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第6話 借りた外套


 第七区の暴動から、一年近くが過ぎ、レイたちは十六歳になっていた。


 白い光の噂は、今では酒場の与太話に混じる程度になっている。


 あの日、鉄塔が組み上がっただの、白い魚が光っただの、王宮の新兵器だの、下層街の神様だの。好き勝手に膨らんだ噂は、季節がひとつ変わる頃には別の噂に押し流されていた。


 王宮の調査も、しばらくは続いた。


 けれど、何も見つからなかった。


 少なくとも、王宮が公に何かを掴んだという話は出ていない。


 その代わり、パーズ工房には別の厄介事が残った。


 黒い重装魔導機の定期調整である。


 月に一度。

 多い時は二度。


 王宮の紋章を刻んだ車両が、下層街の狭い通りを抜け、パーズ工房の裏手へ黒い機体を運んでくるようになった。王宮の技師では、アビスの成長の早さに対応しきれなくなっていたのだ。


 最初のうちは、周辺の住民も遠巻きに騒いだ。


 あれが第七区を鎮圧した魔導機だ。

 近寄るな。

 見たら目をつけられるぞ。

 今度はこの区を壊す気か。


 そんな声も多かった。


 だが、人間は慣れる。


 今では、黒い魔導機が来ても、通りの人々は少しだけ足を止め、顔をしかめ、そしてまた自分の仕事へ戻る。


 もちろん、慣れたからといって歓迎されているわけではない。


 ただ、下層街の生活は、何かを嫌っているだけでは回らない。


 飯を作り、部品を売り、壊れた魂魄管を直し、洗濯物を干し、魚の群れが建物の隙間を泳ぐ中で、今日も明日も生きていく。


 そして、そんな生活の隅で、パーズは王宮の面倒な機体を見続けていた。



「暴れ馬の手綱を締め直す仕事だな、こいつは」



 それが、パーズの口癖になっていた。


 王宮技師に腕がないわけではない。

 むしろ、数値を整え、規格通りに戻すだけなら彼らの方が丁寧だった。


 だが、黒い魔導機は規格通りに扱えば済む機体ではない。


 操縦者であるアビスの魔導出力が、機体の想定値を平然と踏み越えていくからだ。


 力を増やすための調整ではない。

 抑えるための調整。

 操縦者の頭が焼き切れないようにするための調整。


 その匙加減は、古い機体をいじり倒してきたパーズの方がうまかった。


 だから、今日もまた、工房の裏手に黒い影が運び込まれていた。


 ただし、今日のそれはいつもとは違った。



「こいつぁ……派手にやったな」



 パーズは機体を見上げ、低く唸った。


 黒い装甲の右肩が焼け焦げていた。

 砲身の付け根はわずかに歪み、脚部の反動吸収機構は外から見てもずれている。背部の放熱板は半分ほど変形し、外部魂魄管の一本には細かな亀裂が走っていた。


 機体全体から、熱の抜けきらない鉄の匂いがする。


 青黒い魔導光が、装甲の隙間でちらちらと瞬いていた。


 アビスはその前に立っていた。


 いつもの王宮服に、いつもの黒い髪。

 いつものように背筋は伸びている。


 だが、今日は少しだけ目元に疲労があった。



「すまない。出力を上げ過ぎた。何とかなるだろうか」


「何とかはなる」



 パーズは機体の脚部を軽く叩いた。


 鈍い音がする。


 その音だけで、レイには嫌な予感がした。



「ただ、ちょっとかかるぜ。あと、リミッターも新造しておいた方がいいな」


「リミッターか」


「今のままだと、機体がお前の出力に負ける。機械が壊れるだけならまだいい。逆流したら、お前の頭の中身まで焼けるぞ」


「……そうか」


「悪いが、今日は残れるか?」


「私の責任だ。残ろう」



 アビスはすぐに答えた。


 レイは、少しだけ拍子抜けした顔をする。


 王宮の人間なら、面倒なことは他人に押しつけるものだと思っていた。

 少なくとも、昔のレイならそう思ったはずだ。


 だが、一年も顔を合わせていれば、嫌でも分かってくる。


 アビスは、偉そうではある。

