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第7話 王家の焦り


 赤潮の噂を聞いたのは、第六区の市場通りだった。


 魂魄ランタンがまだ灯りきる前の夕方で、路地には焼けた油の匂いと、湿った石畳の匂いが混じっていた。空にはいつものように魚たちが泳いでいる。小魚の群れが看板をすり抜け、腹の白い魚が高い配管の向こうをゆっくり横切っていく。


 レイは肩に部品袋を担ぎ、リサはその横で古い伝票を睨んでいた。



「ねえ、これ本当に第六区で合ってる?」


「パーズさんは第六区って言ってた」


「パーズさんの字、信用しちゃだめでしょ」


「じゃあなんでリサが読めるんだよ」


「読めてるんじゃなくて、予測してるの。あの人の字は文字じゃなくて暗号だから」


「ひどい言われようだな」


「事実でしょ」



 リサは伝票を折りたたみ、腰のポーチへ押し込んだ。


 市場通りの露店は、夕方から夜に変わるこの時間が一番うるさい。仕事帰りの男たちが酒を買い、子供たちは売れ残りの揚げ菓子を狙い、古物商たちは今日最後の客を逃すまいと声を張る。


 その中で、酒場の前にいた男たちの声が妙に大きく聞こえた。



「だから言ってんだろ。赤潮だよ、赤潮」


「またその話か。お前、昨日も言ってたぞ」


「昨日よりひでえ話だ。遠くの港町が飲まれたってよ」


「飲まれたって、何に」


「魂だよ。赤く濁った魂が、波みてえに押し寄せたって」



 リサの足が、ほんの少しだけ遅くなった。


 レイも自然と声の方へ目を向ける。


 男たちは安酒の瓶を回し飲みしながら、妙に楽しそうに怖い話をしていた。



「魂の反逆だってさ」


「魂が反逆するかよ。魚だぞ、あれ」


「魚みてえに見えるだけだろ」


「じゃあ何だよ」


「知らねえよ。だから怖えんだろ」



 別の男が、声を潜めるようでいて、まるで潜められていない声で言った。



「インプロスもやられたって聞いたぞ」



 周りの空気が少しだけ変わった。


 笑っていた男が顔をしかめる。



「インプロスって、すぐ近くじゃねぇか」


「だから言ってんだ。王宮は隠してる。魂魄炉が食いすぎて、海が怒ってるってよ」


「ばか言え。王宮がそんなこと隠すかよ」


「隠すだろ」


「まあ、隠すな」


「隠すね」



 そこで数人が笑った。


 怖がっているのか、面白がっているのか、よく分からない笑いだった。


 レイは空を見上げた。


 魚たちは泳いでいる。いつもと同じように見える。青白く、半透明で、壁も看板も人の体もすり抜けていく。


 けれど、低いところを泳いでいた小魚の一匹が、レイの肩のそばを通った時、尾びれの端が赤黒く濁って見えた。


 レイは思わず足を止める。



「レイ?」


「今の魚」


「魚?」


「いや……」



 振り返った時には、もう分からなかった。


 魚の群れは露店の布を抜け、人混みの向こうへ消えていく。どれも青白い光に見える。



「赤潮ってさ、最近たまに聞くけど、リサ知ってるか?」


「どうせ、くっだらない噂でしょ。ここ、噂好きの酔っ払いばっかりだし」


「でも、インプロスって近いんだろ?」


「近いって言っても、歩いてすぐじゃないよ。それに、本当なら王宮が何か言うでしょ」


「王宮が?」



 レイが聞き返すと、リサは一瞬だけ黙った。


 そして、わざと軽く肩をすくめる。



「……まあ、言わないかもね」


「どっちだよ」


「どっちでもいいの。今は部品を取りに行くの。赤潮よりパーズさんの雷の方が近い」


「それは確かに怖い」


「それに、噂もあてにならないからね。こないだの、魚を食べて強くなる方法とか言うのも全部嘘だったし」


「俺も試した」


「どうだった?」


「ダメだった」


「でしょ。ほら、行くよ」



 リサが歩き出す。


 レイもそれに続いた。


 けれど、頭のどこかに、さっきの小魚の尾びれが残っていた。


 赤黒い、ほんの一瞬の濁り。


 見間違いだと思いたかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 王宮地下にある大魂魄炉管理区は、いつもより熱を帯びていた。


