第25話 灰色の霧
地上部隊の前進が始まって二週間が経った。
皇国軍は着実に占領地域を広げていた。
航空支援と砲撃で弱体化した前線を突破し、師団が縦深へと食い込んでいった。
残存する魔獣と魔族は、組織的な抵抗を失っていた。
指揮系統が崩れ、補給が途絶え、仲間を失った個体が散発的に抵抗するだけだった。
しかしそれでも、「処理」には時間がかかった。
森の中に隠れた魔獣の捜索。
廃墟に潜む魔族の掃討。
洞窟の出入口の封鎖。
一つ一つが手間のかかる作業だった。
ルーカスの大隊は、廃村の掃討を担当していた。
瓦礫の間を進みながら、ルーカスは訓練で覚えた動作を繰り返した。
角を曲がる前に確認する。
開口部に近づく前に同士に知らせる。
動くものを見たら引き金を引く前に判断する。
廃屋の扉を蹴破った瞬間、中から影が飛び出してきた。
ルーカスは反射的に撃った。
倒れたのは、ゴブリンだった。
腐った食料を抱えていた。
ルーカスは倒れたゴブリンを確認し、次の建物に移った。
何も感じなくなっていた。
最初の戦闘では手が震えた。
今は震えない。
それが良いことかどうか、考える余裕がなかった。
ヴォルクが斥候として前方を進んでいた。
嗅覚が、前方の異常を感知した。
「止まれ」
ヴォルクが小声で言った。
「前方、100m。魔力の匂いが強い。一体ではない」
分隊長が手で合図した。
全員が止まり、伏せた。
前方の廃墟から、低い唸り声が聞こえた。
「複数いる」
ヴォルクは言った。
「地下だ。床の下」
「数は」
「5体。大きい個体が少なくとも1体」
分隊長が無線を取った。
「支援を要請します。廃墟に残存魔族、地下に潜伏。上位個体含む可能性あり」
侵攻から三週間後、進軍が止まった。
東部の渓谷地帯に、予想外の密集地帯があった。
偵察機の映像に映ったのは、渓谷の底に密集した魔獣の群れだった。
グレートウルフの大型個体が数百頭、狭い渓谷に詰め込まれるように集まっていた。
その周囲を、上位の魔族が複数体取り囲んで統率していた。
「航空支援は」
グスタフが聞いた。
「渓谷が深く、攻撃角度が限定されます」
空軍指揮官が答えた。
「精密誘導爆撃は有効ですが、火力が低いと魔族の上位個体が魔法で対応してきます」
「砲撃は」
「渓谷の壁が砲弾を遮ります。効果が限定的です。渓谷の縁から俯角射撃も検討しましたが、魔族の魔法射程内になります」
グスタフが地図を見た。
「迂回は」
「渓谷を迂回すると約50kmの遠回りになります。その間に魔族が再集結する可能性があります」
グスタフが賢を見た。
「賢、どうする」
賢は地図を見ていた。
しばらく沈黙があった。
「別の方法があります」
賢は静かに言った。
その夜、賢は特別な会議を開いた。
参加者はグスタフと、特殊部隊の化学班の責任者だけだった。
「殺虫剤として開発していた有機リン系の薬剤、"サリン"を使います」
賢は言った。
グスタフが黙った。
「渓谷に散布します。魔獣の大半は哺乳類型の生体構造を持っており、有機リンが有効です。上位魔族への効果は限定的ですが、魔力を行使する際の集中力を奪い、弱体化できます。その後、防毒装備と解毒剤を持たせた特殊部隊で制圧します」
「……化学兵器か」
グスタフは静かに言った。
「そうです」
「元居た世界では、禁止されていると聞いたが」
「はい。国際法で禁止されています」
賢は答えた。
「しかしここは別の世界です。魔獣と魔族に対して使う分には、適用する国際法が存在しない」
「人間への使用は」
「今回は、渓谷の中の魔獣と魔族に限定します。人間の居住域からは十分に距離があります。風向きの管理も行います」
グスタフはしばらく黙っていた。
「……英雄たちには」
「知らせません。作戦上の必要から、情報を限定します」
グスタフが賢を見た。
老将軍の目に、複雑な色があった。
「お前は、これを正しいと思っているか」
「効率的だと思っています」
賢は答えた。
「正しいかどうかは、別の問いです」
翌朝の夜明け前、渓谷の上縁に特殊化学班が展開した。
12人のチームが、風上の崖の縁に散布装置を設置した。
サリンを充填した容器が、渓谷の上に向けられた。
賢はその場にいた。
「風速、風向き確認」
「風速2m、北から南。渓谷内に流れ込む方向です」
「人間の集落への影響は」
「最も近い集落まで45km。風向きと地形から、影響はありません」
「散布開始」
静かに、白い霧が渓谷に流れ込んだ。
見た目は朝もやと変わらなかった。
霧が渓谷を満たしていくように、サリンが拡散していった。
数分後、渓谷の底から音が変わった。
密集した魔獣の群れが動揺し始めた。
統率していた上位魔族が何かを感知したようで、指示を出そうとしていた。
しかし魔族の動きが乱れた。
魔力の制御が崩れ、術式が不完全になり始めた。