 物を知らないところも多い。

 下層街の常識など、初めの頃は何も分かっていなかった。


 それでも、自分の失敗を他人のせいにはしない。


 そこがまた、レイには少し気に入らなかった。


 嫌いだと言い切れなくなるからだ。



「レイ、何ぼさっとしてる。工具」


「分かってるよ」



 パーズに言われ、レイは工具箱を持ち上げた。


 リサはすでに、外部魂魄管の番号を確認している。



「右肩の三番管、予備ある?」


「三番なら昨日整理した棚の奥」


「八番と間違えないでよ、レイ」


「まだ言うか、それ」


「あんた、前に二回間違えた」


「二回じゃねぇ。一回半だ」


「半って何」


「すぐ気づいた分」


「それ、一回に入るから」


「厳しいこって」


「雑なだけでしょ」



 リサは呆れた顔で言い、すぐにアビスへ向いた。



「アビス、そこ触らない。まだ熱い」


「確認しただけだ」


「手袋してても危ないってば」


「この程度なら」


「この程度って言う人ほど、あとで痛い顔するんだよ」



 アビスは少し黙った。


 リサは眉を寄せる。



「今、もう痛いんじゃないの」


「作業に支障はない」


「そういう言い方、ほんと変わらないね」


「事実だ」


「聞いてるのは支障じゃなくて、あんたが平気かどうか」



 アビスは答えなかった。


 レイは横目でそれを見る。


 リサがアビスを気にかけるのは、別に今に始まったことではない。

 アビスが来るたび、リサは顔色だの、指先の震えだの、声の硬さだのにすぐ気づく。


 それを見ていると、レイの胸の奥で、何かが小さく引っかかる。


 だが、もうその感覚にも慣れてしまった。


 慣れてしまったことが、さらに気に入らない。



「おい、王子」


「なんだ」


「壊した本人が熱い部品触って怪我したら、修理の手間が増えるんだよ。大人しくしてろ」


「私は王子ではなく、アビスだ」


「じゃあアビス。大人しくしてろ」


「……分かった」



 アビスは一歩下がった。


 リサが小さく笑う。



「わお。珍しく素直じゃん」


「必要があれば従う」


「じゃあ、いつも必要あることにしとこうかな」


「それは困る」


「困るんだ」



 リサが笑う。


 アビスは何か返そうとして、結局言葉を探せず視線を外した。


 レイはその様子を見て、工具を少し乱暴に置いた。



「レイ、音」


「悪い」



 リサに注意され、レイは短く返す。


 パーズは作業台の前で、そんな三人を見ていた。


 そして、煙草をくわえた。


 火はついていない。


 この一年で、三人の距離は変わった。


 分かりやすく仲良くなったわけではない。

 レイとアビスは会えば言い合うし、リサはそのたびに二人を止める。


 だが、言い合える程度には近くなった。



「パーズさん、これで外部の仮止め終わり」


「こっちも三番管、交換した」



 リサとレイが同時に言う。


 パーズは機体の右肩を見上げた。


 表面上は形になっている。

 少なくとも、これ以上勝手に歪むことはない。


 だが、本番はここからだった。



「よし。外はこれでいい。午後は中だ」


「中って、安定器?」


「安定器と逆流経路、それからリミッターの仮組みだ。お前らが手ぇ出すと、余計に時間がかかる」



 レイが不満そうな顔をした。



「見てるくらいならいいだろ」


「お前は見ながら質問する。質問に答えてたら夜が明ける」


「じゃあ黙って見る」


「黙って見られるようになったら考えてやる」



 リサが手を上げた。



「はーい、私は?」


「お前は、こいつらが黙ってられない時に止める役になる」


「うわ。確かに」


「納得すんなよ」



 レイが言う。


 アビスも一歩前に出た。



「私は残るべきではないか。自分の機体だ」


「お前が一番駄目だ」


「なぜだ」


「今、中を開けた状態でお前が近くにいたら、機体が反応する。さっきから微妙に脈打ってやがる」