 熱と言っても、火の熱ではない。圧縮された魂魄エネルギーが巨大な炉の内部で渦を巻き、石壁や金属管を震わせる低い唸りが、体の奥へ響いてくる。


 巨大な円筒炉の中心では、青白い光が螺旋を描いていた。


 美しい光だった。


 王宮の者たちは、その光を誇りと呼ぶ。王都を照らし、上層街の噴水を動かし、劇場街のネオンを咲かせ、軍の防壁を維持し、病院区の魔導器を支える文明の心臓。


 だが、その光の奥に、時折、泥を垂らしたような赤黒い筋が走る。


 管理台の前で、宮廷技官たちが記録板を抱えていた。


 その顔は硬い。


 国王ダウジル・ヴァス・ヴィザリウスは、炉を見上げたまま問いかけた。



「数値を言え」



 技官長が一礼する。



「大魂魄炉、現在出力は基準値を三・二パーセント下回っております」


「誤差ではないのか」


「一時的な揺らぎではございません。ここ二ヶ月、低下傾向が続いております」



 ダウジルの指が、玉座ではなく、管理台の縁を軽く叩いた。



「原因は」


「王都周辺の魂魄密度低下です。特に下層域の小型魂魄流入量が落ちています。通常回収では、現行の出力維持に必要な供給量へ届きません」


「小型魂魄など、空にいくらでも泳いでいるだろう」



 技官長は答えに迷った。


 隣にいた若い補佐官が、わずかに顔を上げる。



「陛下。恐れながら、近年、魂魄そのものの総量が減少している可能性がございます。遠方都市からは、赤潮と呼ばれる魂魄流の異常も報告されており――」


「赤潮」



 ダウジルがその言葉を繰り返す。


 補佐官の喉が動いた。



「はい。インプロス周辺でも、魂魄の赤変と群れの乱れが観測されたと」


「地方の管理不備だ」



 ダウジルは言い切った。


 補佐官は唇を閉じたが、それでも退かなかった。



「しかし、陛下。王都でも魂魄ランタンの明滅、小型炉の不安定化が下層域で増えております。供給を増やすだけではなく、消費側の見直しも必要かと」


「消費側?」


「上層街の夜間装飾炉、貴族区の空中庭園、劇場街の過剰照明、王宮外苑の噴水群。それらを一時的に絞れば、少なくとも炉圧に余裕が生まれます」



 管理区に沈黙が落ちた。


 技官たちの何人かが目を伏せる。


 ダウジルはゆっくりと補佐官の方を見た。



「王宮の灯りを落とせと言うのか」


「一時的に、でございます」


「貴族どもに節約を命じろと?」


「現状を考えれば、それも一案かと」



 ダウジルは怒鳴らなかった。


 ただ、補佐官を見たまま、静かな声で言った。



「王宮が灯りを落とせば、諸侯は何を見る」



 補佐官は答えられない。



「王家が衰えたと見る。王都が痩せたと見る。ヴィザリウスが、下層の炉すら満たせぬほど弱ったと見る」


「ですが、下層街からの回収をこれ以上増やせば、反発が――」


「反発はすでに起きている」



 ダウジルは管理台へ視線を戻した。



「炉を落とせば、病院区の魔導器が止まる。浄水塔も、軍の防壁も、工場区の搬送機も止まる。上層の食卓だけではない。下層の配給も滞る」



 それは、正論の形をしていた。


 補佐官は言葉を失う。



「王都が崩れれば、まず死ぬのは下層の者たちだ。ならば、王都を維持するために下層の魂を用いることは、王としての責務だ」



 技官長が、慎重に口を開いた。



「広域回収装置を、下層第三区、第五区、第七区に増設すれば、短期的には出力を戻せます。ただし、過剰回収は空の海の流れを乱す恐れが――」


「流れなど、後で整えればよい」



 ダウジルは短く言った。



「今必要なのは、炉を落とさぬことだ」



 誰も反論しなかった。


 王の判断は下った。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 フローリア・ヴァス・ヴィザリウスは、自室の長椅子に腰掛け、報告書を読んでいた。


