第三章 二百八号室の騒音問題と【家賃三ヶ月滞納】
翌朝、午前八時。鳥たちの澄んだ囀りが響く森の朝気の中で、僕とミアは「集合賃貸物件・ハイツ・ゴブリン」の前に立っていた。「うう……店長、本当にここに入るんですか……? 中からものすごい魔力の波動が漏れ出てて、私の猫耳がビリビリ言ってるんですけど……」ミアが両耳をペタンと寝かせ、僕の後ろでガタガタと震えている。目の前に佇むのは、かつてゴブリンの大型巣窟だった岩山を我が「トリス不動産」が買い取り、内部を大規模改修して作り上げた二階建て・全二十室の集合住宅だ。外観こそ無骨な天然岩盤だが、内部には防音壁(未完成だが)や魔導式水回り、頑丈な鉄製ドアが完備されている。しかし現在、その二階奥に位置する二百八号室の扉の隙間から、禍々しい紫色の光と、重低音の振動がズズズ……と周囲に漏れ出していた。「ひるむ必要はありません、ミア。どれほど強大な魔力であろうと、ここは我がトリスの管理物件です。そして僕たちは、正当な権利を行使しに来た管理会社なのですから」僕は小さな手提げ鞄から、一枚の羊皮紙を取り出した。そこには朱色の文字で大きく【内容証明付き退去勧告書】と書かれている。「さあ、まずは現場の状況確認と、苦情の聞き取りから始めましょう」僕たちは階段を上がり、二百八号室の隣……二百七号室のドアをコンコンとノックした。鍵が開く音がして、中から出てきたのは、目の下にひどいクマを作った青年だった。契約した最初の転生者、サトウ様だ。「あ……ちびっ子店長……と、バイトちゃん……」「おはようございます、サトウ様。お顔の色が非常にお悪いようですが」「悪いなんてもんじゃないよ……!頼むから助けてくれ店長!隣の二百八号室の奴、昨日の深夜二時十四分からずっと、ぶつぶつぶつぶつ大声で魔法の呪文を唱え続けてるんだ!『我、深淵なる滅びの炎を呼び覚ます者なり……』とか何とか、壁に向かって四時間以上だぞ!?壁は振動するし、怪しい紫の光が隙間から漏れてくるし、気になって一睡も出来やしない!」サトウ様は頭を抱え、涙目になりながら訴えかけてきた。「しかも、二百九号室のオークの冒険者さんも『うるさくて眠れん!叩き潰す!』って斧を片手に怒鳴り込もうとしたんだけど、ドア越しに放たれた圧迫面接みたいな威圧感で気絶して、今自室で寝込んでるんだぞ!?」「隣室から二件、さらに階下の百八号室からも『天井から不気味な呪文が降り注いでくる』と一件……合計三件の苦情、確かに受け取りました」僕は静かに手帳へメモを走らせた。「サトウ様、ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません。集合住宅における『深夜二時以降の過度な音響および魔法詠唱行為』は、利用規約第十二条【近隣住人への迷惑行為の禁止】に明確に違反しております。直ちに処置をとらせていただきます」「た、頼むよ……!俺、今日は薬草採取の初仕事なんだ……寝不足で森に行ったらゴブリンに食われちゃうよ……!」「ご安心ください。住環境の保全は管理会社の責務です。……ミア、二百八号室へ向かいます」「は、はいぃぃ……!」サトウ様に深々と一礼し、僕は問題の二百八号室のドアの前へと進み出た。ドアノブに手をかけるまでもなく、全身の皮膚がピリピリと痺れるような高濃度の魔力が漂っている。ドアの向こうからは、低く響く朗々とした声が聞こえていた。『……かの者らに至高の裁きを、爆炎の渦となりて万物を灰燼に帰せ……アルティメット・エクスプロージョン……ッ!』「ひやああぁぁ!? 上級魔法の詠唱完了寸前じゃないですかぁぁ!?」ミアが頭を抱えてしゃがみ込む。しかし、僕は至って冷静に視界の端へと意識を向けた。
