9 隊長-4-
地下世界には昼夜はない。
人々は感覚で、あるいは時計で、一日という時の流れをつかむ。
だがこの日だけは、アナグマにとってずっと夜だった。
カイロウの死を見届けた瞬間から、ずっと夜だった。
時が止まってしまったのだ。
あまりにも多くのことが起こったから、彼にはそれを整理する時間が必要だった。
だから――時は待ってくれたのだ。
「隊長……!」
親代わりだった彼の死は、アナグマにとって二度目の、父との死別だった。
もっと話したいことがあったのに。
もっと教わりたいことがあったのに。
もっと甘えたかったのに。
それらすべてができなくなった。
死がすべてを奪い去った。
今ばかりは世界の真実などどうでもよい。
レイテルの話が本当であろうと、ウソであろうと、それはカイロウの死とは関係ない。
(どこから狂ってしまったんだ……?)
あてがわれた部屋で、アナグマは自問する。
すべてが順調だったとは言わない。
しかし彼には未来が見えていたハズだった。
カイロウに認められて入隊を果たし、隊員として活躍する。
そして父の夢であった、地上の果てへとたどりつく。
いつかそうなる、と。
必ずそうする、と。
それがアナグマの思い描いていた未来だったのだ。
(ダメだ……)
このまま喪失感に沈んでしまえば、自分は何も成せなくなる。
何者でもなくなってしまう。
ため息をひとつついて立ち上がり、顔を洗うために彼は部屋を出た。
廊下には誰の姿もなかった。
天井からの照明は弱いうえに、ひとつひとつの間隔が広いせいで、雰囲気は良いとはいえない。
心理状態もあいまって幽霊でも出そうな空気に、アナグマは身震いした。
薄暗い廊下を進み、右に曲がったところに洗面台がある。
レバーを引くと蛇口から糸のような水が出た。
(濁っていないだけマシか)
指先で触れるとひんやりと冷たい。
両手に溜めた水を顔にたたきつけると、彼はようやく目が覚めたような気分になった。
その時、足音がした。
ふっと顔を上げたアナグマは目の前にある鏡を見た。
誰かが来る。
鏡面に反射した廊下の曲がり角に、何者かの足が見え、すぐに全身が露になる。
「キンケルさん……?」
見知った顔が現れ、彼は鏡越しに声をかけた。
が、振り向こうとして止まる。
――おかしい、と。
なかば直感だった。
天井から落ちる弱々しい光が、ほこりを被った鏡面にキンケルの姿をぼんやりと浮かび上がらせる。
「――――!!」
その手に反射するものがあった。
アナグマが振り返るのと、キンケルが飛びかかったのはほぼ同時だった。
銀色の尖端せんたんがアナグマの頬をかすめる。
空を切ったそれを認める前に、彼の体は咄嗟に回避行動をとっていた。
「キンケルさん! 何を――!?」
返す刃が袈裟懸けに振り下ろされる。
未熟ながらも実戦経験を積んだアナグマは、どうにか切っ先をさばく。
だが場所も相手も悪い。
狭い洗面所ではとれる行動は限られる。
おまけに相手は同じ隊の先輩だ。
「隊長が死んだ悲しさでお前もあとを追った……そういうことにしておいてやるよっ!」
「な……いったい何のことですか!?」
なぜ彼が突然襲いかかってきたのか、アナグマには分からない。
とにかく距離をとり、冷静に話し合いたいと思うが状況はそれを許してくれそうになかった。
どうにか応戦しようとするが、武具は没収されているために丸腰だ。
対して相手はどうやって調達したか、この狭所で有利に戦えるナイフを持っている。
アナグマは身をかわし、その一撃を避けるので精いっぱいである。
「ぐぐ…………!!」
大振りの一撃をかわしたアナグマは、彼の手首をつかんで無力化しようとする。
しかし相手もまた、幾度の探検を重ねた実力者だ。
もみ合った体勢のまま、アナグマは壁際に追い詰められた。
「どうしたって……いうんですか!? なんでこんなことを――」
鈍く輝く尖端がじりじりと喉元に迫る。
「お前たちが死ねば隊長の遺言は無効だ! あの人の言葉を聞いた奴はいなくなる!」
自分を除いて、と言外ににじませたキンケルの目はナイフと同じくらいに鋭かった。
(そんなことで……!)
とアナグマは思うが声には出ない。
微細動する切っ先が喉に触れているからだ。
ほんのわずか体勢を崩すだけで、彼を貫くだろう。
――殺されるワケにはいかない!