 白い指が、紙面の上をゆっくり滑る。


 そこに書かれているのは、大魂魄炉の数値ではない。

 第一王子アビサリウスの最近の行動記録だった。


 パーズ工房への訪問から始まり、重装魔導機の調整、下層街の少年レイ、および少女リサとの接触。

 そして、護衛隊からの一時的な逃亡。

 最近では柔らかな表情をされるようになった、と。


 フローリアは、そこで指を止めた。



「柔らかな表情」



 隣に控えていた側近の女が、わずかに肩を震わせる。


 フローリアは薄く笑った。



「自我の無い兵器なら、まだ使いようもあろうに」



 側近は何も答えない。



「心など持たれては、扱いづらいだけです」



 フローリアは報告書を卓上へ置いた。


 アビサリウス。


 第一王子であり、王家の剣と誰もがそう呼ぶ。


 けれど、フローリアは彼を見るたびに思う。


 似ていない。


 ダウジルにも、ルナリアスにも、歴代王族の肖像にも似ていないのだ。


 宮廷魔導師たちは、魂の影響だと説明していた。膨大な力を持つ魂が肉体に影響を与えた。だから髪も、目も、気配も、通常の王族とは違うのだと。


 便利な説明だった。

 便利すぎて、かえって疑わしい。


 色は……百歩譲ってわからなくもない。

 だが、顔の作りまでこうも変わるものだろうか?



「ルナリアス様の記録は?」



 フローリアが問う。


 側近は用意していた薄い書類束を差し出した。



「公式記録では、元王妃ルナリアス様は第一王子殿下の出産後、強大な魂魄の影響により精神を乱されたとあります」


「ええ。何度も聞いた話です」



 フローリアは書類を開く。


 そこには、整った文字で説明が並んでいた。


 膨大な魂魄の流入により、精神の混濁と記憶障害を引き起こす。

 王子を自分の子と認識できない症状。

 「本当の子を返して」と繰り返す異常言動。


 そのため、王家の安定を守るための隔離措置を行う。


 フローリアは最後の一文を眺めた。



「本当の子を返して」



 側近が俯く。



「その言葉も、王宮内では扱いに注意せよと」


「でしょうね」



 フローリアは扇を広げ、口元を隠した。



「発狂した女の妄言にしては、ずいぶん丁寧に隠されていますこと」


「はい。王妃様のためを思って、と言ってもやり過ぎに思えます」


「今の王妃はわたくしです」


「……失礼いたしました」



 側近は深く頭を下げる。


 フローリアは書類を閉じた。



「十六年前の出産記録を集めなさい。ルナリアス様付きだった侍女、医師、魔導師、隠密。生きている者がいるなら探すのです」


「陛下のご意向に触れる恐れがございます」


「触れぬように調べなさい」



 側近の顔色が悪くなる。



「それと、第一王子殿下の魂についてですが……あの、漆黒の――」


「その名を口にしてはいけません」



 声は静かだった。


 だが、側近の口はすぐに閉じた。


 部屋の空気が凍る。


 フローリアは扇の向こうで微笑んだ。



「わたくしも詳しくは知りません。ただ、その名を口にした者がどうなったかくらいは知っています」


「申し訳ございません」


「謝罪より、働きなさい」



 側近はもう一度頭を下げる。


 フローリアは窓の外を見た。


 王宮の庭園には、昼間でも魂魄灯が灯っている。噴水は青白い水光を上げ、空中庭園の花々は人工の魂魄照明を浴びて輝いていた。


 美しい。


 美しすぎるほどに。


 この美しさを保つために、下層街から何を吸い上げているのか、貴族たちは考えもしない。


 そして、考えないことこそが特権だった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 アビスは、王妃の私室へ呼ばれた。


