7-5
都市上空からクローディアが身を投げるように落ちていく。
遥か空の星辰がわずかに滲み、薄い光明が広がって、忽ちにどちらも掻き消える。
純白の剣と、彼女の身を守っていた鎧は光の粒子に還っている。
重力に任せた自由落下。
世界の秩序を乱した代償。境界励起の反動により、クローディアの心意もまた三つの律の均衡を失っていた。
故にこのままでは生身で地面と衝突するしかない。
「エルヴィス、着地は頼みました」
クローディアはそう言って静かに目を閉じる。風によって、激しく髪が揺れた。
ふと誰かに抱き止められる。清涼なシトラスとウッディな柔らかな余韻が残る香り。知らないその匂いに、クローディアは瞼を開いた。そこには彼女を両腕で抱き抱える斬雄の姿があった。彼は星醒竜転で操った木の枝の上に立っている。
「……なぜ、あなたが?」
困惑するクローディアに、斬雄は笑って答えた。
「着地に困っているように見えたが、要らん世話だったか?」
「いえ、助かりました」
そう微笑んで、再び目を閉じて身を預ける。そっと地面に降ろされたクローディアは、鳴子たちに介抱されているアイシャの側に駆け寄った。
「アイシャは無事ですか?」
「うん、呼吸はしっかりしてる」
鳴子の言葉にクローディアはホッと胸を撫で下ろした。
その瞬間だった。
黄金の物体がアイシャに向かって高速で接近する。
斬雄が即座に抜刀し、金属同士がぶつかる音が響いて、何かが彼の刀に弾かれる。
進行方向の反対側に黄金色の何かが着地する。勢いを殺すために、擦られた地面に、熱で二本足の跡が残る。
オルランドの青いそれに良く似た、黄金の甲冑。形状はよりソリッドで、色味も相まって、壮麗に見えた。
斬雄がアイシャを庇うように前に出た。
「お前も教団の執行者って奴か?」
「如何にも」
キチキチと不気味な合成音めいた声。その口調はどこか軽薄さを感じさせる。
「執行者№Ⅸ 黄金天駆」
金甲冑はそう名乗り、斬雄たちの方へ向かって歩く。
「僕は争いが好きじゃないんだ。だから取引をしよう」
そう言って黄金天駆はアイシャを指差した。
「その実験体をこちらに引き渡してくれ。そうしたら、君たちの命は見逃してあげよう」
「断ると言ったら?」
斬雄が刀を構え、その場にいた者たちもまた戦闘態勢を取る。
「……残念だが、皆殺しだ」
膨れ上がる威圧感。多勢に無勢だから有利とは言えなかった。
「悲しいね。僕の戦闘能力は君たちが先程苦戦した青嵐壊剣と同格だ。君たちには万に一つも勝ち目はない。それは賢い選択ではないと思うよ」
斬雄がそれを無視して、斬りかかる。星醒竜転による回帰と活性。それを前提とした、ポテンシャル以上の身体強化。彼の戦闘能力は格段に引き上げられている。この状態の斬雄は単騎でもオルランドを打倒し得る。
「ディシオーネに由来する秘術だね。素晴らしい力だ」
黄金天駆はそれを手に持った本で受け止めた。六芒星の形をした肉のヒトデが張りついた、薄気味悪い装丁の魔導書。始原武装ヘテルツォラシュ。本の形をしているが、それは不壊の性質を有している。
「しかし、永遠に維持し続けられる魔術などありはしない。その状態はもう、そう長くは持たない筈だ。違うかい?」
その言葉は正しかった。これは所詮、時間制限付きのドーピングに過ぎない。
斬雄が単独で星醒竜転を維持する時間の最高記録は、九分四十三秒。
そして、その時間はすでに半分を切っていた。
「それまで逃げ切れば、僕の勝ちだ。そうすれば君たちは諦めてくれるかな」
黄金天駆が徒手空拳で強化された斬雄の斬撃を受け流す。二人が超高速で広場を疾駆する。速すぎて、鳴子たちは助勢に加わることすらできなかった。目で追うことすら困難な速度。彼は単純な速力で言えばオルランドをも凌駕している。そして、彼が逃げに徹した場合、残りわずかな時間で捉えることは困難だった。
