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第13話 王宮の怪物


 メイガスの声は、通路の奥へ吸い込まれていった。



「父上を、()った」



 レイは、すぐには意味を(つか)めなかった。


 喰った。

 人が、人を。


 いや、ここで言う喰うとは、肉のことではない。


 魂だ。


 赤い魚が、人の魂を食らうところなら、もう見た。下層街で、何度も見た。倒れた者の体から漏れた青白い光へ、赤い魚が群がる光景を見た。


 だが、メイガスが言っているのは魚ではなかった。


 母上と、フローリア王妃と、そう言った。


 レイはアビスを見た。


 アビスは、メイガスを見ていた。顔は動かない。だが、目の奥だけが硬くなっている。



「メイガス……何を見たのだ?」



 アビスが聞いた。


 メイガスは唇を震わせた。



「父上が、母上を止めようとして……母上は、僕を(かば)って……それで、赤い魚が……母上の体に……」



 言葉が途切れる。


 奥の通路から、何か湿った音が聞こえた。


 ゆっくりと、何かが床を()っている。


 水を含んだ布を、石の上で引きずるような音だった。けれど、ここに水はない。床を()らしているのは、赤黒い魂魄(こんぱく)の泥だった。


 レイの背筋に、冷たいものが走る。


 壁を抜けていた小さな青い魚が、一匹、通路の奥へ引かれた。泳いでいるのではない。尾を震わせ、逃げようとしているのに、赤黒い影の方へ吸い寄せられていく。


 レイは手を伸ばした。


 間に合わなかった。


 小魚は、暗がりから伸びた赤い筋に絡め取られ、潰れるように光を(ゆが)ませた。次の瞬間、赤黒い影の中へ()まれる。


 その奥から、フローリアが現れた。


 いや、そう呼んでいいのか分からなかった。


 白い王妃の衣は裂け、胸元から腹にかけて赤黒い泥が固まっている。

 顔の半分はフローリアのままだった。


 青ざめた肌。整った眉。震える唇。


 だが、残り半分は赤黒い魚の群れだった。


 小さな魚が無数に重なり、溶け合い、(うろこ)と牙と泥を混ぜたような形になっている。背中からは触手のような魂の束が伸び、壁をすり抜け、床を這い、空を漂う魂へ伸びていた。