 扉を開けると、室内には柔らかな香が満ちていた。壁には淡い色の織物が掛けられ、窓辺には魂魄灯を使った観賞用の花が咲いている。青白い光を受けて、花弁が夜の海のように揺れていた。


 美しい部屋だ。


 けれど、アビスはその部屋に温かさを感じたことがなかった。


 フローリアは長椅子に座ったまま、彼を見た。



「ごきげんよう、アビサリウス殿下」


「王妃殿下」



 アビスは礼をする。


 彼女は彼を息子とは呼ばない。

 アビスも彼女を母とは呼ばない。


 それが、この部屋での礼儀だった。



「下層街で、ずいぶん危ない真似をなさったそうですね」


「申し訳ありません」


「護衛を撒くなど、第一王子の行いではありません」


「以後、気をつけます」



 フローリアは扇を閉じた。



「怪我は?」


「ありません」


「そう。なら結構です」



 それだけだった。


 アビスは顔を上げる。


 フローリアの表情は、穏やかだった。心配しているように見える。だが、その目は彼の顔ではなく、もっと別のものを見ている。


 欠損がないか、兵器として問題がないか、王宮に損害を与えていないか。


 彼自身ではない。


 この女は、自分を見ていない。


 アビスは、ふとマルシアの顔を思い出した。


 レイの外套を羽織って工房へ戻った時、彼女は泣いていた。


 理由は分からない。


 けれど、あの涙は、少なくとも数値や損傷を見たものではなかった。



「下層の者と近づきすぎるのは、感心しません」



 フローリアの声で、アビスは思考を戻した。



「彼らは、殿下を王子として敬っているわけではありません。利用できるものとして見る者もいるでしょう」


「リサとレイは、そのような者ではありません」



 口にしてから、アビスは自分でも少し驚いた。


 フローリアの目が細くなる。



「あの少女と、あの少年のことですか」



 名前を呼ばない。


 アビスはそれに気づいた。


 リサはリサ、レイはレイだ。


 だが、フローリアにとっては、下層の少女と下層の少年でしかない。



「殿下は第一王子です。そして、王家の剣でもあります」



 フローリアは穏やかに言う。



「剣が、鞘の外で勝手に情を覚える必要はありません」


「……」


「優しさは美徳です。けれど、役に立つ優しさと、邪魔になる優しさがあります」



 アビスは黙っていた。


 言い返す言葉はある気がした。けれど、それをここで言えば何が起きるのかも分かっている。


 王宮で、言葉は刃になる。


 そして彼は、自分の刃が何を壊すかを知っている。



「お話は以上でしょうか」


「ええ。次からは、護衛を困らせないように」


「承知しました」



 アビスは一礼し、部屋を出た。


 扉が閉まる直前、フローリアの声が聞こえた。


 誰かに向けた、低い声。



「心を持つ剣ほど、厄介なものはありませんね」



 アビスは足を止めなかった。


 けれど、その言葉は背中に貼りついた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 数日後、パーズ工房にはいつもより人が多かった。


