第6話 借りた外套
第七区の暴動から、一年近くが過ぎ、レイたちは十六歳になっていた。
白い光の噂は、今では酒場の与太話に混じる程度になっている。
あの日、鉄塔が組み上がっただの、白い魚が光っただの、王宮の新兵器だの、下層街の神様だの。好き勝手に膨らんだ噂は、季節がひとつ変わる頃には別の噂に押し流されていた。
王宮の調査も、しばらくは続いた。
けれど、何も見つからなかった。
少なくとも、王宮が公に何かを掴んだという話は出ていない。
その代わり、パーズ工房には別の厄介事が残った。
黒い重装魔導機の定期調整である。
月に一度。
多い時は二度。
王宮の紋章を刻んだ車両が、下層街の狭い通りを抜け、パーズ工房の裏手へ黒い機体を運んでくるようになった。王宮の技師では、アビスの成長の早さに対応しきれなくなっていたのだ。
最初のうちは、周辺の住民も遠巻きに騒いだ。
あれが第七区を鎮圧した魔導機だ。
近寄るな。
見たら目をつけられるぞ。
今度はこの区を壊す気か。
そんな声も多かった。
だが、人間は慣れる。
今では、黒い魔導機が来ても、通りの人々は少しだけ足を止め、顔をしかめ、そしてまた自分の仕事へ戻る。
もちろん、慣れたからといって歓迎されているわけではない。
ただ、下層街の生活は、何かを嫌っているだけでは回らない。
飯を作り、部品を売り、壊れた魂魄管を直し、洗濯物を干し、魚の群れが建物の隙間を泳ぐ中で、今日も明日も生きていく。
そして、そんな生活の隅で、パーズは王宮の面倒な機体を見続けていた。
「暴れ馬の手綱を締め直す仕事だな、こいつは」
それが、パーズの口癖になっていた。
王宮技師に腕がないわけではない。
むしろ、数値を整え、規格通りに戻すだけなら彼らの方が丁寧だった。
だが、黒い魔導機は規格通りに扱えば済む機体ではない。
操縦者であるアビスの魔導出力が、機体の想定値を平然と踏み越えていくからだ。
力を増やすための調整ではない。
抑えるための調整。
操縦者の頭が焼き切れないようにするための調整。
その匙加減は、古い機体をいじり倒してきたパーズの方がうまかった。
だから、今日もまた、工房の裏手に黒い影が運び込まれていた。
ただし、今日のそれはいつもとは違った。
「こいつぁ……派手にやったな」
パーズは機体を見上げ、低く唸った。
黒い装甲の右肩が焼け焦げていた。
砲身の付け根はわずかに歪み、脚部の反動吸収機構は外から見てもずれている。背部の放熱板は半分ほど変形し、外部魂魄管の一本には細かな亀裂が走っていた。
機体全体から、熱の抜けきらない鉄の匂いがする。
青黒い魔導光が、装甲の隙間でちらちらと瞬いていた。
アビスはその前に立っていた。
いつもの王宮服に、いつもの黒い髪。
いつものように背筋は伸びている。
だが、今日は少しだけ目元に疲労があった。
「すまない。出力を上げ過ぎた。何とかなるだろうか」
「何とかはなる」
パーズは機体の脚部を軽く叩いた。
鈍い音がする。
その音だけで、レイには嫌な予感がした。
「ただ、ちょっとかかるぜ。あと、リミッターも新造しておいた方がいいな」
「リミッターか」
「今のままだと、機体がお前の出力に負ける。機械が壊れるだけならまだいい。逆流したら、お前の頭の中身まで焼けるぞ」
「……そうか」
「悪いが、今日は残れるか?」
「私の責任だ。残ろう」
アビスはすぐに答えた。
レイは、少しだけ拍子抜けした顔をする。
王宮の人間なら、面倒なことは他人に押しつけるものだと思っていた。
少なくとも、昔のレイならそう思ったはずだ。
だが、一年も顔を合わせていれば、嫌でも分かってくる。
アビスは、偉そうではある。
物を知らないところも多い。
下層街の常識など、初めの頃は何も分かっていなかった。
それでも、自分の失敗を他人のせいにはしない。
そこがまた、レイには少し気に入らなかった。
嫌いだと言い切れなくなるからだ。
「レイ、何ぼさっとしてる。工具」
「分かってるよ」
パーズに言われ、レイは工具箱を持ち上げた。
リサはすでに、外部魂魄管の番号を確認している。
「右肩の三番管、予備ある?」
「三番なら昨日整理した棚の奥」
「八番と間違えないでよ、レイ」
