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第4話 黒い魔導機

今日は2話連続更新します。

次は20時10分予定です。


 パーズ工房の扉を出る前から、パーズは機嫌が悪かった。


 いや、パーズの機嫌が良い日など滅多にないのだが、今夜は特に眉間のしわが深い。


 作業台の上には、分解途中の小型魂魄炉が置かれている。古びた炉心部からは、青白い光が弱々しく漏れていた。パーズはそれを片手で押さえながら、もう片方の手で油まみれの紙をレイへ突きつける。



「いいか。第七区の古物屋で、この型番の制御弁を受け取ってこい。それと、旧式魂魄管の継ぎ手。あれば古型の圧縮瓶用止め具もだ」



 レイは紙を受け取り、目を細めた。



「字、汚くない?」


「読めりゃいい」


「読めないんだけど」


「心で読め」


「無茶言うなよ」



 横からリサが紙を覗き込む。



「制御弁、継ぎ手、止め具。はい読めた」


「リサは心で読めるんだな」


「レイの目が悪いだけっしょ」


「ひっでぇ」



 パーズは二人のやり取りを無視して、作業台の下から古い布袋を取り出した。



「それと、今日は余計なものは拾ってくるな」



 レイは布袋を受け取る。



「余計なものって?」


「お前が“なんか使えそう”とか言って拾ってくる用途不明の部品だ」


「パーズさん、そういうの好きじゃん」


「俺が拾う分にはいい。お前が拾うと三倍の確率で面倒ごとがついてくる」


「今日、みんなひどくない?」


「事実じゃねーか」



 リサがうんうんと頷く。



「事実だね」


「おっふ、味方がいない」



 そして、パーズは少し真面目な顔をすると、声を低くした。



「それから、第七区は最近きな臭い。王宮直属の回収部隊が入ってる。回収業者と揉めるな。住民の喧嘩にも首を突っ込むな」


「分かってるよ」


「レイ、お前は特にだ」



 そこでパーズは、わざわざレイを指差した。


 リサがすかさず、低い声を真似る。



「レイ、お前は特にだ」


「似てない」


「じゃ、レイの顔真似ー」


「俺、そんな顔してる?」


「してる。今も」



 リサはレイの眉間を指でつついた。


 レイはむっとしたが、パーズの視線に気づいて肩をすくめる。



「分かった。余計なことはしない」


「お前の“分かった”ほど信用ならねえものはねぇ。王家が言う“民のため”よりも、だ」


「ひどいな」


「リサ。見張っとけ」


「はーい、任されました」



 リサは胸を叩いた。


 パーズはまだ不安そうな顔をしていたが、やがて大きくため息をつく。



「用が済んだらすぐ戻れ。第七区で魚が変な動きをしてるって話もある」



 その言葉に、レイは少しだけ顔を上げた。



「魚が?」


「見に行くなよ? 絶対に行くなよ?」


「そういわれると行きたくなる」


「これはまじめな話だ。見に行こうとする顔をするな」


「してない」



 リサがまた頷いた。



「してる」


「してないって」



 パーズは工具を掴み直した。



「んじゃ、ま、行ってこい。で、無事に帰ってこい。これが一番大事だ」



 その言い方だけは、いつもの怒鳴り声より少しだけ重かった。


 レイは布袋を肩にかける。



「行ってくる」


「さっさと帰ってこい」



 リサが扉を開けた。


 外の夜気が、工房の油と金属の匂いを押し返す。


 下層街には、今日も魚たちが泳いでいた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 第七区へ向かう道は、いつもより暗かった。


