7-3
クローディアが街中を走る。
その横に並走するようにカイが現れた。
「お嬢、イスハークは安全な場所に逃がしたぜ」
「もう一つ仕事を頼みます。十分以内に時計塔周辺の人間を避難させてください」
「お、おいおい、無茶を言うなよ」
たったそれだけの時間で全員を避難させることは困難を極める。
「──」
クローディアはひと呼吸をおいて、表情を変えることなく口を開く。
「できなければ申し訳ないですが、そこにいる人々には巻き込まれて死んでもらうしかありません」
「……あの悪魔はそんだけヤバい代物ってことか。了解、まあやれるだけやってみるさ」
「お願いします」
カイが頷いて、部下たちに指示を飛ばす。
本当に死んでもらうしかないと思っていたわけではない。最短で危機を理解してもらうためにはこういう言い方が最適だろうという計算だった。
これで周辺住民の問題は解決したと判断する。
「考えたくはありませんが、巻き込まれた住民がいた場合は私が責任を取るしかありませんね」
命じた部下にその責を負わせるつもりはない。クローディアはそう自身に呟いて、一直線に時計塔へ向かう。この辺りは戦場だった広場からは遠いが、騒ぎを聞きつけたのか、表に出ている人の姿は少なかった。
時計塔の裏側に回り、扉を蹴破って中に侵入する。ここの管理はホワイトベル・ファミリーの管轄のため、鍵を貰うことは容易だが、今は時間が惜しい。
中では歯車がぐるぐると規則正しく回っている。
階段を駆け上がる。
整備用のエリアを越え、さらに上階へ。
そして、時計塔の屋上に辿り着く。カシーヤを一望できる、この都市で最も高い場所だった。
その中央にある巨大な魔法陣の中心に立つ。大きな円の中に一回り小さな円が、その中にさらに一回り小さな円が重なる、三層の陣。
クローディアのその陣の中心にしゃがみ込み、指先で床に触れる。
「起動」
その一言で、魔法陣の三層全体が白く光輝く。陣に心意を込めることで、その光が白から青へと変化していく。そして、全ての陣が青に変わった。
「開く、始まりの極点を 其はニフラム・ベルフラムの誓約」
一番外側の陣が回る。霧幻に包まれた妖精郷、その中央に位置する湖への門が開く。
「啓く、終わりなき天蓋を 其はクレンドルフの制約」
一つ内側の陣が回る。施された封印が解かれ、湖の中心に大きな渦が巻き、その水底が露わになる。
「拓く、涯てに至る軌跡を 其はリシウスの成約」
最後の陣が回る。水底から光の柱が天に昇る。
「いと尊き光の御子、月光の女王よ」
その魔法陣は門ではない。門を開くための鍵。
「アルビオンの祖に連なりし、私が願う」
錠前は担い手たる乙女の体にある。
「その奇跡を我が手に」
魔法陣から白い燐光が湧き上がる。
クローディアの胸骨付近から青と白の光の粒子が立ち昇った。
やがてその光が集いて、壮麗な鞘に納められた、一本の剣が顕現する。
白を基調とし、青い装飾に彩られた鞘が光の帯となって解かれる。
その光がクローディアの身を包み、使用者を守る鎧となった。
それは外敵から身を守る鎧ではない。
自らの絶大な力から、発動者を守るための白き月の女王が与える慈愛。
そして、純白の刀身が姿を現した。
白鱗王リシウスの力を宿す始原武装。
アルビオン大公家に伝わる選定の剣。
古の盟約に定められた、人類を守護する清浄なる月明かり。
其は、“月光剣”コルシアシス。
彼女こそが妖精郷の奥地に封印されしその剣に選ばれし今代の適合者。
クローディア・ステラ・アークトゥルス=アルビオン。
即ちアルビオン初代大公アルトリウス直系の血を継ぐ姫。
家名を捨て、しきたりを捨て、異国の地にあってなお、この剣は変わらず彼女を自らの主と定めている。
「――境界励起」
迸る光の奔流が天を衝いた。
◇
南西方向から光の柱が雲すら突き抜けて立ち昇る。
「随分、派手な合図だ」
それを見た斬雄は、わかりやすくて助かると笑った。
そして、クローディアの言葉を思い出す。
――それともう一つお願いが
――準備が完了次第、合図を送ります。そうしたら蠅の王を空に打ち上げてください
「さぁッ! 詰めの大勝負と行こうじゃねぇか!!」
膨張し続けた蠅の王の質量を打ち上げるには、並みの魔術では適わない。
故に彼は自身が有する最大の切り札を使う選択をする。
円環が宙に描かれる。その中心から外縁に向けて一本の横線が引かれている。
「響く糸 交差して繋ぐ 西方の転輪 雷鳴と颶風 朱鷺の唄 挺身する羅針盤 碇を降ろして集え」
その線を引くようにして、円環を解く。
「黄土咒法・解纜羂伝」
魔術による言語を通さぬ直接的な意思伝達。斬雄の思考が朱奈、鳴子、エルヴィス、マルセルに伝う。それ故に四人は自らがするべきことを瞬時に理解する。
