第29話 破門の鐘
シーヴィル連合王国との経済制裁が続く中、賢の諜報組織が異常を感知したのは、制裁開始から六週間後のことだった。
首席諜報官のクラウス・フォン・シュタインベルクが報告を持ってきた。
旧アルクハイン公国の貴族として、今はベルフストの行政顧問として働いていた男だ。
着任から一年が経ち、今では賢の最も信頼する情報分析官の一人になっていた。
「三つの動きを確認しました」
クラウスは言った。
「まず、アウグスティアからの使者が、先月から断続的に皇国内に入っています。観光や商業目的を装っていますが、行動パターンが諜報員のそれです」
「接触した相手は」
「モンデブーレの保守派貴族、三名。いずれも皇国の改革に批判的で、正教会との結びつきが強い者たちです。それと」
クラウスが少し間を置いた。
「一名のクラスメイトです」
賢が顔を上げた。
「誰ですか」
「田中孝という方です。《予知》の祝福をお持ちだと」
賢は頭の中でその名前を確認した。
37人の中で、比較的存在感の薄いクラスメイトだった。
訓練には参加していたが、前線に出ることを好まず、後方支援に徹していた。
「接触の内容は」
「傍受できていません。しかし接触の後、田中殿の行動パターンが変わっています。定期的に、人目を避けるような動きをしています」
「二つ目の動きは」
「正教会系の慈善団体が、市内に三か所、拠点を設けています。表向きは貧困者への食事の提供ですが、実態は連絡所と思われます。人の出入りが多く、夜間の活動も確認されています」
「三つ目」
「武器です」
クラウスは声を落とした。
「市内の倉庫の一か所で、大量の武器が確認されました。剣と弩。皇国軍の規格ではありません。密輸されたものと思われます」
賢は三つの情報を並べた。
「クーデターの準備です」
賢は静かに言った。
諜報組織が総力を上げて情報収集に当たった。
一週間後、全容が見えてきた。
計画は三段階だった。
第一段階、要人の暗殺。
皇帝アルベルト、宰相オットー、そして賢を標的にした暗殺チームが既に市内に潜伏していた。
加えて、颯人を含む数名のクラスメイトへの攻撃も計画されていた。
第二段階、保守派貴族の蜂起。
要人の暗殺と同時に、正教会の支援を受けた保守派貴族が城内の一部を占拠し、改革の停止と正教会への権限回復を要求する声明を出す。
第三段階、シーヴィル連合王国軍の介入。
混乱が生じた場合に、シーヴィル連合軍が「秩序回復」の名目で皇国に軍を進めるという計画があった。
「実行予定日は」
賢が聞いた。
「今から9日後です」
クラウスが答えた。
「正教会の大きな祭礼の日に合わせています。市内に信者が集まり、混乱に紛れやすい」
「田中さんの役割は」
「《予知》の祝福を使い、我々の対応を事前に察知することを求められていると思われます。ただし」
クラウスは言った。
「田中殿が、本当に協力しているかどうかは不明です。脅迫されている可能性もあります」
賢は颯人を呼んだ。
最近、二人の間に距離ができていた。
しかし今日は、距離を置いている場合ではなかった。
「クーデターを計画されている」
賢は率直に言った。
「実行予定日は9日後。お前も標的に含まれている」
颯人の表情が変わった。
「誰が」
「正教会本部とシーヴィル連合王国が組んでいる。国内の保守派貴族も関与している」
賢は続けた。
「それと、田中が接触を受けている。強制されて協力している可能性がある」
「孝が」
颯人が立ち上がった。
「どこにいる」
「現在、通常の宿舎にいる。監視をつけているが、本人には伝えていない。どう扱うか、判断が必要だ」
「俺が話す」
颯人は即座に言った。
「リスクがある。田中が既に敵側に深く関与していた場合、情報が漏れる」
「孝は、そんな奴じゃない」
颯人は言った。
「絶対に脅されてるか、騙されてる。俺が話す」
賢は少し間を置いた。
「……分かった。同席させてくれ」
「来るな」
颯人は言った。
「俺一人で話す。お前が来たら、孝が硬くなる」
颯人は田中孝の部屋を訪ねた。