 魂魄ランタンは灯っている。


 けれど、光が安定していない。青白い火が、細くなったり、急に膨らんだりを繰り返していた。壁の配管の中を流れる魂魄エネルギーも、時々、詰まったように明滅する。


 頭上では、小さな魚たちが低いところを泳いでいた。


 普段なら看板や屋根の上あたりを漂っている小魚が、今夜は人の肩先をすり抜けるほど低い。逃げ場を探すように、右へ左へ揺れている。


 レイはつい目で追った。


 リサが横から肘で突く。



「ほら、見ない」


「まだ何もしてない」


「してないけど、しそう」


「信用ないな」


「ある。助ける方に」


「それ、信用って言うのか?」


「言うよ。困った信用」



 レイは苦笑した。


 通りの端では、腰の曲がった老人が露店の布を片づけていた。いつもなら夜遅くまで干からびた薬草や古布を並べているのに、今日は早々に店じまいしている。


 リサが声をかけた。



「あれ? 爺さん、もう閉めるの?」



 老人は白く濁った目で空を向いた。



「今夜は、海が荒れとる」



 レイも空を見た。


 魚は泳いでいる。


 ただ、その泳ぎ方がどこか落ち着かない。


 リサはわざと軽い声を出す。



「またそういう怖いこと言う」


「若い者は、灯りがついていれば安心する。だがな、灯りの下で魚が震えている夜は、ろくなことがない」


「じゃあ、私たちも早く帰る」


「そうしろ。特にそこの坊主はな」



 老人の白い目がレイの方を向いた。


 レイは少しだけ背筋を伸ばす。



「なんで俺だけ?」


「そういう顔をしとる」


「どんな顔?」


「面倒を拾う顔じゃ」



 リサが吹き出した。



「ほら、第三者からも言われた」


「そんな顔ある?」


「あるんじゃない?」


「ないだろ」



 リサはレイの袖を引いた。



「ねえ。用だけ済ませて帰ろう。ほんとに」


「ああ」



 レイは頷いた。


 その時、遠くの広場から怒鳴り声が聞こえた。


 リサの手に力が入る。



「行かない」


「まだ何も言ってない」


「言う前に止めたの」



 レイは口を閉じた。


 怒鳴り声は一つではない。何人もの声が重なっている。金属を叩く音と、魂魄炉の低い唸りも混じっていた。


 目的の古物屋は、その広場の向こう側にある。


 リサは顔をしかめる。



「……迂回する?」


「遠回りになる」


「遠回りしよう」


「でも、パーズさんに急げって」


「急いで面倒に突っ込むのは違うでしょ」



 正論だった。


 レイは頷きかける。


 しかし、広場の方から子供の泣き声が聞こえた。


 二人の足が、ほとんど同時に止まる。


 リサが目を閉じた。



「……聞こえなかったことに、できないよね」


「ごめん」


「謝るの早い」


「先に謝っといた」


「腹立つなあ」



 リサは小さく息を吐き、レイの腕を掴んだ。



「見るだけ。危なかったら帰る。約束」


「分かった」


「その分かったは信用してない」


「じゃあ、どう言えばいいんだよ」


「私が引っ張ったら走る」


「……分かった」


「今のも半分くらいしか信用してないからねー」



 二人は広場へ向かった。


 第七区の広場には、人だかりができていた。


 何となくだが、空気が張り詰めている。


 広場の中央には、大型の魂魄回収装置が据えられていた。傘を何枚も重ねたような金属枠が広がり、その内側に青白い光の糸が張り巡らされている。そこに小さな魚の魂が絡め取られ、圧縮瓶へ吸い込まれていた。


