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第8話 兆候


 広域回収装置が下層街に増やされてから、七日が経った。


 最初の二日、住民たちは怒鳴った。


 三日目には、王宮直属の回収部隊が増えた。


 五日目には、魂魄ランタンが夜中に何度も消えるようになった。


 そして七日目。


 誰も、空の魚を綺麗だとは言わなくなっていた。


 パーズ工房の中でも、魂魄炉の光は安定していなかった。


 作業台の上に置かれた小型炉は、青白い光を強めたり弱めたりしながら、不機嫌そうな唸りを上げている。パーズはその前で、片目の拡大レンズを下ろしたまま舌打ちした。



「また詰まった」


「また?」



 レイは床に座り、古い魂魄管の束を仕分けていた。


 リサはその横で、紙に部品名を書き写している。パーズの字をそのまま持っていくと、店主に解読を頼むところから始まるからだ。



「昨日も詰まってなかった?」


「あれは十二番管だ。これは九番管」


「似たようなもんじゃん」


「全然違う。お前の右手と左足くらい違う」


「けっこう違った」



 レイが納得すると、リサが横から紙で頭を軽く叩いた。



「納得するところ?」


「なんとなく」


「なんとなくで生きてるよね、レイって」


「なんだ、悪口か?」


「ただの感想ー」


「もっと悪い」



 パーズは二人のやり取りを聞き流しながら、棚を開けた。


 木箱を引き出し、油紙をめくり、中を覗いて、また舌打ちする。



「はぁ、九番がねえ」


「じゃあ、十二番で」


「お前の右手がなくなった時、左足をつけるか?」


「つけない」


「そういうことだ」



 レイは少し考えた。



「いや、今のたとえは変じゃない?」


「変でも伝わったなら勝ちだ」



 パーズは油で汚れた紙片をリサへ渡した。



「第八区のカルダ商会に行ってこい。旧式の九番魂魄管。できれば予備も二本。なけりゃ一本でもいい」


「第八区?」



 リサは手早く鞄と水筒を持つと、紙片を受け取り、目を細めた。



「これ、第六区じゃなくて?」


「第八区だ」


「パーズさんの八、六に見える」


「心で読め」


「心で読むなら三にも見える」


「じゃあ目で読め」


「目で読んだら六に見えるって言ってるの」



 レイが横から覗き込む。



「俺には虫に見える」


「お前は黙ってろ」



 水筒の湯冷ましを口に含んだばかりのリサは、それを噴き出した。



「きったねぇ!」


「あんたが笑わせるからでしょ!?」


「笑ったのはお前だろ」


「まったくもう、変なことばっかり言って」



 パーズは工具を作業台に置き、少しだけ声を低くした。



「冗談はそこまでだ。第八区は今日は静かじゃねえ。余計なもんに首を突っ込むな」


「第八区って、そんなに荒れてるのか?」


「荒れてるってより、湿ってる」


「湿ってる?」


「火がつく前の布みてえなもんだ。ちょっとした火花で燃える」



 リサの表情が少しだけ硬くなった。


 パーズはレイを指差す。



「特にお前だ」


「最近、それ言われすぎじゃない?」


「言わせすぎなんだよ」


「分かってるって。買い物して帰ってくるだけだろ」


「その“だけ”ができた試しがねえ」



 リサが深く頷いた。



「ほんとそれ」


「リサまで」


「私は見張り役だから」


「買い出しじゃないのかよ」


「買い出し兼見張り兼、あんたが変なものを拾った時の回収係」


「俺が荷物みたいになってる」


「たまに荷物より重いよー」



 レイは言い返そうとして、やめた。


 パーズが真面目な顔をしていたからだ。



「いいか。第八区の装置は、第七区のとは違う。古い回収管に無理やりつないでる。流れが荒れてるって話もある」


「魚が?」


「魚も、機械も、人もだ」



 パーズは作業台の小型炉を軽く叩いた。


 青白い光が、赤く一度だけ瞬いた。


 リサが息を止める。


 すぐに光は戻った。


 何事もなかったように、炉は低く唸り続けている。



「今の……」


「見間違いってことにしとけ」



 パーズはそう言った。


 けれど、誰も笑わなかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 第八区へ向かう道は、いつもより人通りが少なかった。