追い詰められ、迫る死を前に生への渇望が生まれる。
こうなると人は普段は出せない力が湧いてくる。
アナグマは両腕に力を込めてキンケルを押し返した。
切っ先が喉から離れる。
その隙を逃さずアナグマは背を反らせ、その反動を利用して頭突きを見舞った。
「あぐ……っ!」
キンケルがのけぞる。
距離ができる。
アナグマが詰め寄る。
キンケルが闇雲に振り回したナイフが、でたらめな軌道を描いた。
その鋒鋩を冷静に見極め、反撃に転じようとするアナグマだったが、強襲者はそれを許すほど甘くはない。
いったん距離をとったキンケルは額の痛みをすら怒りに変えて、ナイフを構えなおす。
この狭所では振りおろす、薙ぎはらうといった行動はとりにくい。
そうアナグマがにらんだとおり、彼は刺突のかまえでにじり寄る。
動きが分かっているなら、あとはその瞬間に身をかわし、取り押さえるだけだ。
――が、その狙いには当然、キンケルも気づいている。
よって迂闊には踏み込まない。
アナグマが刺突の一瞬を取り押さえようとしていることは分かっているからだ。
――だからアナグマはそれを利用した。
「なん……!?」
向かってこないとキンケルに思い込ませ、姿勢を低くして肩からぶち当たる。
虚を衝かれ、背中から落ちたキンケルだが得物はまだしっかりと握り締めている。
そのまま制圧しようとアナグマは馬乗りになって押さえ込みにかかる。
しかしそれより一瞬だけ早く、キンケルが身を反転させてかわす。
バランスを崩され、上下が入れ替わる。
ナイフが振り下ろされる。
アナグマが腕をつかんだ。
刃が眼前に迫る。
「お前さえいなければ……!」
キンケルは全体重を乗せ、アナグマを刺し貫こうと迫る。
その時、二人の視界の外から何かが飛んできた。
それが何であるかを確認する暇もなく、キンケルの体が跳ね飛ばされる。
壁にたたきつけられた彼はそのまま昏倒した。
上体を起こしたアナグマの前にいたのはダージだった。
「こんなものしかなかった」
彼はへこんだフライパンを見せてにやりと笑う。
「すまなかったな。もう少し早く気づいていればよかったんだが……」
「いえ、ありがとうございます。助かりました……」
差し出された手を支えにアナグマが立ち上がる。
もみ合っている間にナイフがかすめていたか、二の腕にわずかに血がついていた。
「キンケルさんは――?」
「隊長の遺言に納得できなかったんだろう。遺言をなかったことにして、自分が隊長の座に就くつもりだったらしい」
「そんな……」
「そう呟いていたのを聞いたんだ。ただの愚痴だと聞き流していたが、まさか本当に成り代わろうとするとはな」
ダージは憐れむような目で彼を見下ろした。
「おそらくは新入りにあとを託したのが気に入らないってところだろう。年功序列じゃあるまいし」
「その、ダージさんは……?」
「俺にとっちゃ隊長はカイロウさんだけだ。その隊長がお前を指名したんだ。異存はないさ。そういう意味じゃこいつは隊員失格だ。カイロウ隊長の遺志を無視したんだからな」
憐れみは蔑みに転じた。
こうなれば四肢を縛るのにもためらいはなくなる。
「この大変な時に面倒ごとを起こしやがって」
今度は蔑みは憎らしさへと変わった。
「どうしますか?」
「いけ好かない連中だが、カイロウ隊長の治療にあたってくれた。そのうえこいつをここに置いていくワケにはいかないだろう。これは俺たちの問題だ」
つまり拘束したまま連れて帰るということになる。
「しかたないですね……」
アナグマは今になって隊長を託されたことの重みに気づいた。
そもそも彼は承諾したワケではない。
辞退することもできたハズだった。
だがそのやりとりを交わす前にカイロウは旅立った。
そうである以上、今となっては彼が遺した言葉のみが有効なのである。
「ダージさん、俺は――」
「自分に務まるか不安だ、ってんだろ? 顔を見りゃ分かる。俺だって同じことを思うだろうさ」
「それなら――」
「カイロウ隊長のお気持ちを考えろ。なぜ俺でもキンケルでも、最古参のギトーでもなく、お前なのか。隊長なりのご判断があるハズだ」
「それは……」
「それでも辞退したい、っていうなら全員の前で言え。そしてお前が隊長に相応しいと思う者をその場で選べ」
突き放すような口調でダージは言った。
だがその表情は今まで見せたどの瞬間よりもおだやかだった。




