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第15話【最終話】輪廻の後で


 大魂魄炉(だいこんぱくろ)(うな)りが、消えていた。


 さっきまで王宮の奥で、地の底から響くように鳴っていた音がない。


 床を伝ってきた震えも、壁の中を走っていた魂魄管の脈動も、ひとつずつ途切れていく。青白く光っていた管は、奥から順に色を失い、冷えた血管のように沈黙していった。


 王宮の廊下は白い。


 その白さが、灯りを失うたびに灰色へ沈んでいく。



「はぁッ、はぁッ、はぁッ……」



 レイは走っていた。


 足元に割れた石片が転がっている。崩れた天井の欠片を踏み越え、壁から垂れ下がった魂魄線を避ける。


 何度も、振り返りそうになった。


 炉心区画の方に。


 リサの魂がいる方に。


 あの小さな光が、ちゃんと待っているのか確かめたくなる。


 けれど、振り返ったら足が止まる気がした。


 リサは言った。



 ──ちょっとくらいは待っててあげるから。



 だから、走る。


 今は走るしかなかった。


 前を行くアビスは、何も言わない。


 黒い外套(がいとう)の裾が、暗くなっていく廊下の中で揺れている。顔色は悪い。力を使いすぎた体で、まだ走っている。


 それでも、足は止まらない。


 壁の奥を、小さな魚たちが通り抜けていった。


 さっきまで王宮の中心へ引かれていた魂たちが、今は上へ向かっている。迷うように、揺れながら、それでも空の方へ流れていく。


 レイはそれを横目で見た。


 大丈夫だ。


 もう、引かれていない。


 そう思った瞬間、胸がきつくなった。


 リサも、そうなのだろうか。


 ちゃんと、帰れるのだろうか。



「こっちだ」



 アビスが短く言った。


 廊下の先で、白い石床が黒い魔導合金へ変わる。王宮の華やかな区画から、誰にも見せる気のない奥へ入ったのが分かった。


 空気が冷たい。


 炉の熱は近いはずなのに、この場所だけは妙に冷えていた。


 通路の端に、古い扉が見えた。


 厚い白金の扉。


 表面には王家の紋章が刻まれている。だが、その紋章は飾りではなく、封印の一部だった。扉の周囲には何重もの魂魄術式が刻まれ、認証盤が鈍く青く光っている。


 その光も、今にも消えそうだった。


 アビスが認証盤へ手をかざす。



「第一王子アビサリウス・ヴァス・ヴィザリウス。開扉」



 反応はなかった。


 認証盤の奥で、小さく火花が散る。青い光が一度だけ明滅し、そのまま沈んだ。


 アビスはしばらく認証盤を見ていた。


 レイは息を整えながら、扉を見上げる。



「壊すか」



 アビスの指が、わずかに動いた。


 この扉の向こうに、ルナリアスがいる。


 本当の王子を産み、その子を奪われ、狂った女として閉じ込められた人。


 王宮の恥を隠すための扉。


 アビスは左手を上げた。


 掌の中に、漆黒が集まる。


 いつものような奔流ではない。砲撃でもない。黒い糸のように細く絞られた力が、認証盤の縁をなぞった。


 金属が音もなくほどける。

 錠が落ちた。


 封印が一枚ずつ消えていく。

 最後に、扉の奥で何かが外れる音がした。


 重い扉が、少しだけ開く。

 中から、冷たい空気が流れ出した。


 部屋は暗かった。


 豪華な部屋ではないが、ただの(ろう)でもなかった。


 白い壁。低い寝台。古い鏡。脚の折れかけた椅子。消えかけた魂魄灯。


 窓はあったが、鉄格子で塞がれている。かつて王妃だった女を閉じ込めるために作られた、白く冷たい箱だった。


 床に、女が座っていた。


 髪は長く伸び、乱れている。白かったはずの衣は色あせ、裾には汚れがこびりついていた。(ほお)は痩せ、指は細い。


 それでも、目にはまだ光が残っていた。


 扉が開いた音に、ルナリアスはゆっくり顔を上げる。


 最初に、アビスを見た。


 その目が、揺れる。


