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第5話 あんたも、やるじゃん


 第七区の暴動から、三日が経った。


 下層街の空は、何事もなかったように青白く光っている。


 煤けた建物の隙間を、小さな魚の群れが泳いでいた。壁を抜け、看板を抜け、古い魂魄管の束をすり抜けていく。魚たちはいつも通りだった。少なくとも、遠目にはそう見えた。


 だが、通りの人間たちはそうではない。


 焦げた看板に折れた配管。

 広場から運び出されたまま戻ってこない露店の骨組み。

 魂魄ランタンの明かりも、ところどころ弱い。実際に半分くらいは消えてしまっていた。


 そして、別の場所に行けば、誰かが第七区の噂をしている。

 噂は、三日でいくつにも増えた。


 そして、その噂の中心にいた本人は、パーズ工房の床に座らされていた。



「だから、なんで俺だけ外に出らんねぇんだよ」


「まだ言ってんのか」



 パーズは作業台の向こうで、分解途中の魂魄圧縮器を睨んでいた。


 片目の拡大レンズを下ろし、油で汚れた指先で細い魂魄管をつまむ。管の中では、弱い青い光が詰まったり流れたりを繰り返していた。



「お前、三日前に何をやった」


「子供を助けた」


「その前」


「怪我人を運んだ」


「その前」


「魂魄管を押さえた」


「その前」


「……第七区に行った」


「そこだ」



 パーズは管を作業台に置き、レイを指差した。



「俺は言ったな。第七区はきな臭い。揉め事に首を突っ込むな。用が済んだらすぐ戻れ。そう言ったな」


「言った」


「で、お前は何をした」


「首を突っ込んだ」


「分かってんなら、今日は黙って座ってろ」


「でも、仕事なら」


「工房の中にも仕事はある」



 パーズは足元に転がっていた金属箱を蹴った。


 箱の中から、古い制御板や錆びた歯車ががちゃがちゃ鳴る。



「そこにある部品、全部仕分けろ。使えるもん、溶かすもん、投げたら痛そうなもんに分ける」


「最後のいる?」


「いる。いざって時に使う」


「何に」


「お前みたいな馬鹿を止めるのに、だよ」


「ひっでぇ」



 レイは不満そうに言いながら、箱の中へ手を突っ込んだ。


 リサはその横で、腰に手を当てて見下ろしている。



「ま、今回はパーズさんが正しいね」


「リサまで」


「あんた、三日前にどれだけ危なかったか分かってる?」


「分かってるよ」


「はーい、分かってない顔」


「最近そればっかりじゃない?」


「そればっかり言わせる顔してるからでしょ」



 リサはしゃがみ込むと、レイの額を指でつついた。



「いい? 王宮の連中が調べ回ってるんだよ。第七区の工房とか、古参の技師とか、あの辺にいた奴とか。あんたが外をふらふらしてたら、また何か拾ってくるに決まってる」


「拾わない」


「拾う」


「拾わないって」


「倒れてる子供とか、消えかけの魚とか、変な部品とか、面倒ごととか」


「最後は拾いたくて拾ってない」


「知ってるー」



 リサは、少しだけ声を柔らかくした。



「だから、外に出るなって言ってるの」


「……子供じゃないんだけど」


「それも知ってる」


「じゃあ」


「子供より手が掛かるもんね」



 レイは口を閉じた。


 言い返そうとして、言葉が出てこない。


 パーズが作業台の向こうで小さく鼻を鳴らした。



「ったく、完全に世話女房だな」


「パーズさん?」



 リサが振り返る。


 パーズは何も言わなかった顔で、手元の圧縮器へ視線を戻した。



「んだよ、十六番の魂魄管、切らしてやがる……」



 パーズは部品棚を一段ずつ開けた。


 木箱を引き出し、油紙をめくり、空の管ケースを見て舌打ちする。次の棚、さらにその奥。そこにもない。



「おーい、リサ」


「あー、嫌な予感しかしない」


「買ってこい」


「やっぱり」



 パーズは油まみれの紙片に、部品名を乱暴に書きつけた。



「第六通りのハボック商会なら、まだ在庫があるはずだ。十六番の魂魄管。できれば旧規格の方な。新規格はつなぎが甘い」


「第六通りって、遠くない?」