 メイガスが息を呑む。



「は、母上……」



 フローリアの片目が、メイガスを見た。


 確かに、見た。


 その瞳に一瞬だけ人の色が戻る。だが、すぐに赤黒い濁りが覆った。



「たりない」



 声がした。


 フローリアの声ではない。


 老人のようでも、子供のようでもあった。何人もの声が、同じ場所から()み出している。



「たりないの……」


「なくなってしまった」


「かえしてはならない」


「わたしが……まもらなければ」



 レイは奥歯を()んだ。


 リサの魂へ続く流れは、まだ先にある。大魂魄炉は止まっていない。ここで時間を使っている場合ではなかった。


 それでも、目の前のものを放っておけば、王宮に残った魂が喰われる。


 避難できなかった兵士も、死にかけている者の魂も、大魂魄炉へ引かれている魂も、全部だ。


 アビスが一歩前へ出た。



「どけ」



 低い声だった。


 フローリアの背中から伸びた赤黒い束が、アビスへ向く。


 次の瞬間、漆黒の光が走った。


 爆発はなかった。


 フローリアの右腕が、肩口からほどけた。赤黒い外殻が砂のように崩れ、床へ落ちる前に黒い(ちり)になって消える。


 メイガスが叫んだ。



「兄上!」



 アビスは振り返らない。


 フローリアの体が大きく傾く。


 だが、倒れなかった。


 通路を泳いでいた青白い魂が、何匹も引き寄せられる。壁を抜け、天井を抜け、抵抗するように尾を振りながら、欠けた右肩へ吸い込まれていく。


 赤黒い泥が(うごめ)いた。


 失われた腕が、ゆっくり形を取り戻す。


 白い腕ではない。


 魚の骨と、赤い泥と、閉じ込められた青い光を無理やり固めたような腕だった。


 レイは息を吐いた。



「再生……!?」


「いや、再生ではない」



 アビスが言った。



「喰った魂で埋めている」



 彼はもう一度、手を上げた。


 今度の漆黒は細かった。刃のように絞られ、フローリアの胸から伸びていた赤黒い束だけを切る。


 束はほどけた。


 中に絡め取られていた青い魚が一匹、転がるように宙へ投げ出される。


 レイは走った。


 両手を差し出す。


 小さな魂が掌へ落ちる。冷たかった。弱っている。鱗に赤黒い汚れがこびりつき、尾びれの端が欠けていた。



「大丈夫だ」



 レイの掌から、白金色の光が(にじ)んだ。


 小魚は震え、少しずつ青白さを取り戻す。レイの指の間をすり抜けると、一度だけ顔の前を回り、天井へ向かって昇っていった。


 レイは顔を上げる。


 フローリアの体には、まだ無数の魂が絡め取られている。



「全部やるしかねぇ」


「時間がない」


「分かってる!」



 言ってから、レイは唇を噛んだ。


 喧嘩(けんか)しないで。


 リサの声が、耳の奥で小さく響いた。


 アビスも何かを言い返しかけて、やめた。


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。


 その隙を、フローリアは逃さなかった。


 背中の束が、(やり)のように伸びる。


 レイの胸を狙っていた。


 アビスの漆黒がそれを切る。


 切れた束は床に落ちる前に魚の群れへ戻り、すぐに壁の中へ散った。赤黒い魚たちは通路のあちこちへ潜り込み、別の魂を探すように泳ぎ回る。



「やるしかない」



 アビスから漆黒が(ほとばし)る。それはフローリアの胸を狙ったものだった。

 だが、フローリアの全身から触手があふれ出し、漆黒の奔流を消し去ってしまう。



「るああああああぁぁぁぁ」



 フローリアが叫ぶと、周囲の魂が、濁流に引きずられるように集まってくる。

 その魂を集めて喰う。

 すると、漆黒でちぎれた触手が元に戻った。



「これじゃ、きりがない!」


「アビス、俺がやってみる」



 レイは白金色の光を広げた。


 フローリア本体へ届かせようとする。


 光の小魚たちが、赤黒い外殻へ触れた。


 弾かれた。


 見えない壁にぶつかったように、白金色の魚たちは宙で散る。レイの掌に痛みが走った。



「くっ……」



 レイは手を押さえた。


 皮膚の上に、赤黒い筋が一瞬だけ浮かぶ。すぐに白金色の光で消えるが、奥に冷たさが残った。



「届かねぇ」


