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翌朝、信也はいつも通り全身を軋ませながら教室の席に着いた。昨日、変異種から受けた衝撃のせいで、呼吸をするたびに肋骨のあたりが鈍く痛む。だが、不思議と心は軽かった。あの絶対的な怪物に、ほんの一太刀とはいえ傷を負わせた。その事実が、信也の身体の底で確かな熱を持っていた。
キーンコーンカーンコーン――。
午前の一限目、チャイムの音と共に壇上に立った吉田先生が、黒板に大きく五つの円を描いていく。
「昨日は魔術の基本プロセスを説明したが、今日はその先――『魔術の位(階級)』について解説する。魔術はその練度、威力、精度、精度、そして構築の複雑さによって、明確に5つの段階に分類されている」
吉田先生のチョークが、黒板の円に文字を書き込んでいく。
「下から**『初級魔術』『中級魔術』『上級魔術』『高等魔術』**、配置や規模によっては世界をも揺るがす**『特級魔術』**だ。お前たちが今使っているのは、せいぜい初級から中級の入り口。実戦で高等魔術以上を放つには、膨大な魔力量だけでなく、一瞬で複雑な呪式を脳内に展開する超並列思考が必要となる」
生徒たちが一斉にノートを取る中、吉田先生はさらに言葉を続けた。
「商用や生活魔術なら中級で十分だが、実戦でこの『位』を語る上で外せないのが、属性の進化――『上位属性』の存在だ」
黒板に『火』と『水』の文字が書かれ、そこから矢印が伸びる。
「基本属性の練度を極限まで高めた者、あるいは固有の才能を持つ者は、属性をより強力な形へと昇華させる。例えば、『水』は密度と硬度を増した『氷属性』へ。『火』は温度と破壊力を爆発的に高めた『炎属性』へと進化する。これら上位属性を伴う魔術は、一撃で戦況をひっくり返す破壊力を持つ」
「へえ、水じゃなくて『氷』か……。かっこいいじゃん」
前方の席で、神藤が自身の掌を見つめながらニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。実力者である彼にとっては、自分がその高みに至る未来を疑っていないのだろう。
信也は静かに黒板を見つめていた。魔術の階級、上位属性。どれだけ魅力的な響きであっても、今の自分には縁のない言葉だ。
(俺には位も属性もない。だけど、あの変異種の速さに、俺の肉体はついていき始めてる……)
信也は机の下で、そっと右の拳を握りしめた。
昼からの実戦演習。
初夏の強い日差しが照りつける演習場には、独特の緊張感が漂っていた。朝の座学を経て、生徒たちのモチベーションも上がっている。
「次、松風信也、対、大野拓海。前へ」
吉田先生の声に、信也は木剣を手にゆっくりと歩み出た。対戦相手の大野は、中級魔術を安定して使いこなす、クラスでも中位に位置する実力者だ。
「おいおい、また松風の無様な負け戦かよ」
「昨日はスライムにでもいじめられてたんじゃないか? 包帯だらけだしさ」
周囲の取り巻きたちから、いつも通りの嘲笑が漏れる。大野もまた、どこか気楽な表情で木杖を構えた。
「悪いな松風。手加減はしてやりたいけど、これも評価に関わるんだ。――『土よ、我が意に従え、石弾』!」
大野の短い詠唱と共に、彼の周囲に拳大の岩石が三つ、一瞬で形成され、信也を目がけて弾き出された。
昨日までの信也なら、その弾道に怯み、防戦一方で防ぎきれずに直撃を受けていただろう。
だが、今の信也の目は、毎日あの絶望的な「ゴブリン変異種」の、肉眼を置き去りにする大鉈の軌道を見続けているのだ。
「――遅い」
信也の瞳が鋭く光る。
迫り来る三つの石弾。その速度は、変異種の踏み込みに比べれば、まるで止まっているかのように緩慢に見えた。
信也は無駄のない、最小限のステップで最初の二発を紙一重で回避。残る一発を、木剣の腹で滑らせるように受け流した。
「なっ……!?」
大野の顔から余裕が消える。
信也は休む間もなく、地面を爆発的に蹴った。連日の単独潜入で鍛え上げられた脚力が、演習場の土を大きく弾く。
「しまっ――『土よ、我が壁とな――』」
大野が慌てて防御魔術の詠唱を始めるが、信也の接近のほうが遥かに早かった。詠唱が完了する直前、信也は一瞬で大野の懐へと潜り込む。
「おおおッ!」
鋭い踏み込みから放たれた、容赦のない横一閃。
ガツゥンッ!!