その時、クローディアから光が天に立ち昇った。手には純白の剣、月光剣コルシアシスが握られている。
「正気かい?」
黄金天駆が驚愕の声を漏らす。
「こんな街中でそれを放てば、都市ごと大勢の無辜の人間を焼き尽くすことになるよ」
「あなたたちのような外道を放置するよりはマシでしょう」
クローディアは黄金天駆の動きを目で追う。
地を穿つ白鱗王の威光は、比喩ではなくそのままの意味で、光の速度で放たれる。狙いを過たなければ、黄金天駆ですら躱すことはできない。そして、斬雄と戦いながら、放たれるまでのわずかなラグを見切るのも困難なことだった。
「いいのかい、黒鉄斬雄。君は死ぬことになるよ」
「はっ、今さら死を恐れて尻込みすると思うか?」
斬雄の強い闘志は毛ほども揺らがない。
本当に放つのか。クローディアの目を見る。凄まじい剣気が、今にも放たれる予感を抱かせた。
「……仕方ない。ここは引くとしよう」
黄金天駆はわずかな逡巡の後、撤退を選択する。トップスピードで戦場を離脱。物陰に隠れ、ジグザグに移動し、瞬く間に戦場を後にする。逃げるならばと考えたのか、誰も彼を追ってこなかった。
彼は人気のない路地裏で、外装骨格を解除し、手に持った魔導書を見て一人呟く。
「ひとまずはこれを回収できたことで、良しとしよう」
始原武装の回収を優先し、本拠のあるアヴェスタ連山へ急ぎ帰還する。
斬雄たちは今ごろ、安堵している頃だろう。後はその油断を狙って殺していけばいい。山間を走りながら、そう思ってふと後ろを振り向いた時だった。
天に昇る光の柱が見えた。遥か遠くに聳える大樹。そこから、黄金天駆が走るこの場所を結ぶ射線上に、遮るものは何もない。
その大樹の天辺で、斬雄とクローディアが寄り添って立っていた。
「ギリギリだが、時間内に出て来てくれて助かったぜ」
二人の目の前には魔術によって出来た水の波紋が、三つ並んで広がっている。
“玄水咒法・重水晶”。
水によって、重なり合ったレンズを形成し、遠方を拡大して見せる魔術。これによって豆粒のような黄金天駆の位置を大まかに補足する。伝承では、風魔教団の本拠はアヴェスタ連山にある。網を張った甲斐はあった。
──境界励起の反動によってクローディアの心意は未だ秩序を失っている。
最低限の肉体強化、魔術の発動は出来る程度に回復はしたが、二回目の励起発動は不可能な状態にあった。これは肉体、精神の問題ではない。世界の法則の問題だ。例え肉体と精神を犠牲にしても奇跡は起こらない。──はずだった。
斬雄が星醒竜転のエネルギーをクローディアに注ぎ込む。
目的はその魔術がもたらす作用ではない。傷を癒しても、代謝を促進しても、彼女の秩序は戻らない。
星醒竜転。五行を総覧する太極咒法は、人が扱う力の中で、地母竜ディシオーネという根に最も近い。
壊れた秩序を整せるものがあるとすれば、それは均衡をもたらす反対側にある力以外にはあり得ない。
前例はない。しかし、理屈には適っている。
即ち第二振動場──“地律の座”が、その原理によって彼女の乱れを強引に引き戻す鎖となる。
コルシアシスの余波熱が斬雄の肉体に触れる。一瞬で皮膚と骨が蒸発する。神経が断線する。五感は途絶し、呼吸はとうに止まっている。
だが、心意を操ることはできている。
ならば問題はない。
元の体は世界が覚えている。
星醒竜転の力が、死を引き延ばし続ける。
カチリとクローディアの心意が仮初の律を取り戻す。
距離が遠い故に黄金天駆にはその姿は見えていない。
しかし、光を見た瞬間、彼の全身を悪寒が走り抜けた。刹那の判断。全力でその場から離脱する。
――だが、もう遅い。
「地を穿つ白鱗王の威光」
あり得ざる奇跡、二度目の威光が放たれた。
熱光線が黄金天駆を焼き尽くし、山を穿ち、地底の果てまでも轟いた。