「まだ言うか、それ」
「あんた、前に二回間違えた」
「二回じゃねぇ。一回半だ」
「半って何」
「すぐ気づいた分」
「それ、一回に入るから」
「厳しいこって」
「雑なだけでしょ」
リサは呆れた顔で言い、すぐにアビスへ向いた。
「アビス、そこ触らない。まだ熱い」
「確認しただけだ」
「手袋してても危ないってば」
「この程度なら」
「この程度って言う人ほど、あとで痛い顔するんだよ」
アビスは少し黙った。
リサは眉を寄せる。
「今、もう痛いんじゃないの」
「作業に支障はない」
「そういう言い方、ほんと変わらないね」
「事実だ」
「聞いてるのは支障じゃなくて、あんたが平気かどうか」
アビスは答えなかった。
レイは横目でそれを見る。
リサがアビスを気にかけるのは、別に今に始まったことではない。
アビスが来るたび、リサは顔色だの、指先の震えだの、声の硬さだのにすぐ気づく。
それを見ていると、レイの胸の奥で、何かが小さく引っかかる。
だが、もうその感覚にも慣れてしまった。
慣れてしまったことが、さらに気に入らない。
「おい、王子」
「なんだ」
「壊した本人が熱い部品触って怪我したら、修理の手間が増えるんだよ。大人しくしてろ」
「私は王子ではなく、アビスだ」
「じゃあアビス。大人しくしてろ」
「……分かった」
アビスは一歩下がった。
リサが小さく笑う。
「わお。珍しく素直じゃん」
「必要があれば従う」
「じゃあ、いつも必要あることにしとこうかな」
「それは困る」
「困るんだ」
リサが笑う。
アビスは何か返そうとして、結局言葉を探せず視線を外した。
レイはその様子を見て、工具を少し乱暴に置いた。
「レイ、音」
「悪い」
リサに注意され、レイは短く返す。
パーズは作業台の前で、そんな三人を見ていた。
そして、煙草をくわえた。
火はついていない。
この一年で、三人の距離は変わった。
分かりやすく仲良くなったわけではない。
レイとアビスは会えば言い合うし、リサはそのたびに二人を止める。
だが、言い合える程度には近くなった。
「パーズさん、これで外部の仮止め終わり」
「こっちも三番管、交換した」
リサとレイが同時に言う。
パーズは機体の右肩を見上げた。
表面上は形になっている。
少なくとも、これ以上勝手に歪むことはない。
だが、本番はここからだった。
「よし。外はこれでいい。午後は中だ」
「中って、安定器?」
「安定器と逆流経路、それからリミッターの仮組みだ。お前らが手ぇ出すと、余計に時間がかかる」
レイが不満そうな顔をした。
「見てるくらいならいいだろ」
「お前は見ながら質問する。質問に答えてたら夜が明ける」
「じゃあ黙って見る」
「黙って見られるようになったら考えてやる」
リサが手を上げた。
「はーい、私は?」
「お前は、こいつらが黙ってられない時に止める役になる」
「うわ。確かに」
「納得すんなよ」
レイが言う。
アビスも一歩前に出た。
「私は残るべきではないか。自分の機体だ」
「お前が一番駄目だ」
「なぜだ」
「今、中を開けた状態でお前が近くにいたら、機体が反応する。さっきから微妙に脈打ってやがる」
アビスは機体を見た。
黒い装甲の奥で、薄い光が揺れている。
「……そんなに不安定か」
「不安定なのは機体だけじゃねぇ。お前もだ」
パーズの言葉に、アビスは口を閉じた。
反論はしない。
それが答えだった。
「夕方まで時間を潰してこい。その頃までには仮組みが終わる。調整はそれからだ。三人で散歩でもしてろ」
「散歩?」
アビスが聞き返す。
リサは少し顔を明るくした。
「いいじゃん。アビス、工房と王宮車の往復ばっかりだし」
「それで十分だ」
「十分かどうかは、見てから決めなよ」
レイは面倒そうに肩をすくめた。
「その格好で出るなら、やめとけよ」
「この格好に問題があるのか」
「ありすぎる。ここじゃ、その服だけで揉め事の種だ」
アビスは自分の服を見下ろした。
上質な布、綺麗に整った襟、一目で王宮の者だと分かる仕立て。
アビスにとっては普通だった。
だが、下層街では違う。
「うーん、そうだな……」
レイはしばらく考え、工房の壁に掛けていた外套を取った。