20人部屋の隅の区画に、田中は一人で座っていた。
本を読んでいるふりをしていたが、目が文字を追っていなかった。
「孝」
颯人は椅子を引いて向かいに座った。
「話がある」
田中が本を閉じた。
顔が青白かった。
「……東条、俺」
「聞く前に一個言う」
颯人は静かに言った。
「お前がどういう状況にあっても、俺はお前の味方だ。それだけ先に言っておく」
田中の目に、涙が浮かんだ。
「脅されてる」
田中は小声で言った。
「日本にいる家族の、写真を持ってきた奴らが。従わなければ、家族に危害を加えると」
「家族」
颯人が低く言った。
「俺の妹が、日本にいる。向こうの世界に。どうやって連絡できたのか分からないけど、写真を見せられて……俺には逆らえなかった」
「何を頼まれた」
「皇国の対応を、《予知》で見て報告しろと。いつ、誰が、どう動くかを教えろと」
「情報を渡したか」
「まだ渡していない」
田中は言った。
「渡す前に、どうすればいいか分からなくなって。東条に話せばよかったのかもしれないけど、言ったら妹が」
颯人は田中の肩に手を置いた。
「お前は一人で抱えすぎた」
颯人は言った。
「これからは、俺たちで対処する。妹のことも含めて」
「でも向こうの世界には」
「全部、賢に任せる」
颯人は言った。
「あいつに頼めることと、頼めないことがある。でも今回は、あいつに頼む」
颯人が戻ってきた。
「脅迫だった」
颯人は言った。
「家族の写真を見せられて。情報はまだ渡していない」
「そうか」
賢は言った。
「日本への連絡方法について、私には分からない。ただ、田中を利用しようとした側の、その情報源を特定して潰す」
「それだけか」
「それ以上は、今の俺にはできない」
賢は正直に言った。
「すまない」
颯人が少し黙った。
「田中は、こちらで使えるか」
「《予知》の祝福がある。こちら側で使えれば、大きな力になる。本人の意思次第だが」
「俺から話す」
颯人は言った。
「孝が了承すれば、賢の指示に従わせる。ただし前線には出さない。後方で使う」
「分かった」
賢は秘密警察と諜報組織を動かし、九日間で準備を整えた。
暗殺チームの位置を特定し、監視下に置いた。
正教会系の連絡所を把握し、出入りする人物を全員記録した。
武器の隠匿場所を確認し、実行日の前日に押収する計画を立てた。
関与する保守派貴族三名については、実行日まで泳がせることにした。
動かせるだけ動かせてから、全員まとめて捕縛する。
田中が《予知》を使い、計画の動きを事前に感知した。
その情報が、準備を更に精密にした。
「7日後、暗殺チームが最終確認のために動く」
田中が報告した。
「市内の集合場所は、南の倉庫街」
「その動きを見張る」
「8日後、貴族側が連絡を取り合う。場所は、東の商館の二階」
「包囲する」
「9日後、実行。最初の動きは夜明け前、城壁の西門から」
「西門の警備を密かに増強する」
田中は《予知》を使いながら、青白い顔で報告を続けた。
颯人が隣に座り続けた。
祭礼の日の夜明け前。
市内の各所で、秘密警察と特殊部隊が一斉に動いた。
西門の暗殺チームが動こうとした瞬間、特殊部隊が四方から包囲した。
「武器を捨てろ」
ハンスが叫んだ。
「抵抗すれば撃つ」
暗殺チームが抵抗した。
短い銃撃戦になった。
3分で終わった。
暗殺チームの全員が拘束されたか、無力化された。
同時刻、南の倉庫街の武器隠匿場所が押収された。
連絡所の三か所が同時に制圧された。
東の商館では、保守派貴族が集まったところを秘密警察が踏み込んだ。
驚愕の顔をした三名の貴族が、そのまま拘束された。
颯人への攻撃は、宿舎の廊下で起きた。
夜明け前、廊下に人影が現れた。
暗殺者が二人、クラスメイトの宿舎に接近していた。
しかし廊下には特殊部隊員が待機していた。
接触する前に、制圧された。
颯人は宿舎の中で、それを聞いた。
「終わったか」
颯人は言った。
「はい」
特殊部隊員が答えた。
「全員、確保しました」
颯人は少し間を置いた。
「孝は」