魔獣の唸り声が変わった。
苦しむような音になっていった。
崖の縁に伏せていた偵察員が、双眼鏡を覗いていた。
渓谷の中の状況を確認していた。
報告を書かなければならなかった。
しかし双眼鏡から目を離せないでいた。
双眼鏡を置き、空を見た。
夜明けの空が、静かに明るくなっていた。
偵察員は何も言わなかった。
その日の午後、ヴォルグは進軍中に前方から来る風に異変を感じた。
毒のような何か。
匂いはないが、いつもと違う感じがした。
「ヴォルク」
颯人が言った。
「どうかしたのか?」
ヴォルクが顔をしかめた。
「……なにか変な気がする」
ヴォルクは言葉を止めた。
「嫌な匂いだ。死の匂いがする。大量の魔獣が死んだ匂いが」
颯人は賢の無線を呼んだ。
「賢、今日の作戦で何をしたんだ?」
少し間があった。
「東部渓谷の処理に、化学的な手段を使った」
「化学的な手段」
颯人は繰り返した。
「毒ガスか?」
「ああ。有機リン系の神経剤を使った」
颯人は無線を持ったまま、しばらく動かなかった。
「……なぜ言わなかった」
「作戦上の判断だ」
「そういうことを聞いているんじゃない」
颯人は静かに、しかし明確に言った。
「なぜ、俺たちに言わなかった」
「知る必要があると判断しなかった」
颯人が無線を切った。
夜、颯人は仲間を集めた。
誠司、涼介、それから数人のクラスメイトだった。
「今日の東部渓谷、毒ガスを使ったらしい」
颯人は言った。
静寂が落ちた。
「毒ガス」
誠司が静かに言った。
「それは」
「有機リン系と言っていた。神経ガスの一種だ」
涼介が顔を伏せた。
「……俺たちには言わなかったのか」
誠司が聞いた。
「ああ」
「なぜ」
「賢は、俺たちが知る必要がないと判断したと言った」
颯人は言った。
しばらく誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは、涼介だった。
「魔獣と魔族だから、いいのか。そういうことなのか」
「俺には分からない」
颯人は正直に言った。
「ただ、腑に落ちない。それだけは確かだ」
翌朝、颯人は賢の元に来た。
野戦司令部の天幕の中で、賢は今日の作戦の資料を見ていた。
「話がある」
颯人は言った。
「なんだ?」
「毒ガスのことだ」
「そうか」
賢は資料を置いた。
「なぜ使った」
「最も効率的な解決策だったからだ」
賢は答えた。
「航空攻撃では効果があまりないと判断した。かといって、地上部隊をそのまま入れれば死者が出る可能性があった。化学剤を使えば、我が方の損害なく処理できた」
「処理、か」
颯人は繰り返した。
「それが引っかかる。処理、という言葉が」
「戦闘の目的は敵の無力化だ。手段は効率的な方を選ぶ」
「魔獣は分かる」
颯人は言った。
「しかし魔族は、知性がある。人間と同じ程度には思考する。それに神経ガスを使うのは」
「魔族は長年、人類を敵と定めてきた。現在も戦争状態にある。敵への攻撃手段の選択は、軍の判断の範囲内だ」
「そういう論理の話をしているんじゃない」
颯人は静かに言った。
「お前と俺の話をしている」
賢が颯人を見た。
「俺は、化学兵器を使うことを支持できない」
颯人は言った。
「対象が誰であっても。それは、俺の中で一線を越えてる」
「それはお前の判断を尊重しよう」
賢は言った。
「ただし、作戦は続きます」
「分かってる」
颯人は答えた。
「お前を止める気はない。ただ、俺は次から、こういうことが使われる作戦への協力は難しい」
賢は少し間を置いた。
「それは、全ての協力を止めるということか」
「そうじゃない」
颯人は言った。
「俺たちは異世界に来た。魔王軍の脅威がある。戦わなければいけない理由は変わらない。ただ、方法によっては、俺は動けない。それだけだ」
「……分かった」
「分かった、か」
颯人は賢を見た。
「怒らないのか」
「お前が怒るのは理解できる。俺は怒る理由がない」
「冷静だな」
「感情的になっても、状況は変わらない」
颯人がため息をついた。
「賢、一個だけ聞く。お前は、今回のことを後悔していないか」
賢は少し間を置いた。
「後悔は、していない」
賢は静かに言った。
颯人は立ち上がった。
「……そうか」
颯人が天幕を出た。
その夜、誠司は一人で火の前に座っていた。
涼介が隣に来た。
「考えてるか」
涼介が言った。
「ああ」
誠司は答えた。
「俺、《魔眼》で魔族の魔法障壁を無効化してきた。それで、味方が前進できるようになった。それは正しいと思ってた。魔族は人を傷つける存在だから」
「でも」
「でも今回のは、俺は現場にいなかった。知らないところで使われた。もし知っていたら、参加を断っていたかと言われると」
誠司は言葉を止めた。
「分からない、というのが正直なところだ」
