離宮にまで暗殺者の手は伸び、警護に当たっていた衛士含め、離宮にいた人物は皆殺しにされた。
第一皇妃、第三皇子、第二皇女が死亡。アイシャ第四皇女は行方不明だったが、公的には死亡と発表された。
男が不在だったとはいえ、離宮の警備は決して甘くない。貴族が抱える私兵では、そこまで大それたことはできなかった。それができる者がいるとすれば、当時、旭花帝国と西方諸国の大使に随行して帝都ニンアンナに滞在していた、十二星将“無垢織”九代目不知斎、もしくは円卓の騎士“蛇影”ポルフィリオ・ブルガーリャのいずれか以外に考えられなかった。だが、確たる証拠はなく、確かな証言が彼らを守った。
「また俺だけが生き延びた」
あるいは死に損なった。
ニンアンナの大火以降、貴族の派閥争いは収まる所か、益々激しくなった。愛する妻子を失った皇帝は、病に伏せるようになり、表舞台に姿を現さなくなった。男は生きるべき場所を失った。だが、妻と息子の笑顔を思い出す度に、生きなければならない気がした。
彼に残った生きる理由は復讐だけだった。しかし、誰を相手にすればいいのかもわからず、彷徨うことしかできなかった。ただ、瞼の裏にずっと炎が燃え盛っていた。
その先で三賢人に出会い、導かれて結社へと入った。支配から解放されるための世界大戦。その思想は彼の復讐にとって都合が良かった。犯人がわからないなら、疑わしい全てを破壊する。男は生きる理由を作り出した。
「なんだこれは?」
そして、その実験を知った。目をつぶった結果、かつて守っていた少女の非道な末路を。
「黒鉄とホワイトベルの抗争を引き起こす策が失敗した場合の後詰ですよ。悪魔の力を以てこの都市を陥落せしめ、二虎競食の計を成功させる。ご安心ください。旭花、連合、いずれにも我らの手は入り込んでおります故」
「そんなことは聞いていない」
「な、何をっ!」
夢から覚めるようだった。
不愉快な気分の男のもとに、一人の男がやってくる。
「聞きましたよ、青嵐破剣」
褐色の肌に、緩くウェーブした黒髪。軽薄そうな笑い方をするクライシュ人の男だった。
「黄金天駆」
執行者は普段、各々の任務のため、各地に散らばっている。本拠たるこの地に現在残っているのは、この二人のみだった。
「実験体を逃がしたそうですね」
「……計略は俺が成功させる」
それで問題ないはずだと切って捨てた。
「そういうわけには行かないわ」
濃い闇の中から現れた明星の双眸が覗く。
深淵の奥から一人の少女が姿を現した。
黄金天駆がすぐに恭しく跪く。
白と黒のゴシックドレスに身を包んだ十歳前後のあどけない立ち姿。
しかし、彼女こそが“虚空の柩”の盟主たる三賢人の一人。
「……アリストテレス」
如何なる下法か、三賢人は皆、何らかの方法で不老不死を体得しており、悠久の時を生きている。彼女もまた見た目通りの年齢ではなかった。
「あの娘は大事な“器”なの。取り返して来てちょうだい」
「“器”というなら、お前が行けばいい」
「あら、それは無理よ。今の私じゃ現世に強い干渉はできないもの」
「……」
くすくすと少女は笑う。男はそれを見て黙り込んだ。
「あら? 奥さまと息子さんの仇を取りたかったのではないの?」
「必要のないことに手は貸さん」
「しょうがない子ね」
駄々っ子を宥めるような態度。
「ああ、そうだわ」
少女は名案を思いついたとばかりに手を叩く。
「取り返して来たなら、今後、あの娘の管理はあなたに一任するわ。計略がうまく行くなら、当分あの娘の仕事はないもの」
そう言いながら、少女は微笑む。
「ねぇ、でも忘れちゃ駄目よ? いざって時は、本当の目的を思い出さないと」
「……」
「ふふ、あなた、焼かれる苦しみを知らないでしょう? 火の煙ってとても温度が高いのよ。喉が焼けちゃうぐらい。呼吸がうまくできなくって、息子さん、きっと泣き叫びたかったでしょうね。でも、煙を吸うわけにはいかないから必死に押し殺して、うふふふ、奥さまは、子どもだけは守ろうと必死にあがいたかしら、あははは」
鬼面の嚇怒。男が少女を睨みつける。
「あら、それをやったのは私じゃないわよ。わかっているでしょう? これは同じ悲劇を二度繰り返さないための計画。安心して、ヘテルツォラシュを起動しても実験体は死なないわ。そのための研究だったんだもの」
悲劇を繰り返さないために、悲劇を引き起こす。悪魔がケラケラと微笑んでいた。
――これはきっと罰だ。男は苦悶の中でひとりごちた。
悪魔と取引した愚か者への当然の報い。
一人の若い男が、その暗闇の中にやってきた。彼は全身をその呪いに苛まれながら、救うべき者を手に去っていった。
「ああ、奴は為したのか」
守るべき者を守り切った姿を見て、男は微笑んだ。
そして、光を見た。
光の先に、妻と子の姿が視えた。二人は悲しげに、労わるようにこちらを見ていた。
「すまない、俺は……」
その先を言う前に、二人は仕方ないと微笑み、手を差し伸べる。
「ああ……」
──ありがとう、俺に生きる意味を与えてくれて。
オルランド・スパーダは笑いながらその手を取って、光を受け入れた。




