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第14話 大魂魄炉

 大魂魄炉(だいこんぱくろ)(うな)りが、王宮の奥から響いていた。


 床を伝ってくる低い震え。


 壁の奥を流れる魂魄管が、まだ生きている。さっきまでより弱い。それでも、止まってはいなかった。



「ちっ……」



 レイは走りながら、奥歯を()んだ。


 リサの光は、まだ消えていない。


 けれど少しずつ引かれている。


 それが分かるのが嫌だった。分からなければ楽だった。知らなければ、ただ走ればよかった。


 でも分かってしまう。


 リサの魂は、大魂魄炉へ向かう流れのどこかにいる。まだ炉心には落ちていない。まだ、完全には()まれていない。


 だからこそ、間に合わせなければならなかった。



「どうした。もう限界か?」



 レイの横を、アビスが無言で走っている。顔色は悪い。フローリアとの戦いで使った力は、明らかに体を削っていた。それでも足は止まらない。



「お前こそ」



 王宮の通路は、奥へ行くほど人の気配が薄くなっていった。


 兵士の声もない。

 侍女の悲鳴もない。


 ただ、石の壁の内側を、魂魄の流れが唸っている。


 通路の壁には、監視盤がいくつも埋め込まれていた。


 赤く点滅しているものがある。

 光を失ったものがある。

 橙色(だいだいいろ)の警告を出したまま固まっているものも。


 レイには数値の意味までは分からない。


 だが、壁の奥を流れる魂魄の音が、さっきより細くなっていることだけは分かった。



「外殻の圧は抜けたな」



 アビスが言った。



「さっきのやつか」


「ああ。炉そのものは止まっていないが、吸い込みは落ちている」


「じゃあ、次は?」


「ここだ。調圧区画」



 アビスは、焼けた認証盤を横目で見た。



「本来なら、調圧から先は技官長か王命認証が要る」


「王命って……」



 レイは言いかけて、口を閉じた。


 ダウジルは、もういない。


 フローリアも死んだ。


 王宮は誰の命令で動いているのかも分からないまま、まだ唸り続けている。



「認証が死んでいる」



 アビスは短く言った。



「いいことなのか?」


「分からん。だが、通れる」


「雑だな」


「今は、雑でなければ間に合わぬ」



 中に入ると、光が完全に落ちていた。

 壁の魂魄管は、冷えた血管のように沈黙している。



「……動いてねぇな」


「ああ。調圧は死んでいる」


「いいことか?」


「ここではな。炉心は分からん」


「最悪じゃねぇか」


「急ぐぞ」



 調圧区画を出ると、レイは奥を向いて目を閉じた。


 淡い光を感じる。まだ大丈夫。


 リサは、まだ炉心には落ちていない。


 けれど、流れは確実にそこへ向かっていた。


 走る。




 やがて、通路の先に巨大な扉が見えた。


 半ば崩れた鉄の扉。


 赤黒い光が隙間から漏れている。


 アビスが手を上げた。


 漆黒の光が走ると、扉は音もなく崩れ、黒い砂のように床へ落ちた。


 その奥に、大魂魄炉があった。



「これが……」



 レイは、息を忘れた。


 巨大な縦穴のような空間だった。


 王宮の地下深くから、上層へ向かって貫くように作られた炉。中心には、黒い金属と古い石材を組み合わせた塔のような機構が立っている。無数の魂魄管が絡みつき、青白い光を吸い上げ、赤黒い熱へ変えていた。