 アビスは機体を見た。


 黒い装甲の奥で、薄い光が揺れている。



「……そんなに不安定か」


「不安定なのは機体だけじゃねぇ。お前もだ」



 パーズの言葉に、アビスは口を閉じた。


 反論はしない。


 それが答えだった。



「夕方まで時間を潰してこい。その頃までには仮組みが終わる。調整はそれからだ。三人で散歩でもしてろ」


「散歩?」



 アビスが聞き返す。


 リサは少し顔を明るくした。



「いいじゃん。アビス、工房と王宮車の往復ばっかりだし」


「それで十分だ」


「十分かどうかは、見てから決めなよ」



 レイは面倒そうに肩をすくめた。



「その格好で出るなら、やめとけよ」


「この格好に問題があるのか」


「ありすぎる。ここじゃ、その服だけで揉め事の種だ」



 アビスは自分の服を見下ろした。


 上質な布、綺麗に整った襟、一目で王宮の者だと分かる仕立て。


 アビスにとっては普通だった。


 だが、下層街では違う。



「うーん、そうだな……」



 レイはしばらく考え、工房の壁に掛けていた外套を取った。


 自分のものだ。


 裾は少し擦り切れている。

 肩口には古い油染み。

 袖の端には、リサが直した縫い跡がある。

 洗ってはいるが、下層街の埃と鉄の匂いが染みついている。


 レイはそれをアビスに投げた。



「これでも羽織れ。綺麗すぎる服は目立つ」



 アビスは受け止めた。


 外套を広げる。


 王宮の衣装とは比べ物にならないほど粗い布だった。

 けれど、破れてはいない。

 使い込まれているだけだ。


 アビスは外套を羽織った。


 途端に、王宮の気配が少しだけ薄れる。


 立ち方や顔立ちは隠せないが、それでも、先ほどまでよりずっと下層街に馴染んで見えた。



「すまない。ありがとう」



 レイは少し目を細めた。



「なんだ、お礼も言えるんじゃねぇか」


「礼を言うべき時は言う」


「じゃあ普段は?」


「言うべき場面が少ない」


「お前、それ本気で言ってんのか」


「本気だ」


「んだとコラ」



 リサが笑って、二人の間に入った。



「はいはい。外に出る前から喧嘩しない」


「喧嘩じゃねぇ」


「レイの顔が喧嘩」


「顔で決めるな」


「だいたい当たるもん」



 アビスは外套の袖口を少し見た。


 縫い直した跡がある。


 誰かが直したのだろう。


 リサかもしれない。


 そう思った瞬間、なぜか袖口から目を離しにくくなった。



「何見てんだよ」


「直してある」


「そりゃ、破れたら直すだろ」


「王宮では、破れたものは取り替える」


「もったいねぇな」



 レイはそう言って、工房の扉へ向かった。


 アビスはその背中を見た。


 もったいない。


 壊れたら直す。破れたら縫う。

 使えるものは使い続ける。


 王宮では、そういうことを考えたことがなかった。


 外へ出ようとしたところで、当然のように護衛が立ちはだかった。



「お待ちください。殿下を下層街へ護衛なしで出すわけには参りません」



 外套を羽織ったアビスは、静かに言った。



「一人ではない。レイとリサがいる」


「なおさら問題です」


「おい、どういう意味だ」



 レイが睨む。


 リサは肩をすくめた。



「まあ、分からなくもないけど」


「リサまで」



 アビスは護衛を見る。



「心配は無用だ」


「無用ではありません。殿下に万が一のことがあれば、我々の首が飛びます」


「首は飛ばさせない」


「そういう問題ではありません」



 護衛は一歩も引かなかった。


 アビスが何か言おうとした時、パーズが横から口を挟む。



「なら、お前らも外套でも羽織って離れてついて行け。王宮の鎧でぞろぞろ歩かれる方がよっぽど目立つ」


「しかし」


「ここは下層街だ。目立つ奴から厄介事を拾う。守りたいなら、まず目立つな」



 護衛は苦い顔をした。