 薄く開いた唇から、かすれた声が漏れた。



「返して……」



 レイの足が止まる。


 ルナリアスは、床に片手をついた。立とうとして、うまく立てず、また膝をつく。



「私の子を、返して……」



 その言葉は、何度も言ってきたものなのだろう。


 この部屋で。

 この扉に向かって。

 誰にも届かないまま。


 狂った女の戯言として、捨てられてきた真実の言葉。


 レイは、喉が詰まった。


 アビスが静かに言う。



「あなたの子は、生きている」



 ルナリアスの目が、アビスへ向く。


 アビスは少しだけ横へずれた。


 そこに、レイが立っている。


 (すす)と血と泥に汚れた下層街の少年。


 王宮の白い床には、あまりに不似合いな姿だった。


 ルナリアスは、レイを見つめた。


 はっきりと見えたわけではなかった。


 それでも、ルナリアスには分かった。


 十六年前、自分の腹へ降りてきた、あの小さな白金色の光。


 それと同じ気配が、目の前の少年からしていた。


 ルナリアスの表情が、ゆっくり崩れる。



「……レイスティン」



 レイは、息を()んだ。


 その名で呼ばれることに、まだ慣れていない。


 レイスティン・ヴァス・ヴィザリウス。


 王宮で生まれた、本当の第一王子。


 けれど、レイはレイだった。


 下層街で育った。


 マルシアの子として生きてきた。


 パーズ工房で油にまみれ、リサに怒られ、アビスと喧嘩(けんか)してきた。


 それでも。


 目の前の女は、自分を産んだ母だった。


 ルナリアスは手を伸ばした。


 細い指が震えている。


 だが、その手は途中で止まった。


 レイの服は汚れていた。


 袖は破れ、裾は焼け、髪には煤がついている。頬にも血の跡が残っていた。


 ルナリアスは、その汚れを見た。


 十六年。


 自分の知らない十六年が、そこにあった。


 この子には、この子を育てた生活がある。


 この子を抱きしめた人がいる。

 泣いた時に背中をさすった人がいる。

 腹を空かせた時に、何かを食べさせた人がいる。


 自分は、その中にいなかった。


 ルナリアスの手が、少しずつ下がる。



「大きく……なったのね」



 レイは答えられなかった。


 ルナリアスは、泣きながら笑った。



「あなたを育ててくれた人が、いるのね」



 レイは唇を()んだ。


 マルシアの顔が浮かぶ。

 工房の匂いが浮かぶ。

 パーズの怒鳴り声が浮かぶ。

 リサの笑い声が浮かぶ。



「ああ……いるよ」



 短く、それだけ言った。


 ルナリアスは(うなず)いた。


 手を引っ込めようとする。


 その瞬間、レイの足が動いた。


 一歩。

 もう一歩。


 どうすればいいのか分からない。

 抱きしめるほど自然には動けない。

 母さん、と呼ぶこともできない。


 それでも、レイはルナリアスの前に膝をついた。


 そして、その細い手を取った。


 ルナリアスの指は冷たかった。

 けれど、握り返す力はあった。


 ルナリアスは声を殺して泣いた。


 レイは何も言わなかった。


 ただ、その手を離さなかった。


 しばらくして、ルナリアスはアビスを見た。


 アビスは扉のそばに立っていた。


 入ってきた時から、ほとんど動いていない。


 王子としての姿勢、兵器としての距離。


 ルナリアスは、アビスへも手を伸ばしかけた。


 アビスの肩が、わずかに強張る。


 それを見て、ルナリアスは手を止めた。

 無理には触れない。


 ただ、静かに言う。



「あなたも、奪われた子だったのですね」



 アビスは答えなかった。


 ルナリアスは、彼の顔を見る。


 黒い髪。

 整った顔立ち。

 王宮で育てられた少年。


 けれど、その奥にあるものは、王家の血ではない。


 スラムから奪われた命。


 名前も付けられる前に、親から引き()がされた子。



「ごめんなさい」



 アビスの眉が寄る。



