3-1.The demon possession case
カシーヤ南西部。煉瓦造りの建物が立ち並び、連合風の衣服に身を包んだ人々が闊歩する、活気のある一角、その中心と呼べる場所にその建物はあった。広い庭園に囲まれた、クリーム色の外壁の豪奢な邸宅は、ホワイトベル・ファミリーの本拠である。
その中にあるクローディアの私室は、ベッドの上には脱ぎ捨てられたガウンが放置され、テーブルの上には紙の資料と戦術書が散らばっており、どうにも雑然とした印象を受けるものだった。率直に言えば散らかっている。
また、調度品はどれも高品質なものだが、華美さに欠け、女性らしい小物は必要最小限にとどまっていた。その代わり、部屋の大部分を占領しているのは、大小様々なトレーニング器具だ。
クローディアはそんな自室にて懸垂をしていた。片手でバーを掴み、素竜子による身体強化をしている様子はない。それは純粋な筋力トレーニングだった。早朝、まだ空が白む時間帯から始めて、すでに一時間以上が経過している。
「九九六、九九七」
ぽたり、ぽたりと溢れ出る汗がおとがいを伝い、床に敷かれたカーペットに滴り落ちる。
あらゆる戦士は心意によって身体を強化する術を有している。身体に宿る、素竜子を心意によって操り、肉、骨、皮膚、果ては筋肉、神経といった全身のあらゆる細胞を強化し、身体機能と強度を高めることで、本来人が生物として有する、身体能力以上の力を扱うことができるようになる。
それはこの身体強化を習得すれば、幼い少女が大の男を力で捻じ伏せることすら可能となる程のものだ。
では、素の身体能力に意味はないのか。それは否だった。素竜子による身体強化があったとしても、ベースとなるのは、あくまで当人の肉体だ。体を支える体幹、脳から身体に伝達される指令、経験によって染みつく最適化された身体操作。これらの基礎的な身体機能は、素の身体能力を鍛えなければ身につけることはできない。故に、身体強化、武器を扱う技術と同様に、肉体トレーニングもまた戦士にとって重要な要素だった。
「九九八、九九九、千」
すっと音もなく、クローディアは地面に着地する。懸垂棒に引っ掛かっていたタオルを手に取って汗を拭った。左右それぞれ千回。それは彼女にとって日課の訓練の一つだ。
日々の鍛錬によって練り上げられ、均整の取れたプロポーションは、邪な欲望を抱くことができない程に完成されていた。それは白磁の肌も相まって精巧な彫刻を思わせるものだった。
朝の訓練を終えたクローディアは、ちりんと鈴を鳴らす。
少しして、コンコンとノックの音が鳴った。
「入りなさい」
「お嬢様、失礼いたします」
そう言って入室したのは眼鏡をかけたエルフの男、エルヴィス=トリテレイアリーフだった。彼は恭しく頭を下げる。その様は騎士というよりは、執事のようだった。
「湯あみの準備はできております」
クローディアは頷いて部屋を出る。その少し後ろに控えるようにエルヴィスが付いて歩いた。
「例の二人組についてはどうなりましたか?」
アイシャを誘拐しようとした二人組のことだ。クローディアは昨日、屋敷に帰還した後、すぐに彼らを尋問するよう部下たちに指示を出していた。
「ご指示に従って尋問を行っておりますが、口を割らないようです。誘拐犯は黒鉄会、あなた達は黒鉄会に騙されている。の一点張りとのことです」
「担当は?」
「グローマンです」
「彼には自白は虚偽で構わないと伝えてありました。それでも口を割らない、クロと考えていいかもしれませんね」
カイ・グローマン。ヴァルハライン公国出身の密偵だ。
ホワイトベル・ファミリーは、ホワイトベル家が雇った私兵と、連合から派遣された騎士たちによって構成されている。
カイは連合より派遣された人材であり、ファミリーにおいて彼以上に尋問に適した者はいない。即ち、虚偽の自白という逃げ道を選ばなかったこと自体が、二人組がただの犯罪者でないことを示唆していた。
「彼らの経歴を徹底的に洗うよう伝えてください」
「かしこまりました」
暫し無言の時間が流れる。そして、エルヴィスが意を決したように口を開いた。
「お嬢様、昨日のような真似はもうおやめください」
昨日のような。とはクローディアが単身で黒鉄会の元へ向かったことだ。
「もしお嬢様の身に何かあれば、私は……」
「あれは最もリスクの少ない手段を取ったにすぎません」
「お嬢様、あなたは騎士の身である前に、五公領の姫君でもあるのですよ」
五公領とは、連合の中でも中心的な役割を果たす五つの国家を差す言葉である。アルビオン公国、セレステル公国、ヴァルハライン公国、アウレロア公国、イリディア公国。彼らが王を戴かないのは、西方諸国連合の源流が古代アルバーノ帝国にあることに端を発している。特に五大公は帝国皇室の血統であり、その当時の領地の名と爵位を冠すことで、大帝よりその地の支配権を与えられたという正当性と、歴史的な権威を示しているのだ。