 普段の小型装置より、明らかに出力が強い。


 周辺の魂魄ランタンが、装置の脈動に合わせて明滅している。


 装置のそばには王宮直属の回収部隊がいた。揃いの灰色外套。腰には魂魄銃。胸には王宮認可の紋章。


 その周りを、住民たちが取り囲んでいる。



「だから、出力を落とせって言ってるんだ!」


「うちの灯りが何度も落ちてる!」


「病人用の呼吸器まで止まりかけたんだぞ!」


「王宮の認可作業だ。下がれ」



 回収部隊の隊長らしき男が、冷たい声で言った。



「大魂魄炉の出力維持に必要な回収である。妨害すれば反逆罪に問われる」


「反逆罪だと? こっちは生活が止まってんだ!」


「民のためじゃなかったのか!?」


「雑魚魂の回収に文句を言うな。都市全体の灯りを守るためだ」



 その言葉で、住民のざわめきが怒りに変わった。


 レイは人垣の端に立ち、装置の方を見た。


 光の糸に絡め取られた小魚たちが、苦しそうに尾を震わせている。


 圧縮瓶の中に吸い込まれた魚は、ぎゅっと縮み、青白い粒になる。そのたびに、レイの胸の奥がざらついた。


 一匹、白く弱った小魚が、光の糸から半分抜けかけていた。


 逃げようとしているのかもしれない。


 だが、装置の流れに逆らえず、レイの近くまでふらふらと流されてきた。


 レイの手が動く。


 リサが掴んだ。



「だめ」


「まだ何もしてない」


「顔に出てる」


「そんなに?」


「かなり」



 リサの声は、いつもより低かった。



「あれ、王宮直属だよ。今ここで変なことしたら、本当に連れていかれる」


「……分かってる」


「分かってる顔じゃない」



 レイは小魚から目を逸らした。


 それだけで、胸が少し痛んだ。


 その時、広場の反対側から女の叫び声が上がった。



「もう止めて! この子の呼吸器が!」



 見ると、痩せた女が小さな魂魄器を抱えている。古い箱型の装置で、細い管が布に包まれた子供の口元へ伸びていた。箱の中の青い灯りが、消えかけたり戻ったりしている。


 女は泣きそうな顔で回収部隊へ駆け寄った。



「お願い、少しだけ出力を落として! この子、これが止まると息が――」


「装置に近づくな!」



 兵士が女を押し返す。


 女はよろめき、魂魄器を抱え直した。


 レイの足が動きかける。


 リサの手に力が入った。



「レイ」


「……大丈夫。まだ行かない」


「“まだ”って言った」


「言ってない」


「言った」



 言い合っている間にも、回収装置の音が高くなっていく。


 光の糸が震え、圧縮瓶の一本が嫌な音を立てた。


 レイはそちらを見た。



「まずい」



 リサが顔をしかめる。


「何が」


「あの瓶、ひびが入ってる」



 次の瞬間、圧縮瓶の側面から青白い光が漏れた。


 作業員が振り返る。



「止めろ! 圧が上がりすぎて――」



 言い終わる前に、瓶が割れた。


 爆発ではない。


 だが、圧縮されていた魂魄エネルギーが一気に噴き出し、青白い火花となって広場へ散った。


 作業員が腕を押さえて倒れる。


 近くにいた住民も数人、吹き飛ばされた。


 泣き声と怒鳴り声が飽和する。


 さらに誰かが叫んだ。



「だから止めろって言っただろ!」



 石が飛んだ。


 回収装置の外枠に当たり、金属音が広場に響く。


 それが合図になった。



「下がれ!」



 回収部隊が魂魄銃を構える。


 住民たちも鉄パイプや工具を掴んだ。


 恐怖と怒りが、押さえきれずに広がっていく。


 隊長が通信器を掴む。



「第七区にて住民多数が回収作業を妨害。回収装置破壊。作業員負傷。暴動へ発展中。至急、応援を要請する」



 リサはレイの腕を引いた。



「もう行くよ」


「でも」


「今の聞いたでしょ。王宮に連絡が行った。ここにいたら本当にまずい」



 レイは頷こうとした。


 だが、倒れた作業員のすぐそばで、小さな子供が泣いていた。


 青白い火花を散らす魂魄管が、壁から外れかけている。今にも倒れそうだった。


 レイの足が止まる。



「レイ」


「分かってる」


「分かってない顔」



 レイは走り出した。


 リサが短く舌打ちして追いかける。


 外れかけた魂魄管は熱かった。


 熱い、というより、指先の内側を針で刺されるような痛みが走る。乱れた魂魄エネルギーが管の中で暴れている。


 レイは両手で管を押さえ、倒れないように支えた。



「おい、そこ離れろ!」



 回収部隊の兵士が怒鳴る。



「子供がいる!」



 レイは叫び返し、泣いている子供へ顎をしゃくった。


 リサが子供を抱き上げる。



「こっち!」