「あなたが謝ることではない」


「それでも、言わせてください」



 ルナリアスは弱々しく微笑んだ。



「あなたがそこにいてくれたから、私はあの子が生きていると信じ続けることができたのかもしれない」



 アビスは、何も返せなかった。


 自分は偽物の王子だった。


 王家にとって、都合のいい器だった。


 漆黒のクジラを宿した、王家の剣。


 だが、その偽物として置かれていたことが、この女にはわずかな希望でもあった。


 そんな言葉を、どう受け止めればいいのか分からない。


 レイがアビスを見る。


 何か言おうとして、やめた。


 今は、レイが代わりに言う場面ではなかった。


 アビスは、少しだけ目を伏せる。



「私は、あなたの子ではない」


「ええ」


「だが……」



 言葉が止まる。


 ルナリアスは待った。


 急かさなかった。


 アビスは、やっと言った。



「あなたを、ここから出す」



 ルナリアスは頷いた。



「ありがとう、アビサリウス」



 アビスの目が、わずかに揺れた。


 第一王子でも、王家の剣でもない。


 兵器でもない。


 ただの少年の名として、呼ばれた。


 彼はそれ以上何も言わなかった。


 ルナリアスは、自分の足だけではうまく歩けなかった。


 長く閉じ込められていたせいで、膝が震える。立ち上がっただけで息が上がり、壁に手をついた。


 レイが支えようとした。


 同時に、アビスも反対側へ回った。


 ルナリアスは、二人に支えられる形になる。



「ごめんなさいね」


「いや……」



 レイは少し気まずそうに目を逸らした。


 アビスは、いつもの無表情に戻ろうとして失敗していた。


 ルナリアスは、二人の腕に手を置いた。


 本来の子。

 王宮に置かれた子。


 二人の少年に支えられ、彼女は牢を出た。


 扉の外へ一歩出た時、ルナリアスは足を止めた。


 廊下の奥を、魚たちが泳いでいる。

 青白い小魚、くすんだ魂、傷ついた光。


 それらが、ゆっくりと上へ向かっていた。


 壁を抜け、天井を抜け、王宮の外へ。


 ルナリアスは見上げた。


 閉ざされた地下の廊下に、空は見えない。


 それでも、魂の流れは分かった。



「海が……戻っている」



 声はかすれていた。


 だが、確かに意識のある言葉だった。


 レイは、ルナリアスの横顔を見た。

 アビスも、同じものを見ていた。


 誰も、何も言わなかった。


 王宮の中庭に出た時、夜空が見えた。


 白い柱のいくつかは倒れ、噴水は止まっている。水面に浮かんでいた魂魄灯は、ひとつを残して消えていた。


 それでも、空は明るかった。


 灯りではない。


 魚たちの光だった。


 大魂魄炉へ引かれていた魂が、今は空へ戻っている。


 無数の小魚が、王宮の尖塔(せんとう)をすり抜けて昇っていく。大きな魚もいる。傷ついた魂も、くすんだ魂も、赤黒い汚れをまだ残した魂もいる。


 どれも、自由に泳いでいた。



 レイは、その中に一匹の光を見つけた。


 胸が止まる。


 小さな魚。


 淡く、やわらかく、見間違えるはずのない光。


 リサだった。


 少し後ろには、煤けたような魂がいる。


 パーズだ。


 いつものように前に出て怒鳴るのではなく、少し離れて見守るように泳いでいる。


 レイの足が止まった。

 アビスも立ち止まる。


 ルナリアスは、二人を見て、そっと手を離した。

 何も言わず、一歩下がる。


 リサの魂が、ゆっくりと降りてくる。


 レイの前で、小さく尾を振った。


 声が聞こえた。



「約束……守ってくれてありがと」



 レイの唇が震える。


 守れたなんて、少しも思えなかった。


 それでも、声になったのは、ひどく子供じみた言葉だった。



「礼なんか言うなよ」


「言うよ。ほんとに、帰れるんだから」



 リサの声は、少し遠い。


 けれど、ちゃんとリサだった。