 だが、言っていることは正しい。


 結局、護衛数名が外套を羽織り、一定の距離を置いて見守ることで落ち着いた。


 リサが小声で言う。



「結局ついてくるんだ」


「王子だからな」



 レイが返す。


 アビスは少し申し訳なさそうにした。



「面倒をかける」


「自覚あんのか」


「少しは」


「少しかよ」



 リサが吹き出す。



「ほら、行こ。夕方までなんでしょ」



 三人は工房を出た。


 下層街を歩くアビスは、いつもより少しだけ遅かった。


 道が悪いからではない。

 見るものが多すぎるからだ。


 工房へ来る時、彼は王宮車両の窓越しにこの街を見ていた。

 そこから見える下層街は、狭く、汚く、複雑で、いつも少し暗い場所だった。


 だが、歩いてみると違う。


 屋台からは香ばしい煙が上がる。

 古い看板の下で、子供たちが欠けた歯車を転がして遊んでいる。

 水路沿いでは、女たちが洗い物をしながら噂話をしている。

 壁の穴から小さな魚が出てきて、店先の魂魄ランタンの周囲を泳いでいた。


 一見壊れかけた街だが、死んだ街ではなかった。




 リサは顔なじみの屋台で串焼きを三本買った。


 レイが小銭を出す。


 アビスも懐に手を入れようとした。



「やめろ」



 レイが止めた。



「なぜだ」


「ここで金貨なんか出したら、釣り銭じゃなくて騒ぎが返ってくる」


「騒ぎが返る?」


「面倒になるってこと」



 リサが補足した。


 アビスは納得したような、していないような顔をする。



「金は同じではないのか」


「同じじゃないの。出す場所と出し方があるの」



 リサは串焼きを一本渡した。


 アビスは受け取り、しばらく見た。


 紙に包まれただけの肉。

 王宮なら皿に乗って出てくるものだ。


 リサが言う。



「熱いよ」


「分かっている」



 アビスは口に入れた。


 すぐに動きが止まる。


 リサが笑った。



「熱かった?」


「……王宮では、適温で出る」



 レイが呆れる。



「串焼きくらい、自分で冷ませ」


「そうしよう」



 アビスは少し息を吹きかけてから、もう一度食べた。


 今度は驚いたように目を動かす。



「おいしい?」



 リサが聞く。


 アビスは少し考えた。



「味が強い」


「それ、褒めてる?」


「たぶん」


「たぶんって何だよ」



 レイが言う。


 リサは声を上げて笑った。


 それから三人は、古物市を覗いた。


 壊れた魂魄計、どこかの工房から流れた歯車。

 片方だけの手袋に、何か使い道の分からない金属筒。

 下層街では、誰かが不要になったものも、別の誰かには宝になる。


 アビスは足を止めることが多かった。


 レイはそのたびに説明した。


 雑な説明だったが、それでもアビスは真面目に聞いた。



「これは何だ」


「古い圧力弁」


「なぜ売っている」


「まだ使えるから」


「この状態でか」


「磨けばな」


「磨けば使えるのか」


「物による」


「曖昧だな」


「下層街はだいたい曖昧なんだよ」



 リサが笑う。



「あんたたち、なんだかんだ仲良いよね」



 レイとアビスは同時に答えた。



「「よくない」」



 リサはにやっとした。



「ほら、ぴったり」


「「偶然だ」」


「また合った」



 二人の声が重なり、リサはさらに笑った。


 アビスは一瞬、言葉を止めた。


 こんなふうに声が重なることが、少し不思議だった。


 王宮では、誰かと声が重なることなど滅多にない。

 皆、アビスの言葉を待つ。

 あるいは、アビスに命令を下す。


 だが、ここでは違う。


 リサは笑う。

 レイは遠慮なく言い返す。

 屋台の親父は値段を間違えたと怒鳴る。

 子供は走り回る。


 騒がしいが、なぜか嫌ではなかった。






 日が傾き始めた。


 下層街の建物の影が伸び、路地の奥から青白い灯りが一つずつともり始める。