(表示——【管理者ステータス通知】)視界の隅に、青基調のシステムウィンドウが鮮やかに立ち上がる。【トリス管理システム:リアルタイム警告】・対象物件:ハイツ・ゴブリン 二百八号室・入居者:カザム(転生者/元・現代日本の大学教授/現・上級大賢者)・検知内容:上級爆炎魔法「極大滅殺炎陣」の詠唱行為(進行度九十二パーセント)・予測被害:二百八号室の全焼、隣室への延焼、建物耐久度マイナス六十五パーセント・現在の契約状況:【家賃三ヶ月滞納(計三万コイント未払い)】・敷金残高:〇コイント(初期費用ゼロキャンペーン適用のため)(……上級魔法使いの空室率は避けたいところでしたが……敷金ゼロで建物耐久度六十五パーセント減少は、事業として絶対に許容できませんね)僕は迷いを捨てた。トントン、と小さな手で頑丈な鉄製ドアをノックする。「失礼いたします。トリス不動産店長のネイルです。カザム様、お話し中大変恐縮ですが、少々よろしいでしょうか?」ぴたり、と中の詠唱が止まった。『……ぬ?誰だ、我が至高の魔導研究を邪魔する愚か者は……』ギィィ……と重い音を立ててドアが開き、中から一人の男が姿を現した。ボサボサの白髪に、豪華だが皺だらけの魔導師服を纏った男。カザム氏だ。元の世界では物理学の教授だったらしく、こちらに転生してチート級の魔力と「大賢者」の職業を得たことで、夜な夜な理論魔法の研究に没頭しているらしい。「何の用だ、幼子よ。ワシは今、古代魔法と現代物理学を融合させた真の極大魔法の構築を行っておるのだ。集中が切れたではないか」「カザム様。ご自身の研究に没頭されるお気持ちは理解いたしますが、現在は深夜ではなく早朝の八時です。そして、昨夜の深夜二時十四分より開始された魔法詠唱および魔力振動につきまして、近隣の入居者様方から三件の騒音苦情が寄せられております」「ハッ!騒音だと?失礼なことを言うな!」カザム氏は不快そうに鼻を鳴らし、長い杖を床に突いた。「ワシが奏でているのは宇宙の理、万物の真理を解き明かす神聖なる詠唱だ!それを騒音などと吐き捨てる愚民どもの耳こそ腐っておるわ!ワシはこの異世界で最強の魔導師ぞ?凡人の睡眠など、我が偉大なる研究の犠牲となって当然ではないか!」「……なるほど。ご自身の過失を認めるおつもりはない、ということですね」「過失などあるものか!ワシはここで世界を揺るがす研究をしておるのだ!部屋の中で何をしようとワシの自由であろう!」「自由ではありません」僕はハッキリと言い放った。「ここはあなた個人の持ち物ではなく、我がトリス不動産が所有する賃貸物件です。契約書第十二条にお約束いただいた通り、他の入居者様の生活環境を脅かす行為は固く禁止されております」「黙れ!ワシに説教するなど百年早いわ!」カザム氏が杖を構えると、その先端に猛烈な火炎の球体が生成された。ゴオッと熱風が廊下に吹き荒れ、ミアが「ひぃぃっ!?」と悲鳴をあげる。「ワシを怒らせれば、この岩山ごと灰にしてくれるぞ!ワシの邪魔をするならば、貴様らもまとめて焼き尽くしてやる!」最強クラスの魔導師による、明確な脅迫と暴力の提示。普通のアドベンチャー作品であれば、ここで主人公が剣を抜き、チート能力で魔法を相殺する場面だろう。
しかし。僕は眉ひとつ動かさず、鞄から一枚の紙を取り出すと、カザム氏の鼻先に突きつけた。「カザム様。暴力を振るう前に、まずこちらの現実をご覧ください」「ぬ……?なんだこれは……?」「【家賃滞納に関する催促状および最終通知】です」カザム氏が火炎を掲げたまま、チラリと紙に目を落とした。
【未払い家賃詳細】・五月分家賃:一万コイント(未払い)・六月分家賃:一万コイント(未払い)・七月分家賃:一万コイント(未払い)・遅延損害金(年利十四・六パーセント):四千三百八十コイント ・合計請求額:三万四千三百八十コイント