「近い店は第七区の件で閉まってる」


「レイは?」


「留守番だ」


「だよねー」



 リサは紙片を受け取り、ちらりとレイを見た。



「あんた、勝手に出るなよ」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「だから、それやめろって」


「じゃあ、勝手に出ない顔して」


「どんな顔だよ」


「こう」



 リサはわざと真面目くさった顔をした。


 レイは思わず笑った。



「それ、パーズさんの顔じゃん」


「おい」


「似てるじゃん」


「リサ、こいつの昼飯抜きでいいぞ」


「はーい」


「ちょ! 俺が悪かったって!」



 リサは笑いながら、工房の扉へ向かった。


 その背中に、レイは声をかける。



「気をつけろよ」


「それはこっちの台詞」


「俺は中にいるだけだろ」


「中にいても何か起こすでしょ、あんた」



 クスッと笑ってリサは扉を開けた。


 外の青白い光が、工房の床に細く差し込む。



「じゃ、行ってくる」


「早く戻れよ」


「はいはい。寂しくっても泣かないでねー」


「泣くか」


「泣いたらパーズさんに抱っこしてもらいな」


「絶対嫌だ」


「俺だって嫌だ」



 パーズが即答した。


 リサは声を立てて笑い、扉の向こうへ出ていった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 第六通りは、第七区ほど荒れてはいなかった。


 とはいえ、三日前の騒ぎの余波はここにも届いている。


 店先には、いつもより人が少ない。

 露店の親父たちは客を呼ぶ声を抑え、屋台の湯気の向こうでひそひそ話をしていた。魂魄ランタンの明かりは少し暗く、看板のネオンもところどころで途切れている。


 頭上を泳ぐ魚たちは、いつもより低い。


 リサの肩先を、小さな青い魚がすり抜けていった。

 ただ、何かが通り抜けた気配だけが残る。


 通りの端で、男たちが話していた。



「第七区の鉄塔、本当に勝手に組み直ったらしいぜ」


「酒場のバカ話だろ」


「いや、見た奴がいるって。白い魚みたいな光がぶわっと」


「王宮の新兵器じゃねえのか」


「だったら、なんで王宮が調べ回ってるんだよ」


「知らねえよ。どうせ下層の工房に難癖つける口実だろ」



 リサは知らない顔で通り過ぎた。


 少し先では、別の女が買い物籠を抱えてぼやいている。



「また魂魄管が値上がりだってさ」


「第七区のせい?」


「王宮の回収部隊が失敗したせいで、下層への流通を絞ってるんだと」


「失敗したのは向こうなのにねえ」


「言うな言うな。聞かれたら連れてかれるよ」



 そう言って、二人は声を落とした。


 リサは紙片を握り直す。


 噂の中には、レイの名前はまだない。

 それだけが救いだった。


 でも、安心はできない。


 レイは、目の前で何かが消えそうになれば、また手を伸ばす。

 たぶん、何度止めても同じだ。


 リサは小さく息を吐いた。



「ほんと、手が掛かるんだから」



 文句の形で口に出す。


 けれど、嫌ではなかった。


 嫌なら、あんなに怒らない。

 嫌なら、あんなに怖くならない。


 レイが危ないことをするたび、腹の奥が冷える。

 そのくせ、助けた後の顔を見ると、どうしようもなく腹が立って、どうしようもなく安心する。




 リサは第六通りの角を曲がった。


 ハボック商会の看板が見える。


 その手前の車道は、いつもより広く空けられていた。下層街の道にしては珍しく、王宮車両が通るための舗装が残っている。とはいえ、石畳はあちこち割れ、側溝からは湯気が上がっていた。


 通りの人々が、急に端へ寄った。


 誰かが小さく言う。



「王宮車だ」


「なんでこんな所に」


「第七区の調査じゃねえのか」


「目を合わせるな」



 低い駆動音が近づいてきた。


 黒塗りの車両だった。


 上層街で見るような滑らかな装甲に、王宮の紋章が小さく刻まれている。車体の側面には魂魄管が走り、青白い光が規則正しく脈打っていた。前後には護衛用の小型車両がついている。