自分のものだ。
裾は少し擦り切れている。
肩口には古い油染み。
袖の端には、リサが直した縫い跡がある。
洗ってはいるが、下層街の埃と鉄の匂いが染みついている。
レイはそれをアビスに投げた。
「これでも羽織れ。綺麗すぎる服は目立つ」
アビスは受け止めた。
外套を広げる。
王宮の衣装とは比べ物にならないほど粗い布だった。
けれど、破れてはいない。
使い込まれているだけだ。
アビスは外套を羽織った。
途端に、王宮の気配が少しだけ薄れる。
立ち方や顔立ちは隠せないが、それでも、先ほどまでよりずっと下層街に馴染んで見えた。
「すまない。ありがとう」
レイは少し目を細めた。
「なんだ、お礼も言えるんじゃねぇか」
「礼を言うべき時は言う」
「じゃあ普段は?」
「言うべき場面が少ない」
「お前、それ本気で言ってんのか」
「本気だ」
「んだとコラ」
リサが笑って、二人の間に入った。
「はいはい。外に出る前から喧嘩しない」
「喧嘩じゃねぇ」
「レイの顔が喧嘩」
「顔で決めるな」
「だいたい当たるもん」
アビスは外套の袖口を少し見た。
縫い直した跡がある。
誰かが直したのだろう。
リサかもしれない。
そう思った瞬間、なぜか袖口から目を離しにくくなった。
「何見てんだよ」
「直してある」
「そりゃ、破れたら直すだろ」
「王宮では、破れたものは取り替える」
「もったいねぇな」
レイはそう言って、工房の扉へ向かった。
アビスはその背中を見た。
もったいない。
壊れたら直す。破れたら縫う。
使えるものは使い続ける。
王宮では、そういうことを考えたことがなかった。
外へ出ようとしたところで、当然のように護衛が立ちはだかった。
「お待ちください。殿下を下層街へ護衛なしで出すわけには参りません」
外套を羽織ったアビスは、静かに言った。
「一人ではない。レイとリサがいる」
「なおさら問題です」
「おい、どういう意味だ」
レイが睨む。
リサは肩をすくめた。
「まあ、分からなくもないけど」
「リサまで」
アビスは護衛を見る。
「心配は無用だ」
「無用ではありません。殿下に万が一のことがあれば、我々の首が飛びます」
「首は飛ばさせない」
「そういう問題ではありません」
護衛は一歩も引かなかった。
アビスが何か言おうとした時、パーズが横から口を挟む。
「なら、お前らも外套でも羽織って離れてついて行け。王宮の鎧でぞろぞろ歩かれる方がよっぽど目立つ」
「しかし」
「ここは下層街だ。目立つ奴から厄介事を拾う。守りたいなら、まず目立つな」
護衛は苦い顔をした。
だが、言っていることは正しい。
結局、護衛数名が外套を羽織り、一定の距離を置いて見守ることで落ち着いた。
リサが小声で言う。
「結局ついてくるんだ」
「王子だからな」
レイが返す。
アビスは少し申し訳なさそうにした。
「面倒をかける」
「自覚あんのか」
「少しは」
「少しかよ」
リサが吹き出す。
「ほら、行こ。夕方までなんでしょ」
三人は工房を出た。
下層街を歩くアビスは、いつもより少しだけ遅かった。
道が悪いからではない。
見るものが多すぎるからだ。
工房へ来る時、彼は王宮車両の窓越しにこの街を見ていた。
そこから見える下層街は、狭く、汚く、複雑で、いつも少し暗い場所だった。
だが、歩いてみると違う。
屋台からは香ばしい煙が上がる。
古い看板の下で、子供たちが欠けた歯車を転がして遊んでいる。
水路沿いでは、女たちが洗い物をしながら噂話をしている。
壁の穴から小さな魚が出てきて、店先の魂魄ランタンの周囲を泳いでいた。
一見壊れかけた街だが、死んだ街ではなかった。
リサは顔なじみの屋台で串焼きを三本買った。
レイが小銭を出す。
アビスも懐に手を入れようとした。
「やめろ」
レイが止めた。
「なぜだ」
「ここで金貨なんか出したら、釣り銭じゃなくて騒ぎが返ってくる」
「騒ぎが返る?」
「面倒になるってこと」
リサが補足した。
アビスは納得したような、していないような顔をする。
「金は同じではないのか」
「同じじゃないの。出す場所と出し方があるの」
リサは串焼きを一本渡した。
アビスは受け取り、しばらく見た。
紙に包まれただけの肉。