 空中には、魚がいた。


 いや、魚の形を保てていないものも多い。


 青白い光が押し潰され、引き伸ばされ、ひとつの流れにされている。尾びれが残ったもの。目だけが残ったもの。声だけになったもの。形を失った魂が、炉の周囲を回っている。


 そのすべてが、炉の中心へ落ちようとしていた。


 だが、炉そのものには近づけない。


 炉の周囲を、何かが覆っていた。


 透明な膜のように見えた。


 薄い。けれど、そこにある。


 水面のように揺らぎ、内側に無数の青白い影を閉じ込めている。


 レイは一歩踏み出した。



「アビス。あの膜、何だよ……」



 アビスは答えず、右手を上げた。


 その指先に漆黒が集まる。


 レイが止める間もなく、黒い閃光(せんこう)が放たれた。


 漆黒は大魂魄炉を貫くはずだった。


 だが、透明な膜に触れた瞬間、横へ弾けた。黒い光が壁にぶつかり、魂魄管を数本まとめて削り飛ばす。


 炉は、揺れもしなかった。


 アビスの眉がわずかに動く。



「弾かれた……?」



 レイは両手を前に出した。


 白金色の光が掌から(にじ)む。小さな魚の形を取って、透明な膜へ泳いでいく。


 せめて、閉じ込められた魂に触れられれば。


 そう思った。


 だが、白金色の小魚たちは、膜の表面で散った。


 弾かれるというより、届く前にほどけていく。透明なものの向こうに、苦しむ魂が見えているのに、レイの光は触れられない。



「くそっ」



 レイはもう一度力を込めた。


 白金色の光が強くなる。


 それでも結果は同じだった。


 膜の表面で散る。


 届かない。



「アビス」


「分かっている」



 二人は並んだ。


 漆黒と白金色。


 フローリアの赤黒い外殻を()がした時と同じように、二つの力が絡み合う。


 二重螺旋(らせん)が生まれた。


 黒と白金が互いを食い潰さず、ひとつの流れになって大魂魄炉へ向かう。


 透明な膜が大きく震えた。


 いける。


 レイがそう思った瞬間、螺旋は砕けた。


 押し潰された。

 螺旋ごと、消された。


 無数の悲鳴が一瞬だけ耳を裂き、二人の力はばらばらに散った。


 レイは後ろへよろめく。



「なんだよ、あれ……!」


「膜ではない」



 アビスが透明な揺らぎを(にら)む。



「膜というより、透明な殻だ」


「殻?」


「分からん。だが、外側から壊せるものではない」



 アビスは、ゆっくり歩き出した。


 レイはその横顔を見た。



「おい」


「中へ入る隙間を探す」


「触るなよ」


「分かっている」


「そうだ」



 レイは外套(がいとう)の前を握った。


 パーズが渡してくれた黒灰色の外套。


 細い金属糸と魂魄繊維を編み込んだ、対魂魄圧用の防護布。


 大魂魄炉の近くでは、立っているだけで中身を引っ張られる。

 パーズはそう言っていた。



「これなら」



 レイは透明な殻へ近づいた。


 外套の裾が、青白く震える。


 空気が重い。


 体の奥を引っ張られるような感覚が、外套の表面で何度も弾けた。


 効いている。


 少なくとも、周りの魂魄圧は防いでいる。


 レイはもう一歩近づき、手を伸ばした。


 外套の袖口が、透明な殻に触れた。


 瞬間、布が悲鳴を上げた。


 金属糸が赤く焼け、魂魄繊維がほどける。袖口から黒い煙のようなものが立ち、レイの腕へ冷たい痛みが走った。



「っ……!」



 レイは飛び退いた。


 外套の袖が、指二本分ほど焼け落ちている。


 アビスが目を細めた。



「駄目か」


「周りの圧は防げる。でも、あれに直接触るのは無理だ」



 レイは透明な殻を睨んだ。



「あれ、普通の魂魄圧じゃねぇ」


「ならば、触れた瞬間に叩き込む」


「やめろ」


「触れなければ、内側の反応が分からん」



 アビスはそう言った。


 そして、右手を伸ばした。


 殻に近づいたところで漆黒を放つ。


 透明な殻が、わずかに揺れた。


 次の瞬間、アビスの指先が触れた。


 アビスの体が跳ねた。



「ッ――!」



 声にならない悲鳴だった。


 アビスの目が見開かれる。


 伸ばした右手が殻に貼りつき、引き剥がせない。


 透明な殻の内側から、青白い影が一斉にアビスへ向いた。


 レイには、それが見えた。


 焼けて潰れる。

 喉が裂けるほど誰かを呼んでいる。


 息ができない。


 刃が体に入る。


 崩れた瓦礫(がれき)の下で、骨が折れている。


 血が流れる。

 冷たく、重くなる。


 子供の名前を呼んでいる。

