41. 狼
「シュダスタにいるはずの狼がここに…?」
エマの話を聞き終え、レイは眉間にシワを寄せ、信じられないといった様子で呟いた。
「そんなことがあったって、どうして早く言わなかった…の」
と、言いかけたヒスイをキョウが手で制する。
ヒスイも怒って言ったわけではなかったが、エマの様子に思わず言葉尻をすぼめた。
エマは驚いたように両目を見開いて、数秒してからなんとかうわ言のように謝罪した。
「ごめんなさい…」
実際、悪いことをしたとは思っていたのだ。
しかしエマが狼のことを言っていなかった理由は、罪悪感や怒られること、失望への恐怖からではなかった。
彼女は今の今まで、本当にこのことをすっかり忘れていたのだった。
時々自分の意識や記憶が曖昧になることはこれまでにもあったが、こんなに大事なことまで忘れてしまっていたことに、エマは大きなショックを受けた。
そして、そんなエマの動揺に他の3人も少なからず察するものがあった。
「いいえ、エマ。今知れてよかったですよ。そして考えるべきは、なぜ遠く離れたシュダスタにいるはずの狼がフェナスコの、それもエマの前に姿を現したか、です。」
キョウが仕切り直すと、レイは険しい顔で答える。
「…まあこの場合方法として考えられるとすれば、転移魔法だろうな。」
「だけど、転移魔法を使うならこの場所をあらかじめ分かっていないと無理だよね。それか、エマと対になるようなものを持っていないと。」
「まあ、場所がすでにバレていたなら、 わざわざ狼をエマの前に 連れてくる必要はなかったでしょうね。」
「となると、エマと対になるものを狼が持っていて、エマの居場所を突き止めるために、手紙を転移させる時の要領で狼を転移させたってことになるが…」
「そんな大きな"対"って、何…?」
ヒスイの問いへの答えに誰も答えようとしなかった。
3人は顔を見合せ、各々が恐ろしい仮説を抱いていることを確信した。
背中を冷たい汗が伝う。
一体どんな顔をエマに向ければいいのか、わからなかった。
しかし、一人そんな状況を飲み込めていないエマはいつものように挙手をする。
「すみません、転移魔法ってどういう仕組みなんですか?」
誰かが小さく息を吐く。
緊張が緩み、3人は我に返ったように冷静さを取り戻した。
ヒスイはエマに向き直り、授業の時のように話し始めた。
「そうだね、エマにはまだ詳しく説明したことなかったね。
転移魔法には、場所を正確に指定して術者本人が移動する方法と、引き合うものどうしを目印にして任意の物や人を移動させる方法と大きく分けて2種類の方法があるんだ。
そして今回使われたのはおそらく後者。引き合うものを目印に遠く離れた人に手紙を送る時のような方法だと思うんだけど…」
言い淀んだヒスイに変わってレイが続ける。
「手紙の場合、送る側は受け取る側の人間の体の一部を手紙に入れる必要がある。それが受け取り手の魔力と対になって惹かれ合うことが転移の道しるべになるんだ。必要な量は、転移させたいものの質量と距離によるが。」
「体の、一部…」
「そう。例えば髪の毛だったり、あとは体液を染み込ませたものだったりが一般的だな。今回だと、狼が何かエマの体の一部を身につけていれば理論上はエマの元へ直接転移させることが可能だ。」
だが、とレイは言葉をつまらせた。
「手紙と違って狼の場合、重さも質量も桁違いだ。距離もかなりある。
ちょっとした荷物を送る時ですら、髪の毛では量が不十分なくらいだ。今回の転移はほとんど不可能だと俺は…」
「腕があります 」
エマがうつむいたまま言った。
瞬間、3人は息を飲んだ。
「腕、ってまさか…」
「私は、何度か体の一部を持っていかれたことがあるので。」
エマの声は抑揚がなく、ぼんやりとしていた。
エマはこの時、この事実を自分が長いこと記憶の隅に追いやっていたことを思い出した。