 店が閉まっているわけではない。


 露店は出ている。屋台もある。洗濯物は路地に渡された線にぶら下がり、子供たちも建物の隙間で走り回っている。


 それでも、街の音が少し足りない。


 呼び込みの声は低く、笑い声は短い。誰かが空を見上げると、隣の者が肘でつついてやめさせる。


 頭上では、小魚たちが低く泳いでいた。


 看板の高さではなく、人の肩先をすり抜けるほど低い。


 リサの首を、淡い青の小魚が通り抜けた。触れたわけではない。それでもリサは、首筋を撫でられたように肩をすくめた。



「うわ、今の嫌」


「触れないだろ」


「触れないけど、通った感じはするの」


「分かる」


「じゃあ、嫌でしょ」


「ちょっと」


「ちょっとじゃない。すごく嫌」



 屋台の前で、親父が火の弱い炉を叩いていた。



「くそ、また火が落ちやがる」



 串に刺した肉は、片側だけ焼けて反対側はまだ赤い。親父は客に頭を下げていた。



「今日は焼き物は無理だ。生焼けで腹壊されても困る」


「昨日もだろ」


「王宮に言え。こっちは炉を絞ってねえ」



 別の店では、魂魄管の値札が書き換えられていた。


 リサがそれを見て眉を寄せる。



「高っ」


「昨日より?」


「かなり。カルダ商会も値上がりしてるかも」


「パーズさん、怒るかな」


「怒るね」


「部品が高いから?」


「ううん。高いのに必要だから」


「理不尽だな」


「いつもじゃん」



 歩きながら、レイは何度も空を見上げた。


 魚たちは泳いでいる。


 けれど、泳ぎ方が違う。群れがまとまらず、何かから逃げるように散っては戻る。小魚が一匹、古い看板の中へ逃げ込むように消え、そのすぐ後ろを赤黒い筋の混じった魚が横切った。


 レイは足を止める。


 リサがすぐに袖を引いた。



「見すぎ」


「今の、赤くなかったか」


「見たくない」


「見たくないってなんだよ」


「見たら、本当になる気がする」



 リサはそう言ってから、少しだけ自分の言葉に驚いたような顔をした。


 レイは空から目を戻す。



「もう本当かもしれない」


「そういうこと言うから、あんたは生きづらいの」


「前にも聞いたな、それ」


「何回でも言うよ。あんた、すぐ難しい方見るから」


「簡単な方ってどっちだよ」


「買い物して帰る方」


「それは確かに簡単だ」


「じゃあ、そうして」



 リサは歩き出した。

 レイも続く。


 その時、通りの向こうから、泣き声が聞こえた。


 子供の泣き声ではない。


 大人の女が、喉が裂けるほど泣いている声だった。


 リサの足が止まる。


 レイも止まった。



「……行かない」



 リサが言った。



「まだ何も言ってない」


「言う前に止めた」


「でも、カルダ商会ってあっちだろ」


「迂回する」


「遠回りになる」


「遠回りするの」



 リサの声は固かった。


 けれど、泣き声は途切れない。


 その上に、男たちの怒鳴り声が重なった。



「これで規定値内だとよ!」


「ふざけんな!」


「じゃあ、あの子はなんで死んだんだ!」



 レイは黙って、声のする方を見た。


 リサは小さく舌打ちした。



「見るだけ」


「ああ」


「ほんとに見るだけ」


「分かってる」


「分かってる顔じゃない」


「どんな顔なら信じるんだよ」


「今じゃない顔」



 リサはレイの袖を掴んだまま、泣き声の方へ歩いた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 葬儀は、狭い路地の奥で行われていた。