 母親の手を探している。


 自分が誰だったか、もう分からない。


 終わらない。


 炉へ落ち、燃やされる。


 消える。


 消えたくない。


 消えたくない。


 消えたくない。


 アビスの喉から、獣のような声が漏れた。



「アビス!」



 レイは飛びついた。


 アビスの腕を(つか)む。


 その瞬間、レイの掌にも痛みが流れ込んだ。皮膚を焼かれるようなものではない。もっと奥だった。骨でも血でもなく、魂の内側を直接爪で引き裂かれるような痛み。


 レイは歯を食いしばり、白金色の光を叩き込んだ。


 アビスの腕を包む。


 殻に貼りついた指を、無理やり引き()がす。


 アビスの体が後ろへ倒れた。


 レイも一緒に床へ転がる。


 アビスは息をしていなかった。


 目は開いている。だが、焦点が合っていない。喉がひくつき、口から音にならない声が漏れる。


 レイは彼の胸ぐらを掴んだ。



「戻れ! アビス!」



 白金色の光が、アビスの体へ流れ込む。


 強すぎれば壊すが、弱ければ戻せない。


 レイは自分でも分からないまま、ただ必死に光を流した。


 アビスの喉が大きく鳴った。


 空気を吸い込む音。


 次の瞬間、アビスは()き込んだ。床に両手をつき、何度も息を吐く。


 右手の指が震えていた。


 指先から第二関節あたりまで、黒く焼けたような跡が残っている。火傷にも似ている。だが、火に焼かれたのとは違う。皮膚の奥に、死の影が染み込んでいるようだった。



「おい、大丈夫か」


「……あれは」



 アビスの声はかすれていた。



「魂の塊ではない」


「ああ」


「死だ。死の記憶の塊だ」



 レイは、透明な殻を見た。


 そこにあるのは、燃やされる寸前の魂たちだった。


 痛みごと、恐怖ごと、圧し固められている。


 レイは拳を握った。


 リサは、まだあの中にはいない。


 まだ落ちていない。


 でも、このままだと、いずれあそこへ行く。


 あの殻の一部になる。


 名前も、声も、笑い方も、全部押し潰される。


 レイの喉が詰まった。



「来る前に、止めねぇと……!」


「ああ……」



 アビスは立ち上がろうとした。


 だが、右手を床についた瞬間、膝が揺れる。焼けた指が使えない。


 それでも、漆黒の力を集めようとする。



「無理すんな」


「黙れ。無理をしなければ届かぬ」


「届いてねぇだろ!」



 言ってから、レイは唇を噛んだ。


 リサがいたら、また怒っただろう。


 喧嘩(けんか)しないで、と。


 アビスも何かを言い返しかけた。


 その時だった。


 遠くから、重い駆動音が響いた。


 石の床が震える。


 規則正しくない。片足を引きずるような、(ゆが)んだ歩行音。金属の(きし)み。関節が火花を散らす音。


 レイは振り向いた。


 炉心区画の入口に、黒い魔導機が立っていた。


 装甲は歪んでいる。肩の砲身は折れ、片側の腕は外装が剥がれて内部機構がむき出しになっていた。脚部もまともではない。一歩進むたびに膝関節が嫌な音を立てる。


 それでも、動いている。


 黒い重装魔導機。


 その胸部装甲が開き、操縦席の中から声が飛んだ。



「なんだ、(そろ)いも揃って情けねぇ顔しやがって」



 レイは目を見開いた。



「パーズさん!」


「おう。間に合ったか」


「リサは……」


「工房に寝かせてきた。マルシアがついてる」


「なんでここに……?」


「直したから来た。見りゃ分かんだろ」


「直ってねぇだろ、それ!」


「動いてるなら直ってんだよ」


「そうだ。なぜ動いている? 私の専用機だぞ」


「俺が作ったんだ。動かせないわけがねぇだろ」



 パーズはそう言って笑った。


 笑っていた。


 額には汗が浮かび、片(ほお)(すす)がついている。服も焦げていた。どこかで転んだのか、こめかみに血もにじんでいる。


 それでも、いつもの顔をしていた。


 アビスが立ち上がった。



「私が乗る」


「駄目だ」


「なぜだ」


「武装は直してねぇ。お前が乗っても意味がない」



 パーズは短く言った。


 アビスの目が細くなる。



「この機体は私のために作られた」


「今は俺の作業機械だ」


「パーズ」


「武装は死んでる。砲も撃てねぇ。魂魄接続もまともに通らねぇ。お前が乗ったところで、ただの重たい棺桶(かんおけ)だ」



 パーズは大魂魄炉を見上げた。


 透明な揺らぎ。


 魂たちを押し固めた殻。


 それをしばらく見て、低く唸った。



「……やりやがったな」


「パーズさん?」