 子供は泣きながらリサの服を掴んだ。


 レイの掌から、ほんの薄く白金色の光が漏れかける。


 リサはそれを見逃さなかった。


 子供を抱えたまま、片手でレイの手に持っていたハンカチをかぶせる。



「手を出しすぎない!」


「今、出してない」


「出そうとしてた!」



 レイは管を壁際へ押し戻し、近くにあった鉄片を噛ませて仮止めした。


 不格好だが、倒れるよりはましだ。


 倒れた作業員が呻いた。


 腕が青白く焼けている。


 レイは反射的に手を伸ばしかけた。


 リサが睨む。



「治すな」


「でも」


「見られたら終わるよ」



 レイは唇を噛んだ。


 治せば楽になる。


 痛みも、焼けた皮膚も、たぶん戻せる。


 けれど、周囲には回収部隊がいる。王宮の紋章をつけた兵士がいる。今、力を使えば、間違いなく見られる。


 レイは作業員の肩を掴んだ。



「動かすぞ。痛かったら叫んで」


「もう痛えよ……!」


「じゃあ、そのまま叫んで」


「お前、雑だな!」


「悪い」



 レイは作業員を引きずり、壁際へ移した。


 リサは近くの女へ叫ぶ。



「布! 水! 何か巻けるもの! ありませんか!?」


「え、あ、これ……!」



 住民の女が震えながら古い布を差し出す。


 リサは受け取り、作業員の腕へ巻いた。



「痛いけど我慢して!」


「お嬢ちゃん、医者か」


「違う! でも放っとくよりマシ!」



 その間にも、広場の奥では住民と回収部隊の押し合いが激しくなっている。


 魂魄銃が空へ向けて撃たれた。


 青い光弾が看板を撃ち抜き、火花が散る。落ちた看板の破片が露店の布を巻き込み、そこへ倒れたランタンの火が移った。


 赤い炎が上がる。


 魂魄灯の青と混ざり、広場の光が濁った紫に揺れた。


 煙が広がる。


 レイは咳き込みながら、倒れた老人を見つけた。人の波に押され、壁際で動けなくなっている。



「リサ、あっち!」


「今度は何!」


「爺さん!」


「もう!」



 二人で老人を抱え、路地の入口まで運ぶ。


 老人は白く濁った目を空へ向けたまま、掠れた声で言った。



「海が……怒っとる……」


「怒ってるなら、爺さんも早く逃げて」



 リサが乱暴に言う。


 老人は笑ったのか、咳き込んだのか分からない声を漏らした。


 広場の別の端では、子供たちが泣きながら固まっている。


 親とはぐれたのか、動けなくなっているのか。


 リサが叫んだ。



「こっち! 裏路地に入って! 振り返らない!」



 子供の一人が転ぶ。


 リサが手を伸ばす前に、レイが抱き上げた。



「大丈夫。足は?」


「いたい……」


「じゃあ、泣きながら走れ」


「え?」


「泣いてもいいから、走れ」



 子供はしゃくり上げながら頷いた。


 リサがレイの背中を叩く。



「変な励まし方しない!」


「でも走った」


「そうだけど!」



 軽口を交わしてはいるが、二人とも息が上がっていた。


 広場の向こうでは、住民たちが廃材を積み始めている。古い鉄板、折れた看板、壊れた屋台の骨組み。回収部隊との間に、即席の防壁ができていく。



「近づけるな!」


「装置を止めさせろ!」


「撃つな! こっちには子供がいる!」



 回収部隊も引かない。



「反乱者どもを押し戻せ!」


「装置を守れ!」


「王宮に逆らう気か!」



 魂魄銃の光がまた走った。


 今度は地面を撃つ。


 石畳が砕け、破片が飛び散る。


 レイの頬に小さな傷が走った。


 リサがそれを見て顔を変える。



「レイ、もう無理」


「まだ人が」


「もう無理!」



 リサは今度こそ、レイの腕を強く掴んだ。



「これ以上いたら、私たちも巻き込まれる。王宮が来る。兵士だけじゃない、もっと悪いものが来る」



 レイは広場を見た。


 倒れた老人は運んだ。

 泣いていた子供たちは逃がした。

 怪我人も壁際へ移した。


 それでも、まだ怒号は止まらない。

 火は広がっている。


 空の小魚たちは乱れ、魂魄ランタンは何度も明滅している。


 レイは歯を食いしばった。



「……分かった」



 その時、地面が震えた。


 ズン…ズン…と、重い足音が、煙の奥から近づいてくる。


 リサの手が、凍ったように止まった。



「ちっ…遅かった」



 広場の人々が、一斉に振り返る。


 煙を割って、黒い重装魔導機が現れた。


 それは、下層街の建物よりも大きく見えた。


 実際には、周囲の建物すべてを越えるほど巨大なわけではない。けれど、漆黒の装甲と、腕に据えられた砲身と、胸に刻まれた王家の紋章が、広場にいる人間の息をまとめて奪った。