「な……なに……!?」「カザム様。あなたはお選びになった『三ヶ月無料キャンペーン』の期間が三ヶ月前に終了しているにもかかわらず、その後の家賃を一切お支払いになられておりません。何度もポストへ督促状をお入れしましたが、全て無視されていますね?」「ぐっ……そ、それは……!ワシは研究に忙しく、金稼ぎなどという下俗なことをしている時間がなかったのだ!ワシほどの偉大な魔導師が、なぜ金などに縛られねばならんのだ!」「金に縛られたくないのであれば、野宿をされるべきでしたね」僕は淡々と、しかし寸分の隙もない口調で追い詰めていく。「あなたは当店の『初期費用ゼロ』という好条件に乗っかり、快適な個室と防音(未完成)環境を手に入れながら、義務である家賃の支払いを三ヶ月に渡り踏み倒し、挙げ句の果てに物件を全焼させかねない危険魔法を室内で詠唱し、真面目に家賃を払っている他の入居者様を脅かしている……。言葉を選ばずに申し上げれば、ただの『悪質な不法占有者』です」「不っ……不法占有者だとーーー!?」カザム氏の顔が赤く熟したトマトのように真っ赤になった。「ワシは転生者だぞ!?大賢者だぞ!?この世界を救うかもしれない英雄候補だぞ!?」「肩書は家賃の代わりにはなりません」僕はトドメとばかりに、もう一枚の紙。先ほどの【内容証明付き退去勧告書】を提示した。「本日ただいまをもちまして、カザム様との賃貸借契約を解除いたします。本日中に速やかに荷物をまとめ、本日十六時までに完全退去してください」「ふ、ふざけるな!誰が退去などするものか!ワシが本気を出せば、こんな貧相な契約書など一瞬で焼き払えるのだぞ!?」カザム氏がカッと目を見開き、杖の火炎をさらに巨大化させた。「見よ!この極大爆炎魔法を!契約書も、貴様らも、この部屋も、全て焼き尽くしてしまえば契約など無効だーーーーっ!」「店長ーーーっ!撃ってきますよーーーっ!?」ミアが僕の服の裾を掴んで叫ぶ。だが、僕は溜め息を一つ吐くと、小さな手帳のページを一枚、パチンと指で弾いた。
「やれるものなら、やってみてください」
「死ねぇぇぇーーーーっ!『極大滅——』」
カザム氏が怒号とともに杖を振り下ろした——その瞬間。フッと。杖の先で猛り狂っていた巨大な火炎が、まるで蝋燭の火を吹き消したかのように、呆気なく消滅した。『……え?』カザム氏が呆けた声をあげる。それだけではない。彼の体から溢れ出ていた強大な魔力のオーラが、一瞬にして綺麗さっぱり掻き消えていたのだ。「な……なんだ!?魔力が……ワシの魔力が練練練練練練れん……っ!?体に力が入らん……!?なんだこれはぁぁぁ!?」膝から崩れ落ち、ガクガクと床に手をつくカザム氏。僕は冷ややかな視線で見下ろしながら、システムウィンドウを指差し確認した。
【トリス管理システム:ペナルティ発動】・対象:カザム(入居者)・発動条件:家賃三ヶ月以上滞納+賃貸物件の損壊企図・適用条項:契約書第十九条【ステータス担保権の行使】 ・処理内容:【全魔力の一時的凍結】および【全ステータス七十パーセント減少】
「ひ……サトウさんの時と同じ……!ステータス担保のペナルティだ……!」ミアがゴクリと唾を呑み込んだ。「ええ。カザム様、ご説明したはずです。入居時にサインされた契約書には『家賃滞納時および物件損壊の意図が確認された場合、管理者は借主のステータスおよび魔力使用権限を即座に凍結できる』と明記されております」「ひ……卑怯だぞ……!こんなの魔法の決闘ではない……!不当な不意打ちだ……!」床に伏したまま、ゼーゼーと息を吐くカザム氏。かつて最強を誇った大賢者の面影は、そこには微塵もなかった。「決闘などしておりません、事務手続きを行っているだけです」僕はしゃがみ込み、カザム氏と目を合わせた。「さて、カザム様。退去にあたっての清算計算を行わせていただきますね」僕は電卓……ではなく、小さく持ち運べる算盤を取り出し、パチパチと素早い手つきで玉を弾き始めた。「まず、滞納家賃および遅延損害金で、三万四千三百八十コイント。 次に、深夜の騒音被害に対する近隣住人三名様への迷惑料・慰謝料として、お一人様五千コイントずつで計一万五千コイント。さらに、本日予定されていた退去立会いを拒否し、魔法による脅迫を行ったことに対する【違約金】として、家賃六ヶ月分の六万コイント。最後に、室内の壁面に付着した魔導煙の消臭および原状回復費用として、二万コイント」パチン、と算盤の玉が最後の音を立てた。