「あれは殻だ。魂の圧力でできた殻だ」


「魂の……」


「押し込めすぎなんだよ。逃げ場をなくした魂が、炉の周りで固まってやがる。外から無理に壊しゃ、中の魂ごと潰れる。下手すりゃ炉も暴れる」



 レイは炉を見た。


 透明な殻の内側で、形の崩れた青白い光が揺れている。



「じゃあ、どうすんだよ!」


「中央制御弁を開ける」



 パーズは、炉の奥を指した。


 透明な殻のさらに向こう。炉の基部近くに、巨大な弁のような機構が見える。黒い金属の輪。いくつもの歯車と魂魄管に(つな)がれ、半ば赤黒く焼け付いている。



「あれを開けりゃ、()まった魂魄圧が逃げて殻は割れる。そこをアビスがやる」


「誰が開ける」



 アビスが聞いた。


 パーズは操縦桿を握り直した。



「俺だ」


「駄目だ!」



 レイは思わず叫んだ。



「あれに触っただけで、アビスは死にかけたんだぞ!」


「俺は触りに行くわけじゃねぇ。機体で行く」


「でも!」


「安心しろ。この機体はそんなにやわじゃねぇ」



 パーズは笑った。



「俺が作ったんだぜ?」


「そういう問題じゃ――」


「それに」



 パーズの声が少しだけ低くなった。



「大人にも格好つけさせろや」



 レイは言葉を失った。

 アビスも何も言わなかった。


 言えなかった。


 パーズが胸部装甲を閉じようとした時、レイは外套を脱いだ。


 袖口は焼け、裾には赤黒い汚れが残っている。



「これも使って」



 パーズは一瞬だけ目を細めた。



「お前が着てろ」


「俺は行かない。パーズさんが行くんだろ」


「……ったく」



 パーズは外套を受け取った。


 操縦席の内側、胸のあたりへ乱暴に巻きつける。防護布というより、ぼろ布を詰め込むような扱いだった。



「これで少しはマシになる」


「助かる?」



 レイが聞いた。


 パーズは笑った。



「さあな」


「パーズさん」


「死ににくくはなる。そういう布だろ」



 それ以上は言わなかった。


 黒い魔導機が、一歩前へ出る。

 透明な殻の前で、止まる。


 機体の右腕が持ち上がった。武器ではない。装甲の剥がれた作業腕。関節は軋み、指も三本しかまともに動いていない。


 それでも、中央制御弁へ向けられていた。



「じゃ、行ってくる」



 操縦席の中から、短い声がした。


 次の瞬間、黒い魔導機は殻へ踏み込んだ。


 透明な殻が大きく波打つ。


 装甲が触れた瞬間、青白い光が機体全体を走った。


 最初は、耐えているように見えた。


 分厚い装甲が、魂の圧力を受け止めているように見えた。


 だが、すぐにレイは気づいた。


 違う。


 受け止めているのではない。


 すり抜けている。


 魂の痛みは、金属では止まらない。装甲を抜け、機構を抜け、操縦席へ入り込む。


 胸部装甲の隙間から、赤黒い光が漏れた。


 機体の中で、パーズが(うめ)いた。



「ぐ、ぅ……っ」



 それでも機体は進む。


 一歩。

 また一歩。

 魂の殻の内側へ。


 パーズの視界が白く焼けた。


 誰かの死が流れ込む。


 火に巻かれた女、崩れた(やな)の下で息絶えた男、兵士の剣に裂かれた子供、名前も知らない老人、炉に落とされた魂。

 そして燃料として扱われた命。


 痛みが、痛みのまま入ってくる。


 悲鳴が、悲鳴のまま喉を引っ()く。



「やせ我慢は……大人の特権なんだよッ!」



 パーズは歯を食いしばった。

 舌を噛んだ。


 血の味がした。


 ──ふと、若い頃の自分が見えた。


 机の上に広げた図面。

 魂魄炉の基礎理論。

 魚を集め、魂魄を変換し、街を動かす仕組みだった。


 その仕組みを思いついた時、確かに胸が高鳴った。

 世界を変えられると思った。

 下層街の暮らしだって、少しは楽になるかもしれないと思った。


 馬鹿だった。


 図面の上の線は、人の命につながっていた。

 魂につながっていた。


 危険に気づいた時には、もう遅かった。


 止めようとしたが、止まらなかった。


 王宮から追い出され、下層街へ戻った。


 工房を開いた。


 そこで、小さな女の子を拾った。


 汚れた服を着た、痩せた子だった。


 大きな目でこちらを見上げていた。警戒しているのに、腹が鳴ると顔を真っ赤にしていた。


 最初は大人しかった。


 遠慮がちで、工房の隅に座っていた。


 それが、いつの間にか工具を勝手に触るようになった。足りない部品をどこからか持ってきた。危ないから触るなと言えば、触ってないと嘘をついた。油で顔を汚して、知らんぷりをした。


