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「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」
膝をつき、激しく上下する呼吸。信也は痛む脇腹を左手で押さえながら、執念だけで顔を上げた。
残った一体の式神が、容赦なく追撃の拳を振り下ろしてくる。信也は死に物狂いで地面を転がり、その一撃を紙一重でかわした。泥の拳が砕いた石床の破片が頬を打つ。
体勢を崩した式神の隙を見逃さず、信也は下から突き上げるように木剣を振るった。
「これで……終われぇッ!」
刃のない木剣が、泥人形の核である呪符を正確に貫く。
パァン、と乾いた音を立てて式神が霧散すると同時に、信也は背後のスライムへ向かって跳躍した。強酸の液を吐き出そうと膨むスライムの身体を、自重をすべて乗せた突きで床ごと踏み潰す。
ピシャァン! と粘液が四散し、闘技場の一角にようやく静寂が戻った。
「はぁ……はぁ……、やった、のか……?」
生き残った。なんとか、たった一人で切り抜けた。
全員の緊張が一気に解け、信也はその場にへたり込みそうになった。安肚の溜息が漏れる。しかし、ダンジョンはその初心者の安らぎを、無慈悲に踏みにじる場所だった。
――ズゥゥゥン。
地響きが、地下通路の奥から響いてきた。
ただの足音ではない。その響き一つひとつに、先ほどのスライムや式神とは比べ物にならないほどの、圧倒的な質量と「本物の殺意」が宿っている。
暗がりの奥から現れたのは、巨大な二足歩行の獣――ゴブリンの変異種、あるいはそれ以上の階級を持つ上位個体だった。その手には錆びついた巨大な大鉈が握られており、ギラついた一対の赤眼が、満身創痍の信也をロックオンする。
「グロォォオオオッ!!」
鼓膜を震わせる咆哮。それだけで、信也の全身の肌が粟立った。
戦えば、確実に死ぬ。本能がそう告げていた。今のボロボロの身体では、あの大鉈の一振りを防ぐことすら叶わない。
「くそっ……!」
プライドも悔しさも、全て生存本能の前に吹き飛んだ。信也は転がるようにして立ち上がると、転倒しかける足を必死に動かし、来た道を全速力で引き返した。
背後から迫る重い足音と、空気を切り裂く大鉈の風圧が背中を打つ。生きた心地がしなかった。ただひたすらに、地上へと続く鉄扉だけを目指して、信也は暗闇を駆け抜けた。
重い鉄扉を飛び出し、背後で激しく閉まった音を聞いた時、ようやく追撃の足音が消えた。
信也はしばらく扉に背を預けたまま、動くことができなかった。
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夕闇が完全にすり替わり、夜の静寂が包み込む学園の敷地を、信也は影のように這いながら歩いていた。
その姿は、あまりにも惨めだった。
衣服はスライムの酸でところどころ溶け、そこから覗く肌は赤くただれている。式神の炎で焼かれた頬はヒリヒリと痛み、脇腹の打撲は一歩歩くごとに内臓を突き上げるような激痛を伴った。
何より、右手に握られた木剣の重さが、今の自分の無力さを象徴しているようで酷く重かった。
(誰もいないところで、強くなりたかっただけなのに……)
夜風が、傷口に染みて冷たい。
コソコソと、誰にも見つからないように男子寮の裏口へと回り込む。入学して3日目、ようやく学校にも慣れ始めたこの時期に、無断侵入してボロボロになって帰ってきたなどと知られれば、格好の笑い者だ。それこそ、神藤の「落ちこぼれ」という言葉を自ら証明することになってしまう。
慢心があったわけじゃない。ただ、焦っていたのだ。入学から3日間、周囲との実力差を見せつけられ、今日の戦闘演習で決定的な敗北を喫した。その焦燥感が、自分を無謀な単独行へと突き動かした。
爬うようにして辿り着いた自分の部屋。
鍵を開け、静かに扉を押し開ける。
「……あ。おい、松風!?」
ベッドに寝転がっていた勇希が、信也の姿を見るなり跳び起きた。その顔は、驚愕と、それからすぐに強い動揺へと変わる。
「お前、その身体……一体何があったんだよ!? 誰かにやられたのか!?」
「……いや」
信也は部屋の壁に寄りかかりながら、力なく首を振った。
「ちょっと……夜の自主練で、な。少し、手惑っただけだ……」
嘘だとすぐに分かる傷の深さだったが、勇希はそれ以上追及しなかった。代わりに、クローゼットから救急箱を引っ張り出してくると、信也の肩を荒っぽく、だがどこか優しく掴んでベッドに座らせた。
「自主練でスライムの酸を浴びる奴があるかよ。……まぁいい、何も聞かねぇ。けどな、明日も朝から実技があるんだ。こんな傷、一晩で治しとかねぇと吉田の野郎にぶっ殺されるぞ」
勇希は無言で消毒液と包帯を取り出し、信也の傷口の手当てを始めた。
染みる痛みに、信也は小さく声を漏らしながら、ただ天井を見つめていた。
手当てをされながら、胸の奥で、冷たい決意がまた静かに固まっていく。
痛い。悔しい。惨めだ。
けれど、不思議と「諦める」という選択肢だけは、最初から信也の頭の中に存在しなかった。魔術が使えないのなら、この生身の身体が壊れるまで、何度でもあの深淵に挑むだけだ。
窓の外では、月が冷ややかに学園を照らしていた。
その静寂のさらに奥、地下の暗闇で、信也の流した血の匂いと悔恨の魔力を吸い上げた「指輪」が、じっとその時を待っていることなど、今はまだ、誰も知らない。