 王宮が、歩いてきた。


 レイには、そう見えた。


 リサが小さく呟く。



「第一王子の機体……」


「第一王子?」


「あんた、知らないの?」


「王子なんて見たことない」


「普通は見ないよ。見なくていいやつ」



 周囲の住民がざわめいている。



「黒い魔導機……」


「あれが王家の剣……」


「逆らったら消されるぞ」



 黒い魔導機の砲身の奥で、暗い光が脈打っている。


 それは光なのに、周囲の灯りを吸い込むように見えた。


 レイは背筋が冷えるのを感じた。


 機体から拡声器越しの声が響く。



「全員、武器を下ろせ」



 想像していたのと違う。若い声だった。


 レイは一瞬、目を瞬かせた。


 もっと冷たい声か、もっと怒鳴るような声を想像していた。けれど、その声は思ったより若く、低く押さえられていた。


 だが、機体の威圧感が強すぎる。


 声の違和感は、すぐに広場の恐怖に呑まれた。


 住民の一人が叫ぶ。



「俺たちの魂を返せ!」



 別の男が続く。



「回収装置を止めろ!」


「王宮は下層街を燃料庫だと思ってるのか!」



 回収部隊の兵士が、黒い機体へ向かって叫んだ。



「殿下! 反乱者どもを排除してください!」



 黒い魔導機が砲身を上げる。


 レイの喉が詰まった。


 人を撃つのだと思った。


 リサも息を呑み、レイの腕を引く。



「見てる場合じゃない」



 しかし砲身は、人ではなく、住民と回収部隊の間に積まれた廃鉄の防壁へ向いた。


 黒い光が収束する。


 何かを焼く力ではない。

 そこにあるものを、ほどいてしまう力。


 黒い光が走った。


 廃鉄の防壁が、音もなく崩れていく。

 焼けたのでも、潰れたのでもない。まるで、最初からそこに何もなかったかのように、形が消えていく。


 住民たちが悲鳴を上げて後ずさる。

 回収部隊も驚いて足を止めた。


 廃鉄の壁が消え、両者の間に隙間が生まれる。


 よかった、とレイは思った。


 そのはずだった。




 防壁の奥で、古い鉄塔が軋んだ。


 レイは見た。


 黒い光の余波が、鉄塔の根元へ触れていた。廃鉄の防壁と絡んでいた古い支柱の接合部が、砂のようにほどけていく。


 鉄塔が、傾いた。



「避けろ!」



 黒い魔導機の拡声器が叫んだ。


 その声で、何人かが上を見る。


 広場の端。


 鉄塔の下。


 さっき圧縮瓶のそばで泣いていた子供がいた。


 瓦礫の陰で、動けなくなっている。



「避けろ!」



 拡声器からもう一度声が出ると同時に、レイの体が動いた。


 リサが腕を掴む。



「レイ!」


「ごめん!」



 振りほどく。


 考えていなかった。


 助けたいと決める前に、足が走っていた。


 鉄骨が落ちる。


 子供を抱えて逃げるには、もう間に合わない。


 黒い魔導機も動こうとしている。だが、脚部が瓦礫に引っかかり、重い機体は一瞬遅れた。


 レイは子供へ飛び込んだ。


 小さな体を抱きしめるように覆いかぶさる。


 上から、鉄骨の影が落ちてくる。


 レイの手から、白金色の光が溢れた。


 小さな魚の群れのような光だった。


 光は落ちてくる鉄骨に触れる。


 止めるでも、受け止めるでもない。


 壊れた接合部がつながる。


 折れた支柱が、別の鉄骨と組み直される。