それぞれが四方に散開する。北に鳴子、南に朱奈、東にエルヴィス、西にマルセル。発動するのは東方の結界術、故に先導は鳴子と朱奈が行う。
「四象結界」
四つの方位を起点に立方体の障壁が現れ、蠅の王を閉じ込める。それは本命のための時間稼ぎだった。
斬雄が結界の中心に飛び上がる。彼が務める方位は中央。
「母なる流星 大地と海原 泡沫の謳い 奔る五行の巡行」
斬雄の言葉に従って、結界を覆うように、極大の魔法陣が展開される。複雑に絡み合った幾何学模様。それは移り変わる時を示す。これより行われるは、複数人による重奏詠唱。
「芽吹く東雲 霞の衣纏う天女 枝垂れて舞う柳絮 糸雨を編みて 麗らかに寿ぐ」
エルヴィスが詠う。其は東方、司る季節は春、即ち青木の祝詞。
「照らす宵闇 天佑を満たす洞 黄金を活かす泥 大輪明かりて 燦燦と咲く」
朱奈が詠う。其は南方、司る季節は夏、即ち朱火の祝詞。
「穣る黄昏 紅染めて絹を裁つ 醇き風来りて是穿つ 狐が走りて 四つ足肥ゆる」
マルセルが詠う。其は西方、司る季節は秋、即ち白金の祝詞。
「閉ざす夙 青海を駆ける天狼 散りゆく清き外套 山颪荒びて 岩戸に篭る」
鳴子が詠う。其は北方、司る季節は冬、即ち玄水の祝詞。
そして、地に力が満ちる。季節が巡る、五行は循環を示す。
――エルヴィスは凄まじい精神的疲労を感じた。心意が枯渇せんばかりに吸い上げられるようだった。一人当たりの負担が大きい。どう控えめに見積もっても一つの方位につき五人は必要だ。人を勝手に触媒にしやがって。という怒りが湧いてくる。それと同時に黒鉄斬雄の働きに驚嘆する。この魔術を習得しているのは、この場において彼しかいない。朱奈や鳴子も含め、エルヴィスたちはまさに触媒として使われているだけだ。術式を起動するためのエネルギーを吐き出す蛇口の一つに過ぎない。斬雄が実質的に二十五人分の魔術構築を単独で行っていた。エルフは生来、素竜子への感応力が他人種よりも比較的高く、魔術を扱うことを得意とする種と言えるのだが、そんな彼をして、その行為は常軌を逸していた。
「不変の循環 不滅の円環 全ての生命は 生じる為に朽ち 朽ちる為に生じる 色は要らず 空も要らず 此処に万象流転の理を溢す」
斬雄が締めを結ぶ。其は中央、即ち黄土の祝詞。
地母竜ディシオーネ、その生命と豊穣の権能を引き出す秘術が発動する。
「太極咒法・星醒竜転」
膨大な生命の循環が溢れ出る。
大地が隆起する。舗装が剥がれ、その奥から草木が萌ゆる。小さな枝が、瞬く間に大きく太く伸びていく。一本、二本、三本、次々と目覚めるそれらが重なり合って、一本の巨大な樹を形成する。蠅の王の膨張よりも速く、伸長する大樹が蠅の群れを呑み込み、ただ天を貫くように伸びていった。
◇
クローディアは時計塔の最上階からそれを見た。大地より現れ、今もなお伸び続ける大樹。打ち上げられた蠅の王との射線上には、遥か遠くの空しかない。斬雄はしっかりと仕事を果たしてくれた。
剣を構える。蠅の王にはアイシャが呑み込まれている。この一撃を放てば、彼女ごと全てを消滅させることになるだろう。
だが、膨張し続ける災禍を前にこれ以上の猶予はない。あれは未だ揺籃の中にある。真の意味で蠅の王が完成すれば、この都市は一夜にしてあの腐敗に沈む。そして、その被害はこの都市を越えて、止めどない呪いが世界に拡散するだろう。
それだけではない。もしこの都市が悪魔の手に陥落した時、旭花帝国が、西方諸国連合がどう動くか。
オルランド・スパーダはこの状況を策と呼んだ。ならばこれを契機に戦争を引き起こす仕込みもすでに用意されていると考えるべきだろう。
止められるとすれば今を置いて他はなかった。
その上で、少女の命を奪うべきか。
多数の人々と一人の少女。命の両天秤。
問うまでもない。
断じて否だ。
大勢にとってたった一つに過ぎないとしても、少女にとってはかけがえのないたった一つの命。
奪うことを正当化できるはずもない。
だが、現実は常に決断を要求する。
いつかではなく、その瞬間の決断を。
選ばないというのは逃避に過ぎない。
決断からの逃避ではない。決断の結果からの逃避。
破滅のトリガーを引きながら、その眼を閉じているだけだ。
取り返しのつかない分水嶺。その賽は投げられている。
数多くの命を奪ってきた。また背後の墓標が増える。無辜の墓標が一つ。
多くの人は彼女の功績を称賛するだろう。だが、それが何の慰めになろうか。
英雄譚は彼女に微笑まない。
「それでも」
与えられた選択肢は常に最善とは限らない。それでもなお、一つの答えを選ぶ。