 魚の群れは低くなり、看板の間を泳ぐ光の線が濃くなっていった。


 護衛たちは、少し離れた場所から三人を追っている。


 目立たぬ外套を羽織ってはいるが、動きが硬い。

 下層街の人間ではないことは、見る者が見ればすぐに分かる。


 レイはちらりと背後を見た。


 それから、前を向いたまま小さく言った。



「……撒くか」



 リサの目が一瞬で輝いた。



「乗った」



 アビスは眉を寄せた。



「待て。それは護衛任務の妨害になる」


「嫌なら帰れ」


「たまには怒られてみなよ」



 リサが笑う。


 アビスは少しだけ困った顔をした。



「怒られる前提なのか」


「うん」


「当然だろ」



 レイまで頷く。


 アビスは二人を見た。



「なぜ当然のように言う」


「怒られるくらいで済むことなら、たまにはやっとけ」


「それは下層街の教訓か」


「レイの悪い癖」



 リサがすぐ訂正した。


 レイは鼻を鳴らす。



「今しか見せられない場所がある」



 その言葉に、アビスは黙った。


 今しか見せられない場所。


 レイがそう言うなら、それはただの悪ふざけではないのかもしれない。


 アビスは背後の護衛を見た。


 彼らは真面目に任務を果たしている。

 それを撒くのは、確かに褒められたことではない。


 だが、リサはもう走る気でいる。

 レイは路地の先を見ている。


 アビスは短く息を吐いた。



「……少しだけだ」



 レイが笑った。



「決まり」



 次の瞬間、レイが走り出した。


 リサも続く。


 アビスは半拍遅れた。


 護衛が声を上げる。



「殿下!」



 その声で周囲がざわつく。


 その喧噪を背に、三人は狭い路地へ飛び込んだ。


 レイは迷わなかった。


 屋台の布の下をくぐり、積まれた木箱を踏み台にして、錆びた階段へ飛び乗る。

 リサは軽い足取りで後を追う。


 アビスも続いた。


 だが、下層街の道は王宮の訓練場とは違う。


 段差は一定ではなく、足場は濡れ、配管が思わぬ高さで路地を横切っている。

 壁から飛び出した古い魂魄管が、肘にかすった。



「王宮育ち、足元見ろ!」



 レイが前から叫ぶ。



「見ている」



 アビスは答えた。


 直後、足元の細い配管に靴先が引っかかった。


 体が前へ傾く。


 落ちる。


 そう思った瞬間、リサが振り返った。


 迷いなく手を伸ばす。



「アビス!」



 アビスは咄嗟にその手を掴んだ。


 リサの手は思ったより小さかった。


 だが、思ったより強かった。


 リサは体重を後ろにかけ、アビスの体勢を引き戻した。

 アビスは踏みとどまる。


 落ちなかった。


 レイが少し先で振り返り、舌打ちした。



「おいおい、王宮の訓練じゃ配管は避けてくれないのかよ」


「今のは足場が悪かった」


「足場じゃねぇ。街だ」



 リサはアビスが立てているのを確認すると、すぐに手を離した。



「大丈夫?」


「ああ」


「じゃ、走るよ!」



 リサはまた駆け出す。


 アビスは一瞬だけ、その場に残った。


 いま掴んでいた手を見る。


 手袋越しではない。

 リサの手の温度が、まだ指先に残っている気がした。


 ほんの一瞬だった。


 だが、その一瞬だけで、息の仕方が分からなくなる。



「アビス、置いてくよ!」



 リサの声で我に返る。


 アビスは手を握り、すぐに走り出した。


 レイは前を向いたまま、もう一度だけ小さく舌打ちした。


 理由は分かっているようで、分かっていない。


 ただ、リサがアビスの手を取ったのを見た瞬間、妙に面白くなかった。


 それだけだった。


 三人はさらに上へ向かう。


 看板の裏を抜け、壊れた連絡橋を飛び越え、古い搬送レールの上を走る。

 護衛の声は遠ざかっていった。


 アビスは途中から動きに慣れてきた。


 足場の悪さを読む。