 リサは道の端へ寄った。


 胸の奥に、嫌なものが沈む。


 王宮の紋章を見ると、三日前の黒い魔導機を思い出す。

 あの漆黒の砲身。

 鉄を砂のようにほどいてしまう光。

 そして、その余波で傾いた鉄塔。


 リサは唇を噛んだ。


 その時だった。



「あっ!」



 小さな声がした。


 リサの目の前で、子供が一人、転がった金属球を追いかけて車道へ飛び出した。


 母親らしき女が叫ぶ。



「戻りなさい!」



 王宮車両の前輪が、急に光を強めた。


 制動音が石畳を引っ掻く。

 護衛車両の兵士が怒鳴る。


 車両は止まるだろうか。

 そんな考えに答えが出る前に、リサは手を伸ばしていた。


 子供の腕をつかんで歩道に引っ張り上げる。


 間に合った。


 子供の目の前で、黒い装甲が震えている。あと一歩遅ければ、石畳に押し潰されていた。


 子供の体を抱き上げ、車両の前から引きずるように離す。子供は泣くこともできず、口だけを開けていた。


 リサはその小さな肩を掴む。



「怪我は?」


「……」


「どこか痛い?」


「……ひっ」



 そこでようやく、子供は泣き出した。


 リサは一つ息を吐いた。


 大丈夫だ。


 たぶん、怪我はない。


 その途端、腹の底から怒りが上がってきた。


 王宮車両の扉が開く。


 護衛の男が先に降りた。整った制服。磨かれた靴。腰には魂魄銃。下層街の泥に触れたことすら不快だという顔をしている。


 その後ろから、少年が降りてきた。


 黒い髪。

 王宮の者にしては、やけに影のある顔。

 上質な外套を着ているが、飾り立ててはいない。


 彼はまず、子供を見た。


 それから、リサを見た。


 リサはその視線を真正面から受け止めた。



「謝れ」


「なんだと?」


「この子に謝れ!」



 護衛の眉が跳ねた。



「なっ……貴様、不敬である! このお方をどなたと――」


「よい」



 アビスが短く言った。


 護衛の言葉が止まる。


 リサは少しだけ目を細めた。


 少年は子供の前まで来ると、膝を折った。


 護衛がぎょっとする。



「殿――」


「黙れ」



 声は荒くなかった。


 だが、護衛は口を閉じた。


 少年は子供を見た。

 そして子供の前で頭を下げた。



「怖い思いをさせた。すまない」



 子供は泣きながら、リサの服を掴んでいる。


 通りがざわつく。


 王宮の人間が、下層の子供に謝った。頭を下げた。


 それだけで、周囲の空気が奇妙に揺れた。


 リサも、ほんの少し意外だった。


 王宮の奴は、踏みそうになったことより、道に出た子供の方を責めると思っていた。


 でも、目の前の少年はそうしなかった。


 リサは子供の背を軽く叩く。



「ほら、もう大丈夫だから行きな」


「う……うん」


「次からは車道に飛び出さない。分かった?」


「うん……」


「よし。泣きながらでいいから、お母さんのとこまで走れ」



 リサはニッと笑って子供の背を押した。


 さっきまで怒っていた顔が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 それを見た瞬間、少年の心臓が跳ねた。


