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放課後の闘技場から静まり返った校舎を抜け、信也は足早に地下へと続く重い鉄扉を開けていた。
「利用申請」など出していない。見つかれば昨日以上の大目玉、最悪の場合は本当に退学処分かもしれない。だが、今の信也の胸の奥で燻る黒い炎は、そんなリスクを考慮する余裕すら焼き尽くしていた。
(「落ちこぼれ」「時代遅れの芸」……ッ!)
神藤稔の、あの嘲笑を浮かべた顔が脳裏から離れない。
「水よ、我が意に従え」と、ほんの一言紡ぐだけで発動する圧倒的な魔術。それに引き換え、自分は幼少期から血を吐くような思いで木剣を振り続け、肉体を極限まで鍛え上げてきたのだ。それなのに、間合いを詰めることすら許されず、なす術もなく床に転がされた。守護神がいない。魔術が使えない。ただその一事だけで、これまでの努力のすべてを全否定されたような気がして、悔しくて、歯の根がガタガタと震えた。
「……あんなところで、立ち止まっていられるかよ」
一人で、誰もいない薄暗い地下通路へと足を進める。
そこは、学園地下に広がるダンジョンの一階層だった。まだ新入生が立ち入るべきではない場所。周囲の空気は、昼間に見た闘技場のそれとは比べ物にならないほど濃密で、冷たい魔力が肌を刺す。
暗がりの奥から、最初の「敵」が姿を現した。
ずるりと這い出てきたのは、半透明の粘液の塊――スライムだ。そしてその背後から、低級の、おそらくかつて誰かが使役し捨てられた「野良の式神」であろう、紙の呪符が変形した異形の泥人形が二体、ゆらりと立ち上がった。
「下級の化け物が……!」
信也は腰の木剣(と言っても、対魔獣用に特殊な重硬木で作られた実戦用のものだ)を抜き放ち、地を蹴った。
魔術師相手なら間合いを潰されるが、目の前のスライムなら一撃で――。
しかし、ダンジョンの魔物は、信也の想像以上に「異常」だった。
突進した信也に向けて、スライムがその肉体の一部を弾丸のように弾けさせた。
「しまっ……!?」
咄嗟に剣を盾にして防ぐが、凄まじい衝撃が腕を伝う。ただの水風船だと思っていたそれは、魔力によって限界まで圧縮された高密度の質量兵器だった。
さらに左右から、二体の式神が音もなく肉薄する。
「火よ、我が意に従え――」などという分かりやすい詠唱はない。ただ、その泥の拳に、生まれ持った不気味な魔力の炎を宿し、信也の顔面へと殴りかかってくる。
「くそっ、このっ……!」
信也は身体をひねり、泥人形の腕を剣で受け流そうとした。だが、魔術で強化されたその肉体は岩のように重い。
キィィン、と鈍い音が響き、衝撃で信也の足元が数センチ後ろへ滑る。
魔術が使えないということは、自己強化の魔術すら使えないということだ。すべては生身の筋力と反射神経だけで補わなければならない。だが、ダンジョンの一階層という、本来なら魔術師が初歩の初歩として「火よ、我が意に従え」の一言で焼き払うような有象無象を相手に、信也は文字通り呼吸を乱し、防戦一方に追い込まれていた。
(なんでだ……なんで俺は、こんなところで苦戦してる……!)
頭の中で、悔しさと焦燥感が限界まで膨れ上がる。
夏希なら、勇希なら、こんな低級の魔物など一瞬で一網打尽にできるだろう。神藤なら、鼻歌交じりに水で押し流して終わりだ。
なのに、自分は剣を振るうことしかできず、その自慢の剣すら、魔力を持たないがゆえに魔物の硬い外皮を切り裂く決定打にならない。
(悔しい。悔しい、悔しい、悔しい……ッ!!)
名門・松風家の血を引きながら、守護神に嫌われ、世界から見放されたかのような感覚。
幼い頃、パーティー会場で神藤と笑い合っていたあの頃の自分は、今のこの惨めな姿を想像できただろうか。一族の恥さらしと罵られ、居候の身に甘んじ、挙句の果てに学園の一階層で野垂れ死ぬのか。
「そんなわけ……いくだろ、がぁああっ!!」
魂の底からの叫びと共に、信也は無理やり踏み込んだ。式神の放った炎が頬を掠め、皮膚がじりじりと焼ける痛みが走るが、それを無視して肉薄する。
呼吸を完全に止め、極限まで研ぎ澄まされた一撃。
手首のスナップと体重移動のすべてを乗せた渾身の唐竹割りが、一体の式神の脳天を直撃した。
バリィィン!!
呪符が引き裂かれ、泥人形が霧散する。
だが、その代償は大きかった。大振りの隙を突かれ、もう一体の式神の拳が信也の脇腹を捉え、背後のスライムから放たれた強酸の液が衣服を溶かして肌を焼く。
「がはっ……!」
信也はたまらず膝をついた。
たった一階層。まだ入り口から数十メートルしか進んでいない。
息は絶え絶え、全身は擦り傷と火傷だらけ。木剣を握る右腕は、疲労と衝撃で自分のものとは思えないほど震えている。
圧倒的な、現実。
魔術のない人間が、この世界で「戦う」ということの絶望的な厳しさが、冷徹な事実として信也の身体に刻み込まれていた。
「ハァ、ハァ、ハァ……くそ、……ふざけるな……俺は、まだ……」
信也は震える足に鞭を打ち、執念だけで立ち上がろうとする。
その時、彼の激しい息遣いと、ダンジョンに満ちる悔恨の魔力に呼応するかのように、
さらに地下の深淵――光すら届かないあの「闇の底」で、何かが確かに覚醒の産声を上げようとしていたが、今の信也がそれに気づく由もなかった。