 レイの動きを見る。

 リサの跳ぶ位置を覚える。

 すると、体は自然についていった。


 レイは横目でそれを見た。


 やはり、身体能力は高い。


 口には出さない。


 出せば負けた気がする。



「こっちだ!」



 レイが最後の階段を駆け上がった。


 リサとアビスも続く。


 錆びた扉を押し開けると、急に視界が開けた。


 そこは、スラムで一番高い廃ビルの屋上だった。


 古い輸送施設の跡らしい。


 かつては上層街と物資をやり取りしていた建物だと言われている。

 今は使われず、階段も一部崩れ、子供でもそう簡単には登ってこられない。


 屋上の床にはひびが入り、錆びた鉄骨が柵の代わりに残っている。

 風が強い。


 だが、そこから見える景色は、下層街のどこにもないものだった。


 赤紫に染まり始めた空。

 その下で、青白い魂魄ランタンがひとつ、またひとつと灯っていく。

 細い路地は迷路のように折れ曲がり、屋台の煙が低く漂い、ネオン看板が水に濡れたように光っている。


 建物の間を、小さな魚の群れが泳いでいた。


 魚たちは夕暮れの光を受けて、青とも白ともつかない尾を引いている。

 遠くには王宮の尖塔が見えた。

 いつもは高く、遠く、下層街を見下ろしているように見えるそれも、ここからは夜空の海に浮かぶ影の一つに過ぎなかった。


 リサが息を呑んだ。



「レイ……こんないいとこがあるなら、もっと早く教えなさいよね」



 レイは少しだけ目を逸らした。



「別に、隠してたわけじゃねぇよ」


「隠してたでしょ」


「一人で来る場所だったんだよ」



 リサは一瞬黙った。


 その言葉が、ただの言い訳ではないと分かったからだ。


 ここはレイの場所だった。


 誰にも邪魔されず、下層街を見渡せる場所。

 狭い路地の中で生きてきたレイが、たぶん一人で空を見ていた場所。


 アビスは屋上の端に立ち、何も言えなかった。


 下層街を、こんなふうに見たことはなかった。


 王宮から見下ろす下層街は、汚れた区画だった。

 地図の上では、治安の悪い地域だった。

 報告書では、暴動の火種だった。


 だが、ここから見る街は違った。


 壊れていて、古くて、貧しい街だった。

 雑多で、危うくて、どこもかしこも継ぎ接ぎだらけ。


 それでも、灯りがある。

 煙がある。

 声がある。

 人がいる。


 そして、魚が泳いでいる。


 レイが横目で聞いた。



「いいだろ?」



 アビスはしばらく答えなかった。


 答えられなかった。


 やがて、短く言う。



「……ああ」



 それだけだった。


 それだけで十分だった。


 三人はしばらく黙って景色を見ていた。


 リサは古い鉄骨に手を置き、風に髪を揺らしている。

 レイは少し得意げな顔を隠そうとして、隠しきれていない。

 アビスは、レイの外套を羽織ったまま、街を見下ろしている。


 その横顔を、レイがふと見た。


 アビスの口元が、わずかに緩んでいた。



「お前、普段笑わないよな」



 アビスは景色を見たまま答えた。



「必要が無いからな」


「でも、今お前、笑ってるぜ」


「……!?」


「初めて見た」



 アビスは反射的に自分の口元へ手をやった。


 リサが笑う。



「いいじゃん」



 アビスは顔をそらした。



「……別に」



 レイがにやりとした。



「照れたな」


「照れたね」



 リサも同じように頷く。


 アビスは眉を寄せた。



「照れていない」


「照れてる奴はだいたいそう言う」


「そうそう」


「……二人とも、うるさい」



 そう言いながら、アビスはまた街を見た。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼






 工房へ戻った時、当然ながら全員に怒られた。



「殿下! どこへ行かれていたのですか!」



 護衛の声は、怒りと安堵で震えていた。