「なら私が外側を壊す」


「全部壊したら、中まで持ってくぞ」


「ではどうする」


「考えてる!」


「考えている間に喰われる」


「分かってるって言ってんだろ!」



 声が荒くなる。


 その時、メイガスが震える声を漏らした。



「違う……」



 レイとアビスが同時に振り向く。


 メイガスはフローリアを見ていた。顔は涙で濡れている。恐怖で膝も震えていた。それでも、目は逸らしていない。



「全部が、赤いわけじゃない」



 メイガスは一歩だけ前へ出た。



「兄上。奥に……内側に青い光があります」



 フローリアの胸のあたり。


 赤黒い外殻の奥で、小さな青白い光が揺れていた。


 レイは目を凝らした。


 魚だ。


 赤い泥に巻きつかれ、潰されそうになっている青白い魚。周囲に取り込まれた魂とは違う。もっと深い場所にある。


 フローリア自身の魂。


 メイガスが叫ぶ。



「母上は、まだいます!」



 アビスの目が細くなる。



「見えた」


「なら、そこだ」



 レイは息を整えた。



「お前が外側だけ削れ。中が見えたら、俺がやる」


「できるだろうか」


「やるんだよ」



 アビスは答えなかった。


 黒い光が、再び指先へ集まる。



「俺に攻撃が向いたらやれ」


「わかった」



 そう言うや否や、レイはフローリアに向かって駆け出す。



「こっちだ、オバさん!」


「るおおぉぉぉぉぉぉ」



 フローリアから触手が伸びると、レイは横に飛んで(かわ)した。



「アビス!」


「当たるなよ、レイ!」



 今度は砲撃ではない。


 ただ壊すための力でもない。


 赤黒い外殻の表面をなぞるように、漆黒の線が走った。触れた部分だけがほどける。肉でも骨でもない。魂を縛っていた赤い膜だけが、細かい砂のように崩れていく。


 その下から、青白い魚が数匹現れた。


 レイが手を伸ばす。


 白金色の光が流れ込む。


 絡みついていた赤がほどけ、青い魚たちは身を震わせた。小さく尾を振り、フローリアの体から抜け出す。


 空へ昇った。


 王宮の天井をすり抜けて、上へ。


 メイガスが涙のまま、その光を見上げる。



「帰っていく……」


「まだだ」



 レイは次を見た。


 アビスが削る。


 レイが解く。


 また一匹、また一匹。


 青白い魂が赤黒い泥から抜け出し、空へ帰っていく。




 どれくらいの時間が経っただろうか。


 フローリアの体が、少しずつ小さくなる。


 赤黒い束が縮む。背中の触手が細くなる。取り込まれた魂が減るたびに、怪物の形は崩れていった。



「なくなる」


「また、なくなる」


「かえすな」


「失わせるな」


「喰わセロ!」


「喰いたい……喰いたい喰いたい喰いたい喰いたい喰いたいぃぃぃぃぃ!!」



 フローリアの体が、大きく膨れた。


 床に広がっていた赤黒い泥が壁を這い上がる。廊下の奥へ、左右の部屋へ、避難者のいる方へ、無数の触手が伸びていく。


 遠くで兵士の悲鳴が上がった。


 レイは走り出す。


 通路の角で倒れていた兵士の体から、青白い魂が抜けかけていた。赤黒い触手がそれを絡め取ろうとしている。



「させるかよ!」



 レイは両手を叩きつけるように光を放った。


 白金色の小魚が触手に群がり、絡みついた赤を押し返す。兵士の魂はふらつきながら、壁をすり抜けて空へ向かった。


 別の触手が、メイガスへ伸びる。


 アビスが切った。


 また別の触手が、廊下の奥へ逃げていた侍女へ向かう。


 アビスが腕を動かすより早く、レイの光が届いた。触手の動きが鈍る。そこをアビスが切る。


 二人とも息が上がっていた。


 アビスの額には汗が滲んでいる。背中に何度も魂魄接続針を受けた後のように、肩がわずかに震えていた。


 レイも掌が痛む。


 赤い魂に触れるたび、冷たい泥が体の奥へ入ってくるようだった。


 それでも止まれない。


 だが、数が多すぎた。


 赤黒い魚群は壁から、床から、天井から滲み出る。


 切っても、押し返しても、また集まる。


 レイは息を吸った。



「なぁ」



 赤い魂の群れが揺れた。


 アビスがわずかに振り向く。


 レイはフローリアを見た。いや、その中にいる赤い魂を見た。



「お前、魂を助けたいんだろ」