王宮なら皿に乗って出てくるものだ。
リサが言う。
「熱いよ」
「分かっている」
アビスは口に入れた。
すぐに動きが止まる。
リサが笑った。
「熱かった?」
「……王宮では、適温で出る」
レイが呆れる。
「串焼きくらい、自分で冷ませ」
「そうしよう」
アビスは少し息を吹きかけてから、もう一度食べた。
今度は驚いたように目を動かす。
「おいしい?」
リサが聞く。
アビスは少し考えた。
「味が強い」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
レイが言う。
リサは声を上げて笑った。
それから三人は、古物市を覗いた。
壊れた魂魄計、どこかの工房から流れた歯車。
片方だけの手袋に、何か使い道の分からない金属筒。
下層街では、誰かが不要になったものも、別の誰かには宝になる。
アビスは足を止めることが多かった。
レイはそのたびに説明した。
雑な説明だったが、それでもアビスは真面目に聞いた。
「これは何だ」
「古い圧力弁」
「なぜ売っている」
「まだ使えるから」
「この状態でか」
「磨けばな」
「磨けば使えるのか」
「物による」
「曖昧だな」
「下層街はだいたい曖昧なんだよ」
リサが笑う。
「あんたたち、なんだかんだ仲良いよね」
レイとアビスは同時に答えた。
「「よくない」」
リサはにやっとした。
「ほら、ぴったり」
「「偶然だ」」
「また合った」
二人の声が重なり、リサはさらに笑った。
アビスは一瞬、言葉を止めた。
こんなふうに声が重なることが、少し不思議だった。
王宮では、誰かと声が重なることなど滅多にない。
皆、アビスの言葉を待つ。
あるいは、アビスに命令を下す。
だが、ここでは違う。
リサは笑う。
レイは遠慮なく言い返す。
屋台の親父は値段を間違えたと怒鳴る。
子供は走り回る。
騒がしいが、なぜか嫌ではなかった。
日が傾き始めた。
下層街の建物の影が伸び、路地の奥から青白い灯りが一つずつともり始める。
魚の群れは低くなり、看板の間を泳ぐ光の線が濃くなっていった。
護衛たちは、少し離れた場所から三人を追っている。
目立たぬ外套を羽織ってはいるが、動きが硬い。
下層街の人間ではないことは、見る者が見ればすぐに分かる。
レイはちらりと背後を見た。
それから、前を向いたまま小さく言った。
「……撒くか」
リサの目が一瞬で輝いた。
「乗った」
アビスは眉を寄せた。
「待て。それは護衛任務の妨害になる」
「嫌なら帰れ」
「たまには怒られてみなよ」
リサが笑う。
アビスは少しだけ困った顔をした。
「怒られる前提なのか」
「うん」
「当然だろ」
レイまで頷く。
アビスは二人を見た。
「なぜ当然のように言う」
「怒られるくらいで済むことなら、たまにはやっとけ」
「それは下層街の教訓か」
「レイの悪い癖」
リサがすぐ訂正した。
レイは鼻を鳴らす。
「今しか見せられない場所がある」
その言葉に、アビスは黙った。
今しか見せられない場所。
レイがそう言うなら、それはただの悪ふざけではないのかもしれない。
アビスは背後の護衛を見た。
彼らは真面目に任務を果たしている。
それを撒くのは、確かに褒められたことではない。
だが、リサはもう走る気でいる。
レイは路地の先を見ている。
アビスは短く息を吐いた。
「……少しだけだ」
レイが笑った。
「決まり」
次の瞬間、レイが走り出した。
リサも続く。
アビスは半拍遅れた。
護衛が声を上げる。
「殿下!」
その声で周囲がざわつく。
その喧噪を背に、三人は狭い路地へ飛び込んだ。
レイは迷わなかった。
屋台の布の下をくぐり、積まれた木箱を踏み台にして、錆びた階段へ飛び乗る。
リサは軽い足取りで後を追う。
アビスも続いた。
だが、下層街の道は王宮の訓練場とは違う。
段差は一定ではなく、足場は濡れ、配管が思わぬ高さで路地を横切っている。
壁から飛び出した古い魂魄管が、肘にかすった。
「王宮育ち、足元見ろ!」
レイが前から叫ぶ。
「見ている」
アビスは答えた。
直後、足元の細い配管に靴先が引っかかった。
体が前へ傾く。
落ちる。
そう思った瞬間、リサが振り返った。
