49. 0か100か
目を閉じて、思い浮かべる。
図書館の大きな窓から柔らかくさす木漏れ日。
あの家を抜ける澄んだ風、鳥の声。
本のページをめくる時の紙を撫でる感触。
ヒスイと作るあたたかい料理の匂い。
新しい本の中に知っていることをみつけたとき。
レイの話す知らない知識を聞くとき。
身体のどこにも痛みがないとき。
キョウが、優しい目を向けてくれるとき。
まだまだ、たくさんある。
思い出して心がほどけること。
私は幸せ者だ。
それを感じることが出来る。
その価値を、知っている。
(…うん、落ち着いてきた。)
気がつけば暗闇にも目が慣れ、視界は目が吸い込まれるような黒から、ぼんやりとした薄闇へと変わっていた。
ほとんど何も見えないことに変わりはないけれど、いくらか恐怖心は和らいでいた。
どれくらい経ったのか。
地上の男の気配はずっと辺りをうろついていた。
ヒスイはどうしているだろう。
(何かあったのかな…)
その時。
頭上、それも本当に真上に魔法の反応があった。
慣れた質感のその魔力は、ヒスイのもので間違いない。
安心したのも束の間、
それとは別にもう一つ、少し離れたところでも転移魔法らしき新しい魔力の気配。
位置的にヒスイが挟み撃ちになっている。
(出ていった方がいいかな、かえって邪魔になるだろうか。)
様子をうかがっていた数秒のうちに上では激しい魔力の押収が始まり、出ていくタイミングを完全に逃してしまった。
これだけ魔力が行き交っているのにヒスイの魔力の気配はほとんどなく、彼の魔力操作がいかに繊細かが実際の戦闘を見ずともよくわかった。
しだいに戦闘の中心は少しずつずれ、そして間もなくしんとなった。
(攻撃が止まった…?)
息を潜めて状況をうかがっていると、ヒスイの魔力と、敵の一人の魔力がわずかに交わされる。
一瞬の沈黙。
(出ていくなら、今かもしれない。)
意を決して頭上に手を向け、渾身の魔力を込めた。
けれど。
「うそ、なんで…」
体内をめぐる魔力が全然いうことを聞かず、魔法にならない。
(私、この感覚知ってる。これは、雨の魔女の…)
鼓動が早くなる。
(落ち着け、落ち着け。)
もう一度魔法を試みるも当然のように何も起こらない。
発動済みの魔法は影響を受けにくい、とはいえそれはこんな未熟な魔法使いの発動した魔法にはさほど適用されないルールらしい。
土の中で私を囲う水の膜が少しずつ振動を始めた。
(まずいまずいまずい!)
これが崩れたら誰にも気付かれないまま生き埋めになってしまう。
(とにかく何とかして外に出ないと…)
水の膜の揺らぎが大きくなるつれ鼓動が乱れ、息が浅くなっていく。
キョウは雨の中どうやって転移魔法を発動したって言っていたっけ。
確か、魔力に任せて無理矢理いうことをきかせたって。
(だからそれはどうやって…!)
駄目だ。もう形を保っていられない。
水の膜はぐにゃぐにゃと変型をはじめ、いつ壊れてもおかしくない状態になっている。
壊れたら、一気に周囲の土に飲まれ、肺と体が圧迫されて息も身動きも出来なくなる。
(いやだいやだ死にたくない。)
よく知った死の気配だ。
その瞬間は容易に想像がつく。
(生きたい。私は、生きるんだ。絶対に。)
頭を高速で回転させて使える知識がないか考える。
そのさなか、無意識に強く組んだ両の手が、互いの小指に触れた。
何も見えない暗闇の中で一瞬、指輪が光ったような気がした。
(リザドール…)
次の瞬間には考えるよりも早く、小指にはまった指輪を抜き取っていた。
「エマのリザドール、あれは何だ?」
雨が降り始め、歩みを早めたレイとキョウは、間もなく今夜の寝床となりそうな洞窟をみつけ、久方ぶりに腰を落ち着けていた。
山は暗くなるのが早い。
夜まではまだ時間があったが、辺りはすっかり闇に飲まれはじめていた。
荷物をほどいて夜営の支度をしていた折、レイがふと疑問を口にした。
「説明したはずですが。あれは言ってしまえば"逆リザドール"ですよ。」
キョウは首を傾げながらさも当然といった風に答えた。
「それは聞いたよ。おまえ達触媒体質にとって必要なものだってこともわかる。触媒体質を隠すための魔力の制御をエマが出来るようになるまでの補助器具なんだろう。だが、俺から見てもあれはその制限が強すぎる気がするんだ。…仕組みもよくわからないし。」
キョウは少し考え、一つ嘆息のように小さく息を吐くと、白状するように答えた。
「仕組みは簡単ですよ。雨の魔女の魔力が干渉すると魔法が使えなくなるのと同じで、私の魔力をあの指輪を介してエマの魔法に干渉させているんです。」