 子供はしゃくり上げながら頷き、母親のもとへ駆けていった。


 母親は何度も頭を下げ、子供を抱きしめて通りの端へ逃げるように下がった。


 リサは子供を見届けてから、少年へ向き直る。



「あんたも、やるじゃん」



 リサは少年の眼を見て、ニッと笑った。


 その瞬間、少年は息を忘れた。


 何かが、胸の奥で音を立てた。


 心臓がうるさい。

 急に自分のものではなくなったように跳ねる。


 なんだこれは。

 自分の体のコントロールを失う感覚。


 喉の奥が詰まる。

 指先が少し冷える。


 怖い。いや、違う。もっと変なものだ。


 それなのに、目の前の少女から目を離せない。



 もう一度リサの眼を見る。


 その少年を見る目は、怖がっていないし、崇めていない。

 そして、媚びてもいない。


 ただ、子供を助けたことを見て、当たり前みたいに笑っている。


 あんたも、やるじゃん。


 その言葉が、胸のどこかに引っかかった。

 いや、刺さった。


 少年は何かを言おうとした。


 だが、出てきたのは声にならない息だけだった。


 リサは首をかしげる。



「大丈夫?」


「……いや」


「顔色悪いけど」


「問題ない」


「王宮の奴って、みんなそれ言うの?」


「……俺だけかもしれない」


「ふーん」



 少し落ち着いた少年は、大きく息を吐いた。



「そなた、名前は?」


「私はリサ。あんたは?」


「アビス」


「アビスね」



 リサはそれだけ言って、手にした紙片を見た。



「じゃ、私、買い物あるから」


「あ、ああ」


「車、気をつけなよ。下層街は子供も猫も部品も飛び出すから」


「部品も?」


「たまに転がるんだよ」


「……そうか」


「そうそう」



 リサは軽く手を振り、ハボック商会の方へ歩いていった。



「それじゃーね!」



 アビスは、その背中を見ていた。


 護衛が小さく咳払いする。



「殿下、あの娘はあまりにも無礼です。下層の者とはいえ、身の程を――」


「黙れと言ったはずだ」


「はっ」



 護衛は頭を下げた。


 アビスはまた、リサの背中を見た。


 すると、それだけでまたドクンと跳ねる。


 胸がおかしい。


 さっきから、鼓動が落ち着かない。

 呼吸の深さも分からない。

 手袋の中の指が、わずかにこわばっている。


 病か。


 いや、違う。


 演習後の反動でもない。

 破壊衝動でもない。

 それなら、もっと黒く、もっと重く、もっと冷たい。


 これは違う。


 ただ、正体が分からない。


 アビスは視線を落とした。


 石畳に、リサが走った時の水跡が残っている。


 彼はなぜか、その跡まで見ていた。



「殿下」


「……工房へ向かう」


「予定では、あと三か所です。第七区周辺の技師調査を――」


「どこだ」


「ジール魔導修理工場、パーズ工房、ベスメラ工房です」


「順番に回るぞ」


「はっ。ですが、先ほどのことを正式な報告書にまとめ──」


「不要だ。第七区出動後、機体に異常値が出ている。修理可能な古参技師を探すのが先だ」


「王宮技師の動員を増やしますか?」


「いや、最小人数でいい」


「はっ」



 アビスは車両へ戻った。


 扉が閉じる。


 車内の静けさに包まれても、あの声は消えなかった。


 アビスは胸元を押さえる。


 そこには何もない。


 それなのに、確かに何かが落ちた気がした。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 リサがパーズ工房へ戻ったのは、それからしばらく後だった。


 扉を開けると、レイが床の上で部品の山に埋もれていた。



「ただいまー」


「遅いぞ」


「なに、寂しかった?」


「違う。パーズさんがずっと機嫌悪かったから」


「俺のせいみたいに言うな」



 作業台の向こうからパーズが言った。


 リサは買ってきた魂魄管の包みを掲げる。



「十六番、旧規格。一本だけ残ってた」


「よし。でかした」


「値上がりしてたよ」


「王宮のせいだな」


「たぶんね」



 リサは包みを作業台に置き、ふと思い出したように言った。



「そういえば、変な王宮の奴いた」



 レイの手が止まった。



「王宮?」


「うん。車で子供轢きかけた」


「は?」


「でも謝った」


「……王宮の奴が!? 嘘だろ?」


「それが、ほんとなんだなー」


「下層の子供に?」


「うん」


「変だな」


「でしょ」



 リサは椅子に腰かけ、足をぶらつかせた。



「護衛は偉そうだったけど、本人は悪い奴じゃなさそうだった。名前、アビスだって」



 レイは拾い上げた歯車を、なぜか逆の箱に入れた。


 パーズがそれを見て眉を寄せる。



「おい、それは使える方だ」


「あ、悪い」



 レイは歯車を戻した。


 リサは気づかず続ける。



「なんかね、妙に真面目。顔色悪いし、喋り方固いし、ずっと難しいこと考えてそうな感じ」


「ふーん」


「あー…興味なさそうだねー」


「別に」


「別に、って顔じゃない」


「またそれかよ」


「便利だから」



 座った椅子の上で足をプラプラとしながら、リサは笑った。


 レイは部品箱へ視線を落とす。


 胸の奥が、ほんの少しだけざらついていた。


 王宮の奴。

 アビス。

 悪い奴じゃなさそう?