「後方の安全な場所にいます。問題ありません」
颯人は窓の外を見た。
夜明けが始まっていた。
「賢に伝えてくれ」
颯人は言った。
「よくやった、と」
クーデター未遂の翌日、皇国政府は公式声明を出した。
正教会本部が皇国内でのクーデターを画策し、要人の暗殺と政権転覆を試みた。
その証拠として、拘束した実行犯と協力した貴族の証言、押収した書類と武器が挙げられた。
声明は国内外に広く発信された。
周辺国は沈黙した。
シーヴィル連合王国は否定した。
しかし証拠の詳細が公開されると、否定の声は小さくなっていった。
アウグスティアの大司教庁に、声明の内容が届いた。
ゴットフリートは証拠を読んだ。
計画は杜撰だった。
エルハルトが指揮した工作員たちは優秀ではなく、皇国の諜報組織に全て把握されていた。
証拠が揃いすぎていた。
老大司教は、判断を迫られた。
認めれば、正教会本部が外国の政権転覆を企てたという事実が確定する。
否定すれば、証拠の前に嘘をついたことになる。
どちらも、正教会の権威を傷つける。
しかしゴットフリートは、もう一つの選択肢を取った。
攻撃だ。
「皇国教会を破門する」
ゴットフリートは宣言した。
「皇国は正教会の教義を歪め、科学の名の下に信仰を冒涜し、獣人を神の前に迎えるという冒涜を行った。我々の正当な指導を拒絶し、内政への干渉と言って退けた。これは信仰の裏切りである」
破門状が正式に発布された。
ベルフストの大聖堂に、破門状が届いた。
ファビアンはそれを受け取り、長い間、読んでいた。
礼拝堂の蝋燭が揺れていた。
涼介が隣に来た。
「先生」
涼介は言った。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではありません」
ファビアンは正直に言った。
「ただ、驚いてはいません」
「予想していましたか」
「クーデターが失敗した時点で、こうなると思っていました」
ファビアンは破門状を置いた。
「本部は追い詰められています。証拠を突きつけられ、制裁も効かず、工作も失敗した。残る手段は、我々を組織から切り離すことだけです」
「どうしますか」
ファビアンはしばらく黙っていた。
「礼拝を続けます」
やがて言った。
「明日も、信者たちが来ます。その人たちに、神の言葉を伝えることが私の仕事です。本部が何を言おうと、それは変わりません」
「独立した教会になる、ということですか」
「そうかもしれません」
ファビアンは静かに言った。
「怖くないと言えば嘘です。しかし、本部が今日やったことを見て、どちらが正しいかは分かります」
賢はファビアンを呼んだ。
「破門状を受け取りました」
ファビアンは言った。
「はい」
賢は答えた。
「皇国としての公式な立場を決める必要があります。ファビアン司祭の意見を聞かせてください」
「私の意見が必要ですか」
「必要です。これは宗教の問題です。政治が一方的に決めるべきことではありません」
ファビアンが賢を見た。
「……皇国教会は、破門を受け入れません」
ファビアンは言った。
「しかし本部との断絶を、積極的に宣言する形はとりません。本部が誤った判断をしており、その誤りが正されるまで、我々は独自に信仰を続けると表明します」
「独立、ではなく」
「一時的な分離です。本部が変わるなら、いつでも戻る用意があります。しかし、クーデターを画策した組織に従うことはできません」
「その立場を、公式に表明してもいいですか」
「はい」
ファビアンは言った。
「それが、今の私にできる、正直なことです」
皇国政府の公式声明が出た。
皇国は正教会本部の破門状を「不当な政治的圧力」として受け入れない。
皇国教会は引き続き、信仰の自由の下で活動を続ける。
同時に、本部との対話の用意は常に持つ。
周辺国がその声明を注視した。
グニース帝国の大使が、私的な場でオットーに言った。
「皇国は、本部と戦うつもりですか」
「戦うのではありません」
オットーは答えた。
「ただ、不当な介入を拒絶しているだけです」