「合計で【十三万九千三百八十コイント】となります」「じ……十三万……!?そんな大金、あるわけないだろうがぁぁぁ!?」「ご安心ください。全額現金でお支払いいただけない場合は、あなたが所有されているその『高級魔導師服』『古代の魔導杖』、および『自作の魔法論文』を担保として没収させていただきます」「ワシの研究資産を奪う気かぁぁぁ!?」「支払わないあなたが悪いのですよ」僕は立ち上がり、背後のミアに指示を出した。「ミア、執行です。室内からカザム様の私物を全て搬出し、差し押さえ品とそれ以外に分別してください。本日十六時までに清算が完了しない場合は、全私物を競売にかけ、滞納金の補填に充てます」「は、はいっ!分別の鬼になります!」「ま、待ってくれ……!頼む、あの論文だけは……ワシの三十年の研究の結晶なんだ……!論文を売られたらワシは……ワシはただの無職のおじさんになってしまう……!」涙と鼻水を流し、僕のズボンの裾にしがみついてくるカザム氏。かつての威厳など、影も形もない。「カザム様。住む場所を守る努力を怠り、他人に迷惑をかけ、契約を破った者に、研究を続ける資格はありません」僕はすっと足を引き、彼の手を振り払った。「ただし……僕も鬼ではありません。一つだけ、救済措置を差し上げましょう」「きゅ……救済措置……!?」カザム氏がすがるような目で僕を見上げてくる。「王都の冒険者ギルドの裏手にある『解体場』で、現在、大規模な魔物素材の洗浄・雑用スタッフを募集しています。日給八百コイント。住み込みの相部屋(まかない付き)です。そこで半年ほど真面目に働けば、滞納金と違約金の完済が可能です」「え……ワシが……大賢者のワシが、魔物の腸を洗う雑用をするのか……!?」「『住む場所=新しい人生のスタート』です。プライドを捨てて汗を流し、お金の重みを知ることも、あなたにとって新しい人生の第一歩になるのではないでしょうか?」僕がにっこりと営業スマイルを向けると、カザム氏はガクガクと震え、やがてガックリと頭を垂れた。「……わかり……ました……。解体場へ……行きます……。だから論文だけは……売らないで……」「かしこまりました。完済まで保管させていただきます。……良いお返事をありがとうございます」こうして、ハイツ・ゴブリン二百八号室の騒音&家賃滞納問題は、一滴の血も流れることなく(ただし大賢者のプライドは粉々に砕けたが)無事に解決したのだった。
同日、夕刻。綺麗に清掃され、空室となった二百八号室の風通しを良くしながら、僕は窓の外の夕焼けを眺めていた。「ふぅ……店長、お疲れ様でした!カザムさん、泣きながらトボトボと解体場へ向かっていきましたね……」雑巾を持ったミアが、額の汗を拭いながら寂しそうに言った。「ええ。これで二百七号室のサトウ様も、今夜からは安心してぐっすり眠れるでしょう。住人の生活環境を守るのも、大切な仕事です」「でも……せっかく埋まってたお部屋が、また空室になっちゃいましたね。空室率、上がっちゃいましたよ?」「心配いりませんよ、ミア」僕は管理台帳の「二百八号室」の欄に、赤ペンで「リフォーム中」と書き入れた。「上級魔導師が使っていたお部屋ですからね。壁や床に染み込んだ魔素を『天然の自動防犯・浄化システム』として再定義し、リノベーションを施します。そうすれば『魔物が寄ってこない安心のセキュリティ物件』として、家賃を一万五千コイントに値上げして募集をかけられますから」「……っ!?怪我の功名どころか、ちゃっかり物件の価値を上げて家賃アップさせてるー!?」ミアが目を丸くして叫んだ。「当たり前です。ピンチをチャンスに変えるのが、優秀な不動産事業者というものです」僕は手帳をパチンと閉じ、窓から差し込む夕日を背に微笑んだ。「さあ、ミア。店に戻りましょう。明日はどんな『お客様』がやってくるか……今から楽しみですね」「うう……次はどうか、普通に家賃を払ってくれる平和なお客さんが来ますように……!」ミアの切実な祈りが、夕暮れの森の中に静かに溶けていっていった。