 別に、どうでもいい。


 どうでもいいはずだ。


 ただ、リサがその名前を普通に口にしたのが、なぜか面白くなかった。



「で、そのアビスって奴は、何しに来てたんだよ」


「知らない。王宮車で通っただけじゃない?」


「ふーん」


「二回目のふーん、いただきました」


「数えるな」


「気になるなら気になるって言えば?」


「気になってない」


「はいはい」



 パーズは二人のやり取りを聞きながら、煙草をくわえた。


 火はついていない。


 その目は、少しだけ細くなっていた。



「アビス、ねぇ……」



 パーズの声は低かった。


 リサが首を向ける。



「知ってるの?」


「知らん方がおかしい名だ」


「有名人?」


「絶対に面倒が起こりそうな名だ。もう関わるなよ?」



 その時、工房の外で車両の駆動音が止まった。


 レイが顔を上げる。


 リサも振り返る。


 パーズは煙草をくわえたまま、深々とため息をついた。



「はぁ……遅かったか。来たぞ」


「え、誰が?」


「面倒な客だよ」



 扉が叩かれた。


 硬い音だった。


 下層街の客が拳で叩く音ではない。手袋をした者が、礼儀正しく、しかし拒否されるとは考えていない叩き方。


 パーズは作業布で手を拭き、扉へ向かった。



「開いてる。壊すなよ」



 扉が開く。


 先に入ってきたのは護衛だった。


 磨かれた靴が、工房の汚れた床を踏む。あからさまに顔をしかめかけ、パーズの視線に気づいて表情を戻した。


 その後ろから、アビスが入ってきた。


 工房の空気が、少し変わった。


 油の匂い。

 鉄の匂い。

 古い魂魄炉の低い唸り。

 天井から吊るされた無数の部品。


 アビスは一瞬だけ、周囲を見回した。


 懐かしい、と思った。


 理由は分からない。


 王宮の整備区とはまるで違う。床は汚れ、工具は古く、魂魄灯も暗い。なのに、ここには人が暮らしている温度があった。


 その視線が、リサで止まる。


 リサは目を丸くした。

 アビスも目を丸くした。



「あ、さっきの!」



 アビスの心臓が、またおかしくなった。


 さっきの。


 ただそれだけの言葉なのに、胸が強く鳴る。


 アビスは返事をしようとした。


 だが、リサの隣に立つ少年が目に入った。


 黒髪ではない。

 王宮の者でもない。

 油で汚れた作業服を着た、下層街の少年。


 リサとの距離が、近い。


 当たり前のように近い。


 アビスは胸の奥がざらつくのを感じた。


 さっきとは違う。

 今度は少し熱く、少し苦い。


 レイも、アビスを見ていた。


 上質な外套、磨かれた靴、背筋の伸びた立ち姿、整った顔立ち。

 そして、リサを見た時の目。


 なんだ、こいつ。


 レイはそう思った。


 理由は分からない。


 ただ、気に入らなかった。



「ここはパーズ工房か」



 アビスが言った。


 パーズは腕を組む。



「看板にそう書いてある」


「読める状態ではなかった」


「あれで読めねえなら、目が良すぎるんだ」



 護衛が眉を吊り上げる。



「貴様、殿下に向かって――」


「うるせえ。俺の工房で怒鳴るな。部品が震える」


「なっ」


「よい」



 アビスが止めた。


 護衛は不満そうに口を閉じる。