 葬儀と呼ぶには、あまりに小さい。


 錆びた配管の下に、古い木箱を組んだ棺が置かれている。上には灰色の布がかけられ、その端に小さな玩具の歯車が乗せられていた。


 棺の横には、箱型の魂魄呼吸器が置かれている。


 灯りは消えていた。


 細い管だけが、もう誰にもつながらないまま、床に垂れている。


 だが、人だけは大勢集まっていた。


 そして、母親らしき女が、棺にすがって泣き続けていた。



「昨日までは……昨日までは、息をしてたのよ!」



 誰も慰められなかった。


 父親は、少し離れた場所に立っていた。泣いていない。目は赤いのに、涙は出ていなかった。両手の拳だけが、硬く握られている。


 周囲の男たちは、怒りを隠そうともしていなかった。



「夜中に装置が鳴ったんだ」


「第八区の回収管が全部唸ってた」


「その途端、呼吸器が落ちた」


「王宮の連中は関係ねぇって言いやがった」


「関係ねぇわけがあるか!」



 リサの手に力が入る。


 レイは棺の横の呼吸器を見ていた。


 古い型だ。


 工房にも似たものが何度か持ち込まれたことがある。魂魄流が安定していればまだ使えるが、流れが乱れるとすぐに出力が落ちる。パーズなら直せたかもしれない。自分も、そばにいれば何かできたかもしれない。


 そんな考えが、勝手に胸の中へ入り込んでくる。


 棺の上で、淡い光が揺れた。


 小さな魚の形に見えた。


 けれど、それは青白くない。白く消えかけてもいない。


 薄い灰色の中に、赤黒い筋が混じっていた。


 魚は空へ昇ろうとして、何かに引かれるように横へ流れた。棺のそばから、路地の奥へ。そこには、広域回収装置へ続く太い魂魄管が壁に埋め込まれている。


 レイの手が動いた。


 リサが掴む。



「だめ」


「まだ何も」


「今はだめ。お願いだから」



 その声は、いつもの小言ではなかった。


 レイは手を止めた。


 魚の光は、管の方へ流され、壁をすり抜けて消えた。


 母親はまだ泣いている。


 父親が低い声で言った。



「奴ら、こんなこといつまでやるつもりだ」



 周りの男たちが黙る。


 父親は、消えた呼吸器を見下ろした。



「王宮の技師が言った。装置は規定値内。因果関係は確認されていない。呼吸器の故障は、所有者の管理責任だと」



 彼は笑った。


 笑い声にはならなかった。



「俺たちが悪いらしい。こんな古い呼吸器しか買えなかった俺たちが。交換部品も買えなかった俺たちが。王宮の装置が鳴っても壊れない立派なものを用意できなかった俺たちが、悪いらしい」