 お転婆で、生意気で、口が悪くて。


 パーズは毎日振り回された。


 初めて作ってくれた料理は、黒焦げだった。


 皿まで焦げそうなほど真っ黒で、味なんて分かったものではなかった。パーズが黙って食べると、リサは不安そうに見ていたくせに、「まずいならまずいって言えば?」と偉そうに言った。


 思春期になると、急に距離を置かれた。


 前みたいに工房で寝転がらなくなった。


 くだらない話をしなくなった。


 そのくせ、仕事は手伝った。


 文句を言いながら、部品を磨いた。在庫を数えた。レイに余計な口を出し、アビスに妙な顔をさせ、工房を騒がしくした。


 最後まで、お父さんとは呼ばなかった。


 パーズさん。


 オッサン。


 あんた。


 そんな呼び方ばかりだった。


 それでも、娘だった。


 誰が何と言おうと。


 パーズは操縦桿を握り潰すほど力を込めた。



「開け……」



 中央制御弁は、もう目の前だった。


 機体の腕が伸びる。


 指が弁を掴む。


 関節が悲鳴を上げた。


 魂の圧力がさらに強くなる。


 パーズの腕から感覚が消える。胸の奥が焼ける。目の前が暗くなる。


 それでも、彼は笑った。


 ひどく歪んだ笑いだった。



「この、馬鹿炉が……!」



 操縦桿を押し込む。


 機体の腕が、中央制御弁を回した。


 最初は動かなかった。


 焼き付いた金属が、軋むだけだった。


 パーズはもう一度押した。


 歯車が砕ける音がした。


 腕部の関節が弾けた。


 それでも弁は動いた。


 ほんの少し。


 その隙間から、青白い光が噴き出した。


 パーズは叫んだ。



「開けオラァ!」



 弁が回る。


 重い音が炉心区画に響いた。


 透明な殻に、亀裂が入る。


 押し潰されていた魂たちが、形を取り戻し始める。尾びれが生まれ、(うろこ)が戻り、目が開く。小さな魚たちが、次々と殻の中から(あふ)れ出す。


 青白い奔流が、大魂魄炉の周囲を満たした。


 レイは息を呑んだ。



「開いた……!」


「今だ」



 アビスが立っていた。


 右手は……使えない。


 アビスは左手を大魂魄炉へ向けた。


 レイは叫ぶ。



「今だ、アビス!」



 漆黒が走った。


 それは魂へは向かわなかった。


 解放された青白い魚たちの間を縫うように進み、炉の金属だけを、魂魄管だけを、機構だけをほどいていく。


 大魂魄炉が震えた。


 赤黒い光が噴き出そうとする。


 だが、もう魂を閉じ込める殻はない。


 燃料にする魂もない。


 漆黒が炉心を貫いた。


 音が消えた。


 一瞬、すべての唸りが止まる。


 大魂魄炉を巡っていた赤黒い光が、行き場を失ったように震えた。


 次の瞬間、炉の内側から青白い光が噴き上がった。


 何百年も閉じ込められていた海が、岩盤を突き破って空へ戻るような光だった。



「やった……のか」



 黒い金属の塔が軋む。


 絡みついていた魂魄管が、一本、また一本と弾け飛ぶ。管の中から青白い魚たちが溢れ出し、渦を巻いて炉心区画を満たした。


 石の床が割れた。


 壁が震え、天井から砕けた石片が降る。



「ああ。それに、魚たちも無事だ」



 大魂魄炉が悲鳴を上げた。


 金属が裂ける音。石が砕ける音。圧縮されていた魂魄が解放される轟音(ごうおん)