 パーズはアビスをじろりと見た。



「で、何の用だ。王宮の坊ちゃんが、下層のゴミ溜めに観光か」


「第七区出動後、機体に異常値が出た」


「王宮技師に見せろ」


「見せた。原因が分からない」


「そりゃ腕が悪い」


「そう思う」



 パーズの眉がわずかに動いた。


 リサが小さく吹き出す。



「意外と正直じゃん」



 アビスはリサを見た。


 まただ。


 心臓が跳ねる。


 レイはその視線を見て、部品箱の中の鉄片を意味もなく握った。



「……機体って、あの黒いやつか」



 レイが言った。


 アビスの視線がレイへ向く。



「見たのか」


「第七区にいたから」


「そうか」


「ずいぶん派手に壊してたな」


「人には撃っていない」


「鉄塔は倒れた」



 空気が少し固くなる。


 リサがちらりとレイを見た。


 パーズは黙っている。


 アビスは、レイから目を逸らさなかった。



「それは、俺のミスだ」



 レイは言葉に詰まった。


 まさか認めるとは思っていなかった。


 アビスは続ける。



「子供がいた。避けろと叫んだが、間に合わなかった」


「……」


「助けた者がいるらしい」



 レイの指が、鉄片を握り込む。


 リサが先に口を開いた。



「またその噂?」



 アビスの視線がリサへ動く。



「知っているのか」


「この辺じゃみんな言ってるよ。白い魚が出たとか、鉄塔が勝手に組み上がったとか、王宮の新兵器だとか、酔っ払いが見た幻だとか」


「白い魚」


「そうそう。噂って三日で尾ひれが増えるんだよ。魚だけに」


「……」


「そこは笑うところ」


「すまない」


「真面目か」



 リサは呆れたように言った。


 アビスは何か返そうとして、結局何も返せなかった。


 レイはそれを見て、なぜか余計に面白くなかった。


 リサが自然に喋っている。


 相手は王宮の奴なのに。


 さっき会ったばかりのくせに。


 パーズが工具を鳴らした。



「噂話がしたいだけなら余所へ行け」



 全員の視線がパーズへ向く。


 パーズは作業台の上を片づけながら言った。



「機体を直したいなら余計な話はするな。ここは工房だ。王宮の取調室じゃねえ」


「……失礼した」



 アビスは素直に頭を下げた。


 護衛がまたぎょっとする。


 パーズは鼻を鳴らした。



「機体は外か」


「機体は持ってきていない。記録媒体だけだ」


「なら、そこに残ってる脚部と砲身の接続記録、魂魄安定器の数値、あと第七区で撃った時の残留波形を出せ」


「それなら持っている」


「なら見せろ。リサ、茶はいらん。レイ、お前は奥の棚から三番端子と測定針を持ってこい」


「分かった」


「余計なことは喋るな」


「喋ってないだろ」


「顔が喋ってる」



 リサがすかさず頷いた。



「そーだぞ。喋ってる」


「リサまで」



 レイは不満そうにしながら、奥の棚へ向かった。


 アビスはその背中を見る。


 リサが遠慮なく話す少年。

 パーズに怒鳴られても平気な少年。

 工房の中で、自分の場所がある少年。


 胸が、またざらついた。


 その感覚の正体が分からない。


 ただ、面白くない。


 そう思った瞬間、アビスは自分に驚いた。


 面白くない?


 何が。


 なぜ?