(さっきの狼のこともそうだ。自分にとって強いストレスになることは、体が敢えて忘れるようになっているのかもしれない。
もしかしたら、他にもこういうことがあるのかもしれない。
今は、思い出せないけれど。)
「だけどそんなことって…切り傷を治したりするのとはわけが違うんだよ。」
狼狽えているヒスイに、キョウは少し考えて「いえ、可能だと思います」 と言いきった。
「治癒魔法の効きやすさは、体に元々ある魔力抵抗の強さに反比例します。
私やエマのような触媒体質では通常とは比べ物にならないほど その効果は高いのですよ。あるいは、体を失っても補えるほどに。」
エマが静かに頷くと、ヒスイとレイは再び言葉を失った。
キョウは黙してうつむくと、エマに見えないよう額に指をあて、宙を睨んだ。
(…であればなおのこと、エマの体に残る傷跡にも説明がつく。おそらく、そういうことも含めて実験していたのだろう。
つまりは"この体質"の、利用価値について。)
ここまで歯を食いしばっていた話を聞いていたレイが、自身を落ち着かせるために大きなため息をついて言った。
「ちなみに、だが。単に関係のない狼がエマの前に現れたという可能性はないのか。」
「その線はおそらく薄いでしょうね。」
「なぜ言いきれる。」
「エマの魔力探知が優れているからです。
あとは、ちょうどエマが狼に遭遇したタイミングと、シュダスタに私が囮として作った 一帯への魔法による干渉がほとんどなくなったタイミングが重なるから、ですかね。」
レイは再び大きなため息を吐いた。
吐いて、吐ききってから、伏した頭を僅かに上げて、「確定だな。」と、低く呻いた。
「レイだって、この辺りに狼なんかいないはずって、キョウがエマを連れてきた日に言ってたじゃない。」
「言った、言ったが…!」
信じたくはないのだろう、レイは首を押さえて自身の後頭部に食い込ませるように爪を立てた。
数秒の沈黙を破ったのは、エマの小さな声だった。
「つまり、こっちの居場所がばれちゃった…ってことですか?」
「…そうらしい。」
「て、ことは、今こうしてる間にも、ここが襲撃されてしまう可能性があるってことですか?」
エマはこれまでの日常がひっくり返る予感に、声を震わせた。
今までずっとそうやって気を張り詰めて生きてきたのが、この一月の間にその緊張感から時おり解放され、かえってそれがとても恐ろしいことであると知ってしまったのだ。
エマの動揺を察して、キョウは努めて落ち着いた声で言った。
「ひとまずこの雨が上がるまでは、向こうも手出しはできないでしょう。というか、したくはないはずです。
あえて 魔法が使えない時に勝ち目のない敵に当たりたくはないでしょうから。」
(だけど、この雨だっていつまで降っているかわからない。)
それこそ今すぐにやんでしまうかもわからないのだ。
もしかしたらこの瞬間だって、気がついていないだけでこの家の周りを何者かが囲んでいるかもしれない。
いや、きっと実際そうなのだ。
そう思うとエマはいても立ってもいられなかった。
「あの、だけどこの雨が止むのを待っていたら、」
言いかけたエマの言葉を、優しく静止したのはレイだった。
右手に座る彼が、そっとエマの手に自分の左手を重ねたのだった。
いつもの静かな瞳でエマと目を合わせると、エマも少し落ち着いたようだった。
それを確認したレイが、キョウへと顔を向けると、エマの視線もつられてそちらに動いた。
「もちろん、このままここで待っているわけには行きませんね。」
キョウはいつもの優しい微笑を浮かべていた。
そしてゆっくりと席から立ち上がると、ヒスイとレイ、そしてエマに向き直り、すべて想定内であったように宣言した。
「今夜、ここを出ます。」
それから4人は顔を付き合わせてこれからの手筈を擦り合わせると、まもなく決意を固めた表情で互いに頷いた。
「では、雨がやまないうちに。」




