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「お待ちしておりました、ミスター・スミス」
出迎えたボーイが斬雄を見てそう呼んだ。名無しの権兵衛。それがここでの彼の名だった。
あからさまな偽名だが、ここでは誰もそれを問題にしない。
大事なのは隠すことだ。公にすれば角が立つことでも、形だけでも隠せば、わざわざ藪蛇をつつくような者はそうそういなくなる。
シャンデリアが照らす赤い絨毯の上を歩き、斬雄は館内の一室に案内される。
落ち着いた間接照明に照らされた部屋には、香が焚かれていた。上品なバニラ系の香りだ。
ソファに腰を降ろしてから間もなく、ゴールドブロンドの艶やかな女がやってくる。彼女の尖った耳は、彼女が西方に多く住む“エルフ”であることを示していた。
「ジョンはん、ようこそおこしやす」
上品さを感じる独特なイントネーションの話し言葉。
女は上質なシルクで編まれた、白いサテン布地に赤い花柄の刺繍が散りばめられたドレスを身に纏っていた。それは、接客を行う他のキャストのものとは異なり、首元まで衣に覆われた非常に露出の少ないものだ。
サラ=プエラリアリーフ。彼女はこの娼館を経営するオーナーであり、本来は客を取る立場ではない。
斬雄はおもむろに懐から一枚の呪符を取り出した。呪符には黒い墨で、模様が描かれている。その呪符が発光すると、サラの左手に、呪符と同じ模様が浮かび上がった。本人確認のための割り符。娼館で行うやり取りとしては、幾分不釣り合いな光景だ。余程、余人に知られてはまずい密会と見える。
「本日はどないされます?」
サラが斬雄にしなだれかかる。アイリスのフローラルさの奥にムスキーな香りが覗く、甘い香水の匂いがふんわりと首元から漂った。
「オススメは?」
「この間、ストラスの25年物を仕入れたんどすけど、ジョンはんの好みに合うやろ思て、取ってあります」
ストラスとは、アルビオン公国で醸造されているウィスキーの銘柄だ。アルビオン北部の寒冷な土地と、適度なミネラルを含んだ清流の下でつくられたその蒸留酒は、世界中で愛され、多くの愛好家が存在する名酒だった。
「ストラスか、ではロックで頼む」
その言葉を受けて、ボーイがすぐさまボトルとグラス、氷を用意する。ボーイとは言うが、実際のところ男性ではない。黒いパンツスーツ姿でもわかる丸みを帯びたボディラインが、彼女が女性であることを物語っていた。この店はオーナーのサラの意向なのか、ボーイも含めたスタッフ全員がエルフの女性で構成されていた。
サラが慣れた手つきでグラスに氷を入れ、琥珀色の濁りのない液体を注ぐ。斬雄は差し出されたグラスを手に取り、口につけた。
熟成された芳醇な香りが喉を潤し、鼻を抜ける。フルーティさのある甘みによって軽い飲み口だが、舌の上で転がすとスパイスにも似た複雑で豊かな風味が広がる。斬雄は思わずほうと息を漏らした。
暫し美酒の味わいを堪能した斬雄は、おもむろにサラに視線を向け、口を開いた。
「頼んでいた件はどうなった?」
「はい、こちらに」
斬雄の言葉にサラが差し出したのは、一通の封筒だった。
すでに、室内にボーイの姿はなく、斬雄とサラの二人きりになっている。封を開けると、そこには報告書と思しき文書と、幾つかの資料が入っていた。娼館で差し出されるには似つかわしくない代物。
娼館というのは、あくまで表の顔。偽りではないが、本業を隠すカモフラージュとしての生業だ。ノブレス・ローレルの真の顔、それは、この都市のあらゆる情報を収集し、売買する情報屋だった。
差し出された資料に記載されているのは、ここ最近頻発していた黒鉄会とホワイトベル・ファミリーの諍いに関するものだ。各事件の経緯から、背景までがよくまとめられている。
「特に不自然なところはないな」
「ええ、どれもほんに些細な揉め事、自然に起こるような出来事が頻発してるだけどす」
「……原因があるなら、それを取り除くのが手っ取り早いと思ったんだがな」
しかし、原因などなく、ただ小さな諍いが緊張感を高め、それがより大きな諍いを生む流れができてしまっているのであれば、それを止めるのは非常に難しい。
さて、どうしたものかと斬雄は頭を悩ませる。
「ふふ、原因がない、いうんも、早とちりと違はらしまへん?」
そんな斬雄に、サラは含みのある笑みを見せる。
「何か心当たりがあるのか?」
「心当たり、いう程のことやあらしまへん。ただ、ジョンはんはご存じないかもしらへんけど、この都市には昔からさる噂があるんどす」
「噂……?」
「ジョンはん、風魔教団いう名を知ってはられます?」
「風魔……創世譚の竜、クラルクロクラムのことか?」
世界を創世した三尊の竜。
光を齎した、光輝竜アルルトゥルーシュ。
芳醇なる大地と海を生み出せし、地母竜ディシオーネ。
そして、生み出された世界を大気で包み込んだ、風魔竜クラルクロクラム。
これら創世譚の竜は大陸各地で信仰されており、カシーヤが位置する大陸中南部では主にクラルクロクラム信仰が盛んな土地だった。