 アビスは視線を逸らし、記録媒体をパーズへ差し出した。



「これだ」


「ふん。王宮の記録媒体は無駄に綺麗だな。中身はどうせ汚ねえくせに」


「中身も確認してくれ」


「言われなくても見る」



 パーズは記録媒体を受け取り、数値を追い始めた。


 アビスは作業台の前に立ったまま、視線だけで工房の中を見た。


 リサが、レイの持ってきた端子を受け取っている。



「それ違う。三番じゃなくて八番」


「似てるだろ」


「似てない。穴の数が違う」


「穴まで見てなかった」


「見なよ、部品なんだから」


「相変わらず厳しいな」


「あんたが雑なの」



 二人のやり取りは、あまりにも自然だった。


 近い。


 会話の間に遠慮がない。


 リサはレイの手から端子を取り上げ、代わりの部品を探しに棚へ手を伸ばす。レイはその後ろで、文句を言いながらも手を貸す。


 アビスは、そこから目を離せなかった。


 胸が苦しい。


 リサが笑うと、心臓が変になる。

 レイと笑っていると、胸の奥が苛立つ。


 意味が分からない。


 破壊の衝動なら分かる。

 怒りなら分かる。

 痛みなら耐え方を知っている。


 これは、そのどれでもない。


 パーズは記録媒体から目を上げずに、小さく呟いた。



「面倒くせぇ……やっぱ俺が作った奴じゃねぇかよ……」


「何か言ったか?」



 アビスが反応した。


 パーズはちらりと三人を見た。



「いや、こっちの話だ」


「そうか」



 パーズは測定針を取り上げた。



「砲身の基部に歪みがある。第七区で余波を食ったな。あと、魂魄安定器が一瞬だけ逆流してる。これ、普通なら操縦者の頭が割れるぞ」


「割れてはいない」


「割れそうにはなったか」


「問題ない」


「その返事をする奴はだいたい問題ある」


「そこの護衛」


「なんだ?」


「王宮に帰ったら医者に見せろ。万が一ってことがある」


「わ、わかった」


「だから、私は問題ない」



 リサが小さく笑った。



「ほら、言った。王宮の奴ってみんなそれ言うんだよ」



 アビスはリサを見る。



「君も、そう思うか」


「思う。問題ないって言う人ほど、だいたい問題ある」


「そうか」


「うん。だから、痛いなら痛いって言えばいいじゃん」



 アビスは黙った。


 痛いなら、痛いと言う。


 そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。


 幼い頃、教師がそう言った気がする。


 いや。


 覚えているのは、教師の眼鏡が床に落ちた音だけだ。


 アビスは手袋の中で指を握った。



「痛みは、任務に支障がなければ問題ではない」


「それがもう問題あるって言ってるんだけど」



 リサは眉を寄せる。


 レイは横から口を挟んだ。



「王宮の奴なんて、そんなもんだろ」



 リサがレイを見る。



「レイ」


「何」


「そういう言い方しない」


「別に」



 アビスはレイを見た。



「君は、王宮が嫌いか」


「好きになる理由があるか?」


「ないかもしれないな」



 また、レイは言葉に詰まった。


 認めるなよ。


 そう思った。


 王宮の奴なら、もっと偉そうにしていればいい。

 下層街を見下して、民のためだとでも言っていればいい。


 その方が、分かりやすく嫌いになれる。



「じゃあ、なんで来たんだよ」


「機体の整備が必要だった」


「本当にそれだけか?」



 アビスの呼吸が、ほんの少し乱れた。


 リサを見る。

 リサはきょとんとしている。


 レイはその視線に気づいた。


 何かが胸の奥で引っかかる。



「なんだよ」


「何がだ」


「リサ見てただろ」


「見ていない」


「見てた」


「見ていない」


「嘘つけ」


「レイ」



 リサが間に入るように声を出した。



「喧嘩しない」


「喧嘩じゃない」



 レイとアビスの声が重なった。


 リサは二人を交互に見た。



「ほら、もう喧嘩っぽい」



 パーズは記録板を置き、煙草をくわえ直した。


 火はついていない。



「はぁ……こりゃ先が思いやられる」


「パーズさん?」


「何でもねえ」



 パーズはアビスへ記録板を返した。



「応急調整ならできる。だが本格的に見るなら、機体を持ってきて工房裏の広場へ回せ。直接全部見てやる」


「分かった」


「料金は王宮価格で取る」


「構わない」


「値切れよ。つまらん」



 アビスは少し考えた。



「では、高いから安くしろ」


「お前、値切り方を知らねえだろ」