迷いなく手を伸ばす。
「アビス!」
アビスは咄嗟にその手を掴んだ。
リサの手は思ったより小さかった。
だが、思ったより強かった。
リサは体重を後ろにかけ、アビスの体勢を引き戻した。
アビスは踏みとどまる。
落ちなかった。
レイが少し先で振り返り、舌打ちした。
「おいおい、王宮の訓練じゃ配管は避けてくれないのかよ」
「今のは足場が悪かった」
「足場じゃねぇ。街だ」
リサはアビスが立てているのを確認すると、すぐに手を離した。
「大丈夫?」
「ああ」
「じゃ、走るよ!」
リサはまた駆け出す。
アビスは一瞬だけ、その場に残った。
いま掴んでいた手を見る。
手袋越しではない。
リサの手の温度が、まだ指先に残っている気がした。
ほんの一瞬だった。
だが、その一瞬だけで、息の仕方が分からなくなる。
「アビス、置いてくよ!」
リサの声で我に返る。
アビスは手を握り、すぐに走り出した。
レイは前を向いたまま、もう一度だけ小さく舌打ちした。
理由は分かっているようで、分かっていない。
ただ、リサがアビスの手を取ったのを見た瞬間、妙に面白くなかった。
それだけだった。
三人はさらに上へ向かう。
看板の裏を抜け、壊れた連絡橋を飛び越え、古い搬送レールの上を走る。
護衛の声は遠ざかっていった。
アビスは途中から動きに慣れてきた。
足場の悪さを読む。
レイの動きを見る。
リサの跳ぶ位置を覚える。
すると、体は自然についていった。
レイは横目でそれを見た。
やはり、身体能力は高い。
口には出さない。
出せば負けた気がする。
「こっちだ!」
レイが最後の階段を駆け上がった。
リサとアビスも続く。
錆びた扉を押し開けると、急に視界が開けた。
そこは、スラムで一番高い廃ビルの屋上だった。
古い輸送施設の跡らしい。
かつては上層街と物資をやり取りしていた建物だと言われている。
今は使われず、階段も一部崩れ、子供でもそう簡単には登ってこられない。
屋上の床にはひびが入り、錆びた鉄骨が柵の代わりに残っている。
風が強い。
だが、そこから見える景色は、下層街のどこにもないものだった。
赤紫に染まり始めた空。
その下で、青白い魂魄ランタンがひとつ、またひとつと灯っていく。
細い路地は迷路のように折れ曲がり、屋台の煙が低く漂い、ネオン看板が水に濡れたように光っている。
建物の間を、小さな魚の群れが泳いでいた。
魚たちは夕暮れの光を受けて、青とも白ともつかない尾を引いている。
遠くには王宮の尖塔が見えた。
いつもは高く、遠く、下層街を見下ろしているように見えるそれも、ここからは夜空の海に浮かぶ影の一つに過ぎなかった。
リサが息を呑んだ。
「レイ……こんないいとこがあるなら、もっと早く教えなさいよね」
レイは少しだけ目を逸らした。
「別に、隠してたわけじゃねぇよ」
「隠してたでしょ」
「一人で来る場所だったんだよ」
リサは一瞬黙った。
その言葉が、ただの言い訳ではないと分かったからだ。
ここはレイの場所だった。
誰にも邪魔されず、下層街を見渡せる場所。
狭い路地の中で生きてきたレイが、たぶん一人で空を見ていた場所。
アビスは屋上の端に立ち、何も言えなかった。
下層街を、こんなふうに見たことはなかった。
王宮から見下ろす下層街は、汚れた区画だった。
地図の上では、治安の悪い地域だった。
報告書では、暴動の火種だった。
だが、ここから見る街は違った。
壊れていて、古くて、貧しい街だった。
雑多で、危うくて、どこもかしこも継ぎ接ぎだらけ。
それでも、灯りがある。
煙がある。
声がある。
人がいる。
そして、魚が泳いでいる。
レイが横目で聞いた。
「いいだろ?」
アビスはしばらく答えなかった。
答えられなかった。
やがて、短く言う。
「……ああ」
それだけだった。
それだけで十分だった。
三人はしばらく黙って景色を見ていた。
リサは古い鉄骨に手を置き、風に髪を揺らしている。
レイは少し得意げな顔を隠そうとして、隠しきれていない。
アビスは、レイの外套を羽織ったまま、街を見下ろしている。
その横顔を、レイがふと見た。
アビスの口元が、わずかに緩んでいた。
「お前、普段笑わないよな」