 正確には、人が多いのは工房の外だ。


 王宮車両が通りに停まり、黒い外套を羽織った護衛が二人、少し離れた場所に立っている。さらに、その後ろには記録媒体を持った王宮の監視役らしき男が一人いた。


 パーズは露骨に嫌な顔をした。



「うちの前を王宮の待合室にするんじゃねえ」



 護衛は無言だった。


 監視役は、聞こえていないふりをした。


 工房内では、黒い重装魔導機の制御中枢から外したリミッター部品が作業台に置かれていた。パーズがそれを分解し、リサが部品番号を読み上げ、レイが横で工具を渡している。


 アビスは少し離れて立っていた。


 王宮服ではない。今日は前回より地味な外套を羽織っている。だが、それでも立ち方や顔立ちで、下層街の人間ではないと分かる。


 レイは外の護衛を見て、鼻を鳴らした。



「今日はずいぶん見物人が多いな」


「先日の件で、護衛体制が見直された」


「そりゃそうだろ。護衛撒いて屋上まで走った王子様なんて、そうそういねぇよ」


「君が言い出した」


「乗ったのはお前だろ」


「仕方なく、だ」


「リサも乗ったし」


「リサを巻き込むな」


「んだとコラ?」


「もう! 喧嘩しないの!」



 リサが二人の間に入り、工具を片手で振った。



「作業中。邪魔したらパーズさんに殴られるよ」


「俺は殴られない」



 アビスが言う。


 リサは即答した。



「まったく、そういうとこだよ」



 レイが吹き出す。


 アビスは少しだけ眉を寄せた。



「何がおかしい」


「別に」


「顔が別にではない」


「王子様が突っ込むなよ」


「君の言い方が気に入らない」


「んだと?」



 パーズが作業台を叩いた。



「お前ら、うるせえ!」



 三人は一瞬だけ黙った。


 リサが小声で言う。



「ほら、怒られた」


「レイのせいだ」


「アビスのせいだろ」


「両方」



 リサがきっぱり言った。


 作業はしばらく続いた。


 パーズはリミッターの内側を覗き込み、低く唸る。



「高出力を一気に受けすぎだ。前より焼けが早い。王宮の連中、こいつを何だと思ってんだ」


「機械だろ」



 レイが言うと、パーズは顔をしかめた。



「機械にも限度がある」



 アビスは何も言わなかった。


 レイは横目で彼を見る。


 顔色が悪い。


 元々白い顔だが、今日は目の下に薄く影がある。立っている姿勢はまっすぐだが、時々、指先がわずかに動く。頭痛を我慢している時の癖だと、レイはこの一年で何となく覚えてしまっていた。



「お前、また顔色悪いな。ちゃんと食ってるか?」



 アビスがレイを見る。



「ああ、食べている。君こそ、ちゃんと食べているのか?」


「そこそこだ」


「そこそこ?」


「食ってるって意味だよ」


「……スラムは大変なんだな」



 レイの眉が跳ねた。



「バカにしてんのか?」


「バカにしているわけではない。だが、君に心配されるほどではない」


「心配じゃねぇ。倒れられると邪魔なんだよ」


「なんだ。周りが気になって仕事ができないヘボ技師ということか」


「んだと!? やんのかコラ!?」



 レイが一歩前へ出る。


 アビスも引かない。


 リサが、また二人の間に入った。



「もう! 二人とも、話せば喧嘩ばっかりして!」



 工房内が一瞬、静かになる。


 パーズは部品を手にしたまま、鼻で笑った。



「本当のこと言われてやがる」


「俺は悪くない」


「私も悪くない」


「二人とも悪いの!」



 リサはため息をついた。


 けれど、その顔は本気で怒っているわけではなかった。


 呆れている。

 面倒だと思っている。

 それでも、どこかで少しだけ嬉しそうだった。


 レイはそれに気づかない。

 アビスも気づかない。


 外に立っていた監視役だけが、そのやり取りを手帳に書き留めていた。


 どれも、王宮の廊下には存在しないものばかりだった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 同じ夜、王宮では広域魂魄回収計画が承認された。