「ええ、クラルクロクラムを信仰する集団どすけど、教団は表立った宗教団体やあらしまへん」
「密議宗教ということか?」
「広い意味では。けど、それよりも教団いう組織を表現するんやったら、“暗殺教団”の呼称の方が相応しいどすやろなぁ」
「暗殺教団……」
不穏な言葉に斬雄は眉根を寄せる。
「クライシュ帝国建国にも関わり、以降も歴史の影で帝国に仇名す者を暗殺し、今なお帝国を守護する存在と市民に信じられとる伝説的なアサシン集団、それが風魔教団どす」
「聞く限り、都市伝説の類のように思えるな」
「確かに多くの人々は、あくまで歴史の間にあった暗闘劇を、脚色した都市伝説と解釈しとるようどすな」
「実際は違うと?」
「いいえ、あるのはどこまでいってもまことしやかな噂だけどす。せやけど、ここで重要なんは、その真実性よりも、伝承において、かの風魔教団の秘密の園が、この地にあるアヴェスタ連山にあるとされてるいうことどす」
アヴェスタ連山は、カシーヤ北方に位置する山脈群を差す名称だ。カシーヤに埋蔵されている竜血の源流はこの山々の地中にあると推測され、黒鉄会とホワイトベル・ファミリーはその開発のため、それぞれ定期的に調査団を派遣している。高すぎる素竜子濃度と険しく天候の変わりやすい自然に阻まれ、調査は難航しているが、もし仮に教団が実在するのであれば、自身のテリトリーに入ってくる侵入者はさぞ鬱陶しく思うことだろうということは想像に難くなかった。
「普通ならこの地で黒鉄とホワイトベルの争いを望むもんなんかあらしまへん」
「だが、その風魔教団なら動機を持ち得ると?」
「教団の教義や目的はクライシュの民ですら与り知らんことどすけど、都市の被害を度外視して、自らの秘密に近づき得る外敵の一掃を企てる。教団の伝承が事実なら、あり得へんことではないどす」
確かに物語としては筋が通っていなくもない。だが、筋が通った物語というだけでは、それは陰謀論でしかない。元が都市伝説なだけであって、何とも眉唾な話だった。
しかし、ノブレス・ローレルはカシーヤが今の発展を見るよりも古い時代から、この地に居を構える情報屋だ。その主である彼女がそれを口にした以上、根拠に欠けるとしても無視することもできなかった。とはいえ、それだけでは組織を動かす名分としてはいささか弱い。故に斬雄は、得た情報をひとまず頭の片隅に留めるのみとした。
「……他に何か変わったことはないか?」
「そうどすなぁ。ここ最近、ホワイトベルが運営する孤児院で集団失踪事件があらはったようどす」
「失踪?」
それは斬雄がまったく知らない情報だった。
「三週間程前、院内の孤児たち全員が忽然と消えたそうどす。現在も、ホワイトベルがファミリー総出で捜索中しておるようどすが、未だ一人も見つかってへんそうで」
孤児全員が消えたとなればもっと大事になっていてもおかしくないが、斬雄の耳に届いていないということは、情報統制が行われているのだろう。
「そいつは難儀なことだな」
興味深い話ではあるが、ホワイトベルの縄張りで起こった事件であれば、斬雄にできることは何もない。
「後は、そうどすなぁ……」
サラは少し思案して口を開く。
「ジョンはん、悪霊騒ぎがあったのは知ってはる?」
「ああ、噂程度にはな」
素竜子──世界に散らばった竜の欠片。
この素竜子には、意思に感応する性質がある。そして、その性質故、人の強い負の思念が土地に残留し、形を為すことがあり、この現象を悪霊と呼ぶ。
しかし、この悪霊現象は、いつどんな場所でも起こるようなものではない。
思念が形になるには、場が非常に高い濃度で素竜子が満ちている必要がある。
「高濃度の素竜子の相である竜血をようけ埋まっとるカシーヤの土地は、ところどころやけど、悪霊の発生条件を満たしてる言うても、まあ言えんことはあらへんどす」
そのサラの言葉に斬雄は頭を振る。
「だが、悪霊が出たという噂はあるが、その被害記録はない」
悪霊の元になる思念は、無念や怨念といった負の感情だ。
「負の想念の実体化。それが起こっているとすれば、必ず呪いとなって人に害を為す。噂程度で済むってのは考えづらいな」
「ええ、退治されたいう話もあらしまへん」
「そして、悪霊は自然に発生することはあっても、自然に消滅することはない」
対処するには東方の祈祷あるいは西方のエクソシズムのような特殊な技術で退治する必要がある。
しかし、この都市で最大の戦力を持つ黒鉄もホワイトベルも悪霊を見つけ、退治したという報告は上げていない。その他の組織からも同様だ。
即ち被害が出る前に、迅速に退治されたとも考えづらい。
故に斬雄はあくまで噂は噂、“幽霊の正体見たり枯れ尾花”の類の話だと思っていたのだが、何かあるのかと目で問いかけた。
「これも何か確証があるやあらしまへん。ただ、最近はこういうおかしなことが増えとるんどす。人々の不安がそういう都市伝説を生むんか、あるいは……」
──何か裏があるのか。
「……一応、気に留めておこう」
それ以外に特に有益な情報はないようだった。
斬雄はどうにも不気味な後味を感じながら、ウィスキーと情報の代金を置いて、その場を後にした。