「知らない」



 リサが吹き出した。



「正直すぎ」



 アビスはまたリサを見た。


 笑っている。


 さっきと同じではない。


 子供を送り出した時の優しい顔でもない。

 まっすぐな笑みでもない。


 少し呆れて、少し面白がっている顔。


 それでも、胸が跳ねる。


 アビスは視線を外した。


 見ていると、おかしくなる。


 見ていなくても、気になる。


 どうすればいいのか分からない。


 応急確認を終えた頃には、外の空がさらに暗くなっていた。


 工房の裏手に止められた王宮車両の魂魄管が、青い光を流している。護衛たちは不満げに立ち、下層街の湿った空気を嫌うように襟を正していた。


 アビスは工房の入口で振り返った。



「調整の件、また来る」


「機体の話ならな」



 パーズが言った。


 アビスは一瞬、言葉に詰まった。


 リサが手を振る。



「じゃあね、アビス。次は子供轢きかけないように」


「気をつける」


「あと、問題ない禁止」


「……努力する」


「医者に診てもらう」


「わかった」


「よし」



 リサはニッと笑って満足そうに頷いた。


 レイは横で腕を組んでいる。



「また来るのか」


「整備が必要なら」


「王宮技師に任せればいいだろ」


「任せて駄目だったから来た」


「ふーん」



 アビスはレイを見た。



「君は、いつもそう返すのか」


「何が」


「ふーん」


「別に」


「それも多い」


「うるさいな」


「レイ」



 リサがまた止めた。


 アビスはその声に、なぜか胸が引っかかった。


 レイ。


 リサは、彼の名をああいうふうに呼ぶのか。


 自分の名前を呼んだ時とは違う。


 当たり前のように、近い。


 アビスはその感覚を飲み込めず、短く頭を下げた。



「では」



 車両へ向かう。


 護衛が扉を開ける。


 乗り込む直前、アビスはもう一度だけ振り返った。


 リサがまだこちらを見ていた。


 軽く手を振る。


 アビスは、どう返せばいいのか分からず、ほんの少しだけ手を上げた。


 リサが笑った。


 それだけで、また胸がおかしくなった。


 扉が閉まり、車両が動き出す。


 工房の明かりが、窓の外で小さくなっていく。


 護衛が向かいの席で口を開いた。



「下賤の者たちは皆無礼ですね。殿下に対して、あのような口を――」


「……」


「殿下?」


「……あんたも、やるじゃん」


「は?」


「いや」



 アビスは窓の外へ目を向けた。


 下層街の看板が流れていく。

 青白いランタン、錆びた配管、低く泳ぐ魚たち。

 王宮から見下ろしていた景色とは違う。近く、汚く、騒がしく、息をしている。


 その中に、リサがいた。


 声が消えない。


 何度も、何度も、胸の中で繰り返される。


 アビスは目を閉じた。


 閉じても、笑顔が残った。






 工房では、王宮車両の音が遠ざかっていた。


 リサは扉を閉め、肩を回す。



「変な人だったね」


「そうか?」



 レイが言った。


 リサは振り返る。



「そうでしょ。王宮の人なのに謝るし、真面目だし、問題ないばっかり言うし」


「王宮の奴だろ」


「まあ、そうだけど」


「なら、気をつけた方がいい」


「気をつけるよ。でも、悪い人じゃなかったと思うけど」



 レイの胸が、またざらついた。



「……ふーん」


「三回目」


「数えるなって」


「分かりやすいなあ」


「何が」


「別に?」



 リサはにやっと笑った。


 レイは顔をそらす。



「俺、部品の仕分けに戻る」


「はいはい」



 パーズは作業台の向こうで、二人を眺めていた。

 そして、火のついていない煙草を噛み、深くため息をついた。


「面倒くせぇ……」


「何が?」



 リサが聞く。


 パーズは部品箱を指差した。



「そこの馬鹿が、使える歯車を溶かす箱に入れてる」


「レイ!」


「え、また?」


「またじゃないでしょ!」


「似てるんだよ、形が」


「似てない! 穴の数を見ろって言った!」


「穴、多すぎるんだよ」


「部品に文句言わない!」



 二人の声が工房に響く。


 パーズはもう一度ため息をついた。


 工房の外では、夜空の海を小さな魚たちが泳いでいる。


 その流れの向こうで、黒い王宮車両が遠ざかっていく。


 そして、その中で一人の少年が眠れぬ夜を迎えることを、まだ誰も知らなかった。


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