信也の木剣が大野の脇腹を正確に捉えた。変異種の鋼鉄のような皮膚とは違い、生身の、あるいは魔術の防御が間に合っていない肉体。確かな手応えと共に、大野の身体が大きくよろめいた。
「ぐはっ……!?」
「大野が押されてる……!?」
「嘘だろ、松風の動き、あんなに早かったか!?」
周囲の野次馬たちが、一転してざわつき始める。神藤の眉が、不快そうにピクリと跳ねた。
信也は追撃の手を緩めない。間髪入れずに木剣を突き出し、大野の杖を弾き飛ばしようと鋭いラッシュを仕掛ける。完全に信也のペースだった。大野は冷や汗を流しながら、必死にステップを踏んで距離を取ろうとする。
(いける……! 身体が軽い。あの化け物に比べたら、人間の動きが手に取るように分かる!)
信也の心に確かな確信が芽生えた。勝てる、そう思った瞬間だった。
「舐めるなッ! 松風ェェ!!」
大野がプライドを爆発させ、距離を取りながら強引に杖を地面に突き立てた。全身の魔力を強引に絞り出すような、激しい咆哮。
「『土よ、満ちて拒め――大落石』!!」
大野が放ったのは、彼が扱える限界の、そして本来ならもっと詠唱の長いハズの中級魔術だった。
信也の頭上、突如として出現した巨大な岩の塊が、自重のままに激しく落下してくる。
「――っ!」
回避するスペースはない。信也は瞬時に判断し、木剣を両手で持ち替えて、落下してくる巨岩を真っ向から迎え撃つために跳躍した。身体の軸、全体重の推進力を、木剣の先の一点に集中させる。あの変異種の防壁を、一滴の血に変えた、信也の「最高の一撃」。
ズガァァァァンッ!!!
演習場に凄まじい衝撃音が響き渡り、土煙が激しく舞い上がった。
信也の渾身の突きは、落下する巨岩の中央を捉え、それを真っ二つに叩き割ることに成功した。魔術のない生身の人間が、中級魔術を物理的に打ち破った瞬間だった。
しかし――。
「ハァ、ハァ……っ!」
着地した信也の肉体は、すでに限界を迎えていた。
真っ二つに割れた岩の、片方の破片が信也の左肩を激しくかすめていた。さらに、岩を砕いた瞬間の凄まじい反動が、昨夜の変異種との死闘でボロボロだった脇腹と両腕の筋肉に、決定的な悲鳴を上げさせた。
激痛で、一瞬だけ信也の足が止まる。
大野はその隙を見逃さなかった。すでに次の詠唱を終えていた彼の杖から、小さな石の弾丸が、無防備な信也の膝元へと放たれる。
「『石弾』!」
バシッ!
「あぐっ……!」
鋭い衝撃が膝を叩き、信也の身体がガクリと地面に膝をついた。追撃に移ろうとする大野だったが、信也の木剣もまた、大野の喉元へあと数センチのところでピタリと止んでいた。
だが、信也の肉体は、そこから先へは1ミリも動かなかった。限界だった。
「……そこまで!」
吉田先生の鋭い声が響く。
「勝者、大野。――だが松風、お前の今の身のこなし、あるいは魔術を真っ向から砕いた一撃……。一体どこでそれを身につけた?」
吉田先生の目は、明らかな驚きに満ちていた。大野は勝ったものの、冷や汗をダラダラと流しながら、恐怖すら覚えた目で信也を見つめている。
「……ありがとうございました」
信也は悔しさに唇を噛み締めながら、ゆっくりと木剣を引いた。
負けた。ギリギリのところで、あと一歩が届かなかった。周囲の生徒たちは、もはや信也を「無能」と笑うことはできず、奇妙な静寂が場を包み込んでいる。
(まだ足りない。人間の魔術にすら、こうしてギリギリで競り負ける。……だったら、もっとだ。もっとあの地獄で、命を削るしかない)
信也は痛む身体を引きずりながら、自らの席へと戻っていく。その目は、すでに放課後の、あの薄暗いダンジョンの入り口を見据えていた。




