13
翌朝、目を覚ました信也は、全身を襲う凄まじい激痛に思わず顔をしかめた。
スライムの酸に焼かれた皮膚は包帯の下でじくじくと疼き、式神に殴られた脇腹は寝返りを打つだけで息が詰まるほど痛む。
「……ってて」
「だから言ったろ。無茶しやがって」
隣のベッドから、すでに制服に着替え終えた勇希が呆れたように声をかけてきた。手当ての礼を言う信也に、勇希は「気にするな」と短く返し、「ほら、遅れるぞ」と促す。信也は痛む身体を制服の中に隠し、何事もなかったかのような顔を作って教室へと向かった。
教室に入ると、すでに夏希と実花が席に座っていた。
信也の姿を見るなり、夏希がわずかに眉をひそめて歩み寄ってくる。
「おはよう、信也。……ねえ、なんだか顔色が悪いみたいだけど、どうかしたの?」
魔術師としての感覚が鋭い夏希は、信也の微かな異変を察知したようだった。しかし、信也は無理に口角を上げて首を振る。
「いや、ちょっと寝不足なだけだ。心配ないよ」
「そう……? 無理はしないでね」
まだ納得のいかない表情の夏希だったが、それ以上は踏み込んでこなかった。
だが、そんな静かな空気を破るように、教室内へ入ってきた神藤稔が、信也の横を通りすがりざまに鼻で笑った。
「おいおい、昨日の敗者が随分と優雅に登校じゃないか。一晩中、自分の無力さに泣き暮らしてでもいたのかい? 松風」
神藤の取り巻きたちがクスクスと下品な笑い声を上げる。
昨日の戦闘演習での敗北。それが「魔術の使えない無能」という信也の烙印を、クラス内でより決定的なものにしていた。神藤の言葉は、昨夜のダンジョンでの惨めな敗走の記憶とも重なり、信也の胸の奥を鋭く抉る。
(……言い返す言葉もない、か)
信也は拳を握りしめ、ただ黙って席に着いた。今は何を言っても負け犬の遠吠えになる。その悔しさが、かえって信也の心に冷徹な火を灯していた。
その日の午前は、昨日の実戦を受けての魔術理論の講義だった。
教壇に立つ吉田先生の声が響く。
「昨日も説明したが、魔術の基本は自己の属性の理解と詠唱にある。お前たちが魔術を放つ際、『○よ、我が意に従え』と紡ぐのは、己の精神と大気中の魔力を同調させるための絶対的なプロセスだ。この詠唱の精度が、そのまま魔術の威力と燃費に直結する。よく覚えておけ」
ノートを取る夏希や勇希、そして得意げに深く頷く神藤。
彼らにとっては一歩先へ進むための授業だが、魔術の使えない信也にとっては、どれだけ熱心に聞こうが「使えない力」の解説に過ぎない。自分だけが別の世界にポツンと取り残されているような、強烈な疎外感が押し寄せる。
(俺には魔術はない。……なら、やっぱりあの場所で、剣を磨くしかないんだ)
信也の視線は、教科書ではなく、窓の外から見える地下ダンジョンへの入り口――あの重い鉄扉へと向いていた。
放課後。
夏希たちには「今日も自主練があるから」とだけ告げ、信也は再び一人で地下へと足を運んでいた。一度はゴブリンの変異種に殺されかけ、這う這うの体で逃げ出した恐怖の場所。しかし、ここでの恐怖を乗り越えなければ、地上で神藤に勝つことなど絶対にできない。
「申請」など、今日も出していない。
薄暗い一階層へと足を踏み入れると、ひんやりとした魔力の空気が傷口に染みた。
「……よし。来い」
木剣を構え、闇の奥を見据える。
昨夜の戦いで、生身の自分がいかに不利かは痛いほど分かった。魔術による強化がないのなら、敵の動きを完全に予測し、一撃の無駄もなく、肉体の限界を超えた速度で踏み込むしかない。
ずるりと、闇から昨日と同じスライムが姿を現す。
その瞬間、信也は迷うことなく地を蹴った。
昨日のように相手の攻撃を待って受けるのではない。放たれる酸の弾道の僅かな兆候を、スライムの身体の「歪み」から見切り、発射される前に横ステップでかわしながら間合いを詰める。
「おおおっ!」
鋭い踏み込みと共に放たれた一撃が、スライムの核を正確に捉え、一撃で消滅させた。
「ハァ、ハァ……!」
確実に、昨日より身体が動いている。神藤に負けた悔しさ、授業での疎外感、それら全てをエネルギーに変えて、信也は狂ったように木剣を振り続けた。現れる式神の泥の拳を紙一重でかわし、その呪符を切り裂いていく。
だが、一階層の魔物を数体倒したところで、信也は再び強烈な「圧」を感じて動きを止めた。
通路の奥から響く、重い足音。昨日、自分を絶望の淵に追いやったあのゴブリン変異種が、大鉈を引きずりながら再び姿を現したのだ。
(また、こいつか……!)
傷だらけの身体が、本能的な恐怖で小刻みに震える。脇腹の痛みが一気に主張を始め、呼吸が浅くなる。
引き返して逃げるなら、今だ。ここで無理をすれば、今度こそ本当に死ぬかもしれない。
しかし、信也は一歩も引かなかった。木剣を握る手に力を込め、ぎり、と奥歯を噛み締める。
「……ここで逃げたら、俺は一生、あの教室の底辺のままだ……!」
神藤の嘲笑が、吉田先生の冷徹な言葉が、脳裏を駆け巡る。
魔術のないこの身体で、世界に牙を剥く。そのためには、この恐怖の象徴をぶち破らなければならない。
「グロォォオオオッ!!」
突進してくる巨獣。振り下ろされる絶望的な大鉈。
信也が、自らの死線へと向かって真っ直ぐに踏み込んだ、その瞬間。
彼の剥き出しの執念と、世界への強烈な飢餓感に呼応するように。
さらに地下の奥深く、光すら拒絶する漆黒の深淵で、古びた「指輪」が狂おしいほどの歓喜に震えていた。
2000年前、極東の地にひっそりと隠され、誰に見つかることもなく眠り続けていた、世界の調和を脅かすほどの一大存在。その正体を知る者は、今のこの時代にはもう誰もいない。
(そうだ……それでいい、人間。もっと飢えろ、もっと足掻け……。その乾いた魂こそが、我を縛る結界を噛みちぎる牙となる……!)
指輪に宿る強大な意志が、闇の中で凶暴に笑う。
まだ少年は、己の運命の歯車が回り始めたことにすら気づいていない。ただひたすらに眼前の敵を見据え、血を流している。
その姿を、その指輪は深い闇の底から、じっと、貪るような視線で見つめ続けていた。次の主が、自分という禁忌の力をその指に引き受ける、その瞬間を。