 そのすべてが重なり、王宮の奥を揺らした。


 赤黒い光が最後に一度だけ膨らむ。


 だが、そこへ青白い魚の群れが流れ込んだ。


 燃やされるはずだった魂たちが、炉の中を満たし、赤黒い熱を押し流していく。


 炉心の塔が、根元から折れた。


 黒い金属が砂のようにほどけ、古い石材が崩れ、無数の魂魄管が空っぽの抜け殻になって床へ落ちる。



「くっ……」



 レイは腕で顔を(かば)った。


 それでも、目を閉じられなかった。


 青白い魚たちが、目の前を昇っていく。


 小さな魚、尾びれの欠けた魚、大きな傷を負った魚。

 形を失いかけていた魂たちが、光の中で少しずつ魚の姿を取り戻していく。


 そして、天井をすり抜けた。


 壁をすり抜けた。


 王宮を抜け、夜空へ。


 空の海へ帰っていく。


 大魂魄炉は、もう炉ではなかった。


 王都の心臓と呼ばれたものは、崩れた黒い骨組みと、灰のような金属片だけを残して沈黙していた。




 レイは笑った。



「やった……」



 そして、黒い魔導機へ走った。



「やったぜ、パーズ!」



 機体は中央制御弁の前で停止していた。


 片膝をつき、腕を伸ばしたまま動かない。


 レイは胸部装甲に飛びついた。熱かった。指先が焼ける。それでも構わず、装甲をこじ開ける。


 中を(のぞ)いた。


 声が出なかった。


 操縦席の中で、パーズは座っていた。


 操縦桿を握ったまま。


 体は黒く焼け焦げていた。服も肌も、どこまでがどこなのか分からない。顔の輪郭だけが、かろうじて残っている。


 もう、息はしていなかった。


 レイの喉が震えた。



「……パーズ、さん?」



 返事はなかった。


 アビスが隣に立つ。


 何も言わない。

 言えるはずがなかった。


 機体は、確かに中央制御弁までパーズを連れていった。

 それだけだった。


 レイは操縦席の縁を掴んだ。


 指に力が入らない。


 胸の奥で何かが崩れていく。


 その時、パーズの胸元から、小さな光が浮かび上がった。


 青白い魚だった。


 ただし、少し煤けている。工房の油と鉄粉と煤をまとったような、くすんだ光だった。


 その魚は、ふらふらと宙へ泳ぎ出した。


 レイは手を伸ばしかける。



「パーズさん……」



 その時、遠くから別の光が近づいてきた。


 小さな魚。

 青白い光。


 レイは息を止めた。


 見間違えるはずがなかった。


 形が違っても、声がなくても、分かる。


 リサだ。


 大魂魄炉へ向かっていた流れから解放され、自分の意思で泳いでいるように見えた。


 リサの魂は、パーズの煤けた魂の前で止まった。


 どこからか、声がした。



「もうこっちに来ちゃったの?」



 リサの声だった。


 いつものように、少し(あき)れている。


 パーズの魂が、小さく揺れた。



「すまねぇ」



 声が聞こえた。


 パーズの声だった。


 ひどく小さくて、でも確かにパーズだった。


 リサの魂が、くるりと一度回った。



「ほんと、どうしようもないね、お父さん」



 レイは息を呑んだ。


 その言葉が、胸の奥へ突き刺さった。


 パーズの煤けた魂が、震えた。


 それでも、レイには分かった気がした。


 届いたのだ。


 リサの魂が、今度はレイの方を向いた。



「レイ」



 レイは声を出そうとした。


 出なかった。


 喉が詰まって、胸が苦しくて、何も言えない。



「リサ……」



 ようやく、それだけが出た。


 リサの魂は、少し揺れた。


 笑ったように見えた。



「まだ、助ける人、いるでしょ?」



 レイの胸が止まりかけた。


 アビスが顔を上げる。


 言われなくても分かった。


 まだいる。


 大魂魄炉は壊れた。


 だが、王宮の奥にはまだ、置き去りにされた人がいる。


 レイはリサを見た。


 離れたくなかった。


 ようやく声が聞こえた。


 ようやく、リサがそこにいる。


 なのに、また走れという。



「ちょっとくらいは待っててあげるから」



 レイは顔を上げた。


 何か言おうとした。


 でも、ただ(うなず)いた。


 強く。


 拳を握って。


 アビスが横を向いた。



「行くぞ」


「ああ」



 レイはもう一度だけ、リサの魂を見た。


 パーズの煤けた魂が、その隣にいる。


 二つの小さな光が、崩れた炉心区画の中で揺れていた。



 そして、レイとアビスは走り出した。


 リサが、少しだけ待っていてくれるうちに。






* * *


次回、最終話『輪廻(りんね)の後で』


──もう、大丈夫

次回、最終話『輪廻の後で』

──もう、大丈夫


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