 ばらばらに落ちてきた鉄骨が、子供を潰す形ではなく、覆い守る形へ変わっていく。


 即席の鋼鉄のドーム。


 あるいは、鳥籠のような避難空間。


 轟音が広場を揺らした。


 土煙が上がる。


 誰も、すぐには動けなかった。



「レ……!」



 喉まで出た声を、両手で押さえ込む。


 ここで名前を呼べば、王宮側に知られる。


 白金色の小魚のような光が、煙の中で一瞬だけ舞った。


 見た者は少ない。


 だが、黒い魔導機は見ていた。


 管制の声が、機体の内部で慌ただしく飛び交う。



「破壊魔導反応、残滓消失」


「構造崩壊、反転」


「対象鉄骨組成、再結合」


「未登録魔導反応を検知」



 アビスは、操縦席の中で息を呑んだ。


 自分の黒い光でほどけたものが、組み直された。


 消えるはずだったものが、形を取り戻した。


 煙の向こうに、小柄な人影が見える。


 白金色の小さな光。

 子供を庇う腕。


 それだけだった。


 だが、それだけで十分だった。


 アビスの奥で、漆黒の衝動が一瞬だけ静まった。


 土煙が薄れていく。


 鉄骨の隙間で、レイは咳き込んだ。


 腕の中の子供は泣いている。


 なら生きている。


 レイは子供の顔を覗き込んだ。



「大丈夫。怪我は?」


「う、うえぇ……」


「よし、泣けるなら大丈夫。たぶん」



 子供はさらに大きく泣いた。


 レイはほっとしたように息を吐く。


 その直後、リサが鉄骨の隙間へ駆け込んできた。



「バカ!」


「ごめん」


「謝るの早い! 逃げるよ!」


「でも、この子」


「分かってる!」



 リサは周囲を見回す。


 子供の母親らしき女性が、煙の中をよろめきながら走ってきた。



「ああ、いた! いた……!」



 リサは子供を女性へ押しつけるように渡した。



「この子連れて逃げて!」


「ありがとう、ありがとう……!」


「礼はいいから走って!」



 女性は泣きながら子供を抱え、路地へ走った。


 その時、回収部隊の兵士が叫んだ。



「今のは何だ!」


「誰がやった!」


「白い光が見えたぞ!」



 レイの体が固まる。


 リサが腕を掴んだ。



「走るよ!」


「でも」


「でもじゃない!」



 二人は鉄骨の隙間を抜け、煙に紛れて路地へ駆け込んだ。



「王宮の連中の前で、なんであんなことしたの!?」



 リサは走りながら怒鳴った。



「しかも第一王子の機体の前! 分かってる!? いや、分かってない顔してる!」


「子供がいたから」


「知ってる! 見てた! だから怒ってるの!」


「怒るところなのか?」


「怒るところ! 怖かったから怒ってるの!」



 リサの手は震えていた。


 レイはそれに気づく。


 王宮に見つかったら、レイは連れていかれる。


 分解され、測られ、使えるなら縛られる。


 パーズが言っていた言葉が、二人の間に落ちている。


 レイはリサの手を握り返した。



「ごめん」


「二回目」


「でも、助かった」



 リサは唇を噛んだ。


 しばらく黙った後、小さく言う。



「……うん」



 二人は、狭い路地を走り続けた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 広場では、まだ混乱が続いていた。