「違うだろ!」



 男の一人が叫んだ。



「悪いのは王宮だ!」


「装置を止めろ!」


「第七区でも同じことが起きたんだ!」


「次はうちだぞ!」



 怒りが路地に満ちていく。


 その時、重い足音が聞こえた。


 人のものではない。


 金属の足が、石畳を踏む音。


 通りにいた人々が、いっせいに振り返った。


 路地の入口から見える広場の向こうに、黒い重装魔導機が立っていた。


 王宮の紋章を胸に刻んだ、漆黒の機体。


 巨大な腕。砲身を兼ねた右腕。背部に並ぶ魂魄安定器。下層街の建物より高いその機体は、ただ立っているだけで周囲の空気を押し潰すようだった。


 機体に搭載された拡声器から、アビスの声が響く。



「そこの者たち、ここは周囲一帯に集会の禁止令が出されている。直ちに解散するように」



「王宮の剣だ……」



 誰かがつぶやいた。



「俺たちは葬儀をやってんだ! 集会じゃねぇ!!」



 誰かが叫んだ。



「ただ葬儀をやってる俺たちを消す気か!?」



 リサが息を呑む。


 レイも黒い機体を見上げた。


 魔導機の胸部装甲が左右に開く。


 中から、黒い外套をまとったアビスが姿を現した。


 護衛と回収部隊の兵士が慌てて制止しようとする。



「殿下、危険です。機内にてご命令を」


「降りる」


「しかし、住民は興奮しており――」


「だから降りる」



 アビスは昇降台から石畳へ降りた。


 黒い魔導機は、その背後に控えるように膝を落とす。砲身は下げられている。だが、それでも住民たちは一歩退いた。


 アビスは路地へ入る前に、棺を見た。


 泣き続ける母親。

 動かない呼吸器。

 父親の拳。


 アビスの顔から、少しだけ血の気が引いた。


 回収部隊の隊長が進み出る。



「殿下。認可済みの回収作業中、住民が妨害を行う恐れがあります。速やかな排除命令を」



 アビスは隊長を見た。



「この葬儀は、妨害か」


「いえ。しかし周辺住民の感情が高ぶっており、作業継続に支障が」


「作業を一時中断しろ」



 隊長が目を見開く。



「しかし、殿下。王宮の認可作業であり、装置は規定値内――」


「一時中断しろと言った」



 声は荒くなかった。


 だが、隊長は口を閉じた。


 アビスは父親の方へ向き直る。


 何を言うべきか、彼自身にも分からなかった。


 謝罪、弁明、命令。


 どれも違う気がした。


 父親がアビスを見た。



「あんたが壊すのは、壁や鉄だけじゃないんだな」



 護衛が腰の武器に手をかける。


 アビスは片手で制した。



「よい」



 父親は、それ以上何も言わなかった。


 母親は棺にすがったまま、泣き続けている。


 アビスは一歩だけ近づき、そこで止まった。


 王宮の第一王子が、下層街の子供の棺の前で立ち尽くしている。


 誰も頭を下げなかった。

 誰も拍手しなかった。


 ただ、魂魄呼吸器の消えた箱が、そこにあるだけだった。



 そして、アビスは一輪の花を手に取ると、棺の手前に添えた。




 広場の回収装置が、不意に低く唸った。


 作業は止めたはずだった。


 だが、装置に接続された太い魂魄管の中で、青白い光が逆流するように脈打つ。


 回収部隊の技師が顔色を変えた。



「隊長、流量が落ちません」


「停止命令は出しただろう」


「装置側ではなく、管の奥から引かれています。第七区方面の主回収管と干渉している可能性が――」



 言い終わる前に、広場の魂魄ランタンが一斉に赤く瞬いた。


 住民たちがざわめき、空の魚たちが乱れた。


 小魚の群れが、何かに追われるように建物の中へ逃げ込む。路地を泳いでいた腹の白い大魚が、突然向きを変え、壁をすり抜けて消えた。


 その後に、赤黒く濁った小魚が現れた。


 泳いでいるというより、暴れていた。


 尾びれが裂け、鱗の隙間から赤い泥のような光が漏れている。魚は回収装置の方へ引かれかけ、そこから逃げようと、めちゃくちゃに身を捩った。


 レイは反射的に動いた。



「レイ!」



 リサの声が背中に届いた時には、もう指先が魚に触れていた。


 いつもの感触ではなかった。


 温かくも、弱々しくもない。


 冷たい泥を手のひらに押し込まれたような痛みが、指先から腕へ走る。



「っ……!」



 レイは膝をついた。


 掌に、赤黒い筋が浮かぶ。


 魚はレイの手の中で震えた。


 助けを求めているのではない。


 怒っている。


 飢えている。


 帰りたいのに帰れない。

 泳ぎたいのに泳げない。

 奪われた。

 裂かれた。

 燃やされた。

 戻せ。

 戻せ。

 戻せ!