 会議室の卓上には、下層街の地図が広げられている。第三区、第五区、第七区、第八区。配管網、魂魄流の密度、回収装置の設置予定地点が赤い印で示されていた。


 ダウジルは上座に座り、報告を聞いていた。

 フローリアは少し離れた席で、静かに扇を開いている。

 メイガスも同席していた。まだ発言権は弱いが、王子として会議を見学する名目だった。


 アビスは壁際に立っている。


 王宮の剣として、必要なら使われる位置。


 技官長が説明を終えた。



「試験稼働は第七区から開始します。既存回収装置との接続により、短期的には魂魄流入量を一四パーセント増加させられる見込みです」


「反発は」



 ダウジルが問う。



「予想されます。すでに一部地域では、呼吸器や小型炉への影響を訴える住民が出ております」



 補佐官が、再び口を開いた。



「陛下。せめて上層街の夜間装飾炉だけでも、出力を落としては。第七区からの回収量を増やす前に――」


「まだ言うか」



 ダウジルは補佐官を見た。



「王宮が暗くなれば、民は不安になる」


「ですが」


「王都の光は、王家の威信そのものだ」



 補佐官は黙った。


 フローリアが扇の陰で微笑む。



「下層街に多少の不満が出たところで、いずれ鎮まりますわ。むしろ、不穏分子を炙り出す良い機会ではありませんか」



 アビスの指が、外套の内側でわずかに曲がった。


 不穏分子。


 その言葉の中に、レイやリサやパーズ工房の人々が含まれている気がした。


 ダウジルがアビスを見た。



「アビサリウス」


「はい」


「回収強化に伴い、下層街で騒ぎが起きる可能性がある。その時はまた、お前が出ろ」


「秩序維持、ですね」


「そうだ」



 実際には暴力による鎮圧。言い方が違うだけだと、アビスは思った。


 だが、口には出さない。



「現場での判断は任せる」


「はい」


「だが、暴徒化はさせるな。余も攻撃命令を出さざるを得なくなる」


「……はい」



 フローリアの視線が、アビスへ向く。


 柔らかな笑み。


 その奥に、冷たいものがある。



「殿下のお優しさが、王家の剣を鈍らせぬことを祈りますわ」



 アビスは彼女を見返した。


 この女は、自分を見ていない。


 その感覚が、また胸の底で静かに沈んだ。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 その夜、下層街の空は少し低かった。


 レイは工房からの帰り道、リサと並んで歩いていた。パーズに頼まれた部品はどうにか揃ったが、帰りが遅くなったせいで、二人とも腹が鳴っている。



「ねえ、今日の夕飯なに?」


「うち? 薄いスープ」


「うちもたぶん似たようなものかな」


「じゃあ勝負だな」


「何の?」


「どっちが薄いか」


「悲しい勝負やめて」



 リサが笑い、レイも小さく笑った。


 その時、通りの魂魄ランタンが一瞬だけ赤く瞬いた。


 青白いはずの光が、血を一滴混ぜたように濁る。


 二人の足が止まる。


 すぐに、光は元へ戻った。



「今の」



 リサが空を見上げる。


 小魚の群れが、看板の上を流れていく。


 その中に、一匹だけ赤黒い影が混じっていた。


 尾びれが濁り、鱗が泥をかぶったように暗い。


 その魚は苦しそうに身を捩り、次の瞬間、壁の中へ消えた。



「ねえ、今の……」


「魚?」


「赤かった、よね?」



 レイは答えられなかった。


 市場で聞いた噂が蘇る。


 赤潮。

 魂の反逆。

 インプロス。

 すぐ近くじゃねぇか。



「……見間違いかも。そうだよね?」



 リサはそう言った。


 けれど、その声は軽くなかった。


 レイは自分の掌を見た。


 何も触れていない。


 それなのに、指先に冷たい泥が絡みついたような感覚が残っていた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 リンキンは、路地の奥で杖を止めた。


 目は見えない。


 だから、空を泳ぐ魚の色など分からない。


 青いのか、白いのか、赤く濁っているのか。彼女には見えない。


 それでも、今夜の海がいつもと違うことだけは分かった。


 流れが重い。


 小さな魂たちが怯え、細い路地へ逃げ込もうとしている。大きな魂たちは低く泳ぎ、海の奥から泥のような息が上がってくる。


 痛みと怒り。

 帰れなかった魂たちの、濁った声。


 リンキンはゆっくりと顔を上げた。


 夜空は見えない。


 だが、そこに海があることだけは、誰よりもよく知っている。



「……海が、怒り始めたね」



 その声は、下層街の喧騒にすぐ呑まれた。


 頭上では、魚たちが不安げに尾を揺らしていた。


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