 泣きそうな時ほど軽く言う。


 怖い時ほど、相手を笑わせようとする。


 その調子のままだった。


 レイは拳を握った。



「……行くなって言ったら?」


「またそれ?」


「言うだろ、普通」


「普通じゃないでしょ、レイは」


「うるせぇな」


「うるさくないよ。最後くらい素直に聞きなさい」


「最後とか言うな」


「じゃあ、行ってきます?」


「それも嫌だ」


「わがまま」


「悪いかよ」


「悪いねー」



 リサの魂が、くるりと回る。


 いつものリサなら、腰に手を当てていたかもしれない。


 レイは顔を(ゆが)めた。


 笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からなかった。


 アビスは隣で黙っている。


 目元だけが、わずかに揺れていた。


 レイは、震える声で聞いた。



「喧嘩しないでねって、言わないのか」



 リサは少し黙った。


 それから、明るく言う。



「言わないよ」


「そうか」


「もう、大丈夫……でしょ?」



 レイは、アビスを見た。

 アビスも、レイを見る。


 レイは、ぐしゃぐしゃの顔で笑った。



「そうだな」



 アビスも頷く。



「ああ」



 リサの魂が、(うれ)しそうに尾を振った。


 小さな光が、少しだけ強くなる。



「じゃあ、行くね」



 レイは何も言えなかった。


 言えば、止めてしまう。


 止められないと分かっていても、きっと止めようとしてしまう。


 リサの魂は、ゆっくり上へ向かった。


 自分で尾を振る。


 自分で向きを決める。


 もう、どこにも引かれていない。


 パーズの煤けた魂が、その後ろを泳いでいく。


 少し離れて。


 見守るように。


 レイの目から、涙が落ちた。


 声は出なかった。


 ただ、喉の奥が痛い。


 アビスは泣かなかった。


 ただ、空へ昇っていくリサを最後まで見ていた。


 ルナリアスも黙っていた。


 誰も、何も言わない。


 リサの小さな光は、魚の群れの中へ入っていく。


 一度だけ、こちらを振り返るように尾を振った。


 そして、光の奥へ消えた。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 大魂魄炉を失った王都は、暗かった。


 魂魄灯が消えた通りで、人々が立ち尽くしている。


 上層街の噴水は止まり、広場の水はただの黒い鏡になっていた。劇場街のネオンは半分以上落ち、派手な看板は文字の形も分からない影になっている。


 工場区では、搬送機が途中で止まっていた。


 荷台を押す男たちが、汗を拭きながら悪態をつく。



「動かねぇぞ!」


「魂魄管が死んでるんだ、押すしかねぇ!」


「こんな重いもん、人間で動かすようにできてねぇよ!」


「じゃあ置いとくか? 腐るぞ!」



 浄水塔の前には列ができていた。


 魔導浄水器が動かなくなったせいで、古い井戸の蓋がこじ開けられている。上層街の人間が、汚れた(おけ)を見て顔をしかめた。



「これを飲めというのか」



 そばにいた下層街の女が、疲れた顔で笑った。



「煮れば飲めるよ」


「煮る火がない」


「薪を拾ってきな」


「薪?」


「そこから説明かい」



 貴族の屋敷では、主人が使用人に怒鳴っていた。



「灯りを戻せ!」


「無理でございます。魂魄管が」


「言い訳をするな!」



 使用人は深く頭を下げるだけだった。


 怒鳴ったところで、灯りは戻らない。


 王宮も、屋敷も、劇場も、工場も、同じように暗かった。


 薄汚れた男が(つぶや)いた。



「……こりゃ、ろうそくが売れるな!」



 その声に、隣の女が(あき)れたように笑った。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 下層街では、人々が文句を言いながら動いていた。


