第7話 煙突の街
産業革命が始まって十ヶ月が経った。
夜明け前のベルフストは、もう眠っていなかった。
東の空がまだ紺色をしている時間から、城下の東地区では魔力機関炉の火が入る。煙突から白煙が立ち上り始め、それが朝の合図だった。
続いて工場の鐘が鳴り、街のあちこちから人が流れ出してくる。
眠そうな顔をした男たちが、ランタンを手に石畳を歩いていく。
露店の屋台が開き始め、パンと豆のスープの匂いが路地に漂う。
十ヶ月前、ベルフストは静かな城下町だった。
今は違った。
城下の東側に広がる工業地区は、十ヶ月前の旧倉庫群の面影を残していなかった。
石造りの工場が十数棟立ち並び、その間を太い煙突が貫いている。
各工場の前には荷馬車が列を作り、出来上がった製品を積み込んでいた。
布の工場、銃の部品工場、農具の工場、鍋や食器を作る鋳造工場。
それぞれが魔力機関炉を心臓に持ち、昼夜を問わず動き続けていた。
工場の間を縫うように、新しい道路が通っていた。
石畳を整備し直した広い通りで、荷馬車が並走できる幅がある。
通りの両側には倉庫と問屋が立ち並び、朝から商人たちが声を上げて取引をしていた。
十ヶ月前には存在しなかった光景が、そこにあった。
織布工場、第三棟。
カールという名の27歳の男が、夜明けとともに工場の門をくぐった。
元は農村の小作農だった。
七ヶ月前、農業機械の導入で村の人手が余り始めた時、首都で工場の働き手を募集しているという話を聞いた。
迷った末に妻と二人の子を連れてベルフストに来た。
農村での稼ぎより二倍も高い賃金と、工場近くに建てられた労働者向けの集合住宅が決め手だった。
工場の中は、いつ来ても圧倒される。
天井近くまで届く大きな織機が十台、縦一列に並んでいる。それぞれが低い唸りを上げながら、一定のリズムで布を織り続けていた。
職人が手で機を動かしていた頃とは比べ物にならない速度だ。
カールの担当は一台の織機の監視と、糸が切れた時の補修、それから織り上がった布の品質確認だった。
「おはよう、カール」
隣の持ち場を担当するマティアスが声をかけてきた。
同じ村の出身で、ほぼ同時期にベルフストに来た。
28歳の大柄な男で、元は農具の修理を生業にしていた。
「今日から新しい織機が入るらしいぞ」
マティアスが言った。
「また速くなるんじゃないか」
「勘弁してくれ」
とカールは苦笑した。
「速くなるたびに品質確認が追いつかなくなる」
「でも稼ぎも上がるんだろ」
「それは助かるが」
工場長のハインツが巡回しながら通りかかった。
四十代の元魔道具師で、ゴドフリーの推薦でこの工場の管理を任されていた。
「カール、今日の目標は昨日より五反多く出すこと。品質は落とすな。頼んだぞ」
「了解です」
ハインツが去ると、マティアスが小声で言った。
「あの人、毎日目標を上げてくるな」
「工場全体の生産量が足りないらしい。注文が多すぎて追いつかないって聞いた」
「贅沢な悩みだな」
「ほんとうに」
カールは持ち場に立ち、織機の動きを確認した。
糸の張りは均一か、布の目は詰まっているか、機械に異常はないか。
手順は七ヶ月で体に染み込んでいた。
農村で鋤を持っていた頃とは別の種類の疲れがあるが、雨が降っても雪が降っても関係なく同じ賃金が入るのは有難かった。
昼休みには、工場の隅に設けられた食堂で飯を食う。
パンとシチューと、週に三度は肉が出る。
農村にいた頃より食事が良くなった、とカールは素直に思っていた。
銃火器工場、第一棟。
ルーカスと呼ばれる17歳の青年が働いている。
首都近郊の農家の四男で、土地を継げる見込みがなく、職を探してベルフストに来た。
工場での仕事は、銃の機関部の部品を削り出すことだ。
精密な加工が必要で、最初の一ヶ月は失敗続きだった。
しかし今は、工場長から「筋がいい」と言われるほど安定した仕上がりが出せるようになっていた。
ルーカスの担当工程は、撃鉄の整形だ。
鋼鉄の塊を専用の型に固定し、熔鉱炉の熱で柔らかくしたところを専用の治具で削り出す。
一日に40個から50個を仕上げるのが目標だった。
隣で働くのは、同い年のニコラスという男だ。
元鍛冶師の息子で、金属加工の基礎知識があった。
「なあ、ルーカス」
ニコラスが削り出した部品を確認しながら言った。
「この部品が何に使われるか、見たことあるか」
「ある。完成品を一度だけ見せてもらった」
「どうだった」
「すごかった」
ルーカスは手を動かしながら言った。
「あんな小さな筒が、騎士の鎧を貫くって。信じられなかった」
「俺たちが作ってるんだけどな」
「それがまた不思議な感じがするんだよ」
昼過ぎ、工場の監督が巡回に来た。
賢が設計した品質管理の仕組みで、完成した部品は全て測定器で寸法を確認される。