「その区別は、外から見えにくい」
「見えにくいとしても、事実は変わりません」
破門の発布から一週間後、シーヴィル連合王国が皇国大使を召還した。
事実上の外交断絶だった。
皇国も、シーヴィル駐在の外交官を呼び戻した。
国境地帯の緊張が高まった。
シーヴィル連合王国が国境近くに軍を集め始めた。
皇国も対抗して、第二師団を南西部に移動させた。
両国の間に、国境という線だけが残った。
グスタフが賢に報告した。
「シーヴィルの国境集結兵力、現在推定で3万から3万5千です。ピエル公国軍、ロンテール公国軍、シーヴィル王国正規軍が混在しています」
「装備は」
「伝統的な騎兵と魔導兵が主力です」
「向こうは、どう判断しているか」
「正確には分かりません。しかし、皇国が先に動くとは思っていないと思います。正教会のクーデターが失敗した直後に、皇国が侵攻すれば侵略者と見られる」
「その判断は正しい」
賢は言った。
「我々は先に動きません。向こうが動けば、対処します」
「動いてきた場合の準備は」
「していません。する必要はありません」
グスタフが眉を上げた。
「それはなぜですか」
「向こうは動けません」
賢は静かに言った。
「制裁で経済が痛んでいる。内部で加盟国が割れている。クーデターの失敗で、正教会本部への信頼が揺らいでいる。今の状態で戦争を始めれば、内部から崩れます。それが分かっている指導者が向こうにいれば、動かない」
「いない場合は」
「その時は対処します」
深夜、颯人が来た。
珍しく、静かな顔をしていた。
怒りでも、疲弊でもない。
何か、腹を決めたような顔だった。
「孝が礼を言いたいと言っていた」
颯人は言った。
「俺に?」
「お前の組織が、接触してきた工作員の情報源を特定して、潰してくれたらしい。孝の家族への脅迫の根拠が消えた」
「秘密警察が動いた。俺の指示というより、クラウスさんの判断だ」
「お前が全体を設計したんだろ」
颯人は言った。
「そうだが」
「素直に受け取れ」
颯人は言った。
「孝が、助かったと言っていた」
賢は少し間を置いた。
「それは良かった」
颯人が椅子に座った。
「賢、一個聞く」
「なんだ?」
「今回のクーデター、お前は事前に全て把握していたんだろ」
「把握するように動いた」
「孝が接触を受けていることも、最初から知っていたか」
「知っていた」
「なぜ俺に先に言わなかった」
颯人は静かに言った。
「俺に言えば、俺が孝に話していた。その方が早かった」
賢は少し間を置いた。
「……その通りだ。判断が誤りだったな」
「珍しいな、素直に認めるのは」
「事実だ。結果論だが、お前に先に話すべきだった」
颯人が天井を見た。
「最近、お前と話せていなかった」
颯人は言った。
「化学兵器の件から、俺が距離を置いた。それは変わっていない。でも、今日みたいな時に話せないのは、良くない」
「そうだな」
「お前が一人で全部抱えようとすると、判断が歪む」
颯人は言った。
「全部を一人で見ていると、人の顔が見えなくなる」
「誠司も同じことを言っていた」
「そうか」
颯人は少し笑った。
「俺たちは似たようなことを考えてるんだな」
しばらく沈黙があった。
「シーヴィルと戦争になるか」
颯人が聞いた。
「状況次第だ」
「お前の計算では」
「向こうが動けば、します。動かなければ、別の方法を取ります」
「俺は」
颯人は静かに言った。
「正当防衛の戦争には参加する。ただ、今まで通りではない。方法によっては動けない。それは変わらない」
「分かっている」
「分かった上で、俺に声をかけ続けるか」
「かけ続ける」
賢は答えた。
「お前が断ることは、お前の権利だ。だが、声をかけることは、俺の判断だ」
颯人がしばらく賢を見た。
「……お前は変わらないな」
「変えられる部分と、変えられない部分がある」
「それを知っているだけ、以前より良くなった気もする」
颯人は立ち上がった。
「孝の件は、ありがとう」
「颯人が動いてくれたからだ」
「お互い様だな」
颯人が出ていった。