息を吸う。覚悟はできた。
命を奪い、その咎を背負う。
過ちを許容せず、過ちを為す。
未来永劫、自分自身がそれを赦さなくとも、それでもやってのけよう。
クローディアがそう決めた瞬間、彼女の視界にそれが見えた。
「……一体、何を?」
伸長し続ける大樹を走る男の姿。
男、黒鉄斬雄は真っ直ぐに蠅の王の元へ向かい、迷うことなく、その呪いの汚泥の中に飛び込んだ。
星醒竜転。地母竜ディシオーネが象徴する大地と豊穣の権能、地律の最小回帰原理。
この魔術を発動している間、術者はこの原理を自在に操ることができる。
自己組織化する生体ネットワークの地図を世界に描き、地中や大気の資源を収奪しながら、描かれた構造に並列投影によって再配置。応力経路を整形することで、同化を促進する。回帰と活性の二重螺旋。
地に埋もれた小さな種を、瞬く間に大樹に変えることはその一つに過ぎない。その原理が人に与えられれば、あらゆる負傷、欠損を瞬時に癒す力となる。
故に、斬雄は腐敗の濁流の中にあってもなお生きていた。
無論、腐敗を無効化しているわけではない。今もなお彼の肉体は腐れ落ちている。肉が剥がれ、骨が崩れ、血が腐る。全身の神経を食い尽くされる耐え難い激痛が、斬雄の精神を切り刻み続けている。
苦痛を感じる機能が麻痺することはない。感覚が麻痺するという異常は星醒竜転の力で忽ちに癒えていく。
──私が滅します。
そう言ったクローディアの目を見て斬雄は、最悪の場合、アイシャ諸共蠅の王を討滅するという彼女の覚悟を察していた。
眼球が食い尽くされて、再生される。視界が度々明滅する。
飲み込まれたアイシャがどういう状況にあるのか、斬雄は知らない。これが正解かはわからない。もしかしたら救う手段などないのかもしれない。
それでも斬雄は躊躇いなくこの呪いに飛び込んだ。
大樹の上に立っている、その感覚すら断続的だ。
死んでいるのか、生きているのかも、曖昧になっていく。
全身を侵し尽くされてもなお、前に進む。
何のためにか。決まっていた。
「■■」
クローディアの選択が間違っているとは言わない。それが出来得る最善だということに間違いはない。
「けどな」
より良い選択を手繰り寄せる。その可能性を諦める理由にはならない。
――俺の手の届く範囲の奴は笑っていられるように。
「俺は、俺が満足行く結末以外を認めるつもりはねぇんだよッ!」
そして、その手を掴んだ。掴んで離さないように抱き寄せる。蠅の王の中心から抜け出す。発動者を取り返さんと迫る蠅の群れが、未だ伸び続ける大樹に包み込まれた。高く伸びた大樹から落下する。腕の中からアイシャの熱と鼓動を感じた。
「後は任せたぜ、クローディア・ホワイトベル」
その声は、聞こえたはずはなかった。
だが、それに応えるように彼女は晴れ晴れと微笑む。
「最高の仕事です、黒鉄斬雄」
──アルビオンの秘剣。白光、星光、華光。これらはコルシアシスの力を引き出すために編み出された魔法剣、その派生だ。コルシアシスを使わずにその力を、わずかなれど、人の身で再現する技。
これより放たれるは、それらの大元となった本来の秘剣。即ち白鱗王リシウスの咆哮の完全なる再現。
クローディアの背後に白光が翼のように現出する。
──世界は三つの固有振動場の均衡の上に成り立っている。
魔術によって世界が乱されようとも、世界の秩序が失われることはない。竜という巨大な楔が、恒常性となって、即座に世界を基底状態に引き戻す。
大地と人が引き合ったところで、人は大地に落下するしかないように、所詮、人の身では、それを壊すことなど出来はしない。
だが、その瞬間、均衡が確かに崩れ去った。三律の秩序が崩壊する。
第一振動場──“光輝の階”が世界を塗りつぶす。
それは光輝竜アルルトゥルーシュの波形の一端を写し取った月の輝き。
発生した場の乱れによって、空気が捻れ、天地が苦悶に啼いた。
大気中の分子が電離し、発生した高温プラズマが周囲を溶かす。
そして、溢れ出る全ての熱量が急速に剣先の一点に凝縮された。
光は黒く沈み、その中から白い輝光が姿を現す。
クローディアの背から放射される白き光熱の翼が勢いを増す。
その熱を推進力とし、彼女は矢となって放たれた。
反動で時計塔が吹き飛び、大量の瓦礫となって崩れ落ちる。
かつてリシウスが放った威光はこう呼ばれた。
「地を穿つ白鱗王の威光」
極大の熱光線を帯びた刺突が、直線上にある全てを貫く。
大樹の檻を瞬時に蒸発させ、その中に閉じ込められた蠅の王を一片残らず滅却する。
そして、威光はそのまま雲を突き破り、遥か天球、星々の窓を貫いて、無音の彼方まで、その咆哮を轟かせた。