アビスは景色を見たまま答えた。
「必要が無いからな」
「でも、今お前、笑ってるぜ」
「……!?」
「初めて見た」
アビスは反射的に自分の口元へ手をやった。
リサが笑う。
「いいじゃん」
アビスは顔をそらした。
「……別に」
レイがにやりとした。
「照れたな」
「照れたね」
リサも同じように頷く。
アビスは眉を寄せた。
「照れていない」
「照れてる奴はだいたいそう言う」
「そうそう」
「……二人とも、うるさい」
そう言いながら、アビスはまた街を見た。
△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼
工房へ戻った時、当然ながら全員に怒られた。
「殿下! どこへ行かれていたのですか!」
護衛の声は、怒りと安堵で震えていた。
アビスは静かに答える。
「街を見ていた」
「我々を撒いてまでですか!」
「……それについては、悪かった」
護衛は一瞬、言葉に詰まった。
アビスが素直に謝ったからだ。
だが、それで怒りが消えるわけではない。
「悪かった、で済む話ではありません!」
横ではパーズがレイを睨んでいた。
「お前が言い出したな」
「なんで分かるんだよ」
「顔に書いてある」
「何でも顔で決めんな」
リサが手を上げる。
「私も乗ったよ」
「お前は止めろ」
「でも楽しかった」
「反省しろ」
「はーい」
「返事が軽い」
レイはそっと目を逸らした。
「でも、ちゃんと戻ってきただろ」
「戻ってくりゃいいってもんじゃねぇ」
パーズはレイの頭をげんこつで叩いた。
「いってぇ!」
「痛くしたんだよ」
その時、工房の入口にマルシアが立っていた。
「……何の騒ぎ?」
「母さん」
レイが振り返る。
マルシアは包みを抱えていた。
夕食の差し入れだろう。工房に来ること自体は珍しくない。
彼女はまず、レイを見た。
少し埃をかぶっている。
髪も乱れている。
何かやったのはすぐに分かった。
次にリサを見る。
リサも同じような状態で、少しだけ気まずそうに笑っている。
そして最後に、アビスを見た。
その瞬間、マルシアの視線が止まった。
アビスは、レイの古い外套を羽織っていた。
王宮の服はその下にある。
だが、くたびれた外套が肩を覆い、埃のついた裾が膝の近くで揺れている。袖口には古い縫い跡。肩には油染み。
その姿は、いつもの王宮の第一王子とは違って見えた。
下層街を走ってきた少年。
どこかの路地から、友達と一緒に帰ってきた少年。
そう見えた。
アビスは護衛の言葉に少し眉を寄せていた。
その横顔を見た時、マルシアの胸の奥で、何かがトクンと小さく鳴った。
懐かしい。
そう思いかけて、マルシアは戸惑った。
目の前にいるのは、王宮の少年だ。
自分が知っているはずなどない。
それなのに、胸の奥だけが、遠い昔を覚えているようだった。
護衛がさらに厳しく言う。
「殿下はご自身の立場をお分かりですか。もし何かあれば――」
アビスは少しだけむっとした顔をした。
その顔を見た瞬間、マルシアは息を詰めた。
遠い昔、誰かが同じような顔をした気がする。
意地を張って、言い返したいのをこらえて、けれど本当は少し傷ついているような顔。
誰だっただろう。
思い出せそうで、思い出せない。
アビスが低く言った。
「……すまない」
その声は静かだった。
怒っているのでも、ふてくされているのでもない。
ただ、自分が誰かを困らせたと分かって、少しだけ悲しそうだった。
その顔を見た瞬間、マルシアの頬に涙が伝った。
自分でも驚いた。
なぜ泣いたのか分からない。
慌てて目元を押さえる。
レイが気づいた。
「母さん?」
「……何でもないわ」
「何でもないって顔じゃないだろ」
マルシアは無理に微笑んだ。
「少し、風が目に入っただけ」
「工房の中だけど」
「レイ」
「……分かったよ」
レイは納得していなかった。
けれど、それ以上は聞かなかった。
アビスもまた、マルシアを見ていた。
なぜ泣いたのか分からない。
けれど、その涙を見た瞬間、アビスの中にも、言葉にできないものが落ちた。
マルシアはすぐに目を伏せた。
王宮の人間を、そんなふうに見つめてはいけない。