 アビスは静かに答える。



「街を見ていた」


「我々を撒いてまでですか!」


「……それについては、悪かった」



 護衛は一瞬、言葉に詰まった。


 アビスが素直に謝ったからだ。


 だが、それで怒りが消えるわけではない。



「悪かった、で済む話ではありません!」



 横ではパーズがレイを睨んでいた。



「お前が言い出したな」


「なんで分かるんだよ」


「顔に書いてある」


「何でも顔で決めんな」



 リサが手を上げる。



「私も乗ったよ」


「お前は止めろ」


「でも楽しかった」


「反省しろ」


「はーい」


「返事が軽い」



 レイはそっと目を逸らした。



「でも、ちゃんと戻ってきただろ」


「戻ってくりゃいいってもんじゃねぇ」



 パーズはレイの頭をげんこつで叩いた。



「いってぇ!」


「痛くしたんだよ」



 その時、工房の入口にマルシアが立っていた。



「……何の騒ぎ?」


「母さん」



 レイが振り返る。


 マルシアは包みを抱えていた。

 夕食の差し入れだろう。工房に来ること自体は珍しくない。


 彼女はまず、レイを見た。


 少し埃をかぶっている。

 髪も乱れている。

 何かやったのはすぐに分かった。


 次にリサを見る。


 リサも同じような状態で、少しだけ気まずそうに笑っている。


 そして最後に、アビスを見た。


 その瞬間、マルシアの視線が止まった。


 アビスは、レイの古い外套を羽織っていた。


 王宮の服はその下にある。

 だが、くたびれた外套が肩を覆い、埃のついた裾が膝の近くで揺れている。袖口には古い縫い跡。肩には油染み。


 その姿は、いつもの王宮の第一王子とは違って見えた。


 下層街を走ってきた少年。


 どこかの路地から、友達と一緒に帰ってきた少年。


 そう見えた。


 アビスは護衛の言葉に少し眉を寄せていた。


 その横顔を見た時、マルシアの胸の奥で、何かがトクンと小さく鳴った。


 懐かしい。


 そう思いかけて、マルシアは戸惑った。

 目の前にいるのは、王宮の少年だ。

 自分が知っているはずなどない。


 それなのに、胸の奥だけが、遠い昔を覚えているようだった。



 護衛がさらに厳しく言う。



「殿下はご自身の立場をお分かりですか。もし何かあれば――」



 アビスは少しだけむっとした顔をした。


 その顔を見た瞬間、マルシアは息を詰めた。


 遠い昔、誰かが同じような顔をした気がする。


 意地を張って、言い返したいのをこらえて、けれど本当は少し傷ついているような顔。


 誰だっただろう。

 思い出せそうで、思い出せない。



 アビスが低く言った。



「……すまない」



 その声は静かだった。


 怒っているのでも、ふてくされているのでもない。

 ただ、自分が誰かを困らせたと分かって、少しだけ悲しそうだった。


 その顔を見た瞬間、マルシアの頬に涙が伝った。


 自分でも驚いた。


 なぜ泣いたのか分からない。


 慌てて目元を押さえる。


 レイが気づいた。



「母さん?」


「……何でもないわ」


「何でもないって顔じゃないだろ」



 マルシアは無理に微笑んだ。



「少し、風が目に入っただけ」


「工房の中だけど」


「レイ」


「……分かったよ」



 レイは納得していなかった。


 けれど、それ以上は聞かなかった。


 アビスもまた、マルシアを見ていた。


 なぜ泣いたのか分からない。

 けれど、その涙を見た瞬間、アビスの中にも、言葉にできないものが落ちた。


 マルシアはすぐに目を伏せた。


 王宮の人間を、そんなふうに見つめてはいけない。

 そう自分に言い聞かせるように。


 怒られる時間がようやく終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 パーズは内部修理を終え、簡易リミッターの仮組みも済ませていた。