 触手の動きが、一瞬だけ鈍る。



「だから取り込んでるんだろ」


「まもる」



 赤い声が返った。



「なくなる」


「燃やされる」


「喰われる」


「まもる」



 レイは唇を噛んだ。


 声に、憎しみがない。怒りはある。飢えもある。


 それでも、ただ壊したいだけの声とは、何か違った。


 だからこそ、胸が重くなる。



「でもさ」



 レイは続けた。



「それ、取り込んだ魂を消費しちまったら、大魂魄炉と何が違うんだよ」



 赤い魚群が、ざわめいた。


 廊下の灯りが赤く瞬く。


 フローリアの胸の奥で、青白い魂がかすかに揺れた。



「ちがう」


「われらは、まもる」


「失わせない」


「かえせば、燃やされる」


「空は、穴だらけ」


「海は、壊れた」


「だから、まもる」



 レイは、リサの魂を思った。


 大魂魄炉へ引かれていく、小さな光。


 空へ帰りたいと言った声。


 覚えてて、と笑った横顔。


 胸の奥が焼けるように痛んだ。



「リサも」



 レイの声が低くなる。



「こいつらも」



 倒れた兵士。逃げ遅れた侍女。王宮の壁を抜けていく小さな魂。フローリアの中で震えている青白い魚たち。



「助けたいんじゃなかったのか?」



 赤い魂は答えない。


 レイは一歩前へ出た。



「助けるってのは、閉じ込めて消費することかよ!?」



 フローリアの体が震える。



「空に帰してやることじゃないのかよ……」



 沈黙が落ちた。


 大魂魄炉の(うな)りだけが、遠くで響いている。


 赤黒い触手が宙で止まった。


 完全に止まったわけではない。先端はまだ震えている。


 けれど、迷っていた。


 魂を失わせたくない。


 だから閉じ込める。


 閉じ込めた魂を維持するために、別の魂を喰う。


 その時だった。


 フローリアの片目が、大きく開いた。


 青い光が、赤黒い泥の奥から滲む。


 フローリアの口が震えた。



「メイガス……」



 今度は、フローリアの声だった。


 メイガスが息を呑む。



「母上!」



 フローリアは赤黒い触手を、自分の腕で押さえつけるように身を折った。喉の奥から苦しげな声が漏れる。



「今よ!」



 レイが顔を上げる。


 フローリアはアビスを見た。



「アビス! 私を殺しなさい!」



 メイガスが叫ぶ。



「嫌です!」



 フローリアの体から赤い魚が吹き出す。主導権を奪い返されまいと、赤い魂が暴れている。


 メイガスは首を振った。



「母上を助けてください!」



 涙が床に落ちた。



「兄上!」



 アビスの目が、メイガスを見る。


 その呼び方に、通路の空気が少しだけ変わった。


 兄上。


 礼儀でも、皮肉でも、血筋を知らないままの呼称でもない。


 助けを求める声だった。


 だが。



「メイガス!」



 フローリアが叫んだ。



「受け入れなさいメイガス」


「母……上?」


「メイガス。これは私の受けるべき罰なのです」


「罰?」


「見て見ぬふりをし、知るべきことを知ろうともしなかった。その罪への報いなのです」


「でも……」


「でも、あなたは違う。生きなさい。生きて、この間違った世界を終わらせなさい」


 

 アビスはフローリアへ向き直る。


 顔には迷いがなかった。


 レイにはそれだけで分かった。


 アビスは一歩踏み出した。


 漆黒の光が、掌に集まる。


 しかし、次の瞬間、膝が落ちた。


 黒い床に、鈍い音が響く。


 アビスは片膝をつき、片手を床についた。肩が大きく上下している。指先に集まっていた漆黒の光が、霧のようにほどけて消える。



「兄上……」



 メイガスは泣いていた。それでも、目は逸らさなかった。


 アビスは立ち上がろうとした。


 だが、足が動かない。

 心は決めていた。

 フローリアを殺すことからも、メイガスの願いからも、逃げていない。


 それなのに、体がついてこない。


 王宮へ来るまでに、すでに力を使いすぎていた。外殻制御区画で封印爪を外し、魂魄流を整え、ここで何度も細かく破壊の力を絞った。漆黒のクジラはまだ奥で動いているのに、アビス自身の体が、その力を通すことを拒んでいた。