 アビスは、逃げていく二つの影を追いかけようとした。


 指が操縦桿にかかる。


 だが、すぐに視界の端で火が広がる。


 倒れかけた鉄塔の残骸。

 負傷者と逃げ遅れた住民。


 回収部隊と住民は、まだ互いに睨み合っている。


 今ここで謎の人影を追えば、さらに犠牲が出る。


 アビスは奥歯を噛んだ。



「負傷者を運べ」



 通信越しに命じる。


 回収部隊の兵士が戸惑った。



「殿下?」


「回収装置を止めろ。住民への発砲を禁ずる。火を消せ」


「しかし、殿下、反乱者が――」


「今は人命救助が先だ」



 広場にいた兵士たちは、すぐには動かなかった。


 王家の剣として来た第一王子が、反乱者の制圧より救助を命じている。


 彼らには、その判断が飲み込めない。


 アビスは声を低くした。



「二度言わせるな」



 今度は兵士たちが動いた。


 回収装置の制御弁が落とされ、魂魄の吸引音が弱まる。数人の兵士が負傷者を運び、別の兵士が火消しに回る。


 住民たちは警戒したまま、それでも何人かは負傷者の搬送を手伝い始めた。


 アビスは、レイたちが消えた路地を見た。


 小さな魚がくるりと回って、壁の中に消えていく。


 アビスの眼には、白金色の光の残像がまだ目に焼き付いたままだった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 パーズ工房に戻った時、レイとリサは煤だらけだった。


 扉を開けた瞬間、パーズの怒鳴り声が飛ぶ。



「なんでお前らは毎回、面倒を背負って帰ってくる!」


「まだ何も言ってない!」



 レイが言うと、パーズは二人を上から下まで見た。



「その煤と傷で、何もなかったは通らねえ」



 リサは息を整えながら、作業台に手をついた。



「王宮の魔導機が来た」



 パーズの目が細くなる。



「第七区で揉め事が暴動になった。回収装置が暴走して、火が出て、鉄塔が倒れて」


「それで」



 リサはレイを見た。



「レイがやった」



 パーズの顔色が変わった。



「何をだ」



 レイは自分の手を見た。


 何かをした感覚はある。


 けれど、それをどう説明していいか分からない。



「よく分からない。鉄が落ちてきて、子供がいて、気づいたら……」



 パーズは無言でレイの手を掴んだ。


 火傷はないし、切り傷もない。


 ただ、指先にほんのわずか、白金色の光の残滓が残っていた。


 パーズは息を呑む。



「見られたか」



 リサは黙った。


 それだけで答えになる。


 パーズは作業台を拳で叩いた。


 工具が跳ね、古い部品が床に落ちる。



「最悪だ」



 レイは顔を上げる。



「でも、子供は助かった」



 パーズは怒鳴りかけた。


 口を開いたまま、言葉が止まる。


 レイがそういう人間だと知っている。


 目の前で子供が潰されそうになって、何もしない少年ではない。


 それを責めるのは簡単だ。


 だが、パーズにはできなかった。


 代わりに、低い声で言う。



「しばらく外に出るな。リサ、お前もだ」


「でも」


「でもじゃねえ。王宮の人間の前であんなもん見せたんだ。向こうは必ず探す」



 レイは指先を握った。



「そこまで?」


「そこまでだろうがよ」



 パーズは窓の外を見た。


 遠く、王宮の方角へ、黒い魔導機が戻っていくのが見える。


 下層街の屋根の上を、青白い魚たちが乱れた流れのまま泳いでいた。


 パーズは、ほとんど呟くように言った。



「ここにもそのうち王宮が来るぞ」





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 黒い操縦席の中で、アビスは自分の手を見ていた。


 何人も消してきた手。

 何度も壊してきた手。


 けれど今夜、その手が壊したものを、誰かが戻した。


 通信士の声が入る。



「殿下、先ほどの未登録反応ですが、発生源の追跡は困難です。下層街の魂魄ノイズが多く、正確な座標は特定できません」


「第七区周辺の工房を調べろ」


「工房、でございますか」


「魔導機械を扱える工房だ。古い技師がいるなら、なおいい」



 通信士が慌てて復唱する。



「第七区周辺の魔導機械工房を調査。古参技師を優先。承知しました」



 アビスは返事をしなかった。


 煙の向こうに、白金色の小魚が泳いでいた。


 いや、実際に泳いでいたのかどうかは分からない。


 ただ、あの光は確かにあった。


 黒い光でほどけたものを、結び直した光。

 消えるはずだった命を、そこに留めた光。


 あれは何だったのか。


 アビスは答えを知らない。


 ただ、もう一度見たいと思った。


厳しい評価もあると思いますが、評価やご意見いただけますとありがたいです。

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