42. 脱出
月が出ない夜、この森は本当に暗い。
ただでさえ雨が降りしきっているのに加えて、今夜は新月だった。
木の葉を打つ雨の音や、ぬかるんだ地面にいくつもの水たまりができて、それらをびたびたと激しく打つ雨音は自分たちの足跡や音をすっかり隠していた。
エマは先頭を進むレイとそれに続くキョウに次いでほとんど何も見えない暗闇の中をなんとかついて行っていた。
殿を務めるヒスイはこの4人の中で一番夜目が効くので安心して進めばいいとキョウが言っていたが、それでも時々顔を打つ雑草や足に絡む木の根に、一歩足を進めるごとの緊張感は高まっていた。
一行はなんとしてでも夜が明ける前にこの一帯を抜けなければならなかった。
もちろん転移魔法は使えないし、明かりもつけることができない。
煙の魔女の魔法も、万全を期するならなるべく使わない方がよいと、キョウは言っていた。
望遠の魔女が近くまで来ていた場合 魔女の魔法は感知されないとも限らない、と。
幸い、それに頼らずとも今夜の天候はこちらの味方をしていた。
簡単な風魔法でレイが周囲を探索しながら道を見つけているが、それでも野生動物に鉢合わせてしまったり、うっかり誰かに姿を見られてしまったら、今戦う術はもう魔法にはない。
エマには、そうなれば自分はただの非力な子供で今以上に足手まといになってしまうのだと悪い想像をせずにはいられなかった。
風とともに顔を打つ雨水が瞼にたまって頬を流れ、首を伝い、服の中に流れてくるが、それを構っているわけにもいかず、おでこに張り付いた前髪を左右に分けて時おり顔を拭いながら、エマは前へ進んだ。
少し、先程のことを思い出した。
それはここを出発する前に、必要なものをまとめていた時のことだった。
そもそもエマには自分の持ち物というものはなく、早々にヒスイに自分が手伝えることや、持つ物が何かないかききに行った。
するとヒスイはキッチンでエマの顔を見るなり、「そうだ!」と慌てた様子で手を叩いたのだ。
そしてそのまま彼女を浴室まで連れていくと「エマ、前髪を切ろう。」と 唐突に行ったのだった。
当然、エマは小さな抵抗を示した。
「前髪ですか?ええと、今じゃなくてもいいんじゃないですか…?」
「だけど、このあと森を抜けたら街で人に紛れ込むんだから、前髪がこんなにバラバラじゃかえって目立っちゃうでしょ。」
そう言われてしまっては反論できない。
キョウとレイにも助けを要請したが、「そうですね。前髪が長いとエマのせっかくの 可愛い目が隠れてしまいますし。」
「俺も本を読む時に前髪が長いせいで目が悪くなるんじゃないかと気になっていた。」
結局、味方をしてくれる者は見つからなかった。
たしかにヒスイの言うことには一理あったし、学園に入学するまでにはこの前髪はどうにかしなければいけなかったのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが。
ヒスイが器用に前髪をまっすぐ切り揃えてくれた時、鏡に映る自分の姿を見たエマはこれまでよりはいくらか顔色が良くなった自分を見ても、なかなかその姿を受け入れることができなかった。
そんな様子を知ってか知らずか3人は仕切りに可愛いと褒めてくれたが、彼女は照れ隠しで今はそんな場合じゃないと彼らを散らしたのだった。
キョウが告げたこの先の手筈はこうだ。
まず、今夜のうちに4人で森を抜け、その後二手に分かれてそれぞれ別の拠点を目指す。
レイとキョウは学園へ。
エマとヒスイはレイの領地へと向かうことになった。
二手に別れる理由は追手の撹乱の目的と、もしどちらか一方の拠点がすでに敵の手の内にあった場合に、もう一方へと転移できるようにするためだ。
学園はキョウをはじめとする一部の人間には事情次第でいざという時の逃げ場所として利用可能な独立機関であり、レイの領地は本来王家の緊急時の潜伏先兼籠城先でもあることから、この2箇所が候補として選ばれたのだった。
レイの領地については、代々領地内の教育の成果で王家王族の護衛や騎士の排出が多く、それゆえ領内の守りが固いことから、そうした役割を担ってきたのだという。
ただ、2箇所とも政治的な理由や人の目が多いため、長く滞在するには向いていない。
いずれにしても一時的な逃げ場所にすぎないとキョウは話した。
ひとまずは新しい拠点に身を隠してから体制を立て直すことになるのだろう。
家を出た時点で、夜が明けるまでの時間は5時間ほどに迫っていた。完全に夜が深くなるのを待っていたためだ。
レイの話では、森から出るには晴れている時でも大人の足で2時間はかかるらしい。
この悪天候で夜の間にもう一つ分隣の町へと向かうには、おそらく夜明けのギリギリになる。
朝が来たら街で人混みに紛れ、どこかで食事をとり、その後別れて各々の目的地へと向かう予定になっていた。
休んでいる間はないのだ。
エマは魔力の鍛錬はともかく、この1ヶ月のほとんどを家の中で過ごしていた。
歩き始めて1時間で自分の息が上がっていることは自覚していたが、歩みを遅くしてもらうわけにいかないこともよくわかっていた。
そしてそんな自分の様子をヒスイに気どられるわけにもいかなかった。
気力でなんとかくらいついていた。
ここまで、時々立ち止まってハンドサインを送ることはあっても、誰も一言も喋っていない。
常に緊張感が伴う状況に雨のせいで体温も奪われている。
エマはこの森が永遠に続くような気さえしながら、気が遠くなるのを時々かぶりを振りながら堪えていた。
そうしているうち、だんだんと道が下り坂になってきて、足元を木の葉が滑るようになった。
転びそうになっては堪えてを繰り返していると、前を進んでいたキョウが静かに手を差し出した。
エマが見上げると、暗くて顔はほとんど見えなかったがいつものように微笑んでいるのがわかった。
迷っていると、ヒスイにも背中に手を添えられ、エマは素直にその手をとることにした。
冷たいけど自分のものよりは少し高い体温のおかげで、右手がゆっくりと感覚を取り戻すのを感じた。
その数m、あるいは十数m向こうで、わずかに人の気配があった。見えず、音も聞こえないけれど、確かに数人の魔力が影のように感じられた。
エマが見上げると、キョウは人差し指を立てた。
前を歩くレイも振り返って頷いている。
一行はそこから緩やかに進路を変え、静かにその場を離れた。
心臓の音が大きくなって、生きた心地がしなかった。
けれど、キョウの手がいつもより力強く、エマは再び冷静を取り戻すことができた。
そのままキョウの手に支えられ、時々転びそうになるのを引っ張り上げられながら進んでいると、ようやく木々がまばらになり、足元が少しずつ平坦になってきた。
森を抜けたようだった。
民家が数件ぽつりぽつりとあり、そこをさらに進んでいくと何もない畑や墓地があり、さらにしばらく進むと道が舗装され、その両脇に家が立ち並ぶようになった。
まだまだ空は暗く、雨が止む気配もないが、エマはひとまずほっとして、静かにため息を吐いた。
一行の陣形もいつの間にか2列になり、前をレイとヒスイ、その後ろからキョウとエマが続く形になった。
少し歩いてヒスイが小さな声で「エマ、少し休憩しなくても大丈夫?」と訊いたが、エマはキョウの手を握り、「大丈夫です。」と、少しだけ強がりを言った。