 フローリアが、苦しげに息を吸った。



「立ちなさい!」



 その声は、王妃の声だった。



「アビサリウス!」



 アビスの指が床を掴む。


 フローリアは赤黒い束に首を締められながら、それでも言った。



「私は、あなたが嫌いでした」



 メイガスが顔を上げる。


 レイも、思わずフローリアを見る。


 アビスは動かない。


 ただ、床を掴む指先だけに力が入った。



「怖かった」



 フローリアは吐き出すように言う。



「憎かった。あなたがいる限り、メイガスは王になれないと、そう思っていた」



 赤黒い魚が、彼女の(ほお)を這う。


 フローリアはそれを振り払えない。



「けれど」



 声が震えた。



「その力は、信頼しています」



 アビスが顔を上げた。


 フローリアは彼を見ていた。


 兵器を見る目でも、王家の剣を見る目でもない。


 嫌いだった少年を、嫌いだったまま、それでも一人の人間として見ている目だった。



「壊しなさい。私ではなく、私を縛っているものを」



 アビスは立とうとする。


 腕が震える。


 膝はまだ床についたままだった。


 レイは、その横へ歩いた。



「立てよ」



 アビスが(にら)む。



「命令するな」


「命令じゃねぇよ」



 レイは手を差し出した。


 (すす)と傷と赤黒い汚れの残る手。



「まだ終わってねぇだろ」



 アビスはその手を見た。


 レイは続ける。



「俺一人じゃ無理だ」


「だから使え」


「俺の力も」



 アビスはしばらく黙っていた。


 それから、レイの手を掴んだ。


 白金色の光が、二人の手の間で弾ける。


 同時に、漆黒の力がレイの腕へ伝わった。


 冷たく、重く、底の見えない力。


 レイは息を呑みそうになる。


 だが、手を離さなかった。


 アビスの方も、白金色の光を受け止めていた。(まぶ)しさに顔をしかめる。それでも、拒まない。


 破壊と再生。

 漆黒と白金。


 二つの力が、互いを押し潰すことなく、絡み合っていく。


 アビスが立った。


 まだふらついていた。

 それでも、立っていた。


 彼はレイを見た。



「行くぞ、レイスティン!」



 レイの胸が、一瞬だけ詰まった。


 その名は、まだ自分のものになりきっていない。

 それでも、今の声だけは違った。


 アビスが、自分の意思で呼んだ名だった。


 レイは歯を食いしばって笑った。



「ああ、アビサリウス!」



 二人は同時に踏み込んだ。


 フローリアの体が暴れる。


 赤黒い触手が無数に伸びようと蠢く。だが動かない。



「させま、せん!」



 フローリアの眼から血が流れる。



「王家の覚悟を……()めるなァ!」



 フローリアの動きが完全に止まった。


 アビスの手から輝く漆黒の螺旋(らせん)が放たれる。


 破壊の漆黒だけではない。


 白金色に輝く光と、漆黒の二重螺旋。


 フローリアの体がビクンと跳ね、触手があふれ出し、螺旋とぶつかる。



「燃やされる」


「また、奪われる」



 レイは叫んだ。



「だったら、俺たちが炉を止める!」




 触手を飲み込んだ漆黒と白金の螺旋が、フローリアの胸へ届く。


 そこに、赤い核があった。


 喰われた魂たちの怒り、恐怖、執着が絡まり、固まり、赤黒く濁った塊になっている。


 それは、泣いているように見えた。


 レイは息を吐いた。



「もう、閉じ込めんな」



 アビスの漆黒が、核の外殻へ触れる。


 慎重に。


 壊しすぎないように。


 それでも、逃がさないように。


 レイの白金色が、ほどけた隙間へ流れ込む。



「帰してやれ」



 赤黒い核に、細いひびが入った。


 そこから、青白い光が漏れる。


 一匹。


 二匹。


 数えきれないほどの小さな魚が、核の中から(あふ)れ出した。



「そして、お前も帰れ」



 赤黒い色が()がれ、青白い光へ戻っていく。


 最後に、ひときわ小さな魚が一匹、レイの目の前を通った。


 その尾びれには、まだ赤い筋が残っていた。


 レイはそっと手を伸ばす。


 触れる前に、その魚は自分で尾を振った。



「あとは俺たちに任せろ」



 赤い筋がほどける。


 青白い光になって、上へ昇った。


 核が崩れた。


 赤黒い泥が床に落ちる。


 だが、それはもう蠢かなかった。光を失い、ただの黒い染みのように広がっていく。


 フローリアの体から、怪物の形が消えていった。


 残ったのは、王妃だった。


 白い衣は破れ、体は崩れている。胸には大きな穴が開いていた。そこから血ではなく、薄い青白い光が漏れている。


 メイガスが駆け寄った。



「母上!」



 フローリアは倒れかける。


 メイガスが支えた。


 小さな体で、母の体を抱き止めようとする。到底支えきれない。それでも、メイガスは離さなかった。


 フローリアは手を上げかけた。


 指先に赤黒い汚れが残っているのを見て、途中で止める。


 メイガスは、その手を掴んだ。



「母上……」



 フローリアの表情が歪む。



「メイガス」


「はい」


「泣かないで、と言うのは……無理ね」



 メイガスは何度も首を振った。



「嫌です。僕は、まだ……」


「いいえ」



 フローリアは微かに笑った。



「あなたは、生きなさい」



 メイガスの喉が震える。


 フローリアは、視線を動かした。


 アビスを見る。


 アビスは立っていた。レイの隣で、息を切らしながら。それでも視線は逸らさない。


 フローリアは言った。



「こんなことを言える立場ではないのは」



 ヒューと音が鳴り、一度、息が詰まる。



「分かっています」



 アビスは黙っていた。



「ですが……」



 フローリアの指が、メイガスの手を弱く握る。



「メイガスを……」



 言葉が途切れる。


 メイガスが泣きながら叫ぶ。



「母上!」



 フローリアは、もう一度だけアビスを見た。



「あなたも……生きなさい」



 アビスの目が、わずかに揺れた。


 フローリアは最後に、メイガスとアビスを交互に見た。



「お願い……ね……」



 手から力が抜けた。


 メイガスが抱きしめる。


 だが、フローリアの目はもう何も映していなかった。


 王宮の怪物は、消えた。


 そこに残ったのは、罪を抱えたまま死んだ母親の体だった。


 メイガスの泣き声が、通路に響く。


 レイは拳を握った。


 急がなければならない。


 そう思う自分が嫌だった。


 この場で泣いている子供を置いて走ることが、ひどく冷たいことのように思えた。


 だが、壁の奥を魂が流れている。


 青白い小魚たちが、まだ大魂魄炉へ引かれている。


 その流れのずっと先に、リサがいる。


 レイは顔を上げた。



「時間がない」



 声はかすれていた。


 アビスが(うなず)く。



「ああ」



 メイガスは母の体にすがったまま、こちらを見ない。


 アビスは一歩だけ近づいた。


 少し迷ってから、言った。



「メイガス。母上は頼んだぞ」



 ただ、メイガスに預けた声だった。


 メイガスは泣きながら頷いた。



「……はい」



 レイは走り出した。


 アビスも続く。


 背後で、メイガスの泣き声が遠ざかる。


 王宮の奥から、大魂魄炉の唸りが聞こえた。


 二人は、再び走った。


 リサを空へ帰すために。


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