そう自分に言い聞かせるように。
怒られる時間がようやく終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
パーズは内部修理を終え、簡易リミッターの仮組みも済ませていた。
黒い魔導機の青黒い光は、来た時よりも落ち着いている。
パーズは記録媒体をアビスに渡した。
「今日のところは動く。だが、高出力は使うな。仮組みだ。無茶すればまた歪む」
「任務次第だ」
「だったら、その任務の方を疑え」
アビスは黙った。
パーズは続ける。
「次までに新しいリミッターを組む。月次調整も少し増やすぞ。面倒だが、お前が頭を焼くよりはましだ」
「手間をかける」
「分かってるなら壊すな」
レイが横から言う。
「無理だろ」
「努力はする」
「努力で済むのかよ」
リサがアビスを見た。
「努力より、ちゃんと休む。あと、痛い時は黙ってない」
「……分かった」
「今の間、絶対分かってないやつ」
「いや、今のは分かっている」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目」
リサがじとっと見る。
アビスは少し困ったように視線を落とした。
パーズはその様子を見て、火のついていない煙草をくわえ直す。
少し離れたところで、マルシアも三人を見ていた。
リサがレイとアビスの間に入り、二人に何か言っている。
レイは不満そうで、アビスは真面目に聞いている。
マルシアは小さく笑った。
「まあ。リサ、モテモテね」
パーズは鼻を鳴らした。
「小僧ふたりは分かってねぇみたいだがな」
「ふたりとも?」
「片方はリサを見て妙な顔になる。もう片方はそれを見て、なぜか機嫌が悪くなる」
マルシアは口元に手を当てた。
「ふふ」
「リサはレイにベタ惚れだって、誰が見ても分かるだろ」
「ふふ。それが、あの子たちには分からないのよね」
「まだまだ青二才ってこった」
「可愛いじゃない」
「見てる分にはな。巻き込まれる方はたまったもんじゃねぇ」
パーズはそう言ってから、少しだけマルシアを見た。
「……お前、顔色悪いぞ」
「大丈夫よ」
「そうかよ」
パーズはそれ以上聞かなかった。
マルシアが嘘をついていることくらい、分かっている。
だが、今聞いても答えは出ない。
マルシア自身が、まだ何に揺れているのか分かっていない顔をしていたからだ。
帰り際、アビスはレイに外套を返した。
レイは受け取り、裾についた埃を見た。
「洗って返せよ」
「今、返したが」
「埃だらけだろ」
「走ったのは君たちのせいだ」
リサがすかさず言う。
「乗ったのはアビスでしょ」
アビスは少し考えた。
「……それもそうか」
「ほんと、真面目だな」
レイは呆れたように言い、外套を肩にかけた。
アビスはその外套を少しだけ見た。
ほんの短い時間だった。
けれど、それを羽織っていた間、自分は王宮の第一王子ではなかった気がする。
ただ、レイとリサと一緒に街を走った少年だった。
そんなふうに思うことが、自分に許されるのかは分からない。
だが、あの屋上から見た景色は、確かに胸に残っていた。
リサが手を振る。
「じゃあね、アビス」
「ああ」
レイは軽く顎を上げただけだった。
「次は転ぶなよ」
「転んではいない」
「リサに助けられてただろ」
「踏みとどまった」
「はいはい」
リサが笑う。
アビスは何か言い返そうとして、やめた。
言い返すより、その笑顔を見ていたかった。
そんな自分に気づいて、すぐに視線を外す。
護衛が扉を開けた。
アビスは車両へ乗り込む。
窓の外で、パーズ工房の灯りが小さく揺れている。
レイが外套を肩にかけ、リサがその横で何か言っていた。
車両が動き出し、下層街の灯りが遠ざかっていく。
アビスは窓の外を見た。
あの廃ビルは、もう見えない。
けれど、屋上から見た街は残っている。
アビスはそっと口元に触れた。
笑う必要などない。
ずっと、そう思っていた。
特別な場所を、ひとつ知った。
けれど、そこで生まれたものが何なのかを、アビスはまだ知らなかった。
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