 声ではないものが、頭の奥に流れ込んだ。


 リサがレイの手を掴み、無理やり引き離す。



「離して!」



 魚は空中で一度大きく跳ね、壁をすり抜けて消えた。


 レイは荒く息を吐く。


 リサが彼の手を見る。



「何これ……」



 赤黒い筋は、すぐに薄くなっていった。


 だが、完全には消えない。掌の皮膚の奥に、細い汚れのようなものが残っている。



「いつもの魚じゃなかった」



 レイは言った。



「弱ってるんじゃない。あれは……」



 言葉が出なかった。





 その少し離れた場所で、アビスが頭を押さえた。


 漆黒のクジラが、魂の奥で尾を振る。


 痛みが頭蓋の内側を叩いた。


 アビスは一歩よろめき、壁に手をついた。



「殿下!」



 護衛が駆け寄る。


 アビスは「問題ない」と言おうとした。


 だが、声が喉で潰れた。


 視界が赤く揺れる。


 葬儀の棺。泣く母親。消えた呼吸器。赤黒い魚。王宮の装置。住民の怒り。


 それらが一つに混ざり、頭の中で低く唸る。


 もっと壊せ。

 もっと消せ。

 もっと喰わせろ。


 漆黒の奥から、そんな衝動が浮かび上がる。


 違う。

 今は違う。


 壊すために来たのではない。


 アビスは壁に爪を立てた。


 石材が小さく軋む。



「誰か、水を!」



 リサが叫んだ。


 護衛たちは動きかけたが、周囲の住民を警戒して視線が散る。


 その時、人垣を割って、マルシアが進み出た。


 レイが顔を上げる。



「母さん?」



 マルシアはレイを見たが、すぐにアビスへ視線を戻した。


 その顔色が悪すぎた。


 王宮の人間だ。第一王子だ。下層街にとって、恐れるべき相手だ。


 分かっている。


 それでも、苦しそうな少年を見てしまった。



「どいてちょうだい」



 マルシアは護衛に言った。



「顔色が悪い子を立たせたままにするんじゃないよ」


「無礼な。殿下に近づくな」



 護衛が遮ろうとする。


 アビスがかすかに手を動かした。



「……よい」



 短い声だった。


 護衛は渋々下がる。


 マルシアは腰の小袋から布を取り出し、近くの水桶に浸した。絞ってから、アビスの額へ当てる。


 アビスは目を閉じた。


 冷たい布。

 粗い指。

 薬草と煤の匂い。


 知らないはずの温かさが、胸の奥に落ちてきた。


 王宮にはないものだった。


 だが、初めてではない気がした。


 あるはずのない記憶が、頭痛の奥で揺れる。


 雨の音、煤けた天井、女の泣き声、抱きしめる腕。

 そして、遠ざかる温もり。



「すまない……」



 アビスは掠れた声で言った。



「ありがとう、かあさ――」



 言葉が止まった。


 自分の口から出かけた音に、アビス自身が驚いた。


 母さん?


 今、俺は何を言おうとした。


 マルシアの手も止まった。


 この子、今、なんて言おうとしたの。


 母さん、と。そう言おうとした?


 そんなはずがない。


 この子は王宮の子だ。

 第一王子だ。

 自分とは関係ない。


 関係があるはずがない。

 意識が朦朧として、咄嗟に呟いただけだ。


 マルシアは無理やり呼吸を整え、布をもう一度アビスの額へ当てた。



「混乱してるんだよ。無理にしゃべらなくていい」


「……すまない」


「それも、今はいいよ」



 アビスは目を開けた。


 目の前の女は、王宮の者のように怯えていない。媚びてもいない。ただ、苦しんでいる子供を見る目で彼を見ていた。


 その視線が、胸の奥に刺さる。


 離れた場所で、レイはその光景を見ていた。


 母が、アビスへ布を当てている。


 ひどく自然に。


 まるで、ずっと前からそうしてきたみたいに。


 レイの胸に、理由の分からない棘が残った。



「レイ」



 リサが低く呼ぶ。


 レイははっとして、自分の掌を見た。


 赤黒い筋は、もうほとんど消えている。


 けれど、痛みは残っていた。


 奥に、まだ泥があるようだった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 回収部隊は、結局その日の作業を中止した。