 黒い魔導機の青黒い光は、来た時よりも落ち着いている。


 パーズは記録媒体をアビスに渡した。



「今日のところは動く。だが、高出力は使うな。仮組みだ。無茶すればまた歪む」


「任務次第だ」


「だったら、その任務の方を疑え」



 アビスは黙った。


 パーズは続ける。



「次までに新しいリミッターを組む。月次調整も少し増やすぞ。面倒だが、お前が頭を焼くよりはましだ」


「手間をかける」


「分かってるなら壊すな」



 レイが横から言う。



「無理だろ」


「努力はする」


「努力で済むのかよ」



 リサがアビスを見た。



「努力より、ちゃんと休む。あと、痛い時は黙ってない」


「……分かった」


「今の間、絶対分かってないやつ」


「いや、今のは分かっている」


「ほんとに?」


「たぶん」


「たぶんじゃ駄目」



 リサがじとっと見る。


 アビスは少し困ったように視線を落とした。


 パーズはその様子を見て、火のついていない煙草をくわえ直す。


 少し離れたところで、マルシアも三人を見ていた。


 リサがレイとアビスの間に入り、二人に何か言っている。

 レイは不満そうで、アビスは真面目に聞いている。


 マルシアは小さく笑った。



「まあ。リサ、モテモテね」



 パーズは鼻を鳴らした。



「小僧ふたりは分かってねぇみたいだがな」


「ふたりとも?」


「片方はリサを見て妙な顔になる。もう片方はそれを見て、なぜか機嫌が悪くなる」



 マルシアは口元に手を当てた。



「ふふ」


「リサはレイにベタ惚れだって、誰が見ても分かるだろ」


「ふふ。それが、あの子たちには分からないのよね」


「まだまだ青二才ってこった」


「可愛いじゃない」


「見てる分にはな。巻き込まれる方はたまったもんじゃねぇ」



 パーズはそう言ってから、少しだけマルシアを見た。



「……お前、顔色悪いぞ」


「大丈夫よ」


「そうかよ」



 パーズはそれ以上聞かなかった。


 マルシアが嘘をついていることくらい、分かっている。

 だが、今聞いても答えは出ない。


 マルシア自身が、まだ何に揺れているのか分かっていない顔をしていたからだ。


 帰り際、アビスはレイに外套を返した。


 レイは受け取り、裾についた埃を見た。



「洗って返せよ」


「今、返したが」


「埃だらけだろ」


「走ったのは君たちのせいだ」



 リサがすかさず言う。



「乗ったのはアビスでしょ」



 アビスは少し考えた。



「……それもそうか」


「ほんと、真面目だな」



 レイは呆れたように言い、外套を肩にかけた。


 アビスはその外套を少しだけ見た。


 ほんの短い時間だった。


 けれど、それを羽織っていた間、自分は王宮の第一王子ではなかった気がする。


 ただ、レイとリサと一緒に街を走った少年だった。


 そんなふうに思うことが、自分に許されるのかは分からない。


 だが、あの屋上から見た景色は、確かに胸に残っていた。


 リサが手を振る。



「じゃあね、アビス」


「ああ」



 レイは軽く顎を上げただけだった。



「次は転ぶなよ」


「転んではいない」


「リサに助けられてただろ」


「踏みとどまった」


「はいはい」



 リサが笑う。


 アビスは何か言い返そうとして、やめた。


 言い返すより、その笑顔を見ていたかった。


 そんな自分に気づいて、すぐに視線を外す。


 護衛が扉を開けた。


 アビスは車両へ乗り込む。


 窓の外で、パーズ工房の灯りが小さく揺れている。


 レイが外套を肩にかけ、リサがその横で何か言っていた。

 

 車両が動き出し、下層街の灯りが遠ざかっていく。


 アビスは窓の外を見た。


 あの廃ビルは、もう見えない。

 けれど、屋上から見た街は残っている。


 アビスはそっと口元に触れた。


 笑う必要などない。

 ずっと、そう思っていた。


 特別な場所を、ひとつ知った。

 

 けれど、そこで生まれたものが何なのかを、アビスはまだ知らなかった。


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