基準を外れたものは再加工か廃棄だ。
厳しいが、賃金の出来高払い部分がこの検査を通過した数で決まるため、誰もが精度に気を使っていた。
「ルーカス、今日は47個通過。昨日より3個増えた。よくやったな。このまま続けろ」
「はい」
監督が去ると、ニコラスが囁いた。
「お前、また増やしたのか。俺に教えろよ」
「削る角度の問題だ。後で見せてやる」
工場地区の外れに、新しく作られた労働者街があった。
元々は草原だった場所に、石造りの集合住宅が整然と並んでいた。
二階建ての建物が10棟以上、それぞれに10世帯から15世帯が暮らしている。
上下水道が整備されており、共同の井戸と洗い場が各棟に設けられていた。
カールはここの二階の一室に、妻のアンナと子供二人と暮らしていた。
夕方、工場から戻ると、アンナが夕飯の支度をしていた。
農村にいた頃より広い部屋ではないが、屋根が丈夫で雨漏りがない。
床板がしっかりしていて、冬も暖かい。
「今日どうだった?」
アンナが聞いた。
「問題なかった。新しい織機が入ったが、操作は慣れたら大丈夫そうだ」
「子供の学校のことなんだけど、」
アンナが言った。
「先生が、上の子は飲み込みが早いって言ってくれた」
労働者街の近くに、皇国が設立した初等学校があった。
読み書きと算術を教える場所で、費用は無料だった。
賢の提案で作られたもので、産業革命を支える識字率の向上が目的だったが、子を持つ親には純粋に有難かった。
「そうか」
カールは椅子に腰を下ろした。
「村にいたら学校なんて行けなかったな」
「ほんとう」
アンナが静かに言った。
「ベルフストに来て良かったと思う」
カールは窓の外を見た。
夕暮れの空に、工場の煙突から白い煙が上がっていた。
十ヶ月前には存在しなかったその煙が、今では自分の生活と繋がっていた。
日が落ちた頃、城下の目抜き通りは別の賑わいを見せていた。
屋台が並び、仕事帰りの労働者が足を止めていた。
工場の稼ぎで懐が温かい者が増えたことで、飲食の店が急増していた。
農村からの流入者を相手にした安価な食堂、商人向けの高級な料理屋、魔道具を使った照明で彩られた酒場。
十ヶ月前の静かな城下町の面影は、もうほとんどなかった。
ゴドフリーが馴染みの酒場の隅の席で、同業の魔道具師と向き合っていた。
「一年前には想像もできなかったな」
相手の男が杯を持ちながら言った。
「この街がこんなに変わるとは」
「私もだ」
ゴドフリーは静かに言った。
「あの子供が来なかったら、今頃我々は相変わらず工房で一品ずつ魔道具を作っていただろう」
「あの子供、というのは」
「福神賢のことだ。召喚された勇者の一人だが……あれを勇者と呼ぶのが正しいのかどうか」
「どういう意味だ」
「剣も魔法も使わん」
ゴドフリーが杯を置いた。
「だが、あの男が動くと街が変わる。国が変わる。剣で魔王を討つより、よほど大きなことをしている気がしてな」
相手の男がしばらく考えた。
「……剣で人を動かすか、仕組みで世界を動かすか、ということか」
「そういうことかもしれん」
外から工場の夜番交替の鐘の音が聞こえてきた。
ベルフストの夜は、もう止まらない。
一方、城の執務室では賢が机に向かっていた。
十ヶ月分の統計書類が積まれている。
工業生産高、人口動態、税収、物価指数、諸侯の参加状況。
数字が整然と並ぶ羊皮紙を、賢は一枚ずつ確認していった。
結果は想定をやや上回っていた。
工業生産高は十ヶ月で召喚前の7倍。
首都の人口は約5万人から8万人超に膨らんでいた。
税収は4倍を超え、その資金が次の工場建設と鉄道工事に回っていた。
諸侯24名のうち22名が新制度に参加し、残る2名のうちノルトベルク侯爵の領地では、賢の予想通り住民の不満が高まり始めているという報告が上がっていた。
軍の方は、グスタフから報告が来ていた。銃を装備した歩兵大隊《400名》の第一陣が訓練を終え、実戦配備可能な水準に達したという。
下士官学校も軌道に乗り、小隊長《下士官》の卵たちが毎週卒業していた。
賢は書類を置き、窓の外を見た。
夜のベルフストに、工場の明かりが点々と灯っていた。
煙突から上がる白い煙が、月明かりの中で薄く広がっている。
十ヶ月前、ここには何もなかった。
賢はそれを感慨として処理することをしなかった。
感慨を持つ暇があれば、次を考える。
次の手は、すでに見えていた。
アルクハイン公国。
皇国の南西に接する小国で、長年皇国と国境紛争を抱えていた。
ここを最初の標的にすることは、グスタフとの間でとうに話がついていた。
新しい軍のドクトリンを実戦で試す場として、規模的にも地理的にも適している。
賢はペンを取り、作戦の草案を書き始めた。
ベルフストの夜は深まり、工場の煙突は煙を上げ続けていた。