 アビスの命令だった。


 だが、住民たちは彼に礼を言わなかった。


 父親は棺のそばに戻り、母親は泣き疲れてもなお、小さな棺から離れようとしなかった。男たちは王宮の兵士を睨みつけたまま、低い声で何かを話し続けている。


 誰も納得していない。

 怒りが消えたわけではない。


 ただ、今日はまだ燃え上がらなかっただけだ。


 レイとリサは部品を買い、工房へ戻った。


 カルダ商会の店主は、九番魂魄管を一本だけ出してくれた。予備はない。値段はいつもの倍だった。


 パーズはそれを聞いて、予想通り怒った。


 だが、レイの顔と、リサの顔を見て、途中で怒鳴るのをやめた。



「……何があった」



 リサは答えようとしたが、うまく言葉が出なかった。


 レイは掌を見ていた。


 パーズはそれ以上聞かなかった。



「飯まで休んでろ」



 それだけ言って、作業台へ戻った。


 工房の中は、いつも通り油と金属の匂いがした。


 それなのに、いつもと同じ場所に戻ってきた気がしなかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 夕方前、レイは工房を出た。


 誰にも声をかけなかった。


 向かったのは、古い廃ビルだった。


 第六区と第八区の境目にある、昔の集合工房の跡だ。壁はひび割れ、階段の手すりは半分落ち、屋上へ出る扉は錆びて閉まらない。


 レイは階段を上がった。


 上に行くほど、街の音が遠くなる。


 配管の唸りも、屋台の声も、泣き声も、怒鳴り声も、少しずつ薄くなっていく。


 屋上へ出ると、下層街の空が広く見えた。


 煤けた建物の上を、魚たちが泳いでいる。


 いつもより低い。

 いつもより乱れている。


 レイは縁の近くに立ち、空を見上げた。


 掌の痛みは、まだ消えない。



「はぁっ…はぁッ……ねぇ、一人で行くなって言ったでしょ」



 背後から声がした。


 振り返ると、リサが錆びた扉のそばに立っていた。


 少し息が上がっている。



「ついてきただろ」


「そういうことじゃないの」


「じゃあ、どういうことだよ」


「行くなら、私も連れて行けってこと」


「だから、ついてきただろ」



 リサは額に手を当て、大げさにため息をついた。



「もう、ほんと。ここまでしてなんで気づかないかなー?」


「なんか言った?」


「聞こえてなくていいの」


「なんだよ、それ」


「いいの。レイはそのままで」


「馬鹿にしてる?」


「ちょっとだけ」


「ちょっとか」


「かなりって言った方がよかった?」


「遠慮しろよ」



 リサは少し笑い、レイの隣に並んだ。


 屋上の縁には、古い看板の骨組みが残っている。そこに腰を下ろすと、眼下の路地が細い溝のように見えた。


 しばらく、二人は黙っていた。


 下では魂魄ランタンが点き始めている。


 青白い光が一つ、また一つと灯る。だが、そのうちのいくつかは、灯った直後に赤く瞬いた。



「今日の子さ」



 レイが言った。



「うん」


「俺がそこにいたら、助けられたのかな」



 リサはすぐには答えなかった。


 風が、屋上に溜まった砂を少しだけ動かす。



「分かんない」


「嘘でも、助けられたって言うかと思った」


「そんな嘘、あんたには効かないでしょ」


「効かないか」


「効かない」



 リサは膝を抱えた。



「でも、そこにいたら、あんたは絶対に手を伸ばしてた」


「それで助けられなかったら?」


「たぶん、今よりもっと落ち込んでた」


「ひっでぇ」


「ほんとのこと」


「じゃあ、どうしようもないな」


「うん。どうしようもない」



 レイは空を見上げた。



「どうしようもないって、嫌だな」


「嫌だね」


「リサは、そういう時どうする?」


「怒る」


「誰に」