レイはその意味を咀嚼し、やがてじとりと険しい目を向けた。
「あの指輪、中に何か入れてるんだな。」
「これを、少々。」
そう言ってキョウは、水を含んだ長い髪を絞りながら示して見せた。レイの盛大なため息が洞窟内に響く。
「そんなこったろうと思った!お前、そのうちエマに気持ち悪がられても知らんぞ。」
するとキョウは、珍しく、本当に珍しく、感情を表に出した。
わずかに目を見開いただけだったが、付き合いの長いレイの目には、それが彼の純粋な驚きとショックの表情だとわかった。
しかしそれも本当に一瞬のことで、すぐに取り繕い、弁解する。
「現状、他に方法がなかったんですよ。…エマには私から伝えるので、黙っててもらえますか。」
レイはもう一つ大きなため息をつくと、渋々了承した。
こんな珍しい反応を見せられたのでは、頷くより他なかった。
一呼吸おいて、キョウが続ける。
「制限の強さについてですが、エマの場合は、私との魔力交換で魔法が使えるようになったことからも、私の魔力量よりも魔力が少ないと考えるのが妥当です。」
「そりゃ、お前に比べればほとんど誰だってそうだろう。」
13大の魔女に優劣は存在しないが、その魔力量には明確な序列があった。
つまりは、それぞれの魔法に必要な魔力量の差だ。
第13席から1席にかけて、必要な魔力量は大きくなる。
第3席である煙の魔女を継ぐキョウのそれがいかに並外れたものかは、言うまでもなかった。
「ええ。ただひとつ問題が。」
レイは怪訝そうに片眉を上げ、キョウが言い淀んだ言葉の続きを促した。
「魔力交換の直後、エマが初めて自分の意思で魔法を使ったとき、一瞬、エマの魔法を抑えきれなかったんです。」
「…は、お前がか?」
キョウは、レイの目を見て小さく頷いた。
「正確には、エマの魔法の立ち上がりに、それを抑えようとした私の魔力の供給が追い付かなかった。エマの魔力の出力はおそらく相当アンバランスですよ。」
「…どういうことだ?」
「魔力をタンク内の水、蛇口の調節を魔力のコントロール、出力を蛇口の口の大きさとしましょうか。通常、タンクが空にならないよう調節しながら蛇口を回して魔力を出力しながら魔法を展開します。蛇口を全開にしても、直ぐには水は空にならない。加えて魔力制限がある以上水を最後まで使いきることはない。」
レイは嫌な予感を感じつつ頷いた。
「それがエマの場合は、その蛇口がタンクの大きさに対してかなり大きいようです。その上触媒体質はもともと魔力抵抗がない分人より蛇口を回すにも繊細な調節が必要です。今のエマでは魔法を発動しても、魔力がすぐに底をついてしまうでしょう。加えて大抵の魔法使いではそれを抑えることも難しい。」
「つまり、今のエマにとって魔法を使うということはあの指輪がないと0か100かしかないってことか?しかも大きな魔法なら一気に魔力を使いきってしまう。」
「それも本人の意思に関係なく。」
触媒体質のカモフラージュにしては強すぎると思っていた制限だったが、今の話を聞いてレイもようやく合点した。
「…確かにじゃがいもの時も、途中で指輪をつけなかったら止まっていなかったかもしれないな。」
「じゃがいも?」
疑問符を浮かべたキョウに構わず、レイは言葉を続ける。
「今エマがあの指輪なしで魔法を使うと、周囲に止められる人間がいない場合は魔力が枯渇するまで魔法が展開して自分の意思では止められないってことだな。」
「ええ、おそらくは。魔力操作に慣れれば、きっとあれなしでも問題なく魔法が使えるようになるでしょうけれど。
その時は身を隠すお守りだけの役割のものを作り直しますよ。」
「学園での生活も心配だな。」
「一先ずは学園でもあれをつけていれば通常の生徒と同じくらいには魔力抵抗を得られますし、変な勘繰りをされることもないでしょう。」
「…リザドールが指輪なせいで別の意味で変な勘繰りはあるかもしれんが、そういうことなら仕方がないか。」
自信ありげなキョウとは対照的に、レイはすっかり心配性な兄の側面が顔を出しているらしくやや不満げにしながら頷いた。
「勘繰りって…だから小指にしたんですよ。両手にあった方が魔力の流れの制御がしやすいので、その上で小指なら指輪をつける男女間の意味合いも薄く、腕輪より小さくて邪魔にならないだろうと…」
「あのな、そういうもんなんだよ。"年頃の娘さん達"ってのは。お前もっぺん学園で一から人間関係やり直してこい。」
納得がいかない様子のキョウにレイが呆れながら言うと、キョウはキョウで、突飛な提案に呆れて互いに嘆息したのだった。
「…無茶言わないでくださいよ。」




