50. 知っている傷
何が起こったのだろう。
指輪を外した瞬間、魔力が溢れ出して、無我夢中でそれら全てを地中から自分を押し上げることに注いだ。
きっと一瞬のことだったと思う。
頭が空っぽになって、体が発熱して、何か大きな音が響いていて、そんな中で魔力を従わせようとしていた感覚だけがまだ残っている。
自分が溶けて、まるごと魔力だけの存在になってしまったみたいな感覚だった。
気がつくと、視界に光がさしていて、私は地面の中じゃなくてその上に座っていた。
(…あめが、ふってる。)
体がだるくて、外に出られた安心感と、雨に打たれて一つずつ思い出すように五感が戻ってくるのを感じながら目の前を落ちていく雨粒を眺めていると、背後から知った声がした。
「…エマ、」
振り返ると、ヒスイが立っていた。
見たところ、怪我もなさそうだ。
(ぶじでよかった。)
安堵で頬が緩んだ私を見て、ようやくヒスイもこちらの無事を確信できたらしかった。
駆け足で近づいて、私の顔に張り付いた泥だらけの髪を横に流してくれる。
「どこも怪我はない?」
ヒスイは顔を覗き込むと、開口一番そう聞いた。
「少し擦りむいただけです。」
「そっか、あとで手当てしなくちゃね。でも大きな怪我がなくてよかったよ。立てる?」
「はい。」
力の入らない足を叱責しながらゆっくりと立ち上がると、ヒスイは私の頭の先から足の先までじっくり眺めると、困ったように笑った。
「泥んこだね。」
「ですね。すみません。」
「謝らない謝らない。お互い無事でよかったじゃない。」
ね、とヒスイは笑った。
それがあまりにいつも通りの笑顔だったので、私もつられてしまった。
「さてと雨も強くなってきたし、早く今日の宿に向かいたいところだけど…」
そう言われて、いつの間にか雨粒がこんなに大きくなっていたことに気がついた。
いまだどこかぼんやりしたままの頭を振って無理やり思考を取り戻す。
ヒスイはと言うと、先ほど私が座っていた辺りにしゃがみこんで何かしている。
近づいてそっと後ろから覗き込むと、地面に顔が二つ並んでいた。
というか、地面から首が生えている。気を失っているようだ。
「今死なれちゃ寝覚めが悪いからね。」
(これが、私やキョウを狙っていた人間の顔…)
知らない人間だからか、無力化されているからか、はたまた疲れているせいか、何の感情も沸いてこなかった。
「これでよし、と。」
ヒスイは立ち上がって、今度は木の上に手を向けた。
その先を目で辿ると立派な木の枝上に何かが立っていた。
あれは、狼だ。
あの日私が倒した、あの狼だ。
目が離せないでいると、狼が静かに浮かび上がった。
「えっ」
そしてそのまま魔法のようにふわふわと木の根まで下ろされると、その場にどさりと倒れた。
「ヒスイ、この雨で魔法が使えるんですか…?」
レイと同じように何か体質によるものなのだろうか。
見上げるとヒスイの髪で隠れている右目と目があった気がした。
宝石のような深い緑の瞳。
「これは、魔法じゃないんだ。」
それだけ言うと、ヒスイは動かなくなった狼のもとに進んだ。
私も後をついて様子を伺う。
「…やっぱりね。」
狼のベールを剥ぎ取ると、生気のない目玉がぎょろりと上を向いて今にもこぼれ落ちそうになった顔が露出した。
鼻と口の端は血液かよだれかがこびりついて固まっている。
「最初から死んでた、ってことですか?」
ヒスイは予想していたのか、静かに一つ頷いた。
だとしたら教会で聞いた鼻息はあの男がわざわざ魔法で擬装して聞かせていたことになる。
だとすれば森に入ってからは狼の音が全くなかったことにも納得がいく。
だけど、どうして教会ではわざわざ狼が生きているように細工をしたのだろう。このベールだってそうだ。顔を隠したのは狼が死んでいることを悟られないようにするため。
「エマ?」
ふらふらと狼に近づいた私にヒスイは困惑した声を出した。
(説明する前に確かめなくちゃ。)
狼のこめかみの辺りの毛をかき分けてみると、探しものはすぐに見つかった。
(血が固まってる。)
それはあの時、位置や大きさから、森で私が小石を貫通させた時の傷口で間違いなかった。
「この狼、あの家の近くに現れたものと同じです。それと、多分その時に死んでいます。」
ふう、とヒスイは息を吐き、狼を挟んで向かいにしゃがんだ。
「わかった。それじゃエマ、僕がいいって言うまで目をつむっててくれる?」
まっすぐに私の目をみつめて、険しい表情でそう言ったヒスイにただならぬ決意を感じ頷くと、ヒスイはふっと表情を緩めて、ありがとうと言った。
それからしばらく、雨音に混じってそれとは違う粘りけのある水音がしていたが、ものの数分でそれも止んだ。
嗅ぎ慣れた生臭い匂いが辺りに漂っていた。
一瞬、ヒスイが息をのむ気配があって、少しの沈黙のあと、声がかかった。
「エマ、もういいよ。」
目を開けると、私達の間に横たわっていたはずの狼の姿はなく、ヒスイの手も汚れてはいなかった。
てっきり血塗れになっているかと覚悟していたのだが。
何をしていたかは想像がつく。
きっと私の腕を回収していたのだ。
皆は気を遣ってはっきりとは口に出さなかったけれど、私の腕は狼に食べられてしまったのだろう。
そしてそれが消化されず体内にあることは今日私のところに転移出来たことで証明された。
狼の生命活動が止まることで体内の腕が維持される仕組みならば、今ここで回収しておくのが先決だろう。
(教えてくれそうなら、あとで詳しいことも聞いてみよう。)
「エマ?」
「あ...」
ヒスイの声にはっとする。
考え込んで固まってしまっていた。
「大丈夫?疲れたよね。宿に向かおうか。」
そう言って立ち上がったヒスイを慌てて引き留める。
まだここを離れるわけにはいかなかった。
「待ってください。あの、指輪が…」
「指輪?」
そこで初めて、ヒスイは小指にリザドールがはまっていないことに気がついたらしかった。
すると彼は焦る自分とは対照的になんでもないことのようにからりと笑った。
「僕に任せて。」
「だけどきっと土の中だし、どこにあるのか…」
「大丈夫だよ。」
そう言うと、ヒスイは自身の髪を数本抜いて、それを地面に置き、それを囲む輪を人差し指と中指でくるりと書いた。
「見てて。」
ヒスイは描いた輪の上に手のひらを当て、じっと地面をみつめている。
言われた通り見守っていると、ふとヒスイが地面ごと、土を掴むように置いていた手を握りしめた。
ここまでで魔法の気配は一切ない。
けれど。
こちらに向けてゆっくりと開かれたヒスイの手の中には、掴んだ土と共に私のリザドールが2つ、のっていた。
「すごい!!どうやったんですか?」
小さな子供のように興奮している私に満足げに笑いながら、ヒスイはリザドールを手渡したあと、人差し指を立てた。
「宿に着いたら教えてあげるよ。」
そのままちょん、と鼻先をつつかれ、一瞬固まってしまった。
少し照れくさかったので、先を歩き始めたヒスイに駆け足で並んで「絶対ですよ」と念を押した。