それ故、公国と称してはいるが、いずれもその国力は列強と評するに相応しい大国ばかりである。
「私の地位は外聞のために維持されているものであって、実質的には勘当されているようなものですよ」
「名が残っている限りはそれが実です」
どちらの言い分にも一定の理がある。故に、この話はどちらかが譲らない限り平行線を辿るだろう。エルヴィスは別方向から攻めることにした。
「それにアリスター様も心配していらっしゃいましたよ」
「大叔父様が?」
アリスター・サージェント=ホワイトベル。ホワイトベル・ファミリーの首領であり、先代ホワイトベル伯爵の弟君、即ちクローディアにとっては大叔父に当たる。
兄が爵位を継いでからは、貴族としての信用を武器に、市井にて商いを始めた風変わりな人物だ。その商才は確かで、たった一代で連合でも有数の大商会を興した実績を有している。
「ええ、あの御方はお嬢様を特に可愛がっておられますからね」
クローディアは好々爺然とした大叔父の顔を思い浮かべる。彼は同じ貴族社会の変わり者仲間として、特に彼女に目を掛けてくれていた。そんな彼に無用な心配をかけることは彼女にとっても本意ではない。
「大叔父様には私から説明しておきます」
とはいえ、幼い頃ならばいざ知らず、彼女も今や隊を率いる地位にある練達の騎士である。ホワイトベル・ファミリーにおいては№2、荒事に関してはトップの立場にある。箱入り令嬢のように心配されるのは、その気持ちはありがたいと思う反面、非常に困りものでもあった。
「……それで、黒鉄会に赴いた目的は達成されたのですか?」
主の翻意は引き出せないと諦めたエルヴィスが話題を変える。
「ええ、当面はあの娘は黒鉄に預けて問題ないでしょう」
「此度の件、奴らは関係ないと?」
「優先順位の問題です」
黒鉄会を完全にシロと決めつけるつもりはない。だが、現時点で疑わしい点がないのも確かだ。旭花帝国への警戒心を理由に、固執するのは下策でしかない。
「それに私も定期的に様子を見に行くつもりです」
「……お嬢様」
「必要なことです」
「では今度は必ず私を供にお連れください」
そこらに散歩に行くかのように屋敷を出た主の向かった先が、黒鉄の縄張りと知った時、エルヴィスは身が凍るような思いだった。
だが、クローディアの率直な所感を言えば、エルヴィスを連れて行くのは気が進まなかった。ホワイトベルの中でも指折りの実力者である彼の力を信頼していないわけではない。しかし、彼は良くも悪くも実直な男であり、帝国に対する敵愾心も強い。連れて行けば碌なことにならないのは目に見えるからだ。
「エルヴィス、私はニンアンナの二の舞を繰り返したくはありません」
「──それは、存じております」
エルヴィスが苦い顔で応答する。かつてあった悲劇。彼はその場にいたわけではない。だが、あの事件がどれ程凄惨なものだったかは伝え聞いている。そして、そこにいたクローディアにとって、それがどれ程重い記憶となっているかを知っている。
「しかし、だからこそ単身で敵地に赴くなどおやめください。お嬢様の力を疑ったことはありません。ですが、もしお嬢様の身に何かあれば、我々は相手が旭花であろうとも躊躇うことなく戦う覚悟なのです。軽挙妄動は慎んでください」
エルヴィスの言わんとすることもわかる。彼女の行為が、導火線に火を点けてしまうリスクは常に存在する。
だが、だからといって、相手のことを知らず、ただ敵愾心を募らせることがよいともクローディアには思えなかった。相手のことを知らなければまた同じことの繰り返しになる。時にはリスクを承知した上で、動かなくてはならない。
しかし、それはホワイトベルの総意ではないこともクローディアは理解していた。下手に思っていることを口に出せば、今後、自身の動きがかなり制限されることも考えられる。故にクローディアはそれ以上の言葉は敢えて口にしなかった。
「それについてまたの機会を設けましょう。とりあえず今日はガーダム地区へ向かいます」
露骨な話題逸らしにエルヴィスは溜息を吐いた。
「例の孤児院ですか。かしこまりました、手筈を整えておきます」
「頼みましたよ」
そうこうしている内に二人は浴室の前まで到着する。
クローディアが扉を開けて、ふと思い出したようにエルヴィスの方を向いた。
「エルヴィス、心配をしてくれたことは嬉しく思っていますよ。ありがとう」
そう微笑んで彼女は浴室の中へ消えて行った。再びエルヴィスは大きな溜息を吐いた。