「俺は断っていたと思う」
涼介は静かに言った。
「《鉄壁》で味方を守ることと、化学兵器を支援することは、俺の中で別だ」
「それは正しいと思う」
誠司は言った。
「ただ、どこで線を引くかが難しい。銃で撃つことと、ナパームで焼くことと、毒ガスを使うことは、結果はどれも死だ。でも俺たちの感じ方は違う」
「それが重要なんじゃないか」
涼介は言った。
「結果が同じでも、方法は違う。方法に対して感じることが、俺たちの人間性だと思う」
誠司が火を見た。
「……賢には、それがないのかな」
「あると思う」
涼介は静かに言った。
「ただ、賢が優先しているものが、俺たちとは違う」
「何を優先してる」
「全体の損害の最小化だと思う」
涼介は言った。
「皇国兵の死者を一人でも減らすために、あらゆる手段を使う。その論理は理解できる。でも同意はできない」
「颯人は?」
「颯人は同じ気持ちだと思う」
涼介は言った。
「でも颯人は賢と喧嘩しない。ただ、少し距離を置くようになると思う」
その夜、ヴォルクは一人で星を見ていた。
カールフが言っていた言葉を思い出していた。
「変化は止められない」
今日、自分は特殊部隊の一員として、化学剤散布の後の渓谷に入った。
掃討作業をした。
ヴォルクには、人間の歴史における化学兵器の意味が分からなかった。
それが禁止されている理由も、完全には理解できていなかった。
しかし今日、渓谷の底で見たものは、嗅いだことのない死の匂いで覆われていた。
それが、ヴォルクには良い匂いではなかった。
エルナが隣に来た。
「考えてるか」
エルナが言った。
「ああ」
「今日のことか」
「ああ」
エルナは星を見た。
「魔族は、私たちの敵だ。それは変わらない」
「そうだ」
「でも」
エルナは続けた。
「人間の中にも、あの方法を嫌う者がいる。颯人を見ていると、そう感じる」
「ああ」
ヴォルクは言った。
「俺も、嫌いだ。はっきりとは言えないが、嫌いだ」
「カルフ族長に報告するか」
「する」
ヴォルクは静かに言った。
「皇国の軍がどういうものかを、正直に伝える。良いことも、悪いことも」
戦場から離れたベルフストで、オットーが報告を受けた。
化学剤使用の報告書が、暗号化された文書で届いていた。
オットーはその文書を、長い間持っていた。
それから賢への返信を書いた。
短い文章だった。
――報告、受理した。一点だけ。この決定は、私に事前に知らせて欲しかった。結果の正否ではなく、手続きの問題として。
返信を送って、オットーは窓の外を見た。
ベルフストの街が、活況を続けていた。工場が動き、市場が賑わい、子供たちが学校に通っていた。
この街の繁栄のために、遠い魔族領で今日何かが起きた。
老宰相は、その事実を静かに受け止めた。
深夜、賢は一人で天幕にいた。
オットーからの返信を読んだ。
颯人の言葉を思い返した。
隠したことは誤りだったかもしれない、と言った。
その言葉は、本心だった。
効率の計算とは別に、颯人に隠したことへの何かがあった。
それを後悔と呼ぶのが正しいかどうか、賢には分からなかった。
ドアがノックされた。
颯人ではなかった。ハンスだった。
「明日の作戦の確認です」
「どうぞ」
作戦の確認が始まった。
明日も前進する。
占領地域を広げる。
残存する魔族と魔獣を処理する。
今日と変わらない仕事が続く。
賢は地図を見ながら、天幕の外に颯人たちの野営地があることを知っていた。
今頃、颯人が自分の作戦を否定しているかもしれなかった。
しかし賢には、手を止める理由がなかった。
止めれば、余計な損害が出る。
止めれば、皇国兵が死ぬ。
止めれば、目標が達成できない。
それでも颯人が納得しないことは分かっていた。
賢はそれを、最初から計算していた。
してしまっていたことに、今夜初めて気づいた。
颯人が離れることを、計算の変数の一つとして処理していた。
その事実を確認し、賢は少し黙った。
それから地図に向き直った。
作戦は続く。
夜明け前、颯人は仲間と朝食を取っていた。
誠司が言った。
「今日、俺たちはどう動く」
「通常の任務は続ける」
颯人は言った。
「上位魔族への突入戦は、俺たちにしかできない仕事だ。それは続ける」
「化学兵器が使われる可能性がある作戦は」
「事前に知らされたら、参加を断る」
颯人は静かに言った。
「知らされなかったら、後から言う。それだけだ」
「賢と喧嘩するのか」
誠司が聞いた。
「しない」
颯人は言った。
「賢のやり方と俺のやり方が違うことは分かった。それは変えられない。ただ、俺は俺の方法で動く」
「それで、この戦争は終わるか」
「終わらせる」
颯人は断言した。
「ただし、俺の届く範囲では、俺の方法で動く」
朝食が静かに続いた。
遠くで、砲声が聞こえた。
今日も、前進が続く。