「分かんない。王宮とか、装置とか、レイとか」


「俺も入るのかよ」


「入るよ。すぐ一人で抱え込むから」


「抱え込んでない」


「今、ここに一人で来たくせに」


「……それは」


「ほら」



 リサは、勝ったような顔をした。


 レイは言い返せなかった。


 その時だった。


 遠くの空が、赤く染まった。


 夕焼けではない。


 太陽はまだ高い。

 赤くなったのは雲ではなく、魚たちが泳ぐ空の奥だった。


 下層街の向こう、上層街のさらに先。遠い港の方角か、あるいはインプロスの方角か。空の海そのものが、内側から赤い泥を流し込まれたように濁っていく。


 魚の群れが一斉に乱れた。


 小魚たちは散り、大きな魚の影が身を捩る。


 サメのような細長い影が、赤い空の中を横切った。


 リサが立ち上がる。



「……何、あれ」



 レイは答えられなかった。


 赤い。

 ただ、赤い。


 空が赤いのではなく、空の向こうの海が怒っているように見えた。


 三十分ほど経っただろうか。

 赤い濁りは、ゆっくり薄くなった。


 魚たちの動きも、少しずつ元へ戻る。


 やがて、空はいつもの青白い色に戻った。


 煤けた建物、古い看板、張り巡らされたケーブル。


 その間を、魚たちが泳いでいる。


 何もなかったように。


 リサは小さく息を吸った。



「……今の、見た?」


「見た」


「夕焼けじゃ、ないよね」


「違う」


「だよね」



 リサは笑おうとした。


 笑えなかった。



「戻った」


「うん」


「戻ったから、大丈夫ってことにする?」


「できると思うか?」


「できないよね」



 二人は、もう一度遠くの空を見た。


 そこにはもう、赤い色はなかった。


 だからこそ、余計に怖かった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 屋上から降りると、廃ビルの前の路地にリンキンが立っていた。


 白く濁った目は、空ではなく、二人のいる方へ向いている。


 手には古い杖。


 その顔は、いつもよりずっと静かだった。



「レイか」


「ばあちゃん……」


「見たかい?」



 レイは眉を寄せる。



「見えてないだろ」


「見えちゃいないさ」



 リンキンは空を向いた。



「でも、空が赤く息を吐いたのは分かる」



 リサがレイの袖を掴んだ。


 レイは一歩前へ出る。



「何が起きてるんだよ」



 リンキンはすぐには答えなかった。


 遠くの魂魄ランタンが、ひとつ赤く瞬く。


 それを合図にしたように、別のランタンもまた赤く瞬いた。



「前兆だよ」


「何の」


「空が、怒りを堪えきれなくなっている」



 リンキンの声は低い。


 脅すような声ではなかった。


 ただ、もう知っていることを告げる声だった。



「怒ってるって、誰に」


「帰りたかったのに、帰れなかった魂を食ってきた連中にさ」



 レイの掌が痛んだ。


 赤黒い魚に触れた時の、泥のような冷たさが蘇る。


 リサは何も言わない。


 リンキンは杖を握り直した。



「次は、戻らないかもしれないね」



 その言葉の直後、頭上を大きな影が通った。


 大きな、サメのような魂だった。

 今まで見たどの魚よりも低い場所を泳いでいた。

 建物の壁をすり抜け、魂魄管を抜け、路地にいる人々の頭上を滑るように進む。


 腹の一部が、赤黒く濁っている。


 誰かが叫んだ。


 魂魄ランタンが一斉に明滅する。

 青白い光が、赤く瞬き、また戻る。


 レイは空を見上げた。


 リサの手が、彼の袖を強く掴んでいた。


 空はまだ、そこにあった。


 けれど、もう昨日までと同じ空ではなかった。


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