 壊れた看板を外し、薪にする者。


 古い手押しポンプを引っ張り出す者。


 井戸の中へ縄を垂らす者。


 火炉を修理する者。


 屋台の親父は、魂魄炉の代わりに黒い鉄鍋の下へ薪をくべていた。



「煙てぇ!」



 客が()き込む。



「嫌なら食うな!」


「食うよ! 腹減ってんだ!」


「なら文句言いながら食え!」



 親父は怒鳴り、鍋をかき混ぜる。


 火は不安定だった。


 魂魄炉よりずっと面倒で、煤も出る。鍋の底は黒くなり、湯が沸くまで時間がかかる。


 それでも、湯気は上がった。


 子供たちは暗くなった路地を怖がっていた。


 母親の服を(つか)み、空を見上げる。


 そこには、魚たちがいた。


 前よりも多く。


 前よりも明るく。


 建物の隙間を、無数の魂が泳いでいる。



「こわい?」



 母親が聞くと、子供は首を横に振った。



「あかるい」



 母親は空を見た。


 魂魄灯は消えていた。


 だが、夜は完全な闇ではなかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 王宮の前に、メイガスが立っていた。


 まだ顔色は悪い。


 何度も震える手を握り直し、隣に立つアビスを見上げる。



「兄上」


「前を見ろ」


「はい」



 メイガスは前を向いた。


 門の前には、人が集まっている。


 貴族も、兵士も、使用人も、上層街の商人もいる。下層街から来た者も、少し離れた場所に立っている。


 誰もが不安そうだった。


 怒っている者もいる。

 泣いている者もいる。


 ダウジルは死んだ。

 フローリアも死んだ。


 王宮の威信は崩れた。


 それでも、誰かが前に立たなければならなかった。


 メイガスは一歩前へ出た。


 膝が震えた。


 けれど、逃げなかった。



「王宮は……」



 声がかすれる。


 彼は一度唇を噛み、もう一度口を開いた。



「王宮は、大魂魄炉によって、空の魂を奪っていました」



 ざわめきが広がる。


 アビスはメイガスの隣に立ったまま、動かなかった。


 誰かが叫んだ。



「知っていたのか!」



 メイガスの顔が(ゆが)む。



「知りませんでした」



 その声は小さかった。


 だが、彼は続けた。



「ですが、知らなかったで済ませてよいことではありません」



 アビスは少しだけ横目でメイガスを見た。


 メイガスは頭を下げた。


 深く。


 王族としてではなく、一人の子供のように、必死に。



「申し訳ありません」



 怒号が飛ぶ。


 泣き声が混じる。


 それでも、メイガスは頭を上げなかった。


 アビスがその隣に立つ。


 彼の背後では、壊れた魂魄管の撤去が始まっていた。危険な炉の残骸を封鎖し、まだ流れの残る管を切り離す。漆黒の力は、今度は壁ではなく、壊すべき仕組みに向けられていた。


 王宮の罪は、隠せない。


 隠さない。


 それが、最初にできることだった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 マルシアがアビスと向き合ったのは、数日後のことだった。


 下層街はまだ落ち着いていない。


 パーズ工房の看板は傾き、扉には新しい傷が増えていた。作業台の上は片づいていない。パーズがいれば、汚い手で触るなと怒鳴っただろう。


 その工房の前で、マルシアは立っていた。


 レイは少し離れた場所にいる。


 アビスは王宮の黒い外套ではなく、簡素な服を着ていた。それでも立ち方は王宮のものだった。


 マルシアは、彼を見た。


 胸が痛んだ。


 初めて会った時から、ずっとそうだった。


 借りた外套を羽織った背中。

 ふとした横顔。

 言葉を飲み込む時の目。


 どこかで見たことがあると思っていた。


 今なら分かる。


 ランドだ。

 若い頃のランドの面影が、そこにあった。


 マルシアの指が震える。


 抱きしめたい。


 けれど、足は動かない。


 目の前の少年は、自分の子だ。


 奪われた子だ。


 だが、十六年がある。


 王宮で生きた十六年。


 兵器として扱われ、王子として立たされ、誰にも触れられなかった十六年。


 いきなり母親の顔で抱きしめることは、その十六年をなかったことにする気がした。


 アビスも、言葉を失っていた。


 母。


 そう呼ぶには、遠すぎる。


 でも、胸の奥が反応している。


 名前を持つ前に、自分を抱いた人。


 覚えているはずがないのに、体のどこかが知っている。


 沈黙が落ちた。


 下層街の通りで、誰かが木材を運ぶ音がする。


 遠くで、子供が泣いている。


 マルシアは、何か言おうとして、言えなかった。


 先に口を開いたのは、アビスだった。



「たまに……会いに来てもいいですか」



 声は固かった。


 不器用で、少しだけ(おび)えていた。


 マルシアの目に涙が浮かぶ。


 彼女は笑おうとした。


 うまく笑えなかった。


 それでも、頷いた。



「ええ、もちろん」



 アビスは小さく頭を下げた。


 マルシアは、手を伸ばしかける。


 途中で止めた。


 すると、アビスが少しだけ近づいた。


 触れるほどではない。


 でも、逃げる距離ではなかった。


 マルシアは、その距離を大切にした。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 ルナリアスは、王宮に残ると言った。


 レイは、すぐには意味が分からなかった。



「なんでだよ」



 場所は、王宮と下層街を分ける坂の途中だった。


 ルナリアスは、まだ長く歩けない。けれど、背筋は伸びていた。乱れていた髪も、侍女たちが整えたのだろう。色あせた衣はそのままだが、もう牢の中の人には見えなかった。


 彼女は、崩れた王宮を振り返る。



「ここを知る大人が、誰か残らなければなりません」



 レイは黙った。


 王宮の奥では、人々が走っている。


 メイガスは書類の山に埋もれ、アビスは危険区画の撤去に出ている。兵士たちは命令を待ち、侍従たちは誰に従えばいいのか分からずにいる。


 王宮は、大きすぎた。


 壊れた後でも、すぐにはなくならない。



「私は王家に嫁いだ人間です。知らなかったでは済まされないことが、この場所には多すぎます」



 ルナリアスは静かに言った。


 責められるような声ではない。


 自分で選んだ声だった。



「私を閉じ込めていたこの場所を、今度は誰かが帰ってこられる場所にしたいのです」



 レイは唇を噛む。


 ルナリアスは、レイを見る。


 その目に、奪い返そうとする色はなかった。


 自分の知らない十六年を、取り上げようとはしていない。



「それに、あの子を一人にはできません」



 ルナリアスの視線が、アビスのいる王宮へ向かう。


 レイはその横顔を見た。


 置いていけない子だった。


 王宮に壊され、それでも王宮に残ろうとしている少年。



「俺は……」



 レイは言いかけて、やめた。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 ルナリアスは、少しだけ微笑む。



「あなたには、帰る場所があるのでしょう」



 レイは下層街の方を見た。


 パーズ工房、マルシア、リサがいた通り。

 壊れた街。


 直さなければならないものだらけの場所。



「ああ」



 レイは言った。



「俺は、こっちに残る」



 アビスが、いつの間にか近くに来ていた。


 彼は短く頷く。



「そうすると思っていた」



 レイはむっとした。



「なんだよ、それ」


「お前は王宮に住めない」


「決めつけんな」


「違うのか」


「……まあ、住めねぇな」



 アビスの口元が、ほんの少し動いた。


 笑ったのかもしれない。


 レイは鼻を鳴らした。



「変な話だな」


「何がだ」


「俺たち、母親が二人ずつになった」



 アビスは少し考えた。



「……そうだな」


「面倒くせぇな」


「お前が言うな」


「きっと、二倍怒られるんだぜ」


「私は違う」



 レイは一瞬ぽかんとして、それから笑った。


 アビスも、ほんの少し笑った。


 少し離れた場所で、マルシアが目元を押さえている。


 ルナリアスは、静かに二人を見ていた。


 メイガスは事情を全部理解しているわけではない顔で、それでも少しだけ安心したように息を吐いた。


 坂の上と下で、道が分かれる。


 それでも、完全に離れるわけではなかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 数週間が過ぎた。


 王都は、まだ不便だった。



「また消えた!」



 上層街の家で、女の声が上がる。


 使用人が燭台(しょくだい)を持って走った。



「申し訳ございません。魂魄灯は、まだ復旧の見込みが……」


「もういいわ。ろうそくを持ってきて」


「昨日の分で最後です」


「では買ってきなさい」


「昨日の三倍になっております」


「……三倍?」



 女はしばらく黙り、暗い窓の外を見た。


 噴水の止まった広場では、子供たちが水のない池に石を投げ込んでいる。




 工場区では、手回しの機械が増えた。


 下層街では、古い火炉が復活した。


 煙い。

 煤がつく。

 時間がかかる。


 それでも、鍋は温まる。


 子供たちは、消えたネオンの代わりに空を見上げるようになった。


 魚は増えていた。


 小さな魚も、大きな魚も、壁を抜け、看板を抜け、古い配管の間を自由に泳いでいる。


 盲目の老婆が、空を見上げることもなく、ただ小さく笑った。



「海が、戻ったね」






 王宮では、メイガスが書類の山に潰れそうになっていた。



「兄上、これは何ですか」


「水路復旧計画だ」


「こっちは」


「貴族区の灯火制限への苦情だ」


「こっちは」


「下層街への補償案だ」


「全部今日中ですか?」


「今日中ではない」



 メイガスが少しだけ安堵(あんど)する。


 アビスは続けた。



「昨日中だ」


「兄上!」



 アビスは書類を一枚取り上げる。



「文句を言う時間で一枚読める」


「兄上は厳しいです」


「お前が王族として立つと言った」


「言いましたけど」


「なら読め」



 そこへ、ルナリアスが入ってきた。


 手には簡単な食事を載せた盆がある。



「二人とも、食事を取りなさい」


「今は」


「アビサリウス」



 名前を呼ばれ、アビスは言葉を止めた。


 ルナリアスは静かに盆を置く。



「倒れたら、誰がメイガスを(しか)るのですか」



 メイガスが小さく笑った。


 アビスは少し困った顔をして、椅子に座る。


 王宮の空気は、まだ重い。


 罪は消えない。

 死んだ者は戻らない。


 けれど、以前のような冷たさだけではなかった。





 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼





 それから一年が経つ頃。


 パーズ工房では、レイが新しい装置を組んでいた。


 作業台の上には、小さな流路がある。


 細い透明な管。


 白金色の光をわずかに帯びた輪。


 古い魂魄管を流用した部品。


 形だけ見れば、頼りない装置だった。


 けれど、魂を奪うものではない。


 空を泳ぐ魂が、自分から通れる小さな流路を作る。

 通った魂は、長く漂ううちについた(よど)みや汚れを落とす。(うろこ)についたくすみ、尾びれの端にまとわりついた赤黒い残り香、そういうものが、薄い光の粒になって管の底へ落ちる。


 魂は少しだけ綺麗(きれい)になって、空へ戻る。


 その時に落ちた澱みだけを、ほんの少し分けてもらう。


 効率は悪い。


 魂魄炉とは比べ物にならない。


 小さなランタンひとつ灯すのにも、時間がかかる。


 王都全体を動かすには、ほど遠い。


 レイは、試験用の小さな魂魄灯を見た。


 弱い光が、ゆっくり灯る。


 青白くはない。


 白金色が少し混じった、やわらかい光だった。



「効率、悪すぎるな」



 誰もいない工房で、レイは呟いた。


 パーズがいたら、怒鳴っただろう。


 こんなもんで街が動くか。

 馬鹿かお前は。

 効率の悪さにも限度がある。


 そう言って、工具で頭を小突いてきたかもしれない。


 レイは少し笑った。


 その時、流路の中を小さな魚が一匹通った。


 くすんでいた鱗が、ほんの少しだけ明るくなる。


 魚は尾を振り、工房の天井を抜けていった。


 それを見るのが、レイは好きだった。


 リサならきっと言う。


 洗ってるだけじゃん。


 レイは、作業台に肘をついた。



「そうだよ」



 小さく答える。



「洗ってるだけだ」



 それでいいと思った。





 夜。


 パーズ工房の屋根の上に、レイは座っていた。


 下層街の夜は、以前より暗い。


 ネオンは減った。

 魂魄ランタンも少ない。


 青白い光で()れていた石畳は、今は火炉の赤や、窓から漏れる小さな灯りを映している。



「だから煙てぇんだよ!」


「だったら上層街にでも引っ越せ!」


「暗くて階段から落ちたらどうすんだ!」


「足元くらい見ろ!」



 どこかの路地で、そんな声が飛んでいる。


 レイは屋根の上で小さく笑った。


 不便だ、うるさい、そんな文句ばかりだ。


 それでも、街は生きていた。


 レイは空を見上げる。


 無数の魚が泳いでいる。


 壁を抜け、看板を抜け、煙突の煙をすり抜けて、自由に。




 同じ夜。


 王宮の高い塔の上で、アビスも空を見上げていた。


 背後の廊下では、メイガスが侍従に何かを聞いている声がする。ルナリアスが静かに答えている声も、かすかに届く。


 アビスは手すりに指を置いた。


 王宮の空は、昔より暗い。


 魂魄灯は消え、庭園の噴水も止まっている。


 だが、空の魚は前より近く見えた。



 その夜空の中を、一匹の小さな魚が泳いでいた。


 淡く光る、小魚。


 楽しそうに尾を振っている。


 まず、パーズ工房の上を横切った。


 レイは息を止めた。


 目から、勝手に涙がこぼれる。


 魚は何も言わない。


 ただ、くるりと一度だけ回る。



 次に、王宮の塔からも見える高さへ昇った。


 アビスの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


 声は聞こえない。


 もう、あの軽口も聞こえない。


 それでも、二人の胸には同じ言葉が残っていた。



 もう、大丈夫……でしょ?



 小さな魚は、光の群れの奥へ泳いでいく。


 誰にも引かれず。


 誰にも奪われず。


 自分の尾で、自由に。




 ──夜空には、海がある。


 そしてその海はもう、誰かに奪われるためのものではなかった。







 

 


* * * * *


本作品をお読みいただき、ありがとうございました。


これで、この空に海がある世界のお話は終わりです。

レイ、アビス、リサたちの物語を最後まで見届けていただけたこと、心より感謝いたします。


評価やご感想、レビューなどいただけますと、とても励みになります。


なお、今日は七夕です。

夜空を見上げて、星の大海に思いを馳せていただけたら幸いです。


また、本作の主題歌として『空の海へ』を制作しました。

読後の余韻として聴いていただけたら嬉しいです。


【主題歌】空の海へ

https://youtu.be/iRwrJHTXSPg


※別サイト(Youtube)です。

※AIによる作曲です。苦手な方はご視聴